第35話「進化の時」
ダイアウルフはすぐには襲ってこなかった。
黒く汚れた巨体を低く構え、レイを正面から見据えている。右肩の傷から紫色に変色した血が滴っていたが、その足取りに弱さはなく、背後の三匹を庇うように立つ姿からも、この個体が群れを率いていることは明らかだった。
ルークはスタッフを握ったまま、相手の首へ視線を向けた。
切れた革紐。
誰かに飼われていたのか。それとも捕まっていたのか。
「レイ、まだ行かないで」
レイは低く唸ったものの、飛び出さなかった。
その反応を見て、ダイアウルフが一歩踏み出す。
周囲の狼たちが後退した。
威圧だけで空気が変わる。
【威圧 Lv.3】
ルークの身体にも重圧がかかった。呼吸が浅くなり、握っているスタッフが急に重く感じる。
だが、レイだけは下がらない。
むしろ一歩前へ出た。
その瞬間、ダイアウルフが動いた。
「来る!」
速い。
レイの【疾走 Lv.3】より明らかに上だった。
黒い巨体が泥を蹴り、一直線にレイへ迫る。レイは横へ跳んだが、ダイアウルフは途中で軌道を変え、鋭い爪を振り抜いた。
レイの肩から血が飛ぶ。
「レイ!」
浅くない。
それでもレイは倒れなかった。
身体を沈め、そのまま相手の脇腹へ爪を振るう。
だが届く前にダイアウルフが離れた。
速さだけではない。
レイの動きを読んでいる。
「ぷる!」
プルが飛び出す。
四本の触手が別々の方向からダイアウルフへ伸びた。
これまで多くの魔物を捕らえてきた攻撃だったが、ダイアウルフは最初の一本を跳び越え、二本目を爪で弾き、三本目と四本目の間を抜けた。
「嘘だろ……」
キングスライムになったプルの拘束を正面から抜けた。
ダイアウルフはそのままルークへ向かう。
狙いが変わった。
ルークの【危険察知】が強く反応した。
「ソラ!」
上空から風刃が落ちる。
一枚。
二枚。
ダイアウルフは一枚目を避けたが、二枚目が背中を切り裂いた。
動きがわずかに止まる。
ルークは後退するのではなく、投石紐へ石を入れた。
回す。
放つ。
石はダイアウルフの右肩へ当たった。
傷口。
ダイアウルフが大きく身体を揺らす。
「効いた!」
傷が弱点なら戦える。
そう思った瞬間だった。
背後の三匹が動いた。
身体の一部が黒く変色した狼たちが、左右からルークたちを囲もうとする。
「そっちも来るのか!」
一匹がプルへ。
一匹がソラを狙って跳ぶ。
残る一匹は野生の狼たちへ向かった。
レイが吠えた。
すると周囲にいた狼たちが一斉に散開した。
「……!」
逃げたのではない。
三匹が負傷した仲間を守り、四匹が左側へ回る。残りは距離を取りながら、黒く変色した狼の進路を塞いだ。
レイが指示した。
ルークにはそう見えた。
「レイ、そのまま頼む!」
レイは一瞬だけルークを見た。
それから再び吠える。
野生の狼たちが動く。
一匹では勝てない。
だから正面から戦わない。
黒く変色した狼が一匹を追えば、別の二匹が後ろから噛みつく。振り返れば散り、別の狼が横から飛び込む。
「プル、僕たちは右!」
「ぷる!」
プルの触手が一匹の脚へ絡みつく。
今度は逃がさない。
二本で前脚。
二本で後脚。
残る触手が首へ巻きついた。
持ち上げる。
そのまま地面へ叩きつける。
一度。
二度。
三度。
黒い狼が動かなくなる。
【変異ウルフを討伐しました】
【プルのLvが上がりました】
【Lv:6 → 7】
だが確認している暇はない。
「ソラ、次!」
ソラが上昇する。
もう一匹の変異ウルフが見上げる。
跳びかかろうとした瞬間、ソラは急降下した。
直前で身体を捻る。
爪ではない。
至近距離から風刃。
首元へ直撃した。
変異ウルフが倒れる。
【ソラのLvが上がりました】
【Lv:10 → 11】
【風刃 Lv.2 → Lv.3】
ソラが翼を広げた。
直後、三枚の風刃が連続して放たれる。
「三枚!?」
これまでとは明らかに違う。
一枚目が変異ウルフの進路を塞ぎ、二枚目が横へ逃げる方向を限定する。そこへ三枚目が飛び、肩口を深く切り裂いた。
ソラはただ威力を上げたのではない。
空から敵の逃げ道まで見ている。
「ぷる!」
そこへプルの触手が伸びる。
捕らえた。
レイの指示で動いていた野生の狼たちも一斉に飛びかかる。
三匹目が倒れた。
【変異ウルフを討伐しました】
周囲から敵が消える。
残ったのはダイアウルフだけ。
ルークたちは自然に距離を取った。
ダイアウルフの右肩から紫色の血が流れている。
それでも逃げない。
レイも退かない。
二匹の狼が向かい合う。
ルークは投石紐へ次の石を入れながら、違和感を覚えた。
ダイアウルフは先ほどから何度もレイを狙っている。
ルークではない。
プルでもない。
レイ。
そして野生の狼たちは、ダイアウルフを恐れている。
「もしかして……」
このダイアウルフは元々、この群れの長だったのではないか。
首の革紐。
紫色の傷。
黒く変色した三匹。
何者かに捕らえられ、何かをされた。
その結果、群れへ戻ってきた。
「レイ、倒すんじゃなくて動きを止められる?」
レイの耳が動く。
ダイアウルフが飛び出した。
レイも走る。
正面衝突。
そう見えた。
だが直前でレイが身体を沈める。
すれ違う。
そのまま方向転換。
ダイアウルフも振り返る。
しかし遅い。
野生の狼が二匹、進路を塞いでいた。
レイは自分だけで戦っていない。
群れ全体を使っている。
ダイアウルフが横へ逃げる。
そこには別の三匹。
後退する。
さらに二匹。
追い詰めるためではない。
進む方向を限定している。
「プル!」
ルークにも分かった。
「正面!」
プルが広がる。
巨大な青い壁。
ダイアウルフが足を止めた。
その瞬間、レイが吠えた。
狼たちが一斉に動く。
右。
左。
後方。
逃げ道が完全に消える。
表示が現れた。
【統率行動を確認しました】
【複数の同族個体を指揮しました】
【危機下において群れの生存を優先しました】
【統率行動:2/2】
ルークの呼吸が止まる。
【特殊条件を達成しました】
【進化条件をすべて達成しました】
「レイ!」
レイの身体が光に包まれた。
だがダイアウルフは待たない。
目の前の異変を敵の隙と判断したのか、強く地面を蹴った。
光の中のレイへ向かう。
「プル、止めて!」
触手が伸びる。
一本目を切られる。
二本目も。
三本目が前脚へ絡む。
引きずられながらもプルは離さない。
四本目。
五本目。
キングスライムの身体が泥の上を滑っていく。
「ぷるううっ!」
ダイアウルフが強引に前へ進む。
ソラが急降下した。
風刃が傷口へ入る。
それでも止まらない。
ルークは投石紐を捨てた。
スタッフを両手で握る。
怖い。
正面から受ければ吹き飛ばされる。
それでもレイの進化が終わるまで数秒あればいい。
「こっちだ!」
ルークが前へ出た。
ダイアウルフの視線が向く。
爪が振り上げられる。
危険察知。
右から来る。
分かる。
身体を左へ。
避けきれない。
爪が革鎧を掠めた。
衝撃で身体が回る。
それでも倒れず、スタッフの金属補強された先端を右肩の傷へ叩き込んだ。
ダイアウルフが吠える。
ルークの手からスタッフが飛んだ。
次の爪が来る。
避けられない。
そう思った瞬間。
「――避けろ!」
聞いたことのない声だった。
低く、短い。
ルークは考える前に身体を投げ出した。
爪が頭上を通過する。
そして銀灰色の影が、ダイアウルフへ激突した。
巨体が横へ吹き飛ぶ。
ルークは泥の上から顔を上げた。
そこにいたのは、もうハイウルフではない。
一回り大きくなった身体。
銀色が濃くなった毛並み。
太く長い四肢。
鋭さを増した目。
【進化が完了しました】
【ハイウルフ → ダイアウルフ】
【Lv:1】
【嗅覚 Lv.2】
【爪撃 Lv.3】
【疾走 Lv.3】
【気配察知 Lv.3】
【群体指揮 Lv.1】
【共生恩恵が強化されました】
ルークは表示を見ていなかった。
レイを見ている。
「……今」
レイもルークを見る。
少しだけ気まずそうに耳を動かした。
「レイ、喋った?」
沈黙。
「ぷる?」
プルまで動きを止めた。
上空のソラも首を傾げる。
レイはしばらく黙っていた。
それから視線を逸らした。
「……後だ」
ルークの口が開いた。
今度は間違いない。
「喋ってる!」
「後だと言った」
レイはそれだけ言うと、ダイアウルフへ向き直った。
喜ぶ暇はない。
倒れた黒いダイアウルフが立ち上がる。
レイと同じ種族。
だがLv27。
単純な力では、進化したばかりのレイよりまだ上だ。
それでも状況は先ほどまでと違う。
野生の狼たちがレイを見る。
一匹。
また一匹。
全員がレイの後ろへ集まっていく。
レイは振り返らない。
低く声を発した。
「左右に分かれろ。正面には出るな」
狼たちが動く。
通じている。
「プル。脚を止めろ」
「ぷる!」
「ソラ。右肩だ」
ソラが鳴く。
そして最後にレイはルークを見る。
「ルーク」
初めて名前を呼ばれた。
胸の奥に何かが込み上げたが、ルークは笑うだけにした。
「分かってる。僕も戦う」
ダイアウルフが吠えた。
レイも走る。
今度は一匹ではない。
プルが正面を塞ぎ、ソラが上空を取り、十匹を超える狼が左右へ展開する。
ルークは落ちたスタッフを拾った。
戦況が完全に変わった。
数分前まで圧倒されていた相手が、今は孤立している。
レイが走りながら指示を出す。
「右を空けろ」
ダイアウルフが右へ動く。
そこへソラの風刃。
傷口へ直撃。
「今だ、プル」
触手が前脚へ絡む。
転倒。
レイが飛ぶ。
爪撃が首元で止まった。
殺していない。
喉へ爪を当てただけだ。
ダイアウルフが動きを止める。
荒い呼吸。
レイは牙を見せたまま離れない。
しばらくして。
ダイアウルフの身体から力が抜けた。
敵意が消える。
レイもゆっくり爪を引いた。
「ルーク」
「うん」
ルークは薬を取り出した。
倒すだけなら、もう終わっていた。
だがレイは殺さなかった。
理由は分かる。
このダイアウルフが何者なのか。
首の革紐は何なのか。
そして身体を侵している紫色のものは何なのか。
調べる必要がある。
ルークが近づこうとすると、ダイアウルフが牙を見せた。
足が止まる。
「……治療したいんだけど」
「俺がいる」
レイがダイアウルフとの間に立つ。
ルークは一瞬、別の意味で動けなくなった。
「レイ」
「なんだ」
「僕、たぶんしばらく慣れない」
レイは面倒そうに耳を伏せた。
その横でプルが勢いよく跳ねる。
「ぷる! ぷるる!」
「うるさい」
「ぷるっ!?」
ソラが上空で甲高く鳴いた。
ルークは思わず笑った。
戦いは終わった。
レイは進化した。
しかも言葉まで話せるようになった。
それだけでも十分すぎるほど大きな変化だった。
だがルークがダイアウルフの傷を洗った時、笑みは消えた。
紫色に変色した部分。
泥を落とすと、その中心に小さな傷跡が並んでいた。
自然にできたものではない。
何か細いものを何度も刺したような痕。
そして切れた革紐の内側には、小さな金属板が残っていた。
汚れを拭う。
刻まれていたのは文字ではなかった。
円。
そこから枝分かれする複数の線。
ルークはどこかで見たことがある気がして、荷物の中から一冊の古い本を取り出した。
祖先が残した『魔物観察録』。
何度も読んだページをめくる。
後半。
意味が分からず、今まで読み飛ばしていた図。
ルークの指が止まった。
紙に描かれている印と、金属板の印。
完全に同じではない。
それでも形はよく似ていた。
「……なんで?」
レイが横から覗き込む。
「知っているのか」
「知らない。だから変なんだ」
ルークは古い紙と金属板を並べた。
祖先が残した記録。
人為的に傷つけられたダイアウルフ。
湿地に広がる紫色の異変。
今まで別々に見えていたものが、初めて一つの場所で重なった。
ページの端には、祖先の小さな書き込みが残されていた。
『同じ印を、西の湿地で見た』
ルークはその一文を、もう一度読み直した。




