第32話「湿地の戦い方」
湿地都市リューデンは、グランゼルとはまるで違う町だった。
町の周囲には大小いくつもの水路が走り、建物の多くは湿気を避けるためか地面より少し高い位置に造られている。荷物を積んだ小舟が水路を行き交い、街道を歩いているだけでも、水と泥の匂いが絶えず鼻に残った。
ルークが気になったのは、町の入口に立てられた一枚の看板だった。
『西湿地への立ち入り注意』
その下には、毒を持つ魔物の増加と、単独行動を避けるようにという注意書きがある。昨日見た、草木の色が暗くなっていた場所も西側だった。
「やっぱり何か起きてるのかな」
ルークが看板を見ていると、レイが西の方角へ鼻を向けた。ソラも同じ方向を気にしていたが、プルだけは水路を泳ぐ小魚に夢中で、身体を長く伸ばして覗き込んでいる。
「プル、落ちるよ」
「ぷる」
キングスライムへ進化しても、その辺りは変わらないらしい。
ルークは少し笑ってから、冒険者ギルドへ向かった。
リューデンの冒険者ギルドは、入口の横に大きな洗い場が設けられていた。
戻ってきた冒険者たちはそこで靴や防具についた泥を落とし、中には腕や脚を水で念入りに洗っている者もいる。グランゼルでは見なかった光景だった。
受付で冒険者証を出すと、三十代ほどの男性職員がルークの後ろを見た。
最初にプル。
次にレイ。
最後に、梁の上へ勝手に止まったソラ。
「魔物使いか」
「はい」
「湿地は初めてだな?」
いきなり言い当てられ、ルークは少し驚いた。
「分かるんですか?」
「靴を見ればな」
男性が顎でルークの足元を示す。昨日の泥がまだ完全には落ちていなかった。
「初めて来た奴は大体そうなる。街道だから安全だと思って、そのまま泥へ入るんだ」
ルークは昨日のスワンプリーチを思い出した。
何も言えずにいると、男性は少しだけ口元を緩める。
「もう何かに襲われた顔だな」
「……スワンプリーチに」
「なら運が良かった」
「運が良かった?」
「あいつらは一匹見えたら、その周囲に三匹はいると思え。腹が減ってなきゃ襲わない個体もいるが、血の匂いを嗅がせると面倒になる」
ルークは眉を寄せた。
昨日倒したのは一匹だけだった。
戦闘後、周囲を確認してから離れたつもりだったが、水中まで完全に調べたわけではない。
男性は書類を戻しながら続けた。
「湿地じゃ、倒せる魔物と戦うんじゃない。戦う場所を選べ。覚えておいた方がいい」
昨日の失敗があるだけに、その言葉は素直に頭へ入ってきた。
「ありがとうございます」
「礼は生きて帰ってからでいい。それと、西へ行くなら掲示板を見ておけ」
西側に貼られた依頼は、妙に偏っていた。
毒消し草の採取。
行方不明になった家畜の捜索。
水路周辺の魔物調査。
そして最も多いのが、魔物の討伐だった。
【ポイズンフロッグ討伐】
【マッドリザード討伐】
【スワンプリーチ討伐】
どれも西湿地周辺。
ルークはその中から、一枚だけ内容の違う依頼書を剥がした。
【西湿地生態調査】
最近、西湿地に生息する魔物の行動範囲が変化している。原因確認のため、目撃位置と個体情報を募集する。
報酬は高くない。
それでも昨日のスワンプリーチから確認された、本来持っていないはずの毒性が気になっていた。
「それ受けるのか?」
背後から声がした。
振り返ると、二十歳くらいの男性冒険者が立っていた。腰には短剣を二本差し、革鎧の膝から下は泥で色が変わっている。
「はい。そのつもりです」
「金にならないぞ」
「討伐が目的じゃないので」
男はルークと三匹を順番に見る。
「変わった魔物使いだな」
そう言って、隣に貼られていたポイズンフロッグ討伐の依頼を剥がした。
「俺ならこっちにする。同じ場所まで行くなら、殺した数だけ金になる」
考え方としては間違っていない。
ただ今は、昨日の違和感を確かめたかった。
「魔物の様子を見たいんです」
「好きにしろ。ただし西の奥には入るなよ。最近、帰ってこない奴が出てる」
「魔物に?」
男は肩をすくめた。
「それが分かれば調査依頼なんて出てないだろ」
昼前には町を出た。
今回は昨日の失敗を繰り返すつもりはない。
レイが地上の匂いを確認し、ソラが上空から先を見る。プルはルークの近くに置き、足場が不安定な場所へ最初から入らせない。
しばらく進むと、街道から細い獣道が分かれていた。
レイがそちらへ鼻を向ける。
「何かいる?」
レイの尾が一度だけ動いた。
ルークはソラを見る。
「上から見てきてくれる?」
「キィ!」
ソラが飛び上がった。
数分後に戻ってきたソラは、獣道の方向を何度も嘴で示した。
昨日なら、そのまま近づいていたかもしれない。
今日は先に周囲を確認した。
少し離れた場所に、湿地の中では珍しく地面が乾いている場所がある。周囲には太い木の根も露出しており、泥に足を取られる心配も少ない。
「戦うことになったら、ここまで戻ろう」
レイが周囲の匂いを確かめる。
プルも触手で地面を叩いた。
それから四人で獣道へ入った。
いたのは、一匹の大きな蛙だった。
人間の腰ほどの高さがあり、黄緑色の背中に黒い斑点が浮かんでいる。
【ポイズンフロッグ】
【Lv:9】
【毒液 Lv.2】
【跳躍 Lv.2】
【舌撃 Lv.1】
討伐依頼が出ていた魔物だ。
ルークは戦わず観察することを選んだ。
ポイズンフロッグもこちらに気づいている。それでも襲ってくる様子はなく、少し離れた泥の中からマッドクラブを見つけると、長い舌で捕らえて飲み込んだ。
「思ったよりこっちを気にしてないな」
ルークが一歩だけ距離を詰める。
ようやくポイズンフロッグの喉が膨らんだ。
警告。
これ以上近づけば攻撃する。
ルークは止まった。
「ここまでにしよう」
その直後だった。
ポイズンフロッグが横へ跳んだ。
泥が爆発するように弾ける。
さっきまで蛙がいた場所から、巨大な顎が飛び出した。
【マッドリザード】
【Lv:15】
【潜伏 Lv.3】
【噛みつき Lv.3】
【泥潜り Lv.2】
「こんなのまで隠れてるのか……!」
ポイズンフロッグは逃げる。
マッドリザードが数歩追ったが、途中で止まり、今度はルークたちへ顔を向けた。
レイが前へ出る。
「戦わない。戻るよ」
ルークはすぐに決めた。
Lv15なら勝てない相手ではない。
しかし、ここは敵の場所だ。
昨日のスワンプリーチ戦で、それを思い知らされている。
ルークたちはゆっくり後退した。
マッドリザードは追ってこない。
一定の場所まで下がると、再び泥へ身体を沈めた。
「縄張りから出る気はないのか」
ギルド職員の言葉が少し分かった。
湿地では、魔物の強さだけを見てはいけない。
どこで戦うか。
それだけで危険度が大きく変わる。
乾いた場所まで戻った時だった。
レイが突然振り返った。
低い唸り声。
ソラも翼を広げる。
「何か来る」
草むらが大きく揺れた。
飛び出してきたのは、さっきのポイズンフロッグだった。
左後脚に傷を負い、跳ぶたびに身体が傾いている。
その後ろからマッドリザードが現れた。
一匹。
さらに一匹。
そして三匹目。
「三匹……!」
さっき見た個体もいる。
だが、それだけではない。
三匹とも身体の一部が黒ずみ、口の端から粘ついた唾液を垂らしていた。
ポイズンフロッグがルークたちの横を抜ける。
三匹のマッドリザードは止まらない。
「来る!」
ルークはスタッフを構えた。
今いる場所は乾いている。
レイが走れる。
ソラも敵を見失わない。
昨日とは違う。
「プル、正面! レイは右から!」
一匹目が地面を蹴った。
予想以上に速い。
プルが触手を伸ばす。
マッドリザードは直前で身体を沈め、触手の下を抜けた。
「プル!」
巨大な顎が開く。
プルが身体を硬化させる。
牙が食い込んだ。
硬化した表面に亀裂が走る。
「ぷるっ!」
ルークの背筋が冷えた。
キングスライムへ進化したプルの硬化を、一撃で傷つけた。
「離れて!」
プルが身体を膨らませる。
マッドリザードの顎が僅かに開いた瞬間、二本の触手を地面へ突き立て、自分の身体を後方へ引いた。
噛みつきから抜ける。
そこへレイが入った。
【疾走 Lv.3】。
銀灰色の身体が一気に加速し、マッドリザードの側面へ【爪撃 Lv.3】を叩き込む。
深い。
だが倒れない。
マッドリザードはレイを追わなかった。
傷ついたプルへもう一度向かう。
「同じ相手を狙ってる……!」
こいつは考えている。
一度傷つけた相手を狙えば倒せると理解している。
二匹目もプルへ向かった。
「ソラ!」
風刃が飛ぶ。
一匹の顔面へ命中する。
それでも止まらない。
首を振りながら突っ込んでくる。
「プル、下がって!」
ルーク自身が前へ出た。
怖い。
正面から見るマッドリザードの顎は、自分の胴体を簡単に挟めるほど大きかった。
それでもプルの前を空けるわけにはいかない。
一匹目が踏み込む。
ルークはスタッフを横へ振った。
頭を狙わない。
前脚。
金属で補強された先端が関節へ当たる。
マッドリザードの身体が傾いた。
成功した。
そう思った瞬間、尾が動いた。
「っ!」
腹へ直撃する。
革鎧越しでも息が止まった。
身体が地面へ転がる。
「ルーク!」
声はない。
それでもプル、レイ、ソラが同時に動いた。
プルの触手がルークの身体を引く。
直後、マッドリザードの顎が地面を噛んだ。
あと少し遅ければ脚を挟まれていた。
「大丈夫……!」
腹が痛む。
だが立てる。
ルークはスタッフを支えに起き上がった。
レイが一匹目へ飛びかかる。
爪撃。
離れる。
追わせる。
今度はレイが敵の注意を引いている。
その間にプルが二匹目の脚へ触手を絡ませた。
ソラが上空から風刃を撃ち込む。
ようやく連携が噛み合った。
だが三匹目がいない。
「……どこ?」
ルークは周囲を見る。
泥へ潜ったのか。
違う。
三匹目は戦っていなかった。
傷ついたポイズンフロッグを追っている。
「そっちが目的か!」
ルークは判断を誤っていた。
三匹全てが自分たちを倒そうとしていると思った。
違う。
二匹がルークたちを引きつけ、その間に一匹が獲物を追っている。
偶然そうなったのかもしれない。
それでも、結果として完全に分断された。
「ソラ、追って!」
ソラが方向を変える。
ルークも走ろうとしたが、腹に痛みが走った。
足が一瞬止まる。
その間にもマッドリザードがポイズンフロッグへ迫る。
間に合わない。
巨大な顎が開いた。
ポイズンフロッグが振り返る。
喉が大きく膨らんだ。
紫色の液体が吐き出される。
【毒液 Lv.2】。
マッドリザードの顔面へ直撃した。
「ギャアッ!」
初めて聞く甲高い声。
動きが止まる。
その瞬間にソラが到着した。
風刃が傷口へ入る。
マッドリザードが横へ倒れた。
そこへレイが向かおうとする。
「レイ、待って!」
ルークは叫んだ。
まだ二匹いる。
一匹を追えば、プルが一人になる。
レイの足が止まった。
一瞬だけ倒れたマッドリザードを見る。
それからプルの方へ戻った。
その判断で十分だった。
「こっちから倒す!」
プルが一匹の脚を拘束する。
レイが反対側へ回る。
マッドリザードはプルへ噛みつこうとするが、今度は読めている。
「プル、右へ!」
触手で身体を引く。
顎が空を噛む。
そこへレイの爪撃。
首元が大きく裂ける。
一匹目が倒れた。
二匹目が逃げようとした。
「ソラ!」
上空から風刃。
進路を変えさせる。
逃げた先にはプルがいる。
触手が胴体へ巻きついた。
地面へ叩きつける。
ルークも駆け寄った。
今度は尾の間合いに入らない。
スタッフの長さを使い、頭部を狙う。
一撃。
プルが押さえる。
二撃目。
レイの爪が首へ入る。
動きが止まった。
【マッドリザードを討伐しました】
【マッドリザードを討伐しました】
残る一匹。
毒液を受けた個体が起き上がっていた。
まだ動ける。
だが顔の片側が紫色に変色し、視界も失っているらしい。
それでも逃げない。
傷ついたポイズンフロッグへ向かう。
異様な執着だった。
「まだ追うのか……?」
ルークが息を整える。
ポイズンフロッグも逃げられない。
後脚がもう動いていない。
マッドリザードが一歩進む。
レイがその前へ立った。
低い唸り声。
マッドリザードが止まる。
互いに動かない。
次に踏み込んだのはレイだった。
正面から走る。
マッドリザードの顎が開く。
直前でレイの身体が横へ逸れた。
疾走。
死角へ入る。
爪撃。
深く首を切り裂く。
マッドリザードが振り返ろうとしたところへ、プルの触手が脚を払った。
巨体が横倒しになる。
ソラの風刃が首の傷へ重なる。
それで終わった。
【マッドリザードを討伐しました】
ルークはしばらく動けなかった。
腹が痛い。
プルの身体にも噛み跡が残っている。
勝った。
けれど昨日と同じように、少し判断を間違えれば誰かが大きな怪我をしていた。
「プル、見せて」
「ぷる……」
傷は深くない。
硬化が間に合った。
ルークはようやく息を吐いた。
「よかった」
プルの身体を撫でる。
その触手が伸び、今度はルークの腹を軽く触った。
「僕も大丈夫。ちょっと痛いけどね」
レイが近づいて匂いを嗅ぐ。
ソラも地面へ降りた。
三匹に囲まれ、ルークは苦笑した。
「そんなに見なくても大丈夫だって」
返事の代わりに、プルが腹をもう一度触った。
少し痛かった。
落ち着いてから、ルークは倒したマッドリザードを確認した。
【潜伏 Lv.3】
【噛みつき Lv.3】
【泥潜り Lv.2】
毒に関するスキルはない。
「プル。少しだけ吸収してみて」
プルが死骸へ触れる。
数秒後、表示が現れた。
【特殊素材を吸収しました】
【湿地魔物の体液を吸収】
【毒性:小】
ルークの表情が変わった。
「まただ」
昨日のスワンプリーチだけではない。
残る二匹も確認する。
【毒性:微弱】
【毒性:小】
同じ種類でも差がある。
さらに、傷ついたポイズンフロッグを見る。
自分自身が【毒液 Lv.2】を持っているにもかかわらず、後脚は濃い紫色に変色していた。
毒を持つ魔物まで、何か別の毒に侵されている。
祖先の『魔物観察録』にあった言葉が頭をよぎった。
『西の湿地。傷つけられた獣を食べるな。土地そのものが病んでいる場所がある』
「リューデンに戻ろう」
ルークは西を見る。
遠くに草木の色が暗く変わった一帯が見える。
調べたい。
その気持ちは強い。
だが今行くべきではない。
さっきの戦いで、自分たちはこの湿地の戦い方をまだ知らないと思い知らされた。
「今日は十分分かった。奥へ行くのは、もっと情報を集めてからにしよう」
レイが短く鼻を鳴らす。
今度は誰も反対しなかった。
帰り道。
レイが突然足を止めた。
草むらへ鼻を向け、ゆっくりと入っていく。
「何かある?」
追いかけると、半分泥に埋もれた小さな革袋が落ちていた。
中には傷薬、火打石、乾いた布。
そして木製の小さな札。
表面には名前らしき文字と、リューデンの冒険者ギルドを示す印が刻まれている。
ルークは昼に聞いた言葉を思い出した。
最近、帰ってこない奴が出てる。
革袋には泥がこびりついていた。
だが破れてはいない。
血もついていない。
レイがさらに奥へ鼻を向ける。
草むらの先は、西湿地へ続いていた。
ルークは迷った。
匂いが残っているなら、追えるかもしれない。
十二日前から帰っていない冒険者だとは、まだ知らない。
助けられる可能性だってある。
それでも腹の痛みと、傷ついたプルを見る。
「……戻ろう」
決めるまでに少し時間がかかった。
「今追ったら、また同じことをする」
気になるから進む。
助けたいから進む。
その気持ちだけで仲間を危険に晒せば、昨日から何も学んでいない。
ルークは木札を握り、草むらから離れた。
夕方。
リューデンの冒険者ギルドへ戻り、受付の男性へ革袋を渡した。
男性は中から木札を取り出す。
それまでほとんど変わらなかった表情が止まった。
「どこで拾った?」
ルークが場所を説明する。
「知ってる人ですか?」
「ああ」
男性は木札を握ったまま、しばらく黙っていた。
「西湿地の調査に入って、十二日前から戻ってない冒険者だ」
「十二日……」
ルークは思わず西側の窓を見る。
男性は木札を受付台へ置いた。
「こいつは湿地に慣れてる。少なくとも、お前みたいに泥へ真正面から入るような奴じゃない」
少しだけ棘のある言い方だった。
だがルークには、その方が気になった。
「それでも戻ってないんですか?」
「ああ」
男性の指が、木札の端を一度だけ叩いた。
「だから面倒なんだよ」
今日見つけた魔物の異常。
本来持っていないはずの毒性。
祖先が残した警告。
そして、湿地をよく知る冒険者の失踪。
ルークは自分の腹へ手を当てた。
今のまま奥へ入れば危ない。
それでも、もう西湿地をただの狩り場として見ることはできなくなっていた。




