第2話 五十年前の噂
眠りは浅かった。夢のなかでも針は四時十七分を指していて、カナタはそれを見上げたまま目を覚ました。カーテンの隙間から差す光は、もう朝と呼ぶには白すぎる。
枕元の鍵に手を伸ばす。ひと晩置いても、真鍮は冷たいままだった。
休みの日に商店街へ出るのは久しぶりだった。パン屋の店先には焼きたての匂いが漂い、女将が紙袋を畳みながらカナタを見つけて眉を上げた。
「あんた、昨日の朝、時計台の前に突っ立ってたでしょう」
コッペパンを選ぶ手が止まる。見られていた。
「別に珍しかないけどね。あそこ、たまにいるのよ。じっと見上げてる人が」
「……直す人は、いないんですか」
「直す?」女将は笑って、釣り銭を数えた。「五十年、誰も直さなかったものを?」
五十年。紙袋を受け取る指先が、わずかに強張った。ポケットの中の鍵が、布地越しに脚に触れている。
「あの時計、いつから止まってるんですか」
「さあねえ。あたしが嫁に来たときにはもう止まってたよ。金物屋の爺さんなら知ってるんじゃない。あの人、昔からここだから」
女将はそう言って、次の客に顔を向けた。カナタは礼を言い、パンの袋を抱えて店を出た。アーケードの向こう、時計台の上半分が屋根の隙間から覗いている。
四時十七分。今日も、それだけが変わらない。
金物屋の店先は、釘と油の匂いがした。
軒先の縁台に、昨日の老人が座っていた。膝の上に湯呑み。カナタが立ち止まると、老人は顔を上げる前に言った。
「拾ったんだろう」
心臓がひとつ跳ねた。老人はゆっくりと湯呑みを置き、皺だらけの手を差し出す。
「見せてみな」
逆らう理由を探したが、見つからなかった。カナタはポケットから鍵を出し、手のひらに載せて差し出した。老人は受け取らず、ただ覗き込んだ。持ち手の輪のなかに刻まれた、小さな紋。歯車を三枚、重ねたような意匠。
老人の指が、湯呑みの縁で止まった。
「時計台の紋だ」
「……この鍵、あの時計台のものなんですか」
「錠前も蝶番も、あの塔のもんはぜんぶうちの先代が納めた。紋を彫ったのも先代だ。間違えようがない」
老人は湯呑みを持ち直し、一口すすった。それきり黙るのかと思ったが、視線は塔の方角に向いていた。
「五十年前の夜にな、止まったんだ。それっきりさ」
「夜?」
「昼間に止まったんじゃない。夜中に止まって、朝にはもうあのまんまだった。管理人が死んで、鍵も消えた。町の連中はもう、止まってることも忘れとる」
夜中の、四時十七分。カナタは手のひらの鍵を見下ろした。真鍮の紋が、鈍く光を返す。
「なんで、止まったんですか」
老人は答えなかった。ただ、湯呑みの底に残った茶を、静かに揺らしていた。
夕方の商店街は、買い物客の足音でざわめいていた。
カナタは用もなく通りを往復した。耳が勝手に、時計台という言葉を拾おうとしている。青果店の店先で、前掛けの主人が常連の老婦人と立ち話をしていた。
「──だから、櫓の解体の話よ。商店会でまた出たの」
「あの時計台を? 壊すの?」
「危ないからってさ。もう五十年も動いてないんだし」
みかんを袋に詰めながら、主人が笑う。老婦人は首を振った。
「あたしはあの時計で子どもを迎えに行ってたのよ。四時になったら塔を見て。……止まった朝もね、覚えてる。起きたら、みんな塔の下に集まってて」
「へえ、その場にいたのかい」
「いたわよ。管理人さんが誰も塔に入れなくてね。あの人、それから口をきかなくなったの。鍵を握ったまま、ずっと塔の下に立ってた」
カナタは、棚のりんごを手に取ったまま動けなくなった。
鍵を、握ったまま。
その鍵が、いま自分のポケットにある。管理人は死に、鍵は消えたはずで、けれど錆びた門の前に落ちていた。五十年ぶんの埃も曇りもなく、まるで昨日まで誰かが磨いていたみたいに。
「お客さん、それ買うの?」
主人の声で我に返る。カナタはりんごをひとつ買って、店を出た。
西日が商店街の路面を橙に染めている。塔の影が、長く伸びて足元まで届いていた。
夜になるのを、待っていたのだと思う。
シャッターの下りた商店街を抜けて、カナタはふたたび時計台の前に立った。昨日くぐった裏口は塔の足元、機械の底を覗けるだけの小部屋だ。歯車の群れと、垂れ下がった鎖と、隅の木箱。その先、上へ続くはずの通路は、鉄の扉に塞がれていた。
この鍵が合うとしたら、あの扉か。あるいは──正面の門。
街灯の光が届くのは膝から下だけで、塔は夜空を黒く切り抜いたようだった。カナタは屈み込み、携帯の明かりを正面の錠前に近づける。鉄の表面、鍵穴の上。埃を指で拭うと、そこに彫りがあった。
歯車を三枚、重ねた紋。
鍵の持ち手を、その隣に並べる。同じだった。大きさも、歯車の重なり方も、傾きまで。
──錠前も蝶番も、あの塔のもんはぜんぶ先代が。
老人の声が耳の奥で蘇る。カナタは鍵の先端を鍵穴に近づけた。金属同士が触れる、小さな音。
そこで、手が止まった。
五十年、誰も開けなかった門だ。管理人は口をきかなくなり、鍵を握ったまま立ち尽くしていたという。この向こうに、何かがある。夜中の四時十七分に、何かがあった。
カナタは鍵を引いた。錠前が小さく揺れて、鎖が鳴る。
「……明日」
声に出すと、決まりになった。明日、陽のあるうちに、この門を開ける。
鍵をポケットに戻し、カナタは塔を見上げた。針は動かない。それなのに、塔のほうがこちらを待っているような気がした。




