第62話「湿地を越えて」
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出発の朝、リューデンは薄い霧に包まれていた。
水路沿いの石畳はまだ濡れており、荷車の車輪が通るたびに小さな水音が響く。湿地の街らしい朝だった。
ルークは宿の前で最後の荷物を確認した。
水袋。
乾燥食。
薬。
包帯。
砂避け用の布。
地図。
そして、黒い棘と透明な液体を入れた小さな容器。
「これで全部かな」
「三回目だぞ」
レイが呆れたように言う。
「忘れ物したら困るでしょ」
「三回見ても忘れる奴は忘れる」
「朝から厳しいなあ」
足元ではプルが身体の一部を袋のように変え、その中へ予備の水袋を三つ収めていた。
吸収しているわけではない。
透明な身体の中に空間を作り、落ちないよう包み込んでいる。
「ぷる」
「うん、それは持ってて大丈夫」
得意げに身体が揺れた。
ソラは宿の屋根から街の外を眺めている。
イズナは荷物には興味がないらしく、門の方向へ身体を向けていた。
一本の尾。
進化候補が現れてからも変わらない姿だ。
ルークはそれを見て、何も言わなかった。
急がせない。
イズナが決めるまでは、それでいい。
南門へ向かう途中。
ルークたちは治療所へ寄った。
長く滞在するつもりはなかった。
それでも、リューデンを出る前に確認したいことがあった。
「昨日よりいいよ」
治療師はそう言って、最新の報告を見せてくれた。
グランドマーシュタートルは自力で少しずつ移動できるようになっている。
まだ長距離は無理。
水流操作も使わせていない。
それでも食事は取ったらしい。
「魔力循環の異常は?」
「残ってる。でも悪化はしてない」
「筋肉は?」
「そこは時間が必要ね」
完全に元通りではない。
けれど。
生きている。
回復している。
それだけで十分だった。
「また見に来てもいいですか?」
「もちろん」
治療師は笑った。
「その頃には向こうの方が元気かもしれないね」
ルークも笑う。
「だったら嬉しいです」
治療所を出る時。
プルが一度だけ奥を振り返った。
ルークは何も言わず、その横を歩いた。
南門を抜ける。
湿地都市リューデンが少しずつ遠ざかる。
最初は水路が多かった。
次第に。
浅い水辺。
柔らかな草地。
乾いた街道。
景色が変わっていく。
昼を過ぎる頃には、靴へ泥がまとわりつくこともなくなった。
「地面、固いね」
ルークが歩きながら言う。
「普通はこっちだ」
レイが答える。
「湿地に慣れすぎたのかな」
ソラは上空。
イズナは街道脇。
プルはルークの隣。
配置も。
歩く速度も。
いつの間にか自然に決まっていた。
以前なら。
少し進むたびにルークが声をかけていた。
ソラへ偵察を頼み。
レイへ匂いを確認し。
イズナの位置を気にして。
プルが離れていないか見る。
今は違う。
ソラは自分で先へ飛ぶ。
レイは立ち止まらず周囲の匂いを拾う。
イズナは姿を消したり現したりしながら、街道脇の死角を確認している。
プルは荷物を運びつつ。
たまにルークの足へ触手を伸ばす。
「楽になったな」
ルークが呟いた。
「何がだ」
「旅するの」
レイは前を見たまま答えた。
「お前が細かすぎただけだ」
「それもあるかも」
否定できなかった。
街道を二時間ほど進んだ頃。
ソラが高い鳴き声を上げた。
一度。
少し間を空けて。
二度。
「前に何かいる」
ルークが止まる。
レイも鼻を上げた。
「四……いや、五匹」
「魔物?」
「ああ」
逃げてくる匂いではない。
待っている。
街道脇。
岩が増え始めた辺り。
「待ち伏せかな」
「たぶんな」
ルークは杖を抜いた。
しかし。
全員を呼び寄せることはしなかった。
「レイ、どうする?」
ダイアウルフの耳が僅かに動く。
「俺とソラで足りる」
「じゃあ任せる」
それだけだった。
街道の曲がり角。
岩陰から獣が飛び出した。
黄土色の毛。
長い牙。
犬に似ているが、前脚だけが異様に太い。
ルークは鑑定する。
【ロックハウンド】
【Lv:9】
五匹。
群れで旅人を襲う魔物らしい。
先頭の一匹がレイへ飛びかかった。
レイは避けなかった。
半歩。
身体を横へずらす。
牙が空を噛む。
その横を。
爪が一度通った。
ロックハウンドの身体が地面へ転がる。
致命傷ではない。
だが立てない。
二匹目と三匹目が左右へ分かれる。
「ピィ!」
上空からソラが落ちた。
急降下。
風が地面へ叩きつけられる。
左の一匹が体勢を崩す。
同時に。
細い風刃が右の個体の前脚の直前を切り裂いた。
地面が割れる。
驚いたロックハウンドが跳び退く。
その着地点。
レイがいる。
一撃。
倒れる。
残り二匹。
そこでようやく。
群れが不利を理解した。
逃げる。
だが。
一匹は右へ。
もう一匹は左へ。
そう思った瞬間。
左へ走った個体が方向を変えた。
そこには何もない。
いや。
ロックハウンドには何か見えている。
イズナの幻だ。
逃げ道をずらされた。
結果。
二匹とも同じ場所へ集まる。
上空から風が落ちる。
正面にはレイ。
逃げ場がない。
戦闘開始から。
二十秒も経っていなかった。
ロックハウンドたちは地面へ伏せ、低く唸っている。
レイは一歩近づいた。
「消えろ」
殺気が消える。
五匹は。
立てる個体を支えるようにしながら。
岩場の奥へ逃げていった。
ルークは杖を下ろした。
結局。
一度も使わなかった。
「本当に二匹で終わった……」
正確には。
イズナも少し手を貸している。
でも。
プルは何もしていない。
ルークも。
「ぷる?」
プルが首を傾げるように身体を変える。
「今回は出番なしだったね」
「ぷる……」
少し萎んだ。
「またあるよ」
すぐ丸く戻る。
単純だ。
レイが戻ってくる。
「遅い」
「何が?」
「判断」
「僕?」
「あいつら」
ルークは笑った。
「逃げるのが?」
「ああ」
ソラも降りてくる。
勝ったことより。
運動を終えたような顔だった。
以前なら。
Lv9が五匹。
十分に警戒する相手だった。
今は。
レイとソラを中心に。
イズナが少し手を貸しただけ。
それで終わった。
「こういうのが普通になっていくのかな」
「弱い奴相手ならな」
レイの返事は冷静だった。
それでいい。
自分たちが強くなったからといって。
世界で一番強いわけではない。
もっと上はいる。
主のような相手も。
その先の存在も。
だからこそ。
今まで苦戦していた相手を軽く越えていく感覚が、ルークには嬉しかった。
夕方。
最初の宿場町へ到着する少し前。
景色はさらに変わった。
草が減る。
岩が増える。
風が乾いている。
プルの身体を触る。
いつもより少し温かい。
「大丈夫?」
「ぷる」
平気らしい。
水袋を一つ取り出し、少し身体へかける。
表面が嬉しそうに震えた。
「やっぱり暑いんじゃない」
「ぷるる」
否定。
でも水は吸収している。
レイが呆れたように見る。
「強がりまで覚えたか」
プルが触手を一本伸ばす。
レイが避ける。
「遅い」
もう一本。
また避ける。
三本目。
イズナの前を通る。
イズナが跳び退く。
ソラが上から鳴く。
いつの間にか。
旅が少し賑やかになっていた。
日が沈む前。
宿場町の屋根が見え始める。
ルークは街道脇へ目を向けた。
岩場。
乾いた土。
少しだけ生えた低い草。
湿地では見なかった景色。
「あと六日くらいか」
ラグナまで。
まだ遠い。
でも。
もう旅は始まっている。
その時。
イズナが急に止まった。
耳が右へ向く。
レイも一拍遅れて顔を上げた。
「何かいる」
「魔物?」
「小さい」
岩の隙間。
そこから。
何かがこちらを見ていた。
細い身体。
砂とほとんど同じ色。
小さな頭。
ルークが一歩近づく。
影はすぐに引っ込んだ。
「蛇……?」
追おうとした瞬間。
レイが首を横へ振る。
「逃げた」
「そっか」
ルークは少し残念そうに岩場を見る。
「初めて見る種類だったかも」
「また見つければいい」
「そうだね」
ルークたちは宿場町へ向かう。
誰も追わなかった。
岩の奥。
人の目が届かない細い隙間で。
小さな蛇は身体を丸めたまま。
遠ざかっていく五つの背中を。
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