第一章 地下一階 だるま落とし
地下一階の空気は、階段を下りきる前から少しずつ重くなっていた。
湿っているのに乾いている、という矛盾した感触だった。鼻の奥に入り込むとひりつくのに、肺の中では水気を帯びて張りつく。結衣はだるまから目を離さないまま、最後の一段へ足を下ろした。
足元はざらついたコンクリートの床だった。
正面の廊下は広く、左右の壁はむき出しの灰色で、ところどころ黒い染みが滲んでいる。天井の照明は一本だけ生きていて、その白い光が床の中央だけを細く照らしていた。
そして、その光の中に、木の塔のようなものが立っていた。
「……これ」
玲央が小さく言う。
結衣もそれを見た。
木のブロックが、層をなすように積み上げられている。下の段ほど横に長く、上へいくほど少しずつ短い。子どもの玩具としてのだるま落とし、そのままの形だった。いちばん上には、赤く塗られただるまが一つ乗っている。
床に白い文字が浮かぶ。
『下から順に叩け
だるまだけ残せ
崩したら失敗』
文字のすぐ横に、小さな木槌が一本置かれていた。
玲央が乾いた声で笑う。
「……ちゃんとだるま落としじゃん」
「そうね」
「いや、そういう問題じゃなくて」
結衣は返事をしなかった。
廊下の奥には、もう一つの赤いだるまがいる。いや、いちばん上に乗った玩具のだるまと、監視してくる怪異のだるまが同時に存在しているのだ。分かりやすすぎる悪趣味だった。
「どうします」
玲央が聞く。
「私が見る」
結衣は即答した。
「あなたが叩いて」
玲央は数秒だけ黙った。すぐに理由を理解したのだろう。ブロックを叩くには、どうしても手元を見なければならない。なら、だるまを見る役と叩く役を分けるしかない。
「……ちゃんと見ててくださいよ」
「見てる」
「ずっと?」
「ずっと」
そのやり取りは、これまでの階と同じだった。けれど今の玲央の言い方には、すでに軽い棘が混じっている。六階に着く前から、二人の間に小さなひびが入り始めているのを、結衣も感じていた。
玲央が木槌を拾う。
手の中で重さを確かめるみたいに二、三度握り直し、木の塔の前にしゃがみ込んだ。
その瞬間、廊下の奥のだるまが動き始めた。
玲央が作業のために視線を外したからだ。
「距離」
玲央が聞く。
「三メートルくらい」
「了解」
玲央は最下段のブロックの端に木槌の先を当てる。慎重だった。力まかせに叩けば塔が崩れる。けれど弱すぎれば落ちない。力の入れどころを探るため、彼の肩や肘が細かく震えているのが分かった。
小さく、乾いた音がした。
木槌がブロックを叩く。
最下段の一本が横へ飛び出し、少し離れた床に滑って止まった。
塔は揺れる。
結衣は思わず息を止めた。だが崩れない。上の段はわずかに沈んだだけで、そのまま耐えた。
「……一段目、一本」
玲央が言う。
「あと何本あるか分かります?」
「見てるから数えられない」
「見てるの優先で」
「言われなくても」
玲央は二本目へ木槌を当てる。
だるまが一歩詰める。
「二・五」
「早いですね」
「ゆっくりではある」
「その“ゆっくり”信用できないんですよ」
二本目が飛ぶ。
三本目も抜ける。
最下段がきれいに消えると、上の段全体が音もなく一段ぶん沈んだ。塔が低くなる。その最上部にはまだ赤いだるまが乗っている。
「……ほんとに、だるまだけ残せってことか」
玲央が呟く。
「順番通りにしかできない」
「崩したら終わり」
「そう」
「やだなあ……」
軽口めかして言っているが、喉は引きつっている。
次の段に木槌を当てる玲央の手つきは、さっきよりも硬かった。緊張が増している。結衣はだるまだけを見つめる。見続けなければならない。木の塔の揺れも、玲央の手元も、今は全部視界の外に置かなければいけない。
それでも耳は聞いてしまう。木槌が当たる音。木片が飛ぶ音。塔が軋むような、ほんの微かな揺れの気配。
「距離」
「二」
「近いな……」
玲央が吐息混じりに言う。
「急いだら終わりですよね」
「でも遅くても終わる」
「最悪」
木片がまた一本、飛ぶ。
玲央は次の一本を叩く前に、ほんの少しだけ息を整えた。その間にも、だるまは近づく。
結衣はだるまを見つめた。さっきより近い。目の縁のひびまで見える。黒目の艶が、照明を拾って濡れているように見えた。
「先輩」
玲央が急に言う。
「なに」
「見てますよね」
「見てる」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
そう答えながら、結衣は自分でその言葉の頼りなさを感じていた。
視線は向けている。だが、“見ている”という行為に、どれだけ意識が必要なのかが分からない。木の塔が崩れそうな気配を完全に無視できているかといえば、できていない。
玲央が次の一本を叩く。
その瞬間、塔が大きく揺れた。
結衣の意識が反射的にそちらへ引かれた。視線までは動かしていない、と思った。だが、その“と思った”が危ういことを、結衣はもう知っている。
「……大丈夫」
玲央が自分に言い聞かせるように呟く。
だが、その直後、木槌を持つ手が少しだけ滑った。
とっさに、結衣はそちらを見た。
ほんの一瞬。
それだけだった。
次の瞬間、だるまが目の前にいた。
「見て!!」
結衣の声は、ほとんど悲鳴だった。
玲央が弾かれたように顔を上げる。だるまと目が合う。ぴたりと止まる。
近い。
近すぎる。
黒い目。濁った白。赤い塗りの表面の細かなひび。そこに結衣の顔が歪んで映っているように見えた。
「……今」
玲央の声が低く震える。
「一瞬でしたよね」
「そう」
「一瞬でここまで来るんだ」
「みたいね」
結衣の声は妙に平坦だった。
心臓はひどく打っているのに、声だけが冷えている。そこが自分でも気味が悪かった。
玲央はしばらく無言でだるまを見ていたが、やがてぽつりと言った。
「死ぬやつじゃん、これ」
「最初からそうでしょ」
「分かってましたけど……想像してたより、ちゃんと死ぬ感じですね」
その言い方に、結衣はほんの少しだけ口元を動かした。笑いになったかどうかは分からない。
そのとき、だるまがすうっと後ろへ滑った。
二人で見ているはずなのに。
「……は?」
玲央が言う。
「今、動きましたよね」
「見た」
「なんで」
「分からない」
「二人で見てたら止まるんじゃ」
「そう聞いた」
「じゃあルール違うじゃないですか」
玲央の声に苛立ちが混ざる。
結衣は考えたあと、言った。
「階が下がると、条件が変わるのかも」
「そんなのあり?」
「ありじゃなくても起きてる」
玲央は舌打ちしそうになって、やめたらしかった。
塔はまだ半分以上残っている。上には赤いだるまも乗っている。つまり、ここから先も続けるしかない。
「行く」
結衣が言う。
「うっす」
玲央の返事は短かった。
そこから先は、ほとんど会話がなくなった。
木槌の音。飛ぶ木片。塔が一段ずつ低くなる気配。だるまの距離報告。玲央の浅い呼吸。結衣の視線はだるまに縫いつけられたままだが、耳だけが過敏になっていく。
「距離」
「一・五」
「……近」
「早く」
「崩れたら終わりなんですよ」
「知ってる」
「なら急かさないでください」
そう言いつつも玲央は焦っていた。木槌を持つ手の動きが少しずつ速く、荒くなっていく。危うい。けれど遅くしても危うい。
三段目まで落としたところで、塔はかなり低くなった。最上部に乗った赤いだるまが、妙に大きく見える。玩具のだるまのはずなのに、廊下の奥から来る怪異のだるまと輪郭が重なって見えた。
「あと何段」
「二段くらい」
「くらいって」
「正確に見れない」
「そうでしたね」
玲央の言い方が少し刺さる。
結衣は返さない。いまは感情のやり取りをしている余裕がない。少なくとも、そう思いたかった。
玲央が木槌を振るう。下から順にブロックが外れる。塔はぎりぎり崩れずに保たれる。
だが次の一打で、問題が起きた。
木槌の当たり方が少しだけ浅かったのか、ブロックが半端に飛び出したまま止まったのだ。塔全体が片側へ傾く。
「っ」
玲央の肩が跳ねる。
結衣の意識が、完全に塔の方へ引っ張られた。
視線が逸れた。
その瞬間、だるまが消えた。
「――見て!!」
叫ぶ。
玲央が顔を上げる。だるまと目が合う。止まる。
ギリギリだった。
だるまは結衣の腕が届きそうな距離まで来ていた。
「……っ、は」
結衣の呼吸が乱れる。
玲央はそれより先に、低い声で言った。
「また逸らした」
結衣は何も返せない。
「見てたって言います?」
「……一瞬」
ようやくそれだけ絞り出す。
「一瞬でも、同じじゃないですか」
玲央の声は、さっきまでよりずっと冷たかった。
「それで死ぬんだから」
結衣は歯を食いしばる。言い返したかった。けれど言葉がない。事実だからだ。
「続けて」
代わりにそう言う。
玲央は数秒だけ黙り、それから無言で木槌を握り直した。
半端に出たブロックを、慎重に叩く。今度はきれいに抜ける。塔が一段下がる。
残り一段。
その上に、赤いだるまだけが乗っている。
床の文字がぼんやり光る。
『だるまだけ残せ』
玲央が息を整えた。
「これで終わり?」
「たぶん」
「“たぶん”ばっかですね」
「絶対があれば苦労しない」
「そうですね」
その返しには、もうほとんど感情がなかった。
最後の段のブロックを、玲央が一本ずつ叩く。外れる。もう一本。外れる。
最後の一打。
小さな衝撃のあと、一番上の赤いだるまだけが台の上に残った。
床の文字が変わる。
『達成』
同時に、廊下の奥の怪異のだるまが、すうっと後ろへ下がった。
結衣はようやく息を吐いた。
だが、緊張が解けきる前に次のことを考えなければならない。次の階段へ向かう必要がある。
「行くわよ」
結衣が言う。
玲央は木槌を床に落とした。乾いた音が響く。
「はい」
その返事は短い。
二人でだるまを見ながら歩き出す。塔の横を抜ける。いちばん上に残った玩具のだるまが、視界の端でこちらを見ているように思えた。
次の階段の入口は、廊下の奥に見えている。
あと数歩。
そのとき、足元で金属音が鳴った。
ぴん、と乾いた音。
玲央がわずかに目を下げる。結衣も反射でそちらに意識を引かれる。
次の瞬間、怪異のだるまが消えた。
「見て!!」
叫ぶ。
だがそれより早く、背後で何かが弾けるような音がした。
湿った、嫌な音。
結衣は振り返った。
玲央が床に落ちていた。
いや、“落ちていた”では足りない。膝から上と下が変な向きに折れ、肩口が床にめり込んでいるように見える。だるまがその体の上に乗っていた。
「……あ」
声にならない。
だるまが、ゆっくり結衣を向く。
黒い目が合う。
逃げなければならない。分かっているのに、足が動かない。玲央だったものから目を外せない。その一瞬の停止が致命的だった。
だるまが消える。
次の瞬間には、結衣の目の前にいた。
重い衝撃。顔面が押し潰される感覚。視界が赤く染まり、痛みが広がる前に意識が途切れた。
――目を、逸らすな。
その声で結衣は目を開けた。
息を吸う。喉がひどく痛い。だが生きている。
最初の位置だった。
突き当たりに赤いだるま。隣に、無傷の玲央。
「……っ、は」
「先輩?」
玲央がこちらを見る。青ざめた顔で、自分の腕や脚を確かめている。
「今……」
「死んだ」
結衣が言う。
「私も、あなたも」
玲央は数秒黙ったあと、乾いた声で言った。
「戻されたんだ」
「そう」
「失敗したら、やり直し」
「みたいね」
「何回でも?」
結衣は答える前に少しだけ息を整えた。
「たぶん」
玲央が壁に手をつく。
「最悪だろ……」
「立って」
「無理ですって」
「無理でも進むしかない」
玲央は怒鳴り返そうとして、やめた。代わりに目を閉じ、数秒だけ呼吸を整える。それから、何も言わずに頷いた。
再び一階へ戻る。
同じ廊下。だが、木の塔の形は微妙に変わっていた。
「……増えてる」
玲央が言う。
確かに、段数が増えている。さっきより一段多い。つまり、成功までに必要な手数が増えている。
「失敗したから」
結衣が言う。
「難しくなってる」
「やり直しって救済じゃないんだ」
「最初からそういう顔してなかった」
玲央は笑わなかった。
しばらく木の塔を見たあと、だるまへ視線を移し、低く言った。
「今度は俺が見る」
結衣は少しだけ眉を上げた。
「いいの?」
「よくないですけど」
「じゃあなんで」
玲央はすぐには答えなかった。けれど、結衣にはもう理由が分かっていた。
「先輩が逸らしたから」
玲央ははっきりそう言った。
「さっき二回」
結衣は否定しなかった。
「……そうね」
「なら今度は俺が見ます」
返す言葉がない。
結衣は黙って頷き、木槌の前にしゃがみ込んだ。
見られる側の不安は、六階の前半とは全く違っていた。背中に命を預けるというのは、思っていたよりもずっと嫌な感覚だった。しかもその相手は、もう自分を信じていない。
「距離」
結衣が聞く。
「三メートル」
玲央の返答は少し遅かった。
「ちゃんと見てる?」
結衣は思わず聞いてしまう。
「見てますよ」
「ずっと?」
「ずっとです」
その言い方が気に障る。結衣は木槌を握り、最下段を叩いた。ブロックが飛ぶ。
だるまが動く。
「二・五」
「早くない?」
「普通です」
「さっきより?」
「さあ」
玲央の返答は投げやりだった。
結衣は次の一打を入れながら、唇を噛む。
本当に見ているのか。
あるいは、六階前半の自分にやり返すつもりで、わざと不安にさせているのか。
「今、どれくらい」
「二」
「ほんとに?」
「ほんとに」
少し間がある。
その間が、結衣にはひどく長く感じられた。自分が作業役になったことで、こんなにも“返答の遅れ”が恐ろしいものだと初めて分かる。
結衣は木槌を振るう。
木片が飛び、塔が一段ずつ沈む。けれど玲央の報告は曖昧だ。速いのか遅いのかもよく分からない。結衣は手元を見るしかないが、同時に背後の気配に意識を取られる。
「今、ちゃんと見てる?」
「見てるって言ってるじゃないですか」
玲央の声が少しだけ強くなる。
「何回言わせるんですか」
「だって返事遅い」
「こっちも怖いんですよ」
「それは」
「先輩だけじゃない」
結衣はそこで口を閉じた。
その通りだった。怖いのは自分だけではない。むしろ玲央の方が怖いはずだ。なのに彼は見ている。あるいは見ていると言っている。
「……続けて」
玲央が低く言う。
結衣は無言で木槌を握り直した。
塔は半分を切る。あと少しだ。だが少しになればなるほど、崩れやすさは増す。重心が不安定になるからだ。
そのとき、玲央が言った。
「証明してくださいよ」
結衣の手が止まる。
「何を」
「ちゃんと見てるって言うなら」
玲央の声は妙に静かだった。
「俺、一回だけ目逸らします」
「……」
「その間、先輩が見て止めてください」
試されている。
結衣はその意図をすぐに理解した。いまここで拒否すれば、“自分でも見ていないと分かっているから”と取られる。受ければ、失敗したときの責任は決定的になる。
「……やる意味ある?」
「あります」
玲央は即答した。
「俺がこのまま先輩信じる理由になります」
結衣はだるまを見る。
信じる理由。
その言葉が、妙に遠かった。もうそんなものが残っているのかと、少しだけ驚く。
「……分かった」
結衣は言った。
「やって」
「いきます」
玲央が目を逸らす。
その瞬間、だるまが動く。
結衣はだるまを見る。黒い目。赤い面。そこだけに意識を固定する。固定する、つもりでいる。だるまは動く。止まらない。近づく。
「見てる」
結衣が自分に言うように呟く。
「見てる」
一歩。
また一歩。
近づく。
おかしい。見ているのに。
「……なんで」
声が漏れる。
背後で、玲央が小さく息を吸うのが分かる。
「やっぱり」
彼が言う。
「見てないじゃないですか」
「見てる!!」
叫んだ瞬間、その叫びそのものが意識を揺らした。
次の瞬間、だるまが視界から消えた。
結衣の背中にぞわりと冷たいものが走る。
真横に、気配。
振り向かないままでも分かるほど近い。
「見て!」
結衣が叫ぶ。
玲央が慌てて視線を戻す。だるまが止まる。
その位置は、結衣の肩に触れそうなほど近かった。
数秒、誰も喋らなかった。
結衣は呼吸を整えることすら難しい。心臓がうるさい。喉が焼けるように熱い。
「……やっぱり」
玲央がぽつりと言った。
「先輩、見てないときありますよね」
結衣は返事をしなかった。
否定しても意味がない。いまのは、玲央にも見えたはずだ。
その沈黙のまま、二人は残りの段を落とし、いちばん上のだるまだけを残して、ようやく六階を突破した。
床に『達成』の文字が浮かぶ。
廊下の奥に、次の階段が現れる。
「行くわよ」
結衣が言う。
「はい」
玲央の返事は短い。
だるまを見たまま、二人で階段の前へ向かう。
歩調は合っているのに、距離は合っていなかった。さっきまで隣にいたはずなのに、いまは半歩ぶん、玲央が後ろにいる。
階段の手前で、玲央が小さく言った。
「先輩」
「なに」
「最後まで、ちゃんと見ててくださいね」
序章と同じ言葉だった。
けれど意味はもう、まるで違っていた。
結衣は返事をしないまま、だるまを見て、地下二階へ続く階段へ足を下ろした




