第57話「暴れさせない戦い」
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ルークと魔物たちの物語は、まだまだここからです。
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グランドマーシュタートルは泥へ伏せたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
動けなくなっただけで、異常が止まったわけではない。
その証拠に、首の根元から前脚へ続く鱗の隙間は、先ほどより赤みを増している。水面も主の呼吸に合わせるように、小さく波打っていた。
ルークは鞄へ入れた容器に目を落とした。
黒い棘の先に残っている透明な液体。
これを調べれば何か分かるかもしれない。
だが、今ここで確かめられることは少ない。
「使わせない」
ルークは顔を上げた。
レイが横を見る。
「何をだ」
「力」
主の状態が悪化したのは、水流を何度も使った後だった。
偶然とは思えない。
「薬が身体を無理やり動かそうとしてるなら、僕たちがやることは逆だ。できるだけ何もさせない」
「暴れる奴を休ませろ、と?」
「うん」
「簡単に言う」
「僕もそう思ってる」
レイが鼻を鳴らした。
それでも反対はしなかった。
主の前脚が動いた。
泥に深く沈んだ爪が、ゆっくり持ち上がる。
「来る」
レイが低く告げる。
ルークは杖を握り直した。
「イズナ、まだ出ないで」
灰白色の耳が動く。
「プルも防ぐのは最後。先に動きを見よう」
「ぷる」
グランドマーシュタートルが身体を起こした。
さっきまでとは違う。
立ち上がろうとしているのに、脚が揃っていない。
右前脚が先。
左後脚が遅れる。
巨大な甲羅が傾いた。
主自身が慌てたように首を振る。
その動きに反応して、水面が膨らむ。
「やっぱり」
ルークは息を呑む。
意識していなくても魔力が反応している。
身体を動かす。
驚く。
力が漏れる。
漏れた力にまた驚く。
それでさらに暴れる。
悪循環だ。
「レイ、近づかないで!」
「分かってる」
主が一歩進んだ。
水が盛り上がる。
二歩目。
さらに大きくなる。
「イズナ!」
ルークが右側を指す。
イズナが走った。
途中で姿が薄くなり、消える。
数秒後。
主から十分に離れた浅瀬に、小さな波紋が生まれた。
次に。
そこへ一匹の狐の幻が現れる。
動かない。
逃げない。
ただ座っている。
主の眼がそちらを向いた。
「そのまま」
イズナ自身は見えない。
幻だけが残る。
追わせるためではない。
見る場所を作る。
それだけだ。
グランドマーシュタートルの脚が止まった。
水面の膨らみも少しずつ沈んでいく。
「効いてる」
攻撃を避けるための幻惑ではない。
相手の意識を落ち着かせるための幻惑。
イズナの尾が、離れた葦の陰で僅かに揺れた。
だが長くは続かなかった。
主の頭が急に上がる。
身体の奥から突き上げるように震えた。
幻を見る余裕が消える。
水面が持ち上がる。
「プル!」
「ぷるっ!」
六本の触手が広がる。
今度は盾にならない。
二本が倒木。
二本が太い根。
残る二本がグランドマーシュタートルの左右へ伸びた。
身体へ巻きつけない。
前脚の少し先へ突き立て、進める方向を狭くする。
主が右へ動こうとすれば、右側の触手が地面を叩く。
左なら左。
壁ではない。
目印だ。
「正面だけ開けて!」
「ぷる!」
逃げ道を完全に塞げば、主は力ずくで破ろうとする。
だから一つだけ道を残す。
しかしその先には、柔らかい泥と深い水がある。
走れない。
大きく踏み込めない。
「そっちなら動いても力を出しにくい」
主が一歩進む。
前脚が泥へ深く沈んだ。
二歩目は小さい。
甲羅がほとんど揺れない。
水流も起きなかった。
レイがルークを見る。
「最初からここに入れればよかったな」
「今分かったんだから仕方ないよ」
「次は先に分かれ」
「無茶言わないでよ」
それでも。
ルークは少し笑った。
言い返せる余裕が戻った。
主を刺激しない距離を保ちながら、ルークは動きを観察した。
歩幅を小さくすると、水流は起きにくい。
首を急に振ると、水が反応する。
前脚へ力を入れた時が最も危ない。
「大きい動きが駄目なんだ」
薬が魔力そのものを増やしているのか。
身体から引き出しているのか。
そこまでは分からない。
ただ。
本来なら意識して使うはずの力が、身体の動きに勝手についてきている。
「だからマッドリザードも身体が壊れたのか……」
限界を超えた力を出せるようにする。
その代わり。
身体が止めるはずのところで止まれない。
主の脚を見る。
赤みはまだある。
だが急激には広がっていない。
ルークは鑑定した。
【グランドマーシュタートル】
【Lv:34】
【状態:高熱/魔力循環異常/筋損傷】
【特殊状態:限界刺激・進行】
変化なし。
良くなってはいない。
けれど悪化もしていない。
「時間を稼げてる」
レイが周囲を見渡す。
「どれくらいだ」
「分からない」
ソラを送り出してから、まだそれほど時間は経っていない。
ゲイルホークになったソラなら街までは早い。
だが治療師が湿地深部まで来るには、当然もっと時間がかかる。
それまで持たせる。
簡単ではない。
主が突然首をこちらへ向けた。
ルークは反射的に動きかける。
だが止まった。
逃げれば追うかもしれない。
杖も上げない。
ただ立つ。
「僕はここ」
グランドマーシュタートルの眼が細くなる。
ルークを見ている。
敵だと判断しているのか。
それとも、ただ動く物を見ているだけなのか。
分からない。
レイが前へ出ようとする。
「待って」
ルークが止めた。
「今は見てるだけ」
「噛まれてからじゃ遅いぞ」
「そこまで来たら逃げる」
「間に合えばな」
主が一歩。
こちらへ。
ルークの背中に汗が流れる。
もう一歩。
距離が縮まる。
プルの身体が膨らんだ。
イズナの耳が伏せる。
「まだ」
ルークは動かない。
三歩目。
そこで主が止まった。
長い首が下がる。
鼻先が水面近くまで来た。
荒かった呼吸が、僅かに遅くなる。
「……戦いたくないのは、君も同じだよね」
返事はない。
当たり前だ。
だが主は襲ってこなかった。
しばらくルークを見た後、ゆっくり顔を逸らした。
レイの肩から力が抜ける。
「寿命が縮む」
「僕も」
「ならやるな」
「でも、動いたらまた水が出そうだったから」
「お前はたまに面倒だ」
「知ってる」
プルが「ぷるる」と小さく鳴いた。
同意された気がした。
しばらくは上手くいった。
グランドマーシュタートルは柔らかい泥の中で、大きく動かない。
イズナの幻が視線を誘導する。
プルが進路を限定する。
レイが周囲を警戒しながら、必要な時だけ主の前へ姿を見せる。
ルークは指示を出す回数を減らした。
三匹が自分で動き始めていたからだ。
主が右へ寄れば、プルが先に右を狭める。
視線が落ち着かなくなれば、イズナが幻を出す。
大きく踏み込みそうになれば、レイが別方向から存在を示して止める。
「……僕いらなくない?」
レイがすぐ答えた。
「黙って見てろ」
「はい」
それでも悪い気はしなかった。
全部を命令しなくても。
仲間が同じ目的を理解して動く。
それは、ルークが目指していた形の一つだった。
異変は突然起きた。
グランドマーシュタートルの呼吸が止まる。
一秒。
二秒。
三秒。
「……主?」
次の瞬間。
巨大な甲羅の下から、低い音が響いた。
心臓の鼓動にも似ていた。
一度。
泥が震える。
二度。
水面が波打つ。
三度目。
主の全身が跳ねた。
「離れて!」
ルークが叫ぶ。
グランドマーシュタートルの身体から魔力が噴き出した。
目には見えない。
だが水面が一斉に外側へ押し広げられる。
プルの触手が外れる。
イズナの幻が消える。
レイが泥を削りながら後退した。
「何だ!」
「分からない!」
主が苦しそうに首を持ち上げる。
鱗の隙間。
赤かった部分が暗く変わっていく。
黒ではない。
濃い紫。
ルークは鑑定した。
文字が現れる。
【グランドマーシュタートル】
【Lv:34】
【状態:高熱/魔力循環異常/筋損傷】
【特殊状態:限界刺激・進行】
その下。
今までなかった一行。
【出力上限:突破開始】
「まずい……!」
Lvは変わっていない。
進化もしていない。
それなのに。
身体が、本来出してはいけない力へ踏み込み始めている。
グランドマーシュタートルが咆哮した。
水面が丸ごと持ち上がる。
今までとは規模が違う。
「プル、守らなくていい!」
「ぷる!?」
「全部は無理だ! 動けるようにして!」
プルの身体が一瞬迷う。
その間にレイが叫んだ。
「プル、ルークの足だけ取れ!」
「ぷるっ!」
触手一本がルークの腰へ。
もう一本がイズナへ。
残りは地面へ固定。
レイは自分で走る。
ルークは一瞬だけ目を見開いた。
自分が言う前に。
レイが役割を割り振った。
「来るぞ!」
水が落ちる。
巨大な壁のように。
「全員、伏せて!」
プルが触手を縮める。
ルークとイズナの身体が泥の低い場所へ引き込まれた。
レイも地面へ伏せる。
水が頭上を通った。
轟音。
葦が折れ。
倒木が流される。
数秒後。
ルークは泥の中から顔を上げた。
「みんな!」
「俺はいる」
「ぷるっ!」
イズナも少し離れた場所で立ち上がる。
全員無事。
だが。
主は違った。
大きな水流を放った反動で、前脚が崩れている。
甲羅が泥へ傾いた。
それでも身体は止まらない。
魔力だけが次の力を引き出そうとしている。
「休ませるだけじゃ止まらない……」
ルークは立ち上がった。
ここまで悪化させないよう抑えてきた。
その判断は間違っていない。
だが薬の作用そのものは、身体の中に残っている。
時間を稼ぐだけでは足りない。
次は。
本当に止める方法が必要だった。
その時。
遠くから。
高い鳴き声が聞こえた。
「ピィィ――!」
ルークが空を見る。
葦の向こう。
一羽の鳥影が、こちらへ真っ直ぐ飛んでくる。
「ソラ!」
ゲイルホークが翼を畳み、湿地の上を滑るように近づいてくる。
その脚には。
送り出した時にはなかった、小さな白い布が結ばれていた。
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