第58話「限界を止める」
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ルークと魔物たちの物語は、まだまだここからです。
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ソラが泥の上へ降りるより早く、ルークは走り出していた。
「ソラ!」
「ピィ!」
翼を畳んだゲイルホークが、差し出された腕へ飛び乗る。呼吸は少し荒いが、怪我はない。
「ありがとう。間に合った」
脚に結ばれた白い布を外すと、内側に黒い文字が並んでいた。
紙では湿地まで持たないと判断したのだろう。短い文章だけが、太い線で書かれている。
『薬液接触の可能性あり』
『高熱時は魔力を使わせるな』
『汚染した水から離し、可能なら清水で洗浄』
『無理に水を飲ませるな』
『治療班は深部入口へ向かう』
最後に、小さく付け足されていた。
『原因が不明な以上、薬は使うな』
ルークはそこを二度読んだ。
「やっぱり……力を使わせないのは間違ってなかった」
「答え合わせしてる暇はないぞ」
レイが主を見る。
「うん」
グランドマーシュタートルの周囲では、水がまた浮き始めていた。
【出力上限:突破開始】
さっき現れた表示は消えていない。
主の脚は震えている。
それでも魔力だけが、身体へ次の力を要求している。
「汚染した水から離す……」
ルークは足元を見る。
ここも湿地だ。
どこまで白い液体が流れているか分からない。
水場で撒かれていた量は多くなかったが、水路は繋がっている。
「レイ。甘い匂いは?」
レイが鼻を動かす。
「ここにもある。薄いがな」
「方向は?」
数秒。
レイが北西を向いた。
「そっちはほとんどない」
ルークも見る。
少し高くなった地面。
太い木々の根が張り出し、その間を細い水が流れている。
深い泥も少ない。
「ソラ、上から見てきて。北西に、流れのきれいな場所があるか確認して」
「ピィ!」
ソラはすぐ飛んだ。
指示を聞き終わる前から、翼が開いていた。
グランドマーシュタートルが動く。
前脚が泥を押した。
水が膨れる。
「動かすな」
レイが言った。
次の瞬間、銀灰色の身体が走った。
主の右前方。
攻撃の届くぎりぎり外。
そこで急停止する。
グランドマーシュタートルの眼がレイへ向いた。
「イズナ、反対」
ルークが言う前に、レイが短く指示した。
イズナの耳が立つ。
すぐに左側へ走る。
途中で姿が消えた。
数秒後、主の左前方へ灰白色の狐が現れる。
幻だ。
右にレイ。
左に幻。
どちらを見るか迷った主の動きが、一瞬止まる。
その一瞬で。
「プル、前脚!」
「ぷる!」
六本の触手が走った。
二本は木の根へ。
二本は地面へ。
残る二本が主の前脚近くへ伸びる。
巻きつかない。
足首を締めつけもしない。
ただ、踏み出そうとした場所の泥をすくい上げ、さらに深くする。
主が一歩を出そうとする。
前脚が沈む。
踏ん張れない。
水は動かない。
「いい!」
ルークは杖を握ったまま、周囲を見る。
誰も主へ攻撃していない。
それなのに。
動きを止められている。
さっきまでは暴走した力を受け止めていた。
今は違う。
力を出す前に。
そのきっかけを消している。
主が首を上げた。
口元へ水が集まりかける。
「ソラ!」
呼ぶ必要はなかった。
戻ってきたソラが、そのまま主の頭上を横切った。
翼が大きく振られる。
【風纏 Lv.1】
集まり始めた水の表面が崩れた。
一度。
さらに旋回。
二度目の風。
水塊は形になる前に周囲へ落ちる。
「ピィ!」
ソラが北西へ飛びながら鳴いた。
一度だけ。
その先には、木の根に囲まれた浅い流れがある。
水が澄んでいる。
「見つけたんだ」
ソラが大きく翼を開く。
肯定。
「よし。そこまで動かす」
「動かすなと言ったばかりだろ」
レイが振り返る。
「大きく動かさない。少しずつ」
ルークは主を見る。
「一気に歩かせれば、また力が出る。だから一歩ずつ」
レイは一瞬だけ黙った。
「面倒だな」
「主に言って」
「聞くと思うか?」
「思わない」
レイが鼻を鳴らした。
それでも。
方法はあった。
主を押す必要はない。
追い立てる必要もない。
進んでほしい方向以外を、選びにくくすればいい。
「イズナ、右側を嫌がらせて」
灰白色の狐が尾を振る。
右側の葦が激しく揺れた。
何か大型の魔物がいるような幻。
グランドマーシュタートルの眼がそちらへ向き、首を引く。
左側にはレイ。
真正面だけが空く。
主が一歩。
前脚を出す。
「プル、まだ」
ルークは地面を見る。
脚が沈む。
だが大きな踏み込みではない。
水も反応しない。
二歩目。
その前にレイが動く。
「止めろ」
主の前を横切る。
グランドマーシュタートルが立ち止まった。
休ませる。
呼吸を整える。
また一歩。
今度はイズナが幻を消す。
代わりに少し後ろへ現れ、主の視線を戻す。
プルは泥を均している。
主が踏み込む場所だけを少し固くし、その先はまた柔らかくする。
歩幅を作っている。
「……すごい」
ルークは思わず呟いた。
「誰がだ」
「みんな」
レイは答えなかった。
その間にも、主が踏み込みすぎそうになる。
「プル、左を狭めろ」
今度はレイの声。
「ぷる!」
ルークが指示を出す必要はなかった。
プルが触手を動かす。
イズナもレイの位置を見て、自分から反対側へ回る。
ソラは上空で旋回しながら、主の口元へ水が集まるたび風を送る。
一人ずつ動かしていた頃とは違う。
一つの目的を共有して。
それぞれが、自分の役割を選んでいる。
北西の浅瀬まで、距離にすれば大したことはなかった。
だが二十歩ほど進むのに、かなりの時間を使った。
最後の一歩。
グランドマーシュタートルが澄んだ流れへ前脚を入れる。
「止めて」
レイが前へ。
イズナが幻を出す。
主はそこで立ち止まった。
「プル、今度は冷やしたい」
「ぷる?」
「水をぶつけるんじゃなくて、身体へ流す。甲羅の隙間と脚。ゆっくり」
プルが流れへ触手を伸ばす。
一度、水をすくう。
そのまま主へ持っていく。
グランドマーシュタートルが反応した。
首が動く。
「待って」
ルークはプルを止めた。
嫌がっている。
無理にかければまた暴れる。
「もっと遠くから」
プルが触手を細くした。
先端だけを流れへ浸し、吸い上げるように水を身体へ通す。
その水を、別の触手の先から少しずつ落としていく。
ぽた。
ぽた。
最初は主の甲羅の端。
反応しない。
次は後脚。
少しだけ身体が震える。
だが暴れない。
「その速さ」
プルが続ける。
冷たい水が赤く熱を持った鱗を流れていく。
一度に大量ではない。
少しずつ。
熱を奪って。
流れ落ちた水を、また別の触手で外側へ押し出す。
「ぷる……」
プルの身体が真剣そうに細かく揺れている。
六本の触手のうち。
二本で清水を運ぶ。
一本で排水。
二本で足場を固定。
最後の一本はルークの近くに残している。
いつでも守れるように。
ルークはそれに気づいて、何も言わなかった。
「レイ」
「何だ」
「匂いは?」
レイが主の周囲を回る。
少し時間をかける。
「薄くなった」
「本当に?」
「ああ。さっきよりはな」
主の体表についていた薬液が、流れ始めている。
身体の中に入った分までは分からない。
それでも。
外から加わり続ける刺激を減らせるなら意味はある。
「ソラ、風は弱く」
「ピィ」
強い風では主を驚かせる。
ソラが高度を下げる。
翼をゆっくり動かす。
甲羅の上を風が通る。
水。
風。
休息。
それだけだ。
特別な薬はない。
万能な治療もない。
今分かっていることを。
一つずつ反対にしているだけだった。
時間が過ぎる。
ルークは何度目か分からない鑑定を使った。
【グランドマーシュタートル】
【Lv:34】
【状態:高熱/魔力循環異常/筋損傷】
【特殊状態:限界刺激・進行】
【出力上限:突破開始】
変わらない。
「まだ……」
焦りが出る。
これで駄目なら。
次は何をする。
透明な液体を調べる。
治療班を待つ。
もっと身体を冷やす。
いや。
冷やしすぎても駄目かもしれない。
ルークの思考が速くなる。
「ルーク」
レイが呼ぶ。
「何?」
「主を見ろ」
表示ではなく。
主を見る。
グランドマーシュタートルの首が、水面近くまで下がっていた。
さっきまでの荒い呼吸ではない。
ゆっくり。
一度。
また一度。
前脚の震えも小さくなっている。
ルークは息を吐いた。
「……そうだ」
鑑定だけ見ていた。
状態表示が変わる前に。
身体は変わり始める。
ルークは主の呼吸を数えた。
少し待つ。
もう一度、鑑定。
【グランドマーシュタートル】
【Lv:34】
【状態:高熱/魔力循環異常/筋損傷】
【特殊状態:限界刺激・停滞】
【出力上限:突破停止】
「……止まった」
ルークの声が掠れた。
プルが触手を止める。
「ぷる?」
「止まったよ」
もう一度表示を見る。
変わらない。
【限界刺激・停滞】
進行ではない。
【出力上限:突破停止】
成功した。
完治ではない。
高熱も。
筋損傷も。
魔力循環異常も残っている。
それでも。
壊れ続ける状態からは抜けた。
「やった……!」
ルークが拳を握る。
プルが跳ねた。
「ぷるっ!」
イズナの尾が一度大きく振られる。
ソラが低空を旋回し、得意げに鳴いた。
「ピィ!」
レイだけは主を見ている。
「喜ぶのはまだ早い」
「分かってる」
「本当に?」
「今だけは少しくらいいいでしょ」
レイがルークを見る。
数秒。
「少しだけだ」
それだけ言って、また主へ顔を戻した。
ルークは笑った。
戦って。
倒したわけではない。
けれど。
Lv34の主が、自分でも制御できないほどの力を暴走させていた。
それを。
誰一人倒れず。
主自身も殺さず。
止めた。
少し前の自分たちなら、できなかった。
誰か一匹が強くなったからでもない。
プル。
レイ。
ソラ。
イズナ。
そして自分。
全員が、以前よりできることを増やした結果だった。
遠くから人の声が聞こえた。
複数。
治療班だろう。
レイが鼻を動かす。
「人間。五人」
「治療師?」
「知らん。街の臭いはする」
主はもう暴れない。
ルークは杖を地面へ置いた。
ようやく。
肩の力を抜ける。
だが視線の先。
グランドマーシュタートルの前脚には、薄い赤みが残っている。
強制的に引き出された力。
身体が耐えられない出力。
止めることはできた。
なら次に知るべきなのは。
なぜこんなことが起きたのか。
そして。
研究側は、この先に何を起こそうとしていたのか。
ルークは布に包んだ黒い棘へ手を添えた。
今度は追いかけるだけでは終わらない。
ここまで分かったものを全部持ち帰って。
次は、相手が何を作ろうとしているのかを突き止める。
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