第二章 地下二階 卵
階段を下りる途中から、空気が変わった。
湿り気が増したわけではない。むしろ逆だった。地下一階の重い湿気が少し薄れ、そのかわり、喉の奥をざらつかせるような乾いた冷たさが混じってきた。結衣はだるまから目を離さないまま、一段ずつ慎重に後ろ向きに下りる。
玲央の足音が少しだけ遠い。
最初の階より、わずかに。けれど、はっきりと。
「……近くにいる?」
結衣が聞く。
「いますよ」
玲央の返事はすぐに来た。
「どれくらい」
「二段くらい後ろ」
結衣は黙ったまま頷く。
振り返って確認することはできない。だから声だけが頼りだ。けれどその声を、もう完全には信じられない。地下一階で生まれたひびは、思っていたより深かった。
最後の一段に足が触れる。
地下二階の床は、一階より少しだけ明るかった。天井の非常灯が一本だけ残っていて、廊下の中央を白く細く照らしている。その白い線の上に、長いテーブルが置かれていた。
その上に並ぶ、七つの卵。
白い。艶がある。異様に綺麗だ。埃っぽい空間の中で、そこだけが新しい。
床に白い文字が浮かぶ。
『割らずに、すべて運べ』
「……嫌な予感しかしない」
玲央が言った。
「同感」
結衣は短く答えた。廊下の奥を見る。
だるまがいる。
一階のときより少し遠い位置だ。けれど、その遠さが安心には繋がらなかった。遠いということは、来る距離が長いというだけだ。むしろ、何歩で詰めてくるかが分からない分だけ不気味だった。
「どうします」
玲央が聞く。
「役割は同じ」
結衣は言う。
「私が見る。あなたが運ぶ」
玲央は露骨には反発しなかったが、数秒だけ黙った。結衣にはそれで十分だった。もう以前みたいな素直な頷き方ではない。
「……また俺ですか」
「嫌?」
「嫌っていうか」
「じゃあ交代する?」
「いや」
玲央はすぐ否定した。
「見られる側も嫌なんで」
それは正直な言葉だった。結衣は少しだけ驚き、同時に納得した。一階で役割交代をして分かったのだろう。背中を預ける恐怖は、単に仕事を任せる恐怖とは質が違う。
「じゃあ、これでいく」
「……ちゃんと見ててくださいよ」
玲央が言う。
結衣はわずかに目を細めた。
「あなたも、その言い方好きね」
「好きじゃないです」
「じゃあやめれば」
「やめたら逸らすじゃないですか」
言葉が少しだけ強かった。
結衣は返事をしない。返せなかったのではなく、返す意味がなかった。玲央の中では、もう“結衣は逸らす人間”として記録されている。否定しても逆効果だ。
「距離」
玲央が卵へ手を伸ばしながら聞く。
「四メートルくらい」
「遠いですね」
「最初だけ」
「脅さないでくださいよ」
玲央は一つ目の卵を持ち上げる。卵を扱う手つきは積み木のときよりずっと慎重だ。両手で包み込み、腕を不自然なくらい固定して歩く。
だるまが動く。
ゆっくりと。
だが一階の“ゆっくり”より速い。結衣にはそう見えた。
「三・五」
「もう?」
「歩いてる」
「見てるんですよね」
「見てる」
玲央が卵を置く。殻がテーブルに触れる小さな音がやけに大きい。壊れていない。ひとまず成功だ。
二つ目。
三つ目。
卵は軽いはずなのに、玲央の足取りは回数を重ねるごとに重くなる。慎重さを維持するだけで、体力より先に神経が削られるのだろう。結衣も理解できた。だるまを見続けることは、目以上に神経を消耗する。
「距離」
「二・五」
「速いな……」
「ええ」
「今の、普通ですか」
結衣は少し迷ってから言った。
「普通ではない」
「やっぱり」
「でも遅くもできない」
「知ってます」
玲央の返しは素っ気なかった。
会話の間に、だるまがまた一歩詰める。
その足運びは見えない。気づいたときには位置が少し変わっている。まるでカメラのコマが抜けているみたいに、移動の途中だけが存在しない。
四つ目を運ぶ途中、玲央の肩がぶつかった。テーブルの脚に足が触れたのかもしれない。卵がわずかに傾く。
結衣の意識が反射でそちらへ向かった。
視線は動かしていない、つもりだった。だがその“つもり”があまり信用できないことを、彼女はすでに知っていた。
「先輩」
玲央が急に言った。
「見てますよね」
「見てる」
「ちゃんと?」
その確認の仕方は、もはや癖に近い。だが今はその繰り返しが必要でもあった。そうでもしないと、お互いの位置が保てない。
「ちゃんと」
「ならいいです」
玲央はそう言ったが、声に安心はなかった。
五つ目に手を伸ばしたとき、だるまはかなり近かった。
「距離」
「一・五」
「早い」
「急いで」
「急いだら落とす」
「でも近い」
「分かってます」
玲央の声が荒くなる。卵を持つ手が微かに震えた。結衣はだるまだけを見る。見なければならない。あの赤を、黒い目を、白目の濁りを、正面から。
それでも、玲央の指の震えは視界の端に入る。
卵は脆い。落ちれば割れる。割れれば失敗。失敗すればやり直し。そして、やり直しは前より難しくなる。
結衣の中で、二つの恐怖が重なった。
だるまへの恐怖。
やり直しへの恐怖。
どちらが強いのか、自分でもまだ分からない。
「置く」
玲央が五つ目をテーブルに置いた。ぎりぎり、割れない。
結衣は息を吐く暇もなく言う。
「あと二つ」
「分かってます」
「距離は」
「今、一メートル……くらい」
玲央の返答が微妙に遅い。
結衣は眉をひそめた。
「今?」
「だから、一メートル」
「遅い」
「卵見てたんでしょ」
「だるまより?」
玲央が答えない。
その沈黙が、六階の記憶を呼び戻す。背後で見ていると言いながら、別のものを見ていたかもしれない玲央。試したのか、怖かったのか、あるいは両方か。
結衣は自分が問い詰めたくなっていることに気づく。だが今は無理だ。問い詰める間にも、だるまは来る。
六つ目の卵を玲央が持ち上げた、その瞬間だった。
つるり、と音もなく指が滑る。
卵が手の中から転がり落ちかけた。
結衣は見た。
反射的に。
完全に。
卵の方を。
「っ」
喉の奥で息が詰まる。
玲央はぎりぎりで卵を掴み直した。割れない。だが、結衣が顔を戻したときには、だるまがもう目の前まで来ていた。
「見て!!」
叫ぶより先に、玲央も何かを感じたのだろう。顔を上げる。だるまと目が合う。
止まる。
結衣の手が震えた。あまりに近い。腕を伸ばせば触れられる距離だ。赤い塗装のひびの中に、黒い汚れがたまっているのが見える。鼻のない顔なのに、息をしているように見えた。
「……今」
玲央の声が低い。
「逸らしましたよね」
結衣は答えられなかった。
「卵の方」
「……そうね」
ようやくそれだけ言う。
否定する意味がない。見られていた。少なくとも玲央にはそう見えた。
「助けたかったんでしょ」
玲央が言う。
その言い方は軽かった。だが軽すぎるからこそ、結衣は胸の奥がざらつくのを感じた。
「結果的に」
「結果的に?」
「あなたが落としたら終わりだったから」
言った瞬間、結衣は自分で引っかかった。
“あなたが落としたら終わりだったから”。
それは助けたいというより、失敗したくないという言い方ではないか。
玲央もそれを聞き取ったらしい。ほんの少し黙ったあと、低く笑った。
「そっか」
その一言だけだった。
だが、結衣には十分だった。いまの会話で、何かがまた一段壊れた。
「あと一個」
結衣が言う。
「終わらせて」
「分かってます」
玲央は七つ目の卵に手を伸ばした。今度は極端に慎重だ。怖くないわけがない。目の前にだるまがいる。その状態で、まだ脆い卵を持って歩かなければならない。
結衣はその背中を見て、ふと奇妙な感情に襲われた。
このまま卵が割れればやり直しだ。
やり直しになれば状況は悪くなる。
なら、ここで無理に急がせるべきではない。
いや、違う。急がせなければ、この距離では間に合わないかもしれない。
考えが二つに裂ける。
玲央が一歩、歩く。
結衣はだるまを見る。
玲央がもう一歩。
だるまは止まっている。二人で見ている。いや、本当に? 玲央は見ているのか? 卵を運ぶ手元に意識が行っているだけでは?
疑いが、一瞬、結衣の胸をよぎる。
玲央が卵を置いた。
小さな音。殻は割れない。
床の文字が滲むように崩れ、別の文字になる。
『達成』
その途端、だるまがすうっと後ろへ滑るように下がった。
結衣はようやく息を吐いた。足が少しだけふらつく。緊張が解けたせいだろう。
「……ナイスです」
玲央が言った。
褒めたのではなく、仕事が終わったことを確認する声だった。
「あなたも」
結衣は言ったが、そこに感情はほとんど乗らなかった。
次の階段が、廊下の奥に現れている。
そこへ歩き出そうとしたとき、玲央がまた言った。
「先輩」
「なに」
「次、同じことやったら」
結衣は足を止めなかった。
「死にますよ」
その言葉は脅しというより、確認だった。忠告とも違う。事実の共有に近い。
「分かってる」
結衣は短く答えた。
だが本当に分かっているのは、そこではなかった。
助けるために逸らした。
少なくとも自分ではそう思いたい。
けれど本当は、やり直しが嫌だっただけかもしれない。
その疑いが、胸の奥に残ったまま、二人は地下三階へ向かう階段を下りていく。
今度は、一階のときよりもさらに距離を空けて。




