第53話「主より先に」
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水面の揺れは、少しずつ大きくなっていた。
研究側の三人が待つ水場へ向かって、葦の向こうから何かが近づいている。第52話で撒かれた白い液体に反応しているなら、もう主を探し回る必要はない。
問題は、先にどちらへ辿り着くかだった。
「ソラ、上から一番早い道を!」
「ピィ!」
ソラが一気に高度を上げる。
ルークたちは研究側の三人から見えないよう、一度北へ迂回した。真正面から割って入れば、その時点で相手にもこちらの存在を知らせることになる。
すぐにソラが戻ってくる。
真っ直ぐ進もうとしていた方向へ一度鳴き、首を横へ振った。そして少し北西を向く。
「正面は駄目?」
「ピィ」
「北西なら抜けられる?」
翼が大きく開く。
肯定だ。
「そっち!」
ルークが向きを変える。
その瞬間、足元の泥が沈んだ。
「うわっ」
腰まで落ちるより先に、プルの触手がルークの胴へ巻きついた。
さらに二本が近くの木の根へ伸びる。
「ぷるっ!」
身体を支えられ、一気に引き戻された。
「ありがとう。助かった」
「ぷるる」
胸を張るように王冠状の突起が揺れる。
以前なら、足場の悪い場所で転ばないよう慎重に進むしかなかった。今はプルが周囲へ触手を伸ばし、先に地面の硬さを確かめながら進んでくれる。
それだけで速度が違う。
「右は深い」
レイが言った。
「匂いで分かるの?」
「見れば分かる」
「……それなら僕も頑張るよ」
レイが先へ走る。
ルークも後を追った。
だが、北西へ百歩ほど進んだところでレイが急停止した。
「止まれ」
ルークは反射的に足を止める。
少し遅れてプル。
イズナはその場で姿勢を低くした。
正面の葦が揺れる。
一つ。
二つ。
三つ。
泥だらけの頭が現れた。
【マッドリザード Lv12】
【マッドリザード Lv11】
【マッドリザード Lv13】
さらに奥にもう一体。
黒い変色はない。
棘もない。
普通のマッドリザードだ。
ただし様子がおかしい。
四体とも何度も後ろを振り返っている。
「追われてる?」
「違う」
レイが答える。
「逃げてきた」
その言葉と同時に、一番大きな個体が口を開いた。
こちらへ低く唸る。
逃げ道の先にルークたちがいた。
それだけだ。
「戦いたいわけじゃないんだ」
聞こえるはずもない。
マッドリザードが突っ込んでくる。
「殺さない。道だけ開けてもらう!」
ルークが叫ぶ。
以前なら、四体を相手にするだけでも陣形を整える必要があった。
今は。
「イズナ、左!」
灰白色の身体が走る。
【幻惑 Lv.2】
葦の間へ、もう一人のルークが現れた。
幻のルークは大きく右へ走る。
先頭のマッドリザードの目がそちらを追った。
「ソラ!」
「ピィ!」
風が落ちる。
攻撃ではない。
風刃を放つ直前のような鋭い風が泥を巻き上げ、二体目と三体目の視界を奪う。
その隙にレイが右へ抜けた。
一番外側の個体の前へ出る。
爪は使わない。
低く唸りながら進路を塞ぐだけだ。
逃げてきた魔物なら、逃げ道を一つ残せばいい。
「プル、正面!」
「ぷるっ!」
六本の触手。
二本が地面。
二本が葦。
残り二本がルークの前へ広がった。
薄い壁。
マッドリザードの突進を受け止めるためではない。
進みたくない場所を見せるための壁だ。
残るのは左側だけ。
四体の視線がそちらへ集まる。
ルークは投石紐へ石を入れた。
狙うのは魔物ではない。
回す。
一周。
二周。
放つ。
石が一番大きな個体の鼻先を抜け、その右側にある枯れ木へ当たった。
乾いた音。
反射的にマッドリザードが左を向く。
そこには何もない。
逃げられる空間だけがある。
一体が走った。
続いて二体。
残る二体も、レイとプルの間へ無理に突っ込まず仲間を追う。
数秒後。
葦の向こうから泥を跳ねる音だけが遠ざかっていった。
ルークは投石紐を下ろした。
「……終わった?」
「追う必要があるのか?」
レイが戻ってくる。
「ないね」
一体も倒していない。
けれど道は開いた。
以前なら、敵が現れればどう倒すかを先に考えていた。
今は、倒さなくても目的を達成できる。
その方が早い場面もある。
イズナが幻を消して戻ってくる。
ソラも枝へ降りた。
「みんな、すごく上手くなったね」
プルが嬉しそうに跳ねる。
レイは何も言わなかったが、歩き出す前に一度だけ仲間全体を見た。
「行くぞ」
「うん」
時間を使ったのは一分にも満たない。
それでも水面の振動は、さっきより近くなっていた。
さらに奥へ進むにつれ、周囲の魔物がほとんどいなくなった。
逃げたマッドリザードだけではない。
木の上にいた鳥。
浅瀬の小魚。
泥の中に潜む小型魔物。
皆、同じ方向から離れている。
「やっぱり主が来てるから?」
ルークが聞く。
「それもある」
レイが鼻を上げた。
「だがあの臭いも広がってる」
白い液体。
風向きが変わったのか、ここでも僅かに甘い臭いがする。
ルークは立ち止まらず考える。
周囲の小型魔物は逃げる。
なのに主だけは近づいている。
「普通の誘引剤じゃない」
もし魔物なら何でも寄ってくる薬なら、辺りは逆に魔物だらけになるはずだ。
現実は反対。
小型魔物は避けている。
主だけが向かっている。
「主にだけ意味のある匂い……?」
縄張り。
餌。
同種。
敵。
何に反応しているのかは分からない。
ただ、研究側は主がこの匂いへ寄ってくると知っていた。
昨日偶然見つけた手段ではない。
少なくとも、主の行動を何度か観察している。
「……かなり前から狙ってたんだ」
研究側は突然この主を選んだわけではない。
普通の魔物で実験している間から。
次に使う相手を調べていた。
ルークの背中に冷たいものが走った。
「止まれ」
またレイだった。
今度は声が低い。
ルークたちは身を伏せる。
少し先で、葦が途切れていた。
その向こうは広い水場になっている。
研究側が待っている場所とは別。
だが繋がっている。
ソラが降りてきた。
いつもならすぐ鳴く。
今回は鳴かなかった。
枝に止まり、西を見る。
翼が僅かに開いたままだ。
「いるの?」
一度だけ。
「ピィ」
ルークは慎重に葦の隙間から覗いた。
最初は何も見えなかった。
濁った水。
倒木。
大きな岩。
いや。
岩ではない。
水面の中央に見えていた黒褐色の塊が、ゆっくり動いた。
水が盛り上がる。
幅だけでもプルの何倍もある。
その背中らしき部分には、泥と水草が張りついていた。
長い間そこにいれば、動かなければ地形と区別できない。
「……大きい」
思わず声が漏れる。
まだ頭は見えない。
脚も。
全身も。
それなのに、これまで湿地で見たどの魔物より大きいと分かる。
レイの毛が逆立つ。
ソラは飛び立たない。
イズナもルークの横へ来たまま、前へ出ようとしなかった。
プルだけがルークの脚へ触手を一本巻きつける。
怖い。
それは全員同じだった。
水中の巨体が、ゆっくり向きを変える。
向かう先は南東。
研究側が白い液体を撒いた場所。
「間に合った」
まだ棘は刺されていない。
まだ捕まってもいない。
けれど。
安心するには早かった。
水場の向こう側。
主の進路上にある葦が、一瞬だけ不自然に揺れた。
レイが顔を上げる。
「人間だ」
「三人とは別?」
「ああ。さっきの臭いじゃない」
ルークの胸が詰まった。
研究側は三人ではなかった。
誘導する者。
待ち構える者。
そして。
主の近くですでに待っている者。
ルークが研究側を追わず、主を先に探すと決めたのは間違っていなかった。
だが、それでも一歩足りない。
「レイ。あの人の位置、分かる?」
「あの倒木の奥だ」
「ソラは上に出ないで。見つかる」
「ピィ」
ルークは水の中の巨体を見る。
まだこちらには気づいていない。
研究側にも。
今なら、何かできる。
ただし一度動けば。
主にも人間にも、自分たちの存在を知られる。
ルークは杖を握った。
戦うためではない。
どちらを先に止めるべきか判断するために。
その時。
倒木の向こうから、細い金属音がした。
何かを取り出した音。
水中の主が、ゆっくりと頭を上げ始める。
「……もう待てない」
ルークは立ち上がった。
まだ棘を刺されていないのなら。
今度こそ。
刺される前に割って入る。
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