第72話「指揮する狼」
「ルーク、そこを動くな」
レイの声が飛んできたのは、砂丘の向こうで何かが崩れる音がした直後だった。
ルークは反射的に杖を構えたが、すぐには動かなかった。目の前に敵がいるわけではない。砂丘の裏側から伝わってくる足音と、時折上がる砂煙だけが、そこで戦いが続いていることを教えていた。
今日はレイに指揮を任せると決めている。
ルークが細かく指示を出さなくても、仲間たちが自分たちの判断で戦えるようになるための訓練だった。もっとも、最初から上手くいっているわけではない。
「プル、右を塞げ。イズナはまだ出るな」
短い指示が続く。
その直後、砂丘の陰から一匹の魔物が飛び出してきた。
四本の脚を大きく開き、砂を蹴り上げながら走ってくる。硬そうな褐色の皮膚と、額から伸びた二本の短い角が特徴的な魔物だった。
【デューンホーン】
【Lv:13】
ルークが鑑定した時には、魔物との距離は十歩ほどに縮まっていた。
「レイ、こっちに来てる!」
思わず声が出る。
しかし、レイは振り返らなかった。
「分かってる。プル!」
次の瞬間、ルークの足元を青い影が横切った。
プルの身体から伸びた触手が、突進してきたデューンホーンの前脚へ絡みつく。勢いを止められた魔物は前のめりになったが、転倒するより早く後脚で踏ん張り、身体を持ち上げようとした。
そこへ二本目、三本目の触手が伸びる。
脚を押さえるだけではない。首の向きを変え、突進の勢いを横へ逃がしていた。
デューンホーンは砂の上を滑り、ルークの前方で動きを止めた。
「ぷるっ!」
プルが誇らしげに跳ねる。
「……危なかった」
ルークが息を吐くと、レイがゆっくり近づいてきた。
「危なくない。お前のところへ出るように動かした」
「それ、先に言ってほしかったんだけど」
「言ったらお前が動くだろ」
否定できなかった。
ルークは杖を下ろし、拘束されたデューンホーンを見る。魔物はまだ暴れていたが、プルの触手から抜け出せる様子はない。
「訓練相手にするなら、もっと広い場所の方がよかったかな」
「いや、ここでいい」
レイはそう答えると、砂丘の向こうへ視線を戻した。
「問題は別にある」
ルークもそちらを見た。
砂丘の裏側には、同じデューンホーンがまだ三匹いる。レイが一匹を追い立て、残りの三匹をイズナとプルで分断する予定だった。
だが、予定どおりにはいかなかった。
最初の一匹はルークのところまで来てしまい、残りの三匹も完全には分断できていない。
「イズナの位置が分からなかった?」
「違う。俺の指示が遅かった」
レイはあっさり認めた。
ルークは少し驚いた。
普段のレイなら、他の仲間の動きが悪かったと判断すれば遠慮なく指摘する。それなのに今回は、自分の判断を真っ先に問題にしたのだ。
「俺が前に出た時点で、あいつらは逃げる方向を変えていた。そこでイズナに動いてもらうべきだった」
「じゃあ、もう一回試そうか」
「そのつもりだ」
レイは拘束されたデューンホーンへ近づくと、鋭い目を向けた。
「プル、放せ」
触手が緩む。
自由になった魔物は一瞬レイを警戒したあと、仲間がいる砂丘の向こうへ逃げていった。
追いかけることはしない。
今の目的は討伐数を増やすことではなく、連携の精度を確かめることだった。
もっとも、ルークは内心で少しだけ残念に思っていた。
せっかく意図的なレベル上げを始めたのだから、実戦経験も積みたい。けれど、逃げる魔物を無理に追ってまで経験値を得ようとするのは、今の自分たちに必要なことなのだろうか。
その答えはまだ出ていなかった。
***
二度目の訓練は、思いがけない形で始まった。
逃がしたデューンホーンたちが砂丘の向こうへ消えたあと、ルークは水を飲みながらレイと次の動きを相談していた。
ところが、岩の上で休んでいたソラが急に翼を開いた。
「ピィ!」
警戒の鳴き声だった。
レイがすぐに顔を上げる。
「西から来る。六匹……いや、七匹だ」
「さっきのデューンホーン?」
「違う。肉食の臭いだ」
風下から獣の鳴き声が聞こえた。
低い唸り声が重なり合い、砂を踏む足音が徐々に近づいてくる。やがて岩場の向こうから現れたのは、細長い胴体に灰褐色の毛を生やした七匹の獣だった。
ルークは先頭の個体を鑑定する。
【グレイファング】
【Lv:15】
他の個体も、おおむね同じ程度のレベルらしい。
「さっきの魔物を追ってきたのかな」
「獲物の臭いを追っていたんだろう。だが、今は俺たちを見てる」
グレイファングたちはこちらの様子を窺いながら、扇状に広がり始めた。
先頭の二匹が正面を引きつけ、残りが左右へ回り込む。群れで狩りをする魔物らしく、互いの位置を確認しながら少しずつ距離を詰めていた。
「七匹か……」
ルークが杖を握り直すと、レイが横へ来た。
「さっきの続きだ」
「この相手で?」
「ちょうどいい」
レイの声には迷いがなかった。
「お前は見てろ」
ルークは一度グレイファングの群れへ目を向けた。数が多く、しかも先ほどのデューンホーンより好戦的に見える。
けれど、レイは敵の数を見誤っているわけではない。
「分かった。任せる」
その言葉を聞いたレイは、一度だけ頷いた。
それから、仲間たちへ視線を向ける。
「ソラ、上から逃げ道を見ろ。イズナは左へ。プルはルークの前に残れ」
指示は三つだけだった。
ソラが翼を広げ、風を巻き起こしながら上昇する。イズナは砂丘の陰へ走り、その姿を周囲の景色に溶け込ませた。
プルはルークの前へ移動したものの、身体を大きく広げたりはしなかった。
「ぷる」
余裕のある返事だった。
レイは一匹で正面へ歩いていく。
七匹のグレイファングは、その姿を見て唸り声を強めた。
最も身体の大きな個体が、群れの中央から飛び出してくる。
だが、レイは速度を上げなかった。
真正面から噛みつこうとしてきた相手に対し、わずかに身体を傾けて牙の軌道を外す。すれ違いざまに振るった前脚が相手の肩を正確に打ち抜き、グレイファングは地面へ転がった。
一撃を受けた魔物は立ち上がろうとしたが、前脚に力が入らず、その場へ伏せ込むしかなかった。
それを見た残りの六匹が、一斉に動いた。
右から二匹。
正面に一匹。
左から三匹。
ルークの目には、ほとんど同時に飛びかかったように見えた。
しかしレイは、正面の一匹にしか注意を向けていない。
「イズナ、左を戻せ」
その声と同時に、左側の三匹が突然足を止めた。
正面にいるはずのレイが、なぜか自分たちの横にも現れたのだ。
一匹がその姿へ飛びかかる。
牙は空を噛んだ。
幻に気づいて方向を変えた時には、別の場所にもレイがいる。三匹は互いの動きを邪魔するように位置を変え、狭い砂丘の斜面へ追い込まれていった。
ルークは目を細めた。
「……イズナ、最初からそこにいたんだ」
【気配遮断 Lv.3】。
砂丘へ回り込んだあと、イズナは敵に気づかれない位置で待っていたのだろう。
レイが正面から群れを引きつけたことで、敵の意識はすべてそちらへ向いた。そこへ幻惑を重ねれば、敵は実際の位置関係を見失う。
左の三匹は、もうレイを囲めない。
一方、右から回り込んだ二匹はルークの方へ向かっていた。
「プル、来るよ!」
ルークが声をかけた時には、プルの触手が既に地面へ伸びていた。
一匹目が飛びかかる。
その牙がルークへ届くより早く、触手が相手の胴体へ巻きついた。
二匹目は横から回り込もうとするが、プルは最初の一匹を持ち上げたまま別の触手を伸ばし、前脚と後脚を同時に絡め取った。
「ぷるる!」
二匹のグレイファングが宙へ持ち上がる。
鋭い爪がプルの身体を引っかいたものの、硬化した表面には傷一つつかなかった。
ルークは思わず笑ってしまった。
「僕、何もしなくていいんだね」
プルが嬉しそうに身体を揺らす。
しかも、二匹を拘束している間も、残りの触手はルークの前に構えられていた。
守りと拘束を同時にこなしている。
砂丘でデザートビートルを相手に試し始めた時より、余分な動きが減っていた。
***
戦いが終わったのは、それから間もなくだった。
中央に残った一匹はレイに正面から挑み、最初の個体と同じように一撃で地面へ伏せた。
左側の三匹はイズナの幻惑から逃れようとしたところをソラの風に進路を塞がれ、レイへ向かって走るしかなくなった。
その先で待っていたダイアウルフに、まともに立ち向かえた魔物はいなかった。
七匹のうち五匹は動けなくなり、残る二匹もプルに拘束されたまま戦意を失っている。
レイには、ほとんど傷がなかった。
呼吸も乱れていない。
「……すごいな」
ルークが呟くと、レイは倒れたグレイファングたちを確認しながら戻ってきた。
「何がだ」
「僕、ほとんど何も指示してない」
「それが目的だろ」
「そうだけどさ」
ルークは仲間たちを見る。
空から降りてきたソラは、最後の一羽を追い払った時と同じように得意げだった。プルも二匹を押さえたままルークへ顔を向け、褒められるのを待っている。
イズナだけは何事もなかったように歩いてきて、砂の少ない場所へ腰を下ろした。
ルークは少し考えた。
「レイ。さっき、右の二匹をプルに任せたのは、最初から?」
「途中で決めた」
「どうして?」
「最初は俺のところへ引きつけるつもりだった。だが、あいつらはお前の方が弱いと思ったらしい」
レイの口元が僅かに上がる。
「都合がよかった」
「僕が狙われたことが?」
「プルにはちょうどいい相手だっただろ」
確かにそうだった。
レイがすべての敵を倒そうとすれば、七匹でも問題なく勝てたかもしれない。だが、それではプルもイズナも、今ほど動く機会はなかった。
敵を倒すことだけを考えるのではない。
誰に何を任せるか。
どの敵を自分で受け持つか。
どこまで仲間に任せれば安全なのか。
ルークが湿地で必死に考えていたことを、今のレイは戦いながら自然に判断している。
「僕より指揮官に向いてるんじゃない?」
冗談半分で言ったつもりだった。
しかしレイは笑わなかった。
「お前がいない方がいいと思ってるわけじゃない」
ルークは顔を上げた。
「俺は敵を倒す判断ができる。だが、どこまで戦わせるかは別だ」
レイは拘束された二匹へ目を向ける。
「お前なら、あいつらを殺さずに済むならそうするだろ」
「……うん」
「だから俺はそうした」
その言葉に、ルークはすぐ返事ができなかった。
レイは戦うための判断をしている。
けれど、その判断の中にはルークの考え方も入っていた。
一匹で強い狼だった頃とは違う。
今のレイは、仲間が何を望み、何ができるのかまで考えて戦っている。
その時、ルークの視界へ小さな表示が浮かんだ。
【ダイアウルフ】
【レイ】
【スキル成長】
【群体指揮 Lv.1 → Lv.2】
「……あ」
思わず声が漏れる。
レイがこちらを向いた。
「どうした」
「群体指揮が上がった!」
一瞬だけ、レイの耳が動いた。
だが、それ以上は反応しない。
「そうか」
「そうかって……もっと喜んでいいんじゃない?」
「必要なことをしただけだ」
いつもの返事だった。
それでもルークには分かった。
レイの尾が、ほんの少しだけ揺れていた。
***
夕方、ルークたちは岩場の陰で休憩していた。
グレイファングの群れは解放すると、負傷した仲間を連れて砂丘の向こうへ去っていった。追う者はいない。
ルークは旅の記録を開き、今日の戦いを思い返していた。
新しく分かったことは多い。
レイの指揮能力は、単独戦闘とは別の形で成長している。プルは複数の敵を同時に拘束しながら、ルークを守る余裕まで見せた。
イズナも、レイがどこへ敵を追い込もうとしているのかを理解して動いていた。
ただ、ひとつ気になることがあった。
「……サーヴァは、どこだろう」
朝から姿を見せていた小さな蛇が、戦いの途中からいなくなっていた。
ルークが周囲を見回すと、レイが岩の隙間へ鼻先を向けた。
「そこだ」
細い隙間の奥に、黄褐色の身体が見える。
サーヴァだった。
呼びかけても出てこない。
いつもなら乾燥肉を置けば近づいてくるのに、今日は顔を向けるだけで動かなかった。
「怖かったのかな」
ルークは岩の前へしゃがんだ。
「さっきの魔物、結構大きかったもんね」
サーヴァは反応しない。
ただ、黒い目でルークを見ている。
ルークはその視線を受けながら、ふと気づいた。
レイたちは七匹の魔物を相手に、ほとんど危険を感じさせず勝った。
けれどサーヴァにとっては違う。
グレイファングの一匹でも近づいてきたら、まともに戦うことすら難しかっただろう。
一緒に旅をしているからといって、同じ強さで戦えるわけではない。
「……そっか」
ルークは乾燥肉を一切れ、岩の手前へ置いた。
「今日は見てるだけでよかったんだよ。サーヴァにはサーヴァの戦い方があると思うから」
蛇が僅かに頭を動かす。
ルークはそれ以上話しかけず、少し離れた場所へ戻った。
しばらくして、岩の隙間から小さな身体が出てくる。
サーヴァは肉を咥えた。
しかし、食べる前に一度だけルークたちの方を見た。
レイは横になり、ソラは羽繕いをしている。プルはルークの荷物を身体の中へ収め、イズナは岩の上で夕日を眺めていた。
サーヴァはその姿をしばらく見つめたあと、肉を咥えたまま岩の奥へ戻っていった。
ルークは追わなかった。
今日の戦いで、仲間たちはまた一つ成長した。
だが、サーヴァはまだ違う。
その差を埋める方法は、ルークにも分からない。
だからこそ、焦って答えを出すべきではないのだろう。
「明日は僕も戦わないとな」
記録を閉じながら呟くと、レイが片目を開いた。
「ようやく自分の番か」
「そうだよ。僕だって強くなりたいんだから」
「なら、明日は俺が相手を選ぶ」
ルークは嫌な予感がして顔を上げた。
「……ちゃんと勝てる相手にしてよ?」
「死なない程度にはな」
「その言い方、すごく不安なんだけど」
レイは答えず、再び目を閉じた。
その横でプルが楽しそうに身体を震わせている。
明日の訓練が、少し怖くなった。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございます!
皆さまに楽しんでいただける物語を目指して、これからも丁寧に書き続けていきます。
続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです!
次回もぜひよろしくお願いします!




