柴を駆ける
コラーロ・デスメフシス
転生した異世界で課せられたルール。最後の一人が決まるまでにしていけないこと。『人殺し、死、自殺』
カニス 正式名称 カニス・アミークス この世界での犬の獣人種の名称
「あ、でもオイラもあの音嫌いだから、マコが持っていってね〜」
この緊迫した状況下でもマロさんは自分のペースを乱さない。
その間の抜けた感じに、一抹の不安がよぎったが、すぐにそれはただの杞憂に終わった。
「いっこか〜?マコ」
そういうと、マロさんはマコトを連れ、小さな藪の中を走り始めた。
「シバ一族のシバっていうのはね。あの小さい藪のことを指すんだよ」
マットの言葉を聞き、俺はある昔話を思い出した。
日本人なら誰もが知る、昔話の導入にある一節。
『おじいさんは、山に柴刈りに』
俺はずっと芝狩りだと思っていたが、正確には山に自生する小さな雑木を表していた。
そして、柴犬はその小さな藪を巧みに歩むことができる犬種。
それが柴犬だけが、日本犬の中で唯一、名前に地名がつかない理由。
犬の中には名前をつけた理由がある。
俺はそんなこと、前の世界では考えたことがなかった。
魔熊は俺たちを目指している。
藪に隠れながら進む小さいカニスなど、眼中にないだろう。
これなら、マコトが矢を持ってくるまで持ち堪えれば、なんとかなるかもしれない。
そうなると時間稼ぎが今回の鍵。
「ごめんトラ。やっぱり残って!みんなの先頭はシュウに任せられる?殿はネスがやってあげて」
マットはすぐに状況に適した人に声をかけ、配置を決める。
「おう。大丈夫だよな!シュウ!」
トラさんの一言に、シュウは必死に頭を縦に振り、みんなを誘導し始めた。
「絶対無事に戻ってきてね!」
カーネの言葉を聞き、俺もマットも「わかった」と返事をする。
「シアンも本当は行ってもいいんだよ?」
マットのその言葉は、子供が役に立つか不安だからかけた一言ではなく、本当にただこの場に残る必要がないから言った一言なのだろう。
だが、いうタイミングで俺は察する。
この人は俺のことを、子供だとは思っていても、役立たずだとはかけらも思っていない。
ただ、親として心配しているからこそ、言った一言なんだと。
だが、俺にはマットの作戦を変更させた責任がある。
それに俺のお願いで、マコトだって危険な場所に向かわせてしまった。
子供だからだと、俺だけ安全圏に逃げるのは違うと思った。
「んで?どうすんだよ?正面からやり合って勝てるデカさじゃねえぞ?」
当然それは無理なのはみんなわかっている。
あの大きさのクマに正面から勝つなんて、兵器を持った人間くらいだろう。
ならどうするかと言われたら…。
「この鉄竹に突っ込ませます」
山の中に自生する、天然の監獄。
鉄並の強度を誇る場所に全力で突っ込めば、流石の魔熊でも重症には至るはず。
「ああ、なるほどな?じゃあこのまま待ってりゃいいのか?」
そう考えるのも無理はない。
だが、いくら野生動物だからといって、そんな馬鹿なはずがない。
おそらく鹿や、他の小動物たちにも、この竹を利用されて逃してしまった経験は絶対にあるはず…。
俺たちがここにいるだけで、頭から突っ込んできてくれるなんてそんな都合のいい話はないはずだ。
ならどうするかというと…
「まずは挑発して、少し離れた場所まで誘導する。そして戻ってくるようにトップスピードまで出させてこの竹に突っ込ませる」
俺の代わりにマットが答える。
そう。そうするしかない。
スピードを出させないと威力を発揮できない。
じゃなければこの作戦の成功率はかなり低くなる。
「魔熊が突っ込んだあと、どれくらい動けるのかわからない。その時、トラには少しでもいいから動きを止めてほしい。当然無理そうなら、無茶しないでいい。その判断はトラが一番うまいよね?」
それは長年共に山の中で狩りをしてきた親友への信頼。
トラさんが何か言うよりも先に、信頼を投げかけることで何も言い返すことをさせない少しずるいやり方。
「そしてシアン。挑発はシアンがいうとおり、シアンに任せるけど。その後のことは俺がやるけどいいよね?」
その後のこと。
それが最も重要だ。
本来なら、俺がやったほうがいいはずだ。
だが、俺が伝えた動きを俺ができる技術も経験もない。
だから、任せることしかできない。
むしろ俺は今できないことにヤキモキするよりも大切なことがある。
マットは「矢を投げてね」と簡単に言っていたが、俺とマコト以外誰もあの矢を触ったことがない。
触ればどうなるかわからない。
なら、矢を投げるわけにはいかない。
なら俺がやるべきことは自ずと決まる…。
俺にはコラーロ・デスメフシスという殺生の制限があるが、俺が相手にするのは魔熊。
女神は「人を殺してはダメ」と言っていた。
魔熊は人ではない。
その屁理屈で誓約を回避できるのかはわからないが、やる以外の選択肢がない。
だから今俺に必要なのは『生き物から命を奪う覚悟』
マットを犠牲にしたくない。その気持ちのせいで本来だったら逃げ切れるかもしれなかった人たちまで、巻き込んでしまっている。
だから、これは俺の責務。
何もかもをマットに背負わせるわけにはいかないんだ。
そう自分に言い聞かせているが、体の震えはどんどん強くなる。
何もかも憶測でしかないからだ。
魔熊を挑発できるのかも、この鉄竹に突っ込ませれるかも、魔熊を殺すことができるのかも、コラーロ・デスメフシスを回避できるのかも…。
全部不確定。
全てを乗り越えることができる自信なんてない。
もしそんな自信や決心をすぐに持てる人間だったなら、前の世界でも大きな勝負に出ることができただろう。
俺はそんな大きな勝負から、常に逃げてきた負け犬だった。
そんな負け犬が、いきなり人の命を背負い、動物の命を奪う覚悟なんてできるわけがない。
だからさっきから逃げ出したい衝動が抑えられない。
『シアンも本当は行っていいんだよ?』
マットのあの言葉を聞いた時、俺も駆け出していたほうが楽だったのかもしれない。
そんな弱い気持ちに傾いていた時、マットの大きな手が俺の頭を不器用に撫でる。
「大丈夫。危ないことは全部俺がやるから」
もう時間がない緊迫した状況で、この人の口から
「頼りにしてるよ」ではなく、この言葉を言わせてしまったことに、とてつもない後悔が残った。
今更後悔しても遅い。
もうあいつの影はこっちに迫ってきている。
今更過ぎたことをごちゃごちゃ考えて、作戦を失敗させることこそが一番みんなの足を引っ張ってしまう行為になる。
もうすぐ夜になる。
だが、この夜を越え、ドワーフの村に辿り着けば、ようやくみんなが安心して眠れる日が訪れるかもしれない。
なら、もう余計なことを考えるな。
目の前のことをやり切ることだけを考えろ。
俺たちは一旦、鉄竹の群生地から距離を置く。
それに釣られ、魔熊も後を追うように方向を変えてくる。
トラさんが走りながら横目で魔熊の様子を観察している。
「おいおいおい、昨日見た時より穏やかじゃねえな!」
俺は走るのに必死で、魔熊がどういう状態で走っているのかわからなかった。
遠くから聞こえてくる声はあの魔熊と同じ声…だが、風に乗って流れてきた匂いの中に、僅かな腐臭を感じた。
「顔が…いや、口が腐ってる…?」
マットのその言葉を聞いて、何が原因でそうなったのかはすぐにわかった。
それは俺が昨日、放った起死回生の牙への一撃。
それが原因で間違いないだろう。
だが、そうなると…俺とマコト以外があの矢を触ったらどうなる…?
もしマットが握った時に…何か起きないという保証はあるのか…?
その考えが浮かんだ時、もうマットに頼るという選択肢は無くなり、自分が決着をつけないといけないことに気づいた。




