第73話「進化を選ぶ理由」
朝食の準備を始めた頃、ルークは自分の右腕が思った以上に疲れていることに気づいた。
水袋を持ち上げるだけで前腕の筋肉が張り、指を開くと手のひらに鈍い痛みが走る。ここ数日、投石紐と戦闘杖を使う時間を増やしていたせいだろう。昨日はレイの指揮を見守る時間が長かったものの、それ以前の訓練で溜まった疲労までは消えていなかった。
「今日は少し休んだ方がいいかな」
独り言のつもりだったが、すぐ横で伏せていたレイが耳を動かした。
「ようやく気づいたか」
「昨日の夜は平気だったんだけどね」
「疲れてる時ほど気づかんものだ。今朝の杖の素振りも、いつもより遅かったぞ」
そんなところまで見ていたのかと、ルークは苦笑した。
ラグナへ向かう途中で始めた集中的な訓練は、少しずつ成果を見せていた。プルは複数の敵を同時に押さえる方法を覚え始め、レイは昨日の戦いで【群体指揮】をLv2へ上げた。
だからこそ、もっと試したいことが増えている。
「でも、せっかく魔物が多い場所を見つけたし……」
「腕を痛めて、明日から何もできなくなる方が無駄だろ」
正論だった。
ルークは水袋を置き、伸ばしかけた右腕を引っ込めた。
「分かった。今日は移動も控えめにして、身体を休めよう」
「それがいい」
レイは満足そうに目を閉じた。
ただし、ルークには一つだけ不満があった。
「レイって、僕のことになると本当に容赦ないよね」
「お前が自分に甘いからだ」
「逆じゃない?」
「どっちでもいい」
そう言って会話を終わらせるところまで、いつものレイだった。
***
午前中、ルークたちは昨日の野営地からそれほど離れていない岩場へ移動した。
二つの大きな岩が斜めに重なり、昼でも広い日陰ができる場所だった。足元には風で運ばれた細かな砂が溜まっていたが、岩壁の近くには硬い地面も残っている。身体を休めるにはちょうどよかった。
プルが荷物を下ろすと、ソラは岩の上へ飛び移り、翼を広げて陽を浴び始めた。
その姿を見たルークは少し笑った。
「君は元気だね。昨日だって結構飛んでたのに」
「ピィ!」
当然だと言いたげに胸を張る。
レイは岩陰へ伏せたが、完全に眠る気はないらしい。時折耳を動かし、風に混じる音を確かめていた。
イズナは日陰の奥を選び、一本の尾を身体へ巻きつけて座る。
そしてサーヴァは、荷物から少し離れた砂の上へ身体を沈めていた。
昨夕、グレイファングとの戦いを岩の隙間から見ていた小さな蛇は、今朝も餌を受け取るとすぐに距離を取った。以前より警戒しているというより、自分からルークたちへ近づく気分ではないようだった。
「サーヴァも今日は休む?」
声をかけてみる。
蛇は頭を上げたが、返事の代わりに砂へ潜った。
「……そうだよね。僕が決めることじゃないか」
ルークは追わず、日陰へ戻った。
その様子をイズナがじっと見ていた。
***
昼前、ルークは旅の記録を開いた。
戦闘回数、相手の魔物、使ったスキル、上手くいったことと失敗したこと。湿地で研究者たちの記録を見てから、自分の書き方にも少し変化があった。
以前は成功した方法を残すことが多かった。
最近は、予想が外れた理由も書くようにしている。
たとえば、プルに六本の触手で六匹を捕まえてもらおうとした試み。
実際には、動く敵を安定して拘束するには一本では足りない場合が多かった。それより身体を地形に沿って広げ、敵を一か所へ集める方が効率的だった。
同じスキルでも、使い方は一つではない。
「進化も、そうなのかな」
何気なく口にすると、近くで休んでいたイズナの耳が動いた。
ルークは顔を上げる。
「ごめん。独り言だよ」
イズナは視線を逸らさなかった。
その様子を見て、ルークは記録帳を閉じた。
「……進化のこと、少し考えてたんだ」
湿地を出る前に現れた二つの進化候補。
【双尾狐】と【妖狐】。
通常進化か、特殊進化か。
能力の説明を読む限り、どちらもイズナに合っているように思えた。
双尾狐は、今の幻惑と隠密を順当に伸ばす進化。
妖狐は、妖術という新しい適性を開く進化。
けれどイズナは、まだ選ばなかった。
ルークも、その判断を尊重している。
「どっちが強いかだけなら、僕も色々比べられると思う。でも、イズナがどうなりたいかまでは分からないんだよね」
イズナは前脚を揃えたまま、じっとこちらを見ている。
「妖狐になれば今までにないことができるかもしれない。でも、双尾狐の方が今の得意なことを伸ばせる可能性もある。どっちが正解なのか、まだ僕には分からない」
そう話しながら、ルークは少し考えた。
自分は本当に、イズナの選択を待っているだけなのだろうか。
新しい進化先が見つかった時、心のどこかで妖狐を選んでほしいと思っていた。
珍しい進化。
新しい能力。
未知の成長。
魔物の育成が好きなルークにとって、それらはどうしても魅力的だった。
「……僕、ちょっと妖狐を見てみたいって思ってたかもしれない」
イズナの耳が片方だけ傾く。
「ごめん。選ぶのはイズナなのにね」
そう言うと、イズナはゆっくり立ち上がった。
ルークへ近づく。
足元まで来ると、その横を通り過ぎた。
「え?」
向かった先は、岩場の端だった。
そこには、サーヴァが潜った砂地がある。
イズナは砂の前で一度立ち止まり、それから岩の裏側へ姿を消した。
ルークは首を傾げた。
「……何か見つけたのかな」
レイが片目を開く。
「見てこい」
「休む日なんだけど」
「歩くだけなら平気だろ」
それもそうだった。
***
岩の裏側には、日陰から続く細い砂地があった。
風が弱く、表面には小さな虫の足跡が残っている。よく見ると、途中から細い一本の線が加わっていた。
サーヴァが這った跡だ。
その先で、イズナが立ち止まっている。
ルークが近づくと、小狐は前脚で砂を軽く掻いた。
「サーヴァ?」
砂が僅かに動いた。
次の瞬間、小さな頭が飛び出してくる。
ただし、ルークを見た途端に再び潜ろうとした。
「待って、何もしないよ」
声をかけたが、蛇は止まらなかった。
イズナがその前へ回り込む。
すると、サーヴァは方向を変え、別の場所へ潜る。
イズナは追わない。
その場に伏せ、ただ砂を見ていた。
しばらくすると、少し離れた場所からサーヴァが顔を出す。
今度はイズナの背後だった。
ルークはその動きを見て、ようやく気づいた。
「もしかして、隠れる練習?」
イズナの耳がこちらへ向く。
肯定しているようにも見える。
けれどサーヴァにそんなつもりがあるのかは分からない。
試しにルークがしゃがみ、砂の上に残った跡を観察した。
サーヴァは潜砂を使っていても、移動した直後には表面が僅かに盛り上がる。その線を追えば、どちらへ進んだかはある程度分かった。
「イズナなら、気配を消したままもっと自然に動けるんだよね」
小狐は何も答えない。
代わりに、すっと身体の輪郭が薄くなった。
そのまま三歩ほど移動したはずなのに、ルークには途中の動きがほとんど見えなかった。
「相変わらずすごいな……」
サーヴァも頭を持ち上げている。
イズナはもう一度、今度はゆっくり歩いた。
砂に足跡は残る。
しかし、足を置く場所を選んでいた。
硬い部分。
岩の影。
既に風で乱れた砂の上。
姿を隠すだけではなく、通った痕跡そのものを減らしている。
サーヴァはそれを見たあと、再び砂へ潜った。
少し進む。
途中で止まる。
引き返す。
先ほどと違い、砂の盛り上がりがほとんど一直線に残らなかった。
「……真似した?」
ルークは思わず身を乗り出した。
するとサーヴァがこちらへ頭を向ける。
警戒された。
「あ、ごめん」
一歩下がる。
イズナはそんな二匹を見比べ、何事もなかったように尾を揺らした。
ルークはその場に座り、しばらく二匹の様子を眺めた。
どうやらイズナは、サーヴァに何かを教えようとしているらしい。
ただし、サーヴァが素直に従っているわけではなかった。
イズナが近づけば逃げる。
逃げたあと、離れた場所からまた覗く。
自分から近づくこともあれば、突然いなくなることもある。
それでも、さっきより砂の動かし方が少しだけ変わっていた。
ルークは記録帳を取り出そうとして、やめた。
今は記録するより、見ていたかった。
***
午後になると、岩陰には長い影が落ち始めた。
砂漠の入口とはいえ、日差しが和らげば風は涼しい。ルークは水を飲み、身体を伸ばしたあと、再び仲間たちの様子を見回した。
ソラは岩の上で眠っている。
レイは相変わらず周囲の音を聞きながら休み、プルは触手で小石を転がして遊んでいた。
ただ、よく見ると小石は六つある。
それぞれ違う方向へ転がし、一つも一定の範囲から出さないようにしている。
「……休みの日まで練習してる」
プルはこちらに気づくと、触手を一本上げた。
「ほどほどにね」
「ぷるっ」
返事は元気だったが、五つ目の石が転がりすぎてルークの足元へ届いた。
プルが慌てて回収する。
ルークは笑いを堪えながら石を返した。
「今のは失敗だね」
「ぷるる……」
不満そうな声が返ってきた。
だが、すぐにまた六つの石を並べ始める。
誰に言われたわけでもない。
プル自身が、もっと上手くなりたいと思っている。
ルークは少し嬉しくなった。
自分が訓練を決めなくても、仲間たちは自分で考える。
それは、強くなるための方法を教えることとは違う成長だった。
***
夕食の準備を始める頃、イズナが戻ってきた。
身体には砂がついていたが、疲れている様子はない。ルークの近くへ来ると、少し離れた場所へ座り、一本の尾をゆっくり揺らした。
「サーヴァは?」
イズナは後ろを振り返る。
少し遅れて、岩の陰から小さな頭が出た。
サーヴァだった。
けれど、ルークの方へは来ない。
イズナの後ろで止まり、そのまま身体を丸めた。
「今日はイズナと一緒にいたいのかな」
そう言うと、イズナが一度だけこちらを見た。
嫌がってはいないらしい。
ルークは二匹から少し離れた場所へ乾燥肉を置き、自分の夕食へ戻った。
やがてサーヴァが近づき、肉を咥える。
そのままルークたちから離れようとしたが、途中で止まった。
イズナを見る。
小狐は動かない。
少し迷うように頭を左右へ向けたあと、サーヴァはイズナから二歩ほど離れた場所で肉を食べ始めた。
ルークは何も言わなかった。
名前をつけたからといって、サーヴァが自分に一番懐く必要はない。
レイと気が合うかもしれない。
プルを頼るかもしれない。
ソラを怖がるかもしれない。
そして、イズナのそばが一番落ち着くのかもしれない。
それでいいと思った。
「楽しそうだな」
レイが言った。
「うん。今日は休むだけの日になると思ってたけど、色々見られたよ」
「何か分かったか」
ルークは少し考えた。
「僕が教えなくても、みんな勝手に上達していくってことかな」
「今さらだな」
「そう言われると思った」
ルークが笑うと、レイも僅かに口元を緩めた。
***
夜、焚き火の前でルークは久しぶりにイズナの進化候補を確認した。
表示は変わっていない。
【通常進化候補:双尾狐】
【特殊進化候補:妖狐】
【進化意思:未確定】
どちらも選択可能なままだった。
ルークは表示を閉じ、隣で伏せるイズナを見た。
「今日、サーヴァに隠れ方を見せてたでしょ」
イズナの耳が動く。
「上手だったね。僕、途中からサーヴァの居場所が全然分からなくなったよ」
一本の尾が少し揺れた。
「でも、イズナ自身も何か試してた?」
そう聞くと、イズナはすぐには反応しなかった。
しばらくして、ゆっくり立ち上がる。
焚き火から少し離れた場所へ歩き、そこで身体を振り返らせた。
ルークは何をするのかと見守った。
次の瞬間、イズナの姿が薄くなる。
【気配遮断 Lv.3】。
見慣れた能力だった。
だが、そのまま完全に気配を消すわけではなかった。
輪郭が薄くなった身体の横に、もう一匹のイズナが現れる。
幻惑。
二匹。
どちらが本物か、ルークには分からない。
やがて片方が歩き始め、もう片方はその場に残った。
ルークは動いた方を目で追う。
すると、残った方がふっと消えた。
本物は動いていた方らしい。
「……今の、気配遮断と幻惑を同時に使った?」
イズナは答えず、もう一度同じ位置へ戻った。
今度はルークも注意して見る。
だが、結果は同じだった。
幻と本体の区別がつかない。
以前は、気配を隠す時と幻を見せる時とで、僅かに動きが違っていた。それが今は、ほとんど同じ流れの中で行われている。
「すごいな……」
ルークは素直に感心した。
イズナは得意げに胸を張ることもなく、ただ静かにルークを見つめていた。
そして、視線を少しだけ横へ向ける。
そこにはサーヴァがいた。
小さな蛇は砂の上に身体を伸ばし、イズナの動きをじっと見ている。
ルークはようやく気づいた。
イズナは、ただ進化を迷っているだけではない。
今の自分の力で、まだ何ができるのか試しているのだ。
新しい姿になる前に。
今の身体で、もっと上手くなれるのではないか。
それを確かめているのかもしれない。
「……そうか。進化する前にも、まだできることがあるんだね」
イズナはゆっくり近づいてきた。
ルークの隣へ座る。
一本の尾が、膝へ軽く触れた。
ルークは手を伸ばしかけたが、イズナの様子を見てから、そっと背中を撫でた。
今度は避けられなかった。
焚き火の向こうで、サーヴァがその様子を見ている。
しばらくして、小さな蛇も砂の上へ身体を丸めた。
ルークは焚き火へ薪を一本加え、夜空を見上げた。
今日、誰かのレベルが上がったわけではない。
新しい進化が起きたわけでもない。
それでも、休んでよかったと思う。
明日からまた、戦う。
ルーク自身も、プルも、レイも、ソラも、イズナも。
そしてサーヴァが望むなら、あの小さな蛇も。
けれど今夜だけは、何かを達成しなくてもいい。
焚き火が小さく爆ぜる音を聞きながら、ルークは仲間たちの寝息に耳を傾けた。
明日の朝、また少し違うことを試してみよう。
そう考えるだけで、疲れていたはずの身体が少し軽く感じられた。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございます!
皆さまに楽しんでいただける物語を目指して、これからも丁寧に書き続けていきます。
続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです!
次回もぜひよろしくお願いします!




