第40話「古い研究施設」
小狐は、黒い蔦に覆われた入口の前で一度だけ振り返った。
ルークたちがついてきていることを確認すると、そのまま石造りの建物へ入っていく。中は外から見た以上に暗く、天井の一部が崩れているせいで、差し込む光もところどころ途切れていた。
「足元、気をつけて」
「ぷる」
プルが身体を少し広げ、ルークの前を進む。
レイは鼻を低くして匂いを追い、進化したばかりのソラは頭上すれすれを飛んでいた。翼を一度動かすだけで以前より長く滑空できるらしく、狭い建物の中でもほとんど羽音を立てない。
小狐は十歩ほど先。
近づけば進み、離れすぎれば止まる。
完全に信用したわけではない。
それでも、昨日までとは違っていた。
「案内してくれてるみたいだね」
「俺たちではなく、あいつの仲間のところへ行きたいだけだろう」
「うん。それでも十分だよ」
レイは答えず、前を向いた。
通路の壁には苔が張りついている。
だが、自然にできた洞窟ではない。
石は同じ大きさに切り揃えられ、床も泥に覆われてはいるものの、その下には平らな石板が続いていた。
少なくとも、かなり昔には人が使っていた場所だ。
しばらく進むと、最初の部屋に出た。
ルークは入口で止まる。
「……これ」
部屋の中には、壊れた檻が並んでいた。
大小合わせて六つ。
鉄は赤茶色に錆び、ほとんどが崩れている。それでも床に固定されていた金具と、格子だったものの形は残っていた。
プルが近づこうとする。
「待って」
ルークは先に自分で確認した。
檻の床。
古い。
当然、最近使われたものではない。
ただ、一つだけ気になるものがある。
格子の内側に、細い溝が何本も残っていた。
引っ掻いた跡だ。
「魔物を入れてたのかな」
レイが一つの檻へ鼻を近づける。
「狐の匂いは薄い。ここじゃない」
「もっと奥か」
小狐は部屋へ入らなかった。
入口から檻を見ている。
耳が伏せられていた。
「ここ、嫌い?」
小狐の尾が一度だけ強く揺れた。
ルークはそれ以上聞かなかった。
言葉が通じたとしても、今は答えたくないだろう。
部屋の奥に、割れた石板が落ちている。
文字のようなものが刻まれていた。
ルークは泥を拭う。
読めない。
見たことのない文字ではない。
現在使われている文字と形が似ているが、かなり古い。
「読めそう?」
レイに聞いてから、ルークは自分で苦笑した。
「読めるわけないか」
「俺を何だと思ってる」
「最近何でも分かるから」
「匂いだけだ」
妙に真面目な返答だった。
ルークは石板を鞄へ入れようとして、やめる。
重い。
持ち運ぶなら文字を書き写した方がいい。
『魔物観察録』の余白へ、見える範囲だけ簡単に写す。
その時。
ページをめくっていた手が止まった。
「……あった」
祖先が描いたあの印。
中央の円。
そこから枝分かれする線。
石板の端にも、同じ形がある。
完全に同じだった。
黒い棘に刻まれていたものとも一致する。
これまで似ているだけだった印が、ここで初めて繋がった。
「この施設の印だったんだ」
少なくとも、黒い棘とこの場所は無関係ではない。
それだけはもう偶然では説明できない。
ルークは『魔物観察録』をさらにめくる。
西の湿地について書かれた部分。
短い記述。
『同じ印を、西の湿地で見た』
その少し後ろ。
今まで汚れだと思っていた薄い文字がある。
光へ傾ける。
『檻あり。獣あり。進化とは呼べない』
ルークの指が止まった。
「……これ」
何度も読んだ本だ。
それでも薄れた文字まで全部拾えていたわけではない。
「祖先もここまで来てる」
レイが本を見る。
「何と書いてある」
「『進化とは呼べない』って」
進化。
やはりこの施設は、そこに関係している。
ただし祖先は、ここで起きていたことを進化とは認めなかった。
では何だったのか。
ルークは黒い棘を思い出す。
刺された魔物。
黒い変色。
異常な攻撃性。
それでも力だけは上がっている個体もいた。
「無理やり強くしてた……?」
答えは出ない。
小狐が短く鳴いた。
先へ行けと言っているようだった。
「うん。今はそっちだね」
本をしまい、奥へ進む。
二つ目の部屋には檻がなかった。
代わりに石造りの台が並んでいる。
中央に三台。
人が横になれるほど大きい。
ただし、人間用には見えなかった。
台の端には革紐が残されている。
太さも長さも違う。
「固定するため?」
ルークは一本を持ち上げる。
見覚えがある。
黒いダイアウルフの首に残っていた革紐。
同じ作りだった。
今度は迷わない。
「ここで使われてたものだ」
レイが部屋を見回す。
「最近の匂いはない」
「じゃあ、今これを使ってる誰かがいるわけじゃない?」
「この場所にはな」
それは重要だった。
施設自体は古い。
今も誰かがここで魔物を捕まえているわけではない。
なのに黒い棘は最近の魔物から見つかっている。
つまり。
「誰かが昔のやり方を使ってる?」
施設そのものが現役ではない。
技術だけが残っている。
その可能性が高くなった。
ルークは石台の周囲を調べる。
床に小さな穴がいくつも開いている。
そこから黒ずんだ細い溝が伸びていた。
薬液を流したのか。
魔力を通したのか。
分からない。
勝手に決めつけない方がいい。
「ルーク」
レイが呼ぶ。
部屋の隅。
壁に金属製の小さな輪が打ち込まれていた。
その下に白い毛が引っかかっている。
狐の毛。
まだ新しい。
「この子たちもここにいたんだ」
小狐が身体を固くする。
やはり間違いない。
ハルトが見た三匹の狐。
この施設と無関係ではない。
だが一つおかしい。
「ハルトが来たのは十二日前だよね」
「そうだな」
「この施設はずっと昔に使われなくなってる。でもこの狐たちは最近ここにいた」
誰かが捕まえたのか。
それとも自分たちで入ったのか。
小狐を見る。
答えてはくれない。
ただ、先ほどよりも尾が下がっていた。
さらに奥へ進むと、通路が二つに分かれた。
小狐は右。
レイが左を見る。
「狐の匂いは右だ」
「左は?」
「血」
足が止まる。
「新しい?」
「少し古い」
ルークは迷った。
小狐は右へ進みたい。
三匹目の仲間がいる。
だが左に誰か、あるいは何かが傷ついた跡がある。
両方を同時には見られない。
「ソラ」
呼ぶと、ソラが降りてくる。
「左を少しだけ見てきて。危なかったらすぐ戻って」
ソラが短く鳴いた。
狭い通路へ入る。
羽音が遠ざかる。
その間、小狐は落ち着かない様子で右の奥を見ていた。
ルークはしゃがむ。
「待たせてごめん。でも、確認したい」
小狐の耳が伏せられる。
納得してはいない。
それでも勝手に行かなかった。
そこが以前と違う。
少しして、風が戻ってくる。
ソラだ。
何かを掴んでいる。
布。
いや、革の切れ端。
落としたものを拾う。
黒く汚れている。
端に小さな金具がついていた。
「また革紐……」
だが今までのものとは違う。
新しい。
完全には腐っていない。
レイが匂いを嗅ぐ。
「人間の匂いもある」
「ハルト?」
レイは首を振る。
「違う」
ルークは革紐を握る。
初めて出た情報だ。
少なくともハルト以外の人間が、比較的最近この施設へ来ている。
いつかまでは分からない。
誰かも分からない。
だが施設が完全に忘れられていたわけではない。
「一度ギルドに持ち帰った方がいいな」
小狐が鳴く。
今度は強い。
「分かってる。先に行こう」
右の通路へ進む。
奥へ行くほど、空気が冷たくなった。
水が入り込んでいる。
床の半分が浅く浸水していた。
小狐は迷わず進む。
やがて大きな部屋へ出る。
そこで止まった。
ルークも足を止める。
部屋の中央。
崩れた石台の横に、一匹の狐が横たわっていた。
小狐より大きい。
双尾狐よりは少し小さい。
毛は灰色。
尾は一本。
「三匹目……」
鑑定する。
【種族:ミストフォックス】
【Lv:14】
【幻惑 Lv.2】
【気配遮断 Lv.2】
【状態:衰弱/負傷】
黒い変色はない。
ルークは少し息を吐いた。
少なくとも変異してはいない。
だが左後ろ脚に金属製の輪がはまっている。
そこから短い鎖。
鎖の先は床へ固定されていた。
「捕まってる」
小狐が駆け寄る。
ミストフォックスの耳が動く。
弱々しく顔を上げた。
小狐が鼻先を重ねる。
返事のように、ミストフォックスも僅かに鳴いた。
ルークはゆっくり近づく。
「外すだけだから」
ミストフォックスが牙を見せる。
小狐も振り返った。
まだ近づくな。
そう言われているようだった。
ルークは止まる。
「分かった」
道具を置く。
鎖を切るための小さな金槌。
布。
薬。
それだけを床へ並べる。
「僕は待つ」
レイが隣へ座った。
「いつまでだ」
「許してくれるまで」
「日が暮れるぞ」
「それは困るね」
「なら考えろ」
もっともだった。
ルークは鎖を見る。
床へ埋め込まれている部分。
古い。
錆びている。
直接狐へ近づかなくても壊せるかもしれない。
「プル」
「ぷる?」
「鎖じゃなくて、床の方を引っ張れる?」
プルが近づく。
小狐が警戒する。
しかしルークはミストフォックスから離れたまま。
プルも鎖の反対側から触手を伸ばす。
石床のひびへ入れる。
一本。
二本。
四本。
六本。
「無理しないで」
プルが身体を低くする。
引く。
石が軋む。
一度では動かない。
もう一度。
今度はレイが金具の横へ前脚を置く。
「ここだ」
「分かる?」
「石が割れてる」
プルが位置を変える。
再び引く。
石が割れた。
金具ごと抜ける。
鎖が床へ落ちた。
「できた!」
小狐が驚いたようにプルを見る。
プルは得意そうに身体を揺らした。
「ぷるる!」
まだ足輪そのものは残っている。
だが自由には動ける。
ミストフォックスがゆっくり立ち上がった。
一歩。
よろける。
小狐が身体を寄せる。
ルークは動かない。
ミストフォックスは小狐に支えられながら、ルークたちを見る。
特にプル。
次にレイ。
ソラ。
最後にルーク。
しばらくして、小狐がこちらへ歩いてきた。
距離が縮まる。
三歩。
二歩。
一歩。
ルークの前で止まる。
そして置いてあった薬を鼻先で押した。
ミストフォックスの方へ。
「使っていいってこと?」
小狐は動かない。
「……違う。使ってほしい?」
尾が一度揺れた。
ルークは薬を持つ。
今度は近づいても、小狐は止めなかった。
治療が終わる頃には、部屋の中へ差し込む光が少し赤くなっていた。
ミストフォックスの傷は深くない。
衰弱の方が問題だ。
食べ物と水を与えれば歩ける程度には戻りそうだった。
「今日はここまでかな」
ルークが立ち上がる。
施設の奥はまだ続いている。
だが負傷した狐を連れたまま探索するべきではない。
小狐もミストフォックスのそばを離れようとしなかった。
「一度戻ろう」
その時。
レイが壁を見る。
「ルーク」
「どうしたの?」
「ここだけ匂いが違う」
壁。
苔に覆われている。
プルが触手で苔を剥がす。
石に何か刻まれていた。
例の印。
中央の円から伸びる線。
その下に、薄い文字が残っている。
ルークは『魔物観察録』を開き、石板から写した文字と見比べた。
完全には読めない。
ただ、一つだけ。
現在の文字とほとんど形が変わっていない単語があった。
「進化……」
その横。
もう一つ。
「誘導?」
ルークは目を細める。
進化誘導。
二つの文字を並べる。
祖先が書いた言葉が頭に浮かぶ。
『進化とは呼べない』
ここで行われていたのは、魔物をただ強くする実験ではない。
何らかの方法で、進化そのものを意図的に起こそうとしていた。
それが、この施設の目的だった。
少なくとも。
昔は。
ルークは壁の文字から目を離す。
「じゃあ、今の黒い変異は……昔の技術を誰かが使って失敗してる?」
答えは出ない。
ただ、施設の目的だけは分かった。
その時、小狐が突然振り返った。
部屋のさらに奥。
暗い通路。
耳が立つ。
レイも同時に身体を低くした。
「誰か来る」
「魔物?」
レイは鼻を動かす。
少し間があった。
「違う」
ルークの手が杖へ伸びる。
「人間だ」
小狐の身体が強張った。
その反応を見て、ルークは杖を強く握り直した。
この場所を知る人間が、こちらへ近づいていた。
最後までありがとうございます!
今後も個性の違う魔物たちが登場していきます。
「この先も読んでみたい」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価をいただけると嬉しいです!




