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序章 地下へ降りる前に

 最初に嫌な感じがしたのは、ビルを見上げた瞬間だった。


 結衣は足を止め、夜の空気をひとつ吸い込んだ。十一月の終わり、零時を過ぎたばかりの街は、終電を逃した酔客の笑い声すら遠く、ここだけ妙に静かだった。表通りから一本裏に入ったその雑居ビルは、周囲の店がすべて閉まっているせいで余計に黒く見える。六階建て。外壁は灰色だったはずなのに、湿った夜気の中では、壁そのものが古い死体みたいな色をしていた。


「……やっぱ、入るんですか」


 隣で玲央が言った。


 結衣は視線をビルから外さず、「ここまで来て?」と返す。


「いや、来ましたけど」


 玲央は笑おうとして失敗したみたいな顔をした。街灯の白っぽい光が頬に当たって、十九歳の若さが余計に目立つ。背丈はそこそこあっても、怖いものを前にしたときの表情はまだ高校生みたいだ、と結衣は思った。


「昼に見たときより、雰囲気悪くないですか」


「夜だからでしょ」


「そういう感じじゃなくて」


 玲央はビルの二階を見上げた。窓ガラスの向こうは真っ暗だ。空室が多いと聞いていたが、まるで全部の部屋が一斉に息を潜めているみたいだった。


「……いる感じ、しません?」


「人が?」


「人っていうか」


 玲央が言い淀む。結衣はそこでようやく彼を見た。


「怖いなら帰る?」


 軽く言ったつもりだったが、玲央はむっとしたように眉を寄せた。


「そういう言い方しないでくださいよ」


「じゃあどういう言い方がいいの」


「別に怖いって言ってるわけじゃないです」


「顔に出てる」


「先輩もでしょ」


「私は違う」


「いや、さっきから手、ずっとポケット入れてますよね」


 図星だった。


 結衣は少しだけ眉を上げたあと、右手をコートのポケットから出した。冷えていたわけではない。落ち着かなかっただけだ。けれど認める気にはならなかった。


「寒いから」


「今日そこまで寒くないですよ」


「うるさい」


 玲央は小さく笑った。ほんの少しだけ、空気が緩む。


 それでよかった。緊張は伝染する。自分が落ち着いていなければ、玲央はもっと不安になる。結衣はそういう役回りに慣れていた。大学でも、バイト先でも、焦る人間がいると自分が一歩前に出る癖がある。年下相手ならなおさらだ。


 そのつもりで、今もここに立っている。


「で」


 結衣は改めてビルを見上げた。


「噂、どこまで本気で信じてるの」


「……全部は信じてないです」


「全部は、って言い方が一番中途半端」


「でも、ここに入った人が帰ってこないとか、地下に変なものがあるとか、そういう話って、調べたら妙に多かったじゃないですか」


「ネットの怪談なんて盛られてるに決まってる」


「それはそうですけど」


「それに、失踪者が本当にいるなら警察がとっくに封鎖してる」


「まあ……」


 玲央は納得しかけて、それでもまだ何か引っかかっている顔をした。


「でも、地下があるってのは本当だったじゃないですか」


「古い雑居ビルなら別に珍しくないでしょ」


「なのに管理記録に載ってないの、普通ですか?」


「普通じゃない」


「ですよね」


「でも“普通じゃない”と“怪異がいる”は別」


 言いながら、結衣は自分の声が思っていたより乾いていることに気づいた。玲央を安心させるために言っている部分と、自分に言い聞かせている部分が半々だった。


 地下の存在が、図面にも現在の管理記録にも残っていない。

 このビルに関する断片的な噂が、どれも最後には地下へ収束する。

 そしてなぜか、入居者が短期間で頻繁に入れ替わっている。


 それだけだ。


 それだけなら、まだ理屈の範囲に置ける。


「先輩」


「なに」


「もし本当に何かあったら、すぐ帰りましょうね」


「何かって?」


「だから……変な音するとか、変なの見るとか」


 玲央はそこまで言ってから、自分で馬鹿みたいだと思ったのか口元を押さえた。


「分かってる」


 結衣は短く言った。


「無理はしない」


「約束ですよ」


「はいはい」


 ビルの一階入口は、半分だけ開いたガラス扉だった。営業している店はないはずなのに、鍵はかかっていない。押すと、ガラスが重たく軋んだ。


 中は思っていたより暗かった。エントランスの照明が二つ切れていて、残っている一つも弱々しく点滅している。奥に細い廊下。左手にエレベーター。右手に階段。かすかに黴の匂いがした。


 玲央が後ろで扉を支えたまま、「……すでに帰りたいんですけど」と小さく言う。


「まだ入っただけでしょ」


「入ったからですよ」


 結衣はスマホのライトをつけた。白い光が床を舐め、黒ずんだタイルの継ぎ目を浮かび上がらせる。


 入った瞬間から、外より静かだった。


 街の音が、まるで分厚い布の向こう側に追いやられたみたいに遠い。耳が詰まる感じがする。ビルの中そのものが、外の世界から切り離されている。


「エレベーターは?」


「止まってる」


 玲央が押しボタンを何度か触ってから言った。表示灯は死んでいる。扉も開かない。


「じゃあ階段」


「地下、どっちでしたっけ」


「下に行くしかないなら、そっち」


 右手の階段へ向かいかけたときだった。


 結衣は、ふと背後に視線をやった。


 何かを見たわけではない。ただ、見なければならない気がした。


 入口のガラス扉が、ひとりでに閉まり始めていた。


 ゆっくりと。音も立てずに。


「……玲央」


「見てます」


 玲央も気づいていたらしい。二人そろって動かずにいると、ガラス扉は最後まで閉まり、かち、と小さく鍵の落ちるような音がした。


 エントランスの空気が一段冷える。


「誰かいる?」


 結衣は扉へ近づき、取っ手を掴んだ。押しても引いても開かない。さっきまで普通に開いたはずなのに、びくともしなかった。


 玲央も横から押した。


「閉めたんですか、誰か」


「外に人影はない」


「じゃあ……」


「分からない」


 結衣は扉から手を離した。


 嫌な沈黙が降りる。


 ガラスの向こうに見えるはずの夜道も、妙に遠かった。外と自分たちの間に厚い水の層でもあるみたいに、景色がぼやけている。


「上、見ます?」


 玲央の提案に、結衣はすぐ頷いた。


「先に逃げ道確認」


「ですよね」


 右手の階段を上る。二階までは普通だった。だが二階から上へ行こうとしたところで、鉄製の防火扉が閉まっていた。結衣が押しても開かない。玲央も加わる。だめだ。


「え、さっき外から見たとき、上の方も普通に店入ってる感じじゃ……」


「昼間はね」


「昼間は?」


「今は違う」


 三階側も試したが開かなかった。一階へ戻る。エレベーターはやはり死んだまま。


 残るのは、地下へ続く階段だけだった。


 玲央が、何か言おうとしてやめた。


「なに」


「いや……」


 結局、言う。


「めちゃくちゃ嫌な流れじゃないですか、これ」


 結衣は答えなかった。言葉にしてしまえば、本当にそうなる気がしたからだ。


 地下へ続く階段は、エントランスのさらに奥にあった。途中の廊下は細く、左右に並ぶ古いテナントのシャッターはどれも閉まっている。シャッターの隙間は黒く、店名のプレートも剥がれかけていた。いくつかの足元に古い紙屑や空き缶が転がっているのに、誰も生活していない場所特有の“積もり方”をしていなかった。まるで、ついさっき何かが動いたばかりみたいに。


 階段の前まで来ると、下から湿った風が吹き上がってきた。かび臭さとは別の、生ぬるいような鉄っぽい匂いが混じっている。


「帰りたい」


 玲央が今度ははっきり言った。


 結衣は少しだけ笑った。


「帰れないでしょ」


「そういう問題じゃなくて」


「分かってる」


 その笑いは、自分でも思ったより弱かった。


「一回だけ見る。やばかったら戻る」


「戻れなかったら」


「そのとき考える」


「それ、先延ばしって言いません?」


「今の状況で先のこと考えすぎても無駄」


 玲央は口を閉じた。正論だったからだろう。あるいは、もう結衣の言い方が少し強くなっていると感じたのかもしれない。


 二人で階段を下りる。


 地下へ行くほど、空気が重くなる。足音がやけに響くわりに、反響は浅い。音が途中で飲まれていく感じがする。


 一階分だけ下りたところで、廊下が見えた。


 その正面に、赤いものがあった。


「……先輩」


 玲央の声が上ずる。


 結衣も足を止めた。


 赤いだるまが、廊下の真ん中に置かれている。


 照明はほとんど死んでいるはずなのに、それだけ妙にくっきり見えた。塗料の赤が、闇の中で浮いている。鼻も口も単純な筆の線で描かれているだけなのに、目だけがやけに生々しい。白目の濁りも、黒目の縁も、人が筆で描いたにしては妙に立体感がある。


「誰か置いた……?」


 玲央が言う。


「こんなとこに?」


「知らない」


 結衣は答えた。だが、答えながら、自分の喉がきゅっと狭くなるのを感じていた。


 気味が悪い。


 理由は単純だった。そこに“ある”こと自体が、あまりにも自然すぎるのだ。場違いなはずなのに、ずっと前からそこにいたもののように見える。


「近くないですか」


 玲央が言った。


「何が」


「あれ」


「気のせいでしょ」


「いや……さっき階段から見たとき、もうちょっと奥じゃなかったですか」


 結衣は返事をしなかった。


 そう言われると、確かにそう見える。だが、認めたくなかった。まだ何も起きていない。起きていないものを、最初から“起きている”と扱うのは危険だ。


 その瞬間だった。


 すぐ耳元で、誰かが囁いた。


 ――目を、逸らすな。


 結衣は反射的に振り返った。


 誰もいない。


 ただ暗い階段が上へ伸びているだけだ。玲央も同じように後ろを見たらしく、すぐに息を呑む気配がした。


「……今の」


「聞いた」


 結衣は前を向いた。


 だるまが近づいていた。


 数歩分。確実に。


「え」


 玲央の声が裏返る。


「え、ちょっと待って、今……」


 結衣は何も言えない。


 心臓だけがうるさい。あれは動いた。見ていない間に。ほんの一瞬のはずなのに、ありえない距離を詰めてきた。


 再び囁き声がした。今度は一人分の距離ではなく、廊下そのものが喋っているみたいに、どこからともなく響いた。


 ――一人が見ている間は、ゆっくり進む。

 ――二人が見ている間は、止まる。

 ――誰も見ていない間は、高速で来る。


「……何ですか、それ」


 玲央が掠れた声で言う。


「試す」


 結衣は言った。


「え」


「あなたが一瞬だけ目を逸らして。私は見る」


「なんで俺なんですか」


「私が逸らしたら、確認する人がいなくなる」


 玲央は息を吐いた。反論したいが、理屈は分かる、という顔だった。


「……一瞬ですよ」


「一瞬でいい」


「絶対見ててくださいよ」


「見てる」


 玲央は唇を舐め、だるまを睨むみたいに見つめたあと、ぎこちなく顔を逸らした。


 その瞬間、だるまが動いた。


 歩いた、というより、いつの間にか位置が変わっている感じだった。だが確実に前へ出ている。


「うわっ!」


 玲央が慌てて視線を戻す。


 だるまが止まる。


 静かになった。


 結衣はその静けさが、一層怖かった。動くときより、止まっているときの方が、余計な意志を感じる。


「本当だ……」


 玲央が言う。


「本当に動く」


「二人で見てる限り、止まる」


 自分で整理するように結衣が言う。


「ってことは、一人が何かしてる間に、もう一人が見てないとだめってことですよね」


「そう」


「じゃあ下に行くしかないんですか」


 玲央の声は不満というより、確認だった。結衣に「違う」と言ってほしいのだ。


 だが結衣は、だるまの向こうに見えるさらに下への階段を見た。


「他に道がない」


「……」


「行くしかない」


 玲央は数秒黙ったあと、小さく頷いた。


「分かりました」


 その声は、明らかに分かっていなかった。理解したわけではなく、受け入れるしかないと諦めただけだ。


 二人は並んだ。


 だるまを見たまま、一歩ずつ進む。二人で見ている限り、あれは止まる。理屈は単純だ。だが、近づくほどだるまの表面の質感まで見えてしまうのがよくなかった。赤い塗りの下に細かなひび。白目の縁の汚れ。黒目の中心に、ほんのわずかな艶。


 まるで、濡れているみたいだった。


「……先輩」


「なに」


「これ、横通るんですよね」


「そう」


「めちゃくちゃ嫌なんですけど」


「私も」


 言ったあとで、玲央が少しだけ驚いた顔をしたのが分かった。結衣が素直に“嫌だ”と言うのが珍しかったのかもしれない。


「でも、通るしかない」


「ですよね」


 だるまの横をすり抜ける。近い。あまりにも近い。視線を逸らしたら、その瞬間に首筋へ噛みついてきそうな距離だった。


 階段の前まで来たとき、囁き声がまたした。


 ――下へ行くほど、速くなる。


 玲央が「うわ」と小さく声を漏らした。


 結衣は何も言わず、後ろ向きに一段目へ足を下ろした。だるまから目を離さないまま。


 玲央も続く。


 二人で見ている限り、止まる。


 たった一つ、それだけを信じて、地下へ降りる。


 湿った空気が肺に絡みつく。階段は思ったより長い。下を見ることはできない。だるまから目を逸らすことになるからだ。


「先輩」


「なに」


「まだ下、あります?」


「見てない」


「見ないでください」


「見てないって言ってる」


「ならよかった」


 妙に真剣な口調で言うので、結衣は少しだけ口元を動かした。笑ったつもりだったが、自分でもそれが笑いになっていたかは分からない。


 やがて足元の感触が変わる。階段ではなく平らな床。


 地下一階だった。


 廊下の中央に、木のブロックが綺麗に積まれている。


 床に文字が浮かぶ。


『崩さずに、すべて運べ』


 結衣は、その白い文字と、廊下の奥に再び現れただるまを見て、ゆっくり息を吐いた。


 まだ始まったばかりだ。


 そのことだけが、はっきり分かった。

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