第59話「強さの証明」
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人の声は、少しずつ近づいてきた。
レイが鼻を動かし、五人分の匂いを確かめる。その間もルークはグランドマーシュタートルから目を離さなかった。
【限界刺激・停滞】
【出力上限:突破停止】
表示は変わっていない。
主は浅い流れに身体を沈め、長い首を甲羅の横へ下ろしている。呼吸はまだ重いものの、先ほどのように水面が勝手に持ち上がることはなくなっていた。
「このままなら、治療師が来るまで持ちそう」
「なら座れ」
レイが言った。
「まだ何が起きるか――」
「足が震えてる」
言われて、ルークは自分の脚を見る。
確かに膝が僅かに震えていた。
水流を杖で受け流した腕も、今になって重くなっている。
「……ちょっとだけ」
その場へ腰を下ろすと、プルがすぐ隣へ寄ってきた。
「ぷる」
「大丈夫だよ」
触手がルークの腕へ巻きつく。
大丈夫と言ったのに離れない。
イズナは少し離れた場所で座り、尾を前脚へ巻いていた。こちらを見ていないようで、耳だけはルークの声へ向いている。
ソラは主の甲羅より高い枝へ降りた。
街まで往復した直後だというのに、周囲の警戒を続けている。
ルークは四匹を見渡した。
少し前までなら。
この状態でさらに何か襲ってくれば、逃げることを考えていた。
今は違う。
疲れている。
主という大きな存在を守っている。
それでも。
まだ戦えると思えた。
葦が揺れる。
レイが立ち上がった。
「来た」
現れたのは、革の長靴を泥だらけにした五人だった。
先頭には治療所で救出した魔物たちを診ていた治療師がいる。その後ろに助手が二人。
残る二人はギルド職員だった。
「ルーク!」
治療師が息を切らしながら駆け寄ってくる。
「主は!?」
「進行は止まりました。でも高熱と魔力循環異常、筋肉の損傷が残っています」
「棘は?」
「刺さってません」
治療師の表情が変わる。
「刺さっていない?」
「はい。代わりに、研究側が水へ液体を流していました」
ルークは容器を取り出した。
布に包んだ黒い棘。
先端に残る透明な液体。
そして覚えている限り、白い液体を撒かれてから主に起きた変化を順番に説明した。
治療師は途中で質問を挟まなかった。
最後まで聞いてから。
「見せて」
手袋をつける。
ルークが容器を渡した。
「直接触らないでください」
「もちろん」
治療師は黒い棘を持ち上げる。
先端を見る。
匂いを嗅ぐことはせず、小さなガラス板へ透明な液体を僅かに擦り取った。
そこへ助手が薬液を一滴落とす。
透明だったものが、薄い青へ変わった。
治療師の眉が寄る。
「魔力を流しやすくする薬に反応が近い」
「流しやすく?」
「身体の中を通る魔力の抵抗を、一時的に弱める薬があるの。治療にも使う。ただしこれは反応が強すぎるし、同じ物とは言えない」
ルークは主を見る。
魔力循環異常。
力を使おうとしていないのに、水が反応した。
「じゃあ、これを刺されたら……」
「普段なら身体が止める量まで魔力が流れる可能性はある」
治療師は棘を容器へ戻した。
「でも、これだけであの状態になるとは思えない」
「僕もそう思います」
白い液体。
先に主を興奮させたもの。
棘に塗られた透明な液体。
そして黒い棘そのもの。
別々の役割。
ルークの頭の中で、これまで見てきたものが並び始めた。
「治療を始める」
治療師が主へ近づこうとする。
その瞬間だった。
レイが横を向く。
「三匹」
「何が?」
「東から来る」
泥を踏む音。
水を掻く音。
姿を見せたのはマッドリザードだった。
三体。
どれも変異していない。
一番大きな個体でも、南水路で見た異常個体には遠く及ばない。
おそらく騒ぎと弱った主の匂いに引き寄せられたのだろう。
ギルド職員が武器へ手を伸ばした。
「俺たちが――」
「そのままで大丈夫です」
ルークが言った。
自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。
「レイ」
呼んだ時には。
もういなかった。
銀灰色の身体が泥の上を走る。
最初のマッドリザードが口を開くより早く、レイが懐へ入った。
爪が横へ振られる。
【爪撃 Lv.4】
頭ではない。
前脚。
一撃で体勢を崩す。
倒れた個体を飛び越え、二体目の側面へ。
尾を避け。
肩からぶつかる。
巨体が泥へ転がった。
三体目がレイへ向こうとした。
だが。
その視線の先にいるレイは、偽物だった。
灰白色の影が揺らぐ。
「ギャッ?」
マッドリザードが止まる。
本物のレイはもう背後にいた。
低い唸り声。
爪が首筋へ触れる寸前で止まる。
三体とも動けない。
誰も殺していない。
「……終わり?」
ギルド職員の一人が呟いた。
イズナが葦の陰から姿を現す。
尾が一度だけ揺れた。
レイは倒れた魔物たちを見下ろした。
「行け」
言葉が通じたわけではない。
だが殺気を解いた瞬間、一体が立ち上がる。
続いて二体。
三体とも泥を跳ね上げながら逃げていった。
十数秒。
それだけだった。
ルークは何も指示していない。
イズナへも。
レイへも。
二匹が勝手に役割を分けた。
「……強いな」
ギルド職員が思わず漏らす。
レイは振り返りもしなかった。
「遅いだけだ」
「相手が?」
ルークが聞く。
「ああ」
それだけ言って主の警戒へ戻る。
ルークは少し笑った。
以前なら。
マッドリザードが三体も出れば、地形を見て、プルを前へ出し、ソラの位置まで確認していた。
今は。
レイとイズナだけで。
しかも傷つけすぎることなく終わる。
強くなっている。
レベル表示を見るまでもなかった。
治療師たちが主の処置を始める。
身体を無理に動かさず、冷却を続けながら、魔力循環を落ち着かせる。
ルークも助手の指示で水を運んだ。
一時間ほど経つ頃には、主の呼吸はかなり安定していた。
鑑定する。
【グランドマーシュタートル】
【Lv:34】
【状態:筋損傷/魔力循環異常・軽度】
【特殊状態:限界刺激・停止】
高熱が消えた。
「停止……!」
ルークの声に、治療師が頷く。
「ひとまず山は越えたと思う。ただし筋肉はかなり傷んでる。しばらく動かせない」
「治りますか?」
「治るとは思う。でも元通りになるかは、まだ言えない」
ルークは主の前脚を見る。
強くなるために選んだわけではない。
ただ自分の縄張りで生きていただけなのに。
身体へ無理な力を押し込まれた。
助かったから、それで終わりにはできない。
治療師が透明な液体を入れた小瓶を持ち上げる。
「ルーク。あなたが見つけた南水路の記録、もう一度聞かせて」
「通常種での試験はここまで。その次が主級個体、です」
「他には?」
ルークは思い出す。
無理やりLv31まで引き上げられていたマッドリザード。
種族は変わらない。
身体だけが異常に肥大していた。
祖先の観察録に残されていた言葉。
『進化とは呼べない』
そして。
壁に残っていた文字。
『進化』
『誘導』
『適合』
ルークは息を止めた。
「……順番?」
「何が?」
「今まで、全部同じ実験だと思ってました」
治療師が黙る。
ルークは地面へ三本の線を引いた。
「でも違うのかもしれない」
最初。
刺激する。
現在の種族のまま、身体が止めるはずの出力を越えさせる。
次。
その状態に耐えられる個体を選ぶ。
適合。
そして。
「最後に……進化?」
自分で言って、背中が冷えた。
研究側は。
無理やり強くするだけではない。
その先を見ている。
「進化条件を満たすまで待たないんだ」
経験。
行動。
環境。
信頼。
本人の選択。
本来ならいくつもの積み重ねが必要になる。
それを全部飛ばして。
身体だけを先へ押し込む。
限界を壊し。
無理やり次の段階へ届かせようとしている。
治療師はすぐには答えなかった。
やがて。
「仮説としては筋が通る」
と言った。
「でも証拠は足りない」
「はい」
ルークも頷く。
まだ答えではない。
だが。
今までばらばらだったものが、一つの流れとして繋がり始めていた。
夕方。
グランドマーシュタートルは浅瀬で眠っていた。
治療班の二人が残り、夜まで様子を見ることになった。
街へ戻る前。
ルークは最後に主を鑑定する。
【限界刺激・停止】
変わらない。
「よかった」
「今度こそ言っていいな」
レイが隣で言う。
「何が?」
「よかった、だ」
ルークは一瞬目を丸くしてから笑った。
「うん」
今度は。
本当に。
プルが「ぷるる」と跳ねる。
ソラはルークの肩へ降りる。
イズナは少し離れた場所から主を見たあと、こちらへ歩いてきた。
その瞬間。
ルークの視界に、小さな表示が浮かんだ。
イズナではない。
共生契約を通して見える、進化情報。
【進化条件の更新を確認】
ルークは足を止めた。
灰白色の小狐が振り返る。
その一本の尾が。
ゆっくりと揺れていた。
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