第55話「残った刺激」
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黒い棘を容器へ収めても、ルークはすぐには立ち上がらなかった。
透明な液体が付着していた先端。
主を誘い出すために水へ撒かれていた白い液体。
どちらも、まだ正体は分からない。
ただ一つだけ確かなのは、研究側が黒い棘だけに頼っていないということだった。
「レイ。あの人たちの匂いは?」
「遠ざかってる」
レイは南東へ鼻を向ける。
「追えるが、追えば主から離れる」
「……追わない」
迷いはあった。
ここで追えば、研究側の拠点へ繋がるかもしれない。
捕まえられるかもしれない。
だが、ルークたちがここへ来た目的は人間を追うことではない。
水面の向こう。
グランドマーシュタートルの背中は、まだ見えていた。
ゆっくり北へ進んでいる。
「少しだけ後を追おう」
レイが振り返る。
「さっき帰すと言っただろ」
「帰すんじゃなくて、離れてもらいたかったんだよ」
「同じに聞こえる」
「僕の中では違うんだ」
レイが鼻を鳴らした。
それ以上は言わない。
「棘は刺さらなかった。でも、あの白い液体を含んだ水には触れてる。様子だけ確認したい」
プルが「ぷる」と頷くように揺れた。
イズナもすでに北へ耳を向けている。
ソラだけは枝の上から南東を睨んでいた。
研究側が戻ってこないか見ているらしい。
「ソラも行こう。上から周りを見てて」
「ピィ」
短く鳴き、翼が開いた。
グランドマーシュタートルとの距離は十分に取った。
近づきすぎれば、また攻撃される。
かといって見失えば意味がない。
主の巨体は追跡には向いていた。
水面から甲羅の上部だけでも見える。
進んだ後には葦が左右へ分かれ、濁った水に太い道が残る。
「本当に大きいな」
ルークは何度見ても驚く。
あの身体でLv34。
無理に膨らませたマッドリザードとは違う。
一歩動くための脚。
甲羅を支える胴。
首を振る筋肉。
全部が長い時間をかけて、その強さに合うよう育っている。
だからこそ壊させたくなかった。
十分ほど進んだ頃。
先を歩いていたレイの耳が立った。
「止まった」
ルークも足を止める。
百歩ほど先。
グランドマーシュタートルが浅瀬の中央で動きを止めている。
休んでいるだけにも見えた。
だが。
「変だ」
「何が?」
「呼吸」
レイに言われ、ルークは目を凝らした。
長い首が上下している。
ゆっくりではない。
何度も。
口も僅かに開いている。
ルークは鑑定した。
【グランドマーシュタートル】
【Lv:34】
【状態:興奮/体温上昇】
【甲殻 Lv.4】
【水流操作 Lv.3】
【泥地適応 Lv.4】
「体温上昇……?」
先ほどはなかった。
黒い棘は刺さっていない。
身体にも黒い変色は見えない。
それなのに状態が変わっている。
「近づく?」
レイが聞く。
ルークは首を横へ振った。
「まだ」
助けようとして刺激すれば逆効果だ。
まず見る。
主が前脚を一歩出した。
その瞬間。
水面が大きく盛り上がった。
「伏せて!」
主の周囲から四方へ水が弾ける。
攻撃ではない。
狙いがない。
自分の身体から溢れたような水流だった。
数秒後。
何事もなかったように水が落ちる。
グランドマーシュタートル自身も首を動かし、周囲を見た。
まるで。
自分でも何が起きたのか分かっていないように。
「水流操作……」
ルークが呟く。
さっきまでの攻撃では、明確に水を動かしていた。
今のは違う。
意図せず出た。
「力が漏れてる?」
「南水路の奴と同じか」
レイの声が低くなる。
「いや」
ルークはすぐ否定した。
「まだ違う」
マッドリザードは身体そのものが異常に成長していた。
主には変化がない。
Lvも34のまま。
黒い変色もない。
でも。
何かが始まっている。
「……白い液体」
ルークは振り返った。
少し前。
研究側が水へ流していたもの。
男たちは口元を布で覆っていた。
小型の沼蛙は一斉に逃げた。
主だけが寄ってきた。
ルークは、あれを誘い出すための薬だと思っていた。
「違ったのかもしれない」
「何がだ」
「あれは主を呼ぶだけじゃなかった」
誘い出す。
興奮させる。
身体へ何かを起こす。
その全部を同時に行っていたとしたら。
棘を刺す前から処置は始まっていたことになる。
ルークの指が強く握られた。
「僕、止められたと思ってた」
棘は外した。
研究側も撤退した。
主も誘導地点から離れた。
だから。
一度は守れたと思った。
だが研究側は、ルークたちが来る前から水へ薬を入れていた。
「知らなかったものまで止められるわけがない」
レイが言う。
慰めている口調ではない。
事実を言っているだけだ。
「うん」
それでも悔しかった。
知らなかった。
だから仕方ない。
それで終われば、次も同じことが起きる。
ルークは主を見る。
「じゃあ、今から知る」
レイの耳が僅かに動いた。
グランドマーシュタートルは再び進み始めた。
だが先ほどより遅い。
時折足を止める。
水を飲もうとして口を下げ、すぐ顔を上げた。
苦しそうというほどではない。
それでも普段通りではなかった。
ルークは距離を保って後を追う。
「プル、さっきの水、覚えてる?」
「ぷる?」
「白い液体が入ってた場所」
プルの身体が揺れた。
覚えているらしい。
「触ってないよね?」
「ぷるる」
触手を横へ振る。
よかった。
棘を拾った時も、直接触れさせなかった。
なら今のところ、仲間への影響はなさそうだ。
イズナにも変化はない。
ソラも上空を普段通り飛んでいる。
「主だけに効く薬なのかな」
依頼書に書かれていた条件を思い出す。
高Lv。
同種との争いに勝った。
傷の治りが早い。
毒性環境へ適応する。
研究側は魔物を無差別に選んでいなかった。
反応する個体。
耐えられる個体。
先へ進める個体。
選んでいる。
なら。
白い液体も、どんな魔物にでも同じように効くとは限らない。
「適合……」
古い施設に残っていた言葉が頭へ浮かぶ。
適合。
あれは単に進化しやすいかどうかを示す言葉だと思っていた。
だが。
薬に耐えられるか。
棘に耐えられるか。
強制された出力に耐えられるか。
いくつもの段階を含む言葉だったのかもしれない。
ルークは首を振った。
「まだ決めちゃ駄目だ」
想像を答えにしてはいけない。
分かったのは。
主の体調が変化していること。
白い液体へ触れた後に起きたこと。
棘は刺さっていないこと。
そこまでだ。
「ルーク」
レイが足を止めた。
「人間か?」
「違う」
鼻先が地面へ向く。
そこには湿った泥と、グランドマーシュタートルが通った跡しか見えない。
レイは何度か場所を変えて嗅いだ。
「さっきと臭いが違う」
「主の?」
「ああ」
ルークも近づこうとしたが、止まる。
嗅いでも自分には分からない。
「甘い匂い?」
「少し」
「まだついてるんだ」
水から離れても。
白い液体の匂いが身体に残っている。
いや。
体表だけなのか?
口から水を飲んだなら、身体の中へ入っている可能性もある。
その時。
グランドマーシュタートルが足を止めた。
今度は首だけではない。
巨大な身体全体が小さく震える。
甲羅の縁から水滴が落ちた。
「主?」
ルークが思わず一歩出る。
レイが前へ回った。
「待て」
直後。
グランドマーシュタートルが首を大きく持ち上げた。
低い声が湿地へ響く。
怒りではない。
痛みにも聞こえる。
周囲の水が一斉に揺れた。
泥の中から泡が浮かぶ。
ルークはもう一度鑑定した。
【グランドマーシュタートル】
【Lv:34】
【状態:興奮/体温上昇/魔力循環異常】
「増えた……」
棘は刺さっていない。
それなのに。
異常は進んでいる。
グランドマーシュタートルが前脚を踏み込む。
泥が大きく沈んだ。
そして次の瞬間。
何もない水面から柱のような水流が立ち上がった。
一本。
二本。
三本。
制御できていない。
「下がって!」
ルークたちは距離を取る。
主自身も驚いたように首を振る。
水流が崩れ、周囲へ降り注いだ。
プルがすぐルークの前へ広がる。
イズナは低い場所へ。
ソラは高度を上げる。
レイだけは主から目を離さない。
「このままなら?」
「分からない」
ルークは答える。
「でも、放っておけない」
まだ限界突破ではない。
黒い変色もない。
Lvも上がっていない。
だからこそ。
今なら間に合う可能性がある。
ルークは腰の鞄を見る。
中には、透明な液体が付着した黒い棘。
治療所へ持ち帰れば調べられる。
けれど。
主を置いて街へ戻れば、その間に悪化するかもしれない。
「ソラ」
「ピィ」
ルークは紙と炭筆を取り出した。
短く書く。
――主を発見。棘は未刺入。誘導用と思われた液体接触後、体温上昇と魔力循環異常。治療師を深部入口まで。
詳細を書く時間はない。
紙を小さく畳み、ソラの脚へ結ぶ。
「ギルドまで行ける?」
「ピィ!」
「渡したらすぐ戻ってきて」
翼が広がる。
ソラは一度だけ主を見た。
そして空へ飛び上がった。
今度は戦うためではない。
助けを呼ぶために。
ルークは遠ざかる姿を見送ってから、残る三匹へ視線を戻す。
「僕たちはここに残る」
「ぷる」
イズナの耳が立つ。
レイは主を見る。
「また暴れたら?」
ルークは杖を握った。
「倒さない」
それは変わらない。
「壊れる前に、止める」
グランドマーシュタートルの周囲で、再び水面が震え始めていた。
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