表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時計台の記憶  作者: 悠暉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/10

第2話 五十年前の噂

眠りは浅かった。夢のなかでも針は四時十七分を指していて、カナタはそれを見上げたまま目を覚ました。カーテンの隙間から差す光は、もう朝と呼ぶには白すぎる。


枕元の鍵に手を伸ばす。ひと晩置いても、真鍮は冷たいままだった。


休みの日に商店街へ出るのは久しぶりだった。パン屋の店先には焼きたての匂いが漂い、女将が紙袋を畳みながらカナタを見つけて眉を上げた。


「あんた、昨日の朝、時計台の前に突っ立ってたでしょう」


コッペパンを選ぶ手が止まる。見られていた。


「別に珍しかないけどね。あそこ、たまにいるのよ。じっと見上げてる人が」


「……直す人は、いないんですか」


「直す?」女将は笑って、釣り銭を数えた。「五十年、誰も直さなかったものを?」


五十年。紙袋を受け取る指先が、わずかに強張った。ポケットの中の鍵が、布地越しに脚に触れている。


「あの時計、いつから止まってるんですか」


「さあねえ。あたしが嫁に来たときにはもう止まってたよ。金物屋の爺さんなら知ってるんじゃない。あの人、昔からここだから」


女将はそう言って、次の客に顔を向けた。カナタは礼を言い、パンの袋を抱えて店を出た。アーケードの向こう、時計台の上半分が屋根の隙間から覗いている。


四時十七分。今日も、それだけが変わらない。


金物屋の店先は、釘と油の匂いがした。


軒先の縁台に、昨日の老人が座っていた。膝の上に湯呑み。カナタが立ち止まると、老人は顔を上げる前に言った。


「拾ったんだろう」


心臓がひとつ跳ねた。老人はゆっくりと湯呑みを置き、皺だらけの手を差し出す。


「見せてみな」


逆らう理由を探したが、見つからなかった。カナタはポケットから鍵を出し、手のひらに載せて差し出した。老人は受け取らず、ただ覗き込んだ。持ち手の輪のなかに刻まれた、小さな紋。歯車を三枚、重ねたような意匠。


老人の指が、湯呑みの縁で止まった。


「時計台の紋だ」


「……この鍵、あの時計台のものなんですか」


「錠前も蝶番も、あの塔のもんはぜんぶうちの先代が納めた。紋を彫ったのも先代だ。間違えようがない」


老人は湯呑みを持ち直し、一口すすった。それきり黙るのかと思ったが、視線は塔の方角に向いていた。


「五十年前の夜にな、止まったんだ。それっきりさ」


「夜?」


「昼間に止まったんじゃない。夜中に止まって、朝にはもうあのまんまだった。管理人が死んで、鍵も消えた。町の連中はもう、止まってることも忘れとる」


夜中の、四時十七分。カナタは手のひらの鍵を見下ろした。真鍮の紋が、鈍く光を返す。


「なんで、止まったんですか」


老人は答えなかった。ただ、湯呑みの底に残った茶を、静かに揺らしていた。


夕方の商店街は、買い物客の足音でざわめいていた。


カナタは用もなく通りを往復した。耳が勝手に、時計台という言葉を拾おうとしている。青果店の店先で、前掛けの主人が常連の老婦人と立ち話をしていた。


「──だから、櫓の解体の話よ。商店会でまた出たの」


「あの時計台を? 壊すの?」


「危ないからってさ。もう五十年も動いてないんだし」


みかんを袋に詰めながら、主人が笑う。老婦人は首を振った。


「あたしはあの時計で子どもを迎えに行ってたのよ。四時になったら塔を見て。……止まった朝もね、覚えてる。起きたら、みんな塔の下に集まってて」


「へえ、その場にいたのかい」


「いたわよ。管理人さんが誰も塔に入れなくてね。あの人、それから口をきかなくなったの。鍵を握ったまま、ずっと塔の下に立ってた」


カナタは、棚のりんごを手に取ったまま動けなくなった。


鍵を、握ったまま。


その鍵が、いま自分のポケットにある。管理人は死に、鍵は消えたはずで、けれど錆びた門の前に落ちていた。五十年ぶんの埃も曇りもなく、まるで昨日まで誰かが磨いていたみたいに。


「お客さん、それ買うの?」


主人の声で我に返る。カナタはりんごをひとつ買って、店を出た。


西日が商店街の路面を橙に染めている。塔の影が、長く伸びて足元まで届いていた。


夜になるのを、待っていたのだと思う。


シャッターの下りた商店街を抜けて、カナタはふたたび時計台の前に立った。昨日くぐった裏口は塔の足元、機械の底を覗けるだけの小部屋だ。歯車の群れと、垂れ下がった鎖と、隅の木箱。その先、上へ続くはずの通路は、鉄の扉に塞がれていた。


この鍵が合うとしたら、あの扉か。あるいは──正面の門。


街灯の光が届くのは膝から下だけで、塔は夜空を黒く切り抜いたようだった。カナタは屈み込み、携帯の明かりを正面の錠前に近づける。鉄の表面、鍵穴の上。埃を指で拭うと、そこに彫りがあった。


歯車を三枚、重ねた紋。


鍵の持ち手を、その隣に並べる。同じだった。大きさも、歯車の重なり方も、傾きまで。


──錠前も蝶番も、あの塔のもんはぜんぶ先代が。


老人の声が耳の奥で蘇る。カナタは鍵の先端を鍵穴に近づけた。金属同士が触れる、小さな音。


そこで、手が止まった。


五十年、誰も開けなかった門だ。管理人は口をきかなくなり、鍵を握ったまま立ち尽くしていたという。この向こうに、何かがある。夜中の四時十七分に、何かがあった。


カナタは鍵を引いた。錠前が小さく揺れて、鎖が鳴る。


「……明日」


声に出すと、決まりになった。明日、陽のあるうちに、この門を開ける。


鍵をポケットに戻し、カナタは塔を見上げた。針は動かない。それなのに、塔のほうがこちらを待っているような気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ