第52話「主を誘う匂い」
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イズナが戻ってきたのは、送り出してから十分ほど経った頃だった。
葦の根元が僅かに揺れ、何もなかった場所から灰白色の輪郭が浮かび上がる。走ってはいない。それでも耳は前を向いたままで、普段より尾が低い。
「いた?」
イズナが一度だけ頷くように顔を下げた。
その場を二度、前脚で叩く。
「二人?」
首を横へ振る。
さらに一度。
「三人か」
今度は耳が立った。
三人。
捕獲者のような末端なのか、南水路で魔物へ処置をしていた者なのかは分からない。
「主は?」
イズナは答えず、西を見た。
まだ確認できていないらしい。
直後、空から風が落ちてきた。
ソラだ。
進化してから着地の直前まで速度を落とさなくなった。ルークたちの頭上で翼を広げ、ほとんど音も立てずに低い枝へ止まる。
「ピィ」
一度。
そして嘴を西へ。
さらに少し南側へ向ける。
「人間は西南?」
「ピィ」
「大きな魔物は?」
ソラの首が動いた。
今度は真西。
ルークは地面へ簡単な線を描いた。
自分たち。
三人の人間。
大きな魔物。
位置が少しずれている。
「まだ接触してない」
レイも鼻を動かした。
「だが風向きが悪い。人間の臭いが西へ流れてる」
「主に気づかれる?」
「人間だけじゃない」
レイの目が細くなる。
「変な臭いがする」
ルークも鼻を使う。
湿った土。
苔。
腐葉。
いつもの湿地の匂い。
その中に、ごく僅かに甘い臭いが混ざっていた。
薬とも花とも違う。
「これ……」
昨日まで嗅いだ覚えはない。
研究側が何かしている。
「もう少し近づこう。ただし見つからない距離まで」
全員が動き出した。
三人を確認できたのは、それから十五分ほど後だった。
低い盛り土の向こう。
浅い水場を囲むように、人間が動いている。
一人は周囲を警戒。
一人は地面へ細い杭を打ち込んでいる。
残る一人が、革袋から小瓶を取り出していた。
ルークたちは風下。
直接こちらへ臭いは流れてこない。
イズナが気配を薄くし、少し前へ。
「無理するなよ」
尾の先だけが動き、その姿が葦へ溶けた。
ルークは身を伏せたまま観察する。
男が瓶の中身を水へ垂らす。
白く濁った液体。
ほんの少量。
それだけで水面へ薄い膜が広がった。
近くにいた小さな沼蛙が、一斉に水から飛び出した。
「嫌がってる?」
レイが鼻を寄せる。
「いや」
「違う?」
「刺激が強い」
鼻の良いレイが顔を背けた。
異常だ。
離れているのに分かるほどの臭い。
人間の一人が口元を布で覆いながら言った。
「半分でいい。前みたいに濃くするな」
「分かってる。主級を弱らせたら意味がない」
ルークの指が地面を掴んだ。
弱らせるためではない。
なら。
何のために撒いている?
もう一人が、杭へ細い革紐を結びながら周囲を見る。
「本当に来るのか?」
「昨日も反応した。縄張りからここまでなら寄る」
それだけだった。
三人は余計な話をしない。
作業へ戻る。
だがルークには十分だった。
「誘ってる」
研究側は主を捕まえに行くのではない。
向こうから来させるつもりだ。
男が次に取り出した物を見て、ルークの呼吸が浅くなった。
細長い箱。
黒い布で包まれている。
蓋が僅かに開く。
中までは見えない。
しかし男が革手袋をはめた。
慎重に。
素手では触れないように。
「棘かもしれない」
レイが低く言う。
「たぶん」
すぐ刺すわけではない。
匂いで誘導。
決めた場所へ主を連れてくる。
そこで何かをする。
黒い棘は最後だ。
つまり。
「棘だけじゃなかったんだ」
祖先の言葉が蘇る。
『土地そのものが病んでいる場所がある』
もし昔も同じ方法が使われていたなら。
魔物へ直接棘を刺すだけではなく。
水。
泥。
環境そのものへ何かを混ぜていた可能性がある。
だから祖先には、土地そのものが病んでいるように見えた。
もちろん、まだ仮説だ。
古代と今の方法が同じとも限らない。
だが調べる価値はある。
小さく石が鳴った。
ルークは顔を上げる。
見張り役の男が動いた。
腰の剣へ手を添え、イズナが進んだ方向を見ている。
「まずい」
レイの身体が低くなる。
ルークは制した。
「まだ」
男が葦を見る。
一歩。
さらに一歩。
イズナの姿は見えない。
【気配遮断 Lv.2】
だが男は偶然ではなく、何かを感じている。
「出ろ」
低い声。
返事はない。
男が足元の石を拾い、葦へ投げた。
石が葉を揺らす。
別の場所。
イズナはいない。
男はしばらく動かなかった。
そして。
「湿地鼠か」
完全には納得していない顔で戻る。
ルークは息を吐かなかった。
まだイズナが戻っていない。
数十秒後。
右側の葦が僅かに沈む。
姿はない。
それでもルークには分かった。
こちらへ近づいている。
さらに。
足元まで来たところで、イズナが現れた。
「大丈夫?」
耳が立つ。
怪我はない。
口にも何も咥えていない。
盗る必要はない。
見るだけで十分だった。
その瞬間。
淡い光がイズナの身体を包んだ。
【気配遮断 Lv.2 → Lv.3】
ルークの目が大きくなる。
「上がった……」
見つからないだけではない。
警戒している相手の近くへ入り。
必要な情報を確認し。
追われる前に戻る。
偵察として使い切った結果だ。
イズナ自身も表示が見えているわけではないだろう。
それでも何か感覚が変わったらしい。
一度だけ自分の前脚を見てから、ルークへ視線を向けた。
「すごかった。でも次はもう少し離れてね」
尾が止まる。
褒められるだけだと思っていたらしい。
レイが鼻を鳴らした。
「当然だ」
イズナがレイを睨む。
「今喧嘩しない」
プルだけが嬉しそうにイズナへ触手を伸ばした。
イズナは避けた。
ただし半歩だけだった。
人間たちは作業を終え始めていた。
杭。
革紐。
白い液体。
黒い箱。
全てが準備される。
「どうする?」
レイが聞く。
難しい。
今飛び出せば、三人を止められる可能性はある。
戦力だけなら負けるとは限らない。
だが相手が逃げれば、深部の地形を知っている向こうが有利だ。
それ以上に。
まだ湿地の主がどこにいるのか正確には分からない。
ここで人間を追い回している間に、別の人間が主へ近づく可能性もある。
逆に放っておけば。
この誘導液とやらで、主がここへ来る。
そこで棘を刺されるかもしれない。
「ルーク」
レイが急かさない声で呼ぶ。
決めるのは自分だ。
ルークは白く濁った水を見る。
それから西。
「人間は追わない」
レイの耳が動く。
「いいのか」
「先に主を見つける」
研究者を捕まえるために来たのではない。
棘を刺される前に守るために来た。
そこを間違えない。
「イズナは僕たちと一緒。もう偵察には出さない」
耳がこちらへ向く。
「ソラ」
「ピィ!」
「西へ。大きな魔物だけ探して。見つけても近づかない」
翼が広がる。
「レイは匂いを追える?」
「やる」
「プルは僕と中央。足場が悪くなったら頼む」
「ぷる!」
決まった。
研究側が作った誘導地点から離れ。
主の側へ先回りする。
それなら。
少なくとも、何も知らずここへ誘い込まれる前に接触できる可能性がある。
動き出した直後だった。
水面が揺れた。
風ではない。
一度。
間を置いて。
もう一度。
遠くの水鳥が一斉に飛び立つ。
三人の人間も動きを止めた。
「来たぞ」
誰かが言った。
研究側は慌てない。
最初から待っていた。
一人が黒い箱を持つ。
一人が杭の後ろへ。
見張り役は水場から距離を取る。
手順がある。
何度も練習したような動きだった。
ルークは西を見る。
葦の向こう。
まだ姿はない。
ただ。
何か巨大なものが水を押し分けている。
ゆっくり。
こちらへ。
「匂いにもう反応してる」
予定より早い。
主を探しに行く時間は、ほとんど残っていなかった。
「行くよ」
ルークは研究側とは反対方向へ走り出した。
近づいてくる主と。
待ち構える人間。
その間へ。
自分たちが先に入るために。
最後までありがとうございます!
今後も個性の違う魔物たちが登場していきます。
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