第36話「群れの先へ」
『同じ印を、西の湿地で見た』
祖先が残した一文を前に、ルークはしばらくページをめくれなかった。
金属板に刻まれた印と、『魔物観察録』に描かれた図は完全に同じではない。それでも中央の円から複数の線が枝分かれする形はよく似ており、偶然で片づけるには引っかかりが強すぎた。
「ルーク」
隣から声をかけられ、ルークは反射的に顔を上げた。
銀灰色の毛並みを持つダイアウルフが、すぐ近くに座っている。
「……やっぱり変な感じする」
「何がだ」
「レイが普通に喋ってること」
レイは露骨に目を細めた。
「戦っている最中にも言っていただろう」
「だから、その時はそれどころじゃなかったんだって」
「なら慣れろ」
「そんな簡単に言われても……」
レイは返事をせず、治療中の黒いダイアウルフへ視線を戻した。会話ができるようになっても、無口な性格まで変わったわけではないらしい。
少し離れた場所では、プルが先ほどからレイの周囲を跳ね回っている。
「ぷる! ぷるる!」
「近い」
「ぷる!」
「分かったから離れろ」
「ぷるる!」
プルは明らかに楽しんでいた。
ソラも枝の上から何度か鳴き、レイが話すたびに首を傾げている。
ルークは思わず笑いそうになったが、黒いダイアウルフの傷を見ると表情を戻した。
紫色の変色は右肩を中心に広がっている。
薬を塗っても消えない。
鑑定しても、表示されるのは通常の情報だけだった。
【種族:ダイアウルフ】
【Lv:27】
【状態:衰弱/負傷/???】
最後だけ分からない。
「やっぱり毒とは違う」
前に倒したスワンプリーチから検出された微弱な毒性。
湿地の変色。
変異した狼。
そしてこのダイアウルフ。
何かが繋がっているのは間違いないが、原因まではまだ見えない。
「こいつは群れの長だった」
突然レイが言った。
「分かるの?」
「匂いが残っている。それに、あいつらがこいつを恐れているのに逃げなかった」
レイの視線の先には、十匹を超える野生の狼たちがいる。一定の距離を保っているものの、誰も森へ戻ろうとはしていなかった。
「待ってたのかな」
「たぶんな」
ルークは黒いダイアウルフを見る。
敵だったわけではない。
少なくとも、最初から群れを襲いたかったわけではなさそうだ。
だからこそ気になる。
誰が革紐をつけたのか。
何をされたのか。
「一度リューデンへ戻った方がいいと思う」
「こいつを連れてか?」
「できれば。でも町まで入れるのは難しいかな」
レイは少し考え、黒いダイアウルフへ近づいた。
低く唸る。
相手も唸り返す。
会話とは違う。
それでも二匹の間では何かが伝わっているようだった。
やがて黒いダイアウルフがゆっくり立ち上がる。
傷は深い。
それでも歩ける。
「ついてくる」
「分かるんだ」
「嫌なら噛まれている」
「なるほど……」
分かりやすい。
ルークたちはリューデンへ向けて歩き始めた。
帰路で異変が起きた。
最初に気づいたのはソラだった。
上空を飛んでいたソラが鋭く鳴き、急旋回して戻ってくる。
レイもすぐに鼻を上げた。
「多い」
「魔物?」
「ああ。前から来る」
ルークは周囲を確認した。
右は深い沼。
左には低木が密集している。
後ろには負傷したダイアウルフと野生の狼たち。
逃げるなら戻るしかない。
だがレイが低く唸った。
「後ろにもいる」
挟まれた。
泥の中から音がする。
前方の草が揺れた。
一匹。
二匹。
さらに続く。
【ポイズンフロッグ Lv.8】
【ポイズンフロッグ Lv.9】
【ポイズンフロッグ Lv.7】
紫色の斑点を持つ巨大な蛙。
その数が十を超える。
「多すぎる……」
普通なら群れない。
さらに後方からも五匹。
偶然遭遇した数ではない。
ポイズンフロッグの一匹が喉を膨らませる。
レイが叫んだ。
「毒だ、下がれ!」
液体が飛ぶ。
ルークは横へ跳んだ。
地面に落ちた紫色の液体から、薄い煙が上がる。
「プル、触らないで!」
「ぷる!」
プルが伸ばしかけた触手を戻す。
相性が悪い。
プルの強みは身体そのものを使った拘束だが、相手に触れることが危険なら使い方を変えなければならない。
ルークは周囲を見た。
十五匹以上。
だが一匹一匹は強くない。
「ソラ、上から攻撃! レイは近づいてくる奴だけ止めて!」
ソラが上昇する。
ポイズンフロッグたちが一斉に喉を膨らませた。
「散って!」
毒液が空を埋める。
ソラは翼を畳んで急降下し、毒液の間を抜けた。そのまま水面すれすれで翼を開き、一気に上昇する。
【飛翔 Lv.3】
以前ならできなかった動きだ。
敵の視線がソラへ集まる。
「今!」
レイが走った。
進化したばかりでLv1。
それでも身体能力はハイウルフだった頃より明らかに上がっている。
一匹目の横を通過する。
爪撃。
倒れる。
止まらない。
二匹目。
三匹目。
毒液を吐こうとした個体の顎を下から跳ね上げる。
紫色の液体が空へ飛んだ。
「強い……!」
進化直後とは思えない。
レベルが下がっても、種族としての基礎能力が上がっている。
【ポイズンフロッグを討伐しました】
【ポイズンフロッグを討伐しました】
【ポイズンフロッグを討伐しました】
表示が続く。
しかし敵も馬鹿ではない。
レイを狙うのをやめた。
後方のポイズンフロッグたちが一斉にルークへ向きを変える。
「まずい」
五匹。
同時に喉が膨らむ。
逃げる方向は限られている。
ルークが動くより先に、青い身体が前へ出た。
「プル!」
プルが地面へ広がる。
ただし毒液を身体で受けるのではない。
触手を伸ばす。
狙ったのは地面だった。
五本の触手が泥を大きく掬い上げる。
泥の壁。
毒液がそこへぶつかった。
「そうか!」
防御は自分の身体で受ける必要がない。
キングスライムになって増えた触手と、これまで鍛えてきた変形。
その使い方をプル自身が考えた。
【変形 Lv.3 → Lv.4】
「ぷる!」
プルが得意そうに跳ねる。
「そのまま頼む!」
ルークも動いた。
投石紐を回す。
狙う。
放つ。
石が一匹の口へ当たった。
毒液が横へ逸れる。
二発目。
今度は目元。
命中。
少しずつだが、当たるようになってきた。
ソラの風刃が上空から降る。
三枚。
さらに旋回。
もう三枚。
【風刃 Lv.3】
ポイズンフロッグ二匹が同時に倒れた。
【ソラのLvが上がりました】
【Lv:11 → 12】
さらにレイ。
【レイのLvが上がりました】
【Lv:1 → 3】
二つ上がった。
進化直後だから必要な経験が少ないのだろう。
レイは止まらない。
野生の狼たちへ短く指示を出す。
「前へ出るな。左右から追い込め」
狼たちが広がる。
ポイズンフロッグの逃げ道を塞ぐ。
戦況が一気に傾いた。
「プル、左!」
触手が泥を叩く。
跳ね上がった泥に驚いた二匹が右へ逃げる。
そこにはレイ。
爪撃。
二匹続けて倒す。
ソラの風刃が最後の一匹を転倒させ、ルークの石が頭へ当たった。
プルの触手が近くの倒木を掴む。
振る。
直撃。
戦闘が終わった。
十五匹以上いたポイズンフロッグは、数分で全滅していた。
ルークは荒い呼吸を整えながら周囲を見る。
誰も大きな怪我をしていない。
以前なら絶対にできなかった。
「強くなったな……」
「当然だ」
横から返事が来た。
「レイ、自分で言うんだ」
「事実だ」
意外と自信家らしい。
プルが不満そうに跳ねた。
「ぷる!」
「プルも強くなったよ」
「ぷるる!」
すぐ機嫌が直った。
表示が続く。
【プルのLvが上がりました】
【Lv:7 → 9】
【レイのLvが上がりました】
【Lv:3 → 4】
【ソラのLvが上がりました】
【Lv:12 → 14】
「一気に上がった……」
湿地へ来てから、敵の数も質も上がっている。
危険は増えた。
その分、成長も速い。
さらに別の表示が出た。
【ソラの進化条件の一部を達成しました】
「え?」
ルークはすぐにソラを見る。
【種族:ウィンドホーク】
【Lv:14】
【進化候補を確認】
【???】
【条件】
【飛翔 Lv.3:達成】
【風刃 Lv.3:達成】
【連続空中戦闘:達成】
【特殊条件:???】
【Lv:14/20】
「ソラも進化が見えてきた」
ソラが降りてくる。
ルークの肩へ止まろうとして、一瞬考えたのか腕へ移った。
以前なら人間の近くへ降りることさえ警戒していた。
「あとレベルと、特殊条件か」
レイより条件が早く見えた。
ここからなら狙って進められる。
「ソラ。次は君だね」
ソラが翼を広げた。
その時だった。
レイが低く言った。
「ルーク。こいつらを見ろ」
倒したポイズンフロッグ。
一匹の腹部に黒い変色がある。
二匹目にも。
三匹目。
全てではない。
しかし半数近くに同じ変色が見つかった。
「また……」
ルークは一匹を詳しく調べる。
紫色の斑点は元々の毒腺。
黒い変色は別だ。
そして首元。
小さな傷がある。
昨日のダイアウルフと似ていた。
「自然に集まったんじゃないのかもしれない」
「俺たちを狙ったように見えた」
レイが言う。
確かにそうだった。
前後から挟んだ。
途中からルークを集中して狙った。
ただ群れていた魔物にしては動きが不自然だ。
ルークは嫌な感覚を覚えた。
誰かが魔物を操っている。
そう決めつけるには早い。
だが少なくとも、この湿地で起きていることは魔物の自然な異変だけでは説明しづらくなっている。
「急いでリューデンへ戻ろう」
黒いダイアウルフも連れて、再び歩き出す。
町の外壁が見えてきた頃、ルークは足を止めた。
道端で、小さな荷車が横倒しになっている。片方の車輪が外れ、積んでいた木箱や布袋が泥の上へ散らばっていた。
レイが鼻を動かす。
「人間が一人。それと……」
そこで言葉が止まった。
「それと?」
「魔物だ。だが、知らない匂いだ」
ルークは眉を寄せた。
レイが匂いを嗅いで種類の見当すらつかない。
上空のソラも様子がおかしい。普段なら未知の相手を見つければ高度を取るのに、荷車の上を何度も旋回しながら下を気にしている。
「誰かいる」
荷車の陰から、かすかな唸り声が聞こえた。
ルークたちは距離を取ったまま回り込む。
そこにいたのは、一匹の小さな狐だった。
「……狐?」
白に近い灰色の毛並み。
泥で汚れているものの、腹側だけは雪のように白い。身体はまだ幼く、プルより少し大きい程度しかない。
一本だけある尾は身体に対して長く、先端へ向かうほど白くなっていた。
珍しい。
だが、それだけならルークもここまで違和感を覚えなかった。
小狐の姿が、一瞬だけ揺れた。
「え?」
二匹に見えた。
ルークが目を瞬く。
一匹しかいない。
その小狐が牙を見せる。
同時に輪郭が薄くなる。
消える。
「いない?」
「いる」
レイが即座に答えた。
「匂いはそこだ」
次の瞬間、小狐が再び姿を現した。
場所はほとんど動いていない。
逃げたのではない。
自分の姿だけを消した。
ルークは鑑定する。




