第27話 少しずつ近づく距離
朝食を終えた後も、ウィンドホークは岩の上からほとんど動かなかった。
昨夜より左翼の腫れは少し引いているものの、まだ自由に飛べる状態ではない。何度か翼を広げようとしては痛みに耐えきれず動きを止め、そのたびに不満そうな声を漏らしていた。
「今日は無理しない方がいいよ」
ルークがそう言っても、当然ながら言葉が通じている様子はない。むしろ休ませようとするルークが気に入らないらしく、ウィンドホークは鋭い目でこちらを睨んでくる。
「そんな顔されても駄目だよ。昨日より良くなってるけど、まだ飛べないでしょ」
「キィッ!」
返事だけは力強い。
その横をプルが楽しそうに跳ねながら通り過ぎると、ウィンドホークはすぐにそちらへ顔を向けた。昨日からプルのことだけは妙に気になるらしく、近づいてくると嘴で突こうとする。
ただ、何度突いても柔らかい身体に弾かれることは学んだらしい。
今日は嘴ではなく、前へ一歩踏み出して足でプルを押した。
「ぷる?」
プルが少しだけ横へずれる。
ウィンドホークは満足そうに胸を張ったが、その直後にプルが身体を膨らませて軽く押し返した。思っていたより弾力があったのか、ウィンドホークは二歩ほど後ろへ下がる。
「キィッ!」
怒った。
「朝から何やってるの」
ルークが苦笑すると、少し離れた場所で伏せていたレイが顔だけを上げた。二匹のやり取りには興味がないふりをしているが、尻尾はゆっくりと動いている。
「レイまで楽しんでるでしょ」
声をかけると、尻尾がぴたりと止まった。
分かりやすい。
ルークは笑いながら荷物をまとめる。
「今日は山を下りよう。ウィンドホークを休ませながら、グランゼルに戻る」
本当なら、このまま中層周辺で狩りを続けたいところだった。プルはキングスライムへの進化条件があと二回で、レイもダイアウルフへの進化までLv20と特殊条件を残すだけになっている。
それでも怪我をしたウィンドホークを連れて強敵のいる場所へ進むのは危険だった。一度町へ戻って治療に必要な物を揃え、傷が治るまでは無理をさせない方がいい。
問題は、この野生の魔物がルークたちについて来る気があるかどうかだった。
「君はどうする?」
ウィンドホークを見る。
当然、返事はない。
ルークが荷物を背負い、プルとレイを連れて山道を下り始めても、ウィンドホークは岩の上に残ったままだった。
「やっぱりここに残るのかな」
少し寂しい気もするが、野生の魔物なのだからそれが普通だ。
無理に連れていくつもりはない。
「じゃあ、元気でね」
そう言って背を向け、十歩ほど進んだ時だった。
背後で石を蹴る音がした。
振り返ると、ウィンドホークが岩から降りていた。
「……来るの?」
ウィンドホークは一歩、二歩とこちらへ歩いてくる。しかしルークのところまでは近づかず、少し距離を空けたところで立ち止まった。
完全について来ると決めたのかは分からない。
それでもルークたちが再び歩き始めると、ウィンドホークも少し遅れて後ろをついてきた。
「それなら一緒に行こうか」
「キィ」
返事なのかどうかは分からなかったが、少なくとも離れていく気はないらしい。
飛べない鳥型の魔物と一緒に山道を歩くのは、思っていたより大変だった。
ウィンドホークは地上を長時間歩くことに慣れていないらしい。大きな翼と鉤爪を持つ脚は飛行には向いていても、岩場を歩き続けるには不向きだった。
何度か石につまずき、そのたびに何事もなかったような顔をする。
「大丈夫?」
「キィッ!」
本人は大丈夫だと言いたいらしい。
ルークが手を貸そうとすると必ず避けるため、無理に触らないことにした。その代わりプルが前へ進んでは戻り、ウィンドホークの周囲を跳ね回っている。
「ぷる!」
「キィ!」
「ぷるぷる!」
「キィッ!」
二匹は何度も声を掛け合っている。
「会話できてるのかな」
ルークには全く分からない。
それでも昨日より確実に距離は縮まっていた。少なくともウィンドホークは、プルが近づいただけで威嚇することはなくなっている。
少し先を歩いていたレイが、不意に足を止めた。
耳が前へ向く。
【気配察知 Lv.3】。
「何かいる?」
レイが低く唸った。
一匹ではないらしい。
ルークもスタッフを構え、周囲を見渡す。
山道の右側にある大きな岩の影から、黒い甲殻が姿を現した。
「アイアンアント……」
一匹目に続いて二匹目、さらに二匹が現れ、全部で四匹になった。
これまで戦った個体より少し大きい。
「大型個体かな」
ルークは一度ウィンドホークを見る。
怪我をしている以上、戦わせるわけにはいかない。
「君は後ろにいて」
言葉は通じなくても、手で下がるように示す。
プルとレイが前へ出た。
次の瞬間、四匹のアイアンアントが一斉に動き始めた。
「プル、正面を止めて! レイは右から!」
二匹のアイアンアントが正面から突っ込んでくる。
プルは身体を広げて受け止めるのではなく、【変形 Lv.2】で伸ばした触手を脚へ絡ませ、突進の方向を外側へずらした。
その隙にレイが右側へ回り込む。
狙うのは硬い甲殻ではない。
脚の付け根。
【爪撃 Lv.3】が関節へ入る。
一匹の脚が大きく傷ついた。
そこへルークも踏み込み、新しいスタッフの金属部分を同じ関節へ叩き込む。アイアンアントの身体が傾いたところで、レイが反対側からもう一度爪を振り抜いた。
一匹目が横倒しになる。
だが、残る三匹のうち一匹が突然ルークたちから離れた。
「まずい!」
向かった先にいるのは、戦闘から外していたウィンドホークだった。
飛べない。
今の状態では逃げることも難しい。
「レイ!」
呼んだものの、レイは別のアイアンアントを相手にしている。
プルも二匹を押さえていて動けない。
ルークが走り出す。
しかしアイアンアントの方が早い。
大顎を開き、ウィンドホークへ迫る。
それでもウィンドホークは逃げなかった。
傷ついた左翼を庇いながら右の翼を大きく広げる。
「何する気だ!」
次の瞬間、周囲の砂が巻き上がった。
【風刃 Lv.1】。
目には見えない風の刃が一直線に飛び、アイアンアントの頭部へ直撃する。
硬い甲殻に阻まれて深い傷にはならない。
だが顔が大きく横へ逸れ、大顎の軌道が外れた。
その一瞬で十分だった。
ルークが間へ滑り込む。
「ありがとう!」
スタッフを低く振り、前脚の関節を狙った。
金属部分が直撃し、アイアンアントの身体が大きく傾く。
その直後、再び風が走った。
ウィンドホークの【風刃】が、今度はルークが打ち込んだ関節へ正確に重なる。
傷口がさらに深くなり、前脚が完全に崩れた。
「僕の攻撃を見て狙ったのか……!」
偶然ではない。
ウィンドホークはルークがどこを攻撃したのかを見て、その傷へ自分の攻撃を重ねた。
若い個体なのに、かなり戦闘の感覚がいい。
倒れたアイアンアントが大顎を動かそうとしたところへ、レイが戻ってくる。【疾走 Lv.3】で側面へ回り込み、首の付け根へ【爪撃 Lv.3】を叩き込んだ。
二匹目が動かなくなった。
残る二匹も簡単な相手ではなかった。
プルが一匹の進路を触手で塞いでいる間に、もう一匹がレイの死角へ回ろうとする。群れとしての連携はマウンテンウルフほどではないが、数を生かしてこちらを分断しようとしていた。
「レイ、後ろ!」
ルークが声を上げる。
しかしレイが振り返るより先に、空気を切る音が響いた。
【風刃 Lv.1】。
ウィンドホークの放った風の刃が、レイの背後へ迫っていたアイアンアントの顔へ当たる。深い傷を与えるほどではないが、突然の攻撃に相手の動きが鈍った。
レイはすぐに反応し、横へ跳んで大顎を避ける。
そのまま身体を反転させ、脚の付け根へ【爪撃 Lv.3】を入れた。
「今の、レイを助けたのか?」
ウィンドホークは何も答えない。
ただレイの方を見ている。
レイも一瞬だけ振り返ったが、すぐに残る敵へ注意を戻した。
戦闘はまだ終わっていない。
プルが二匹の脚へ複数の触手を絡ませた。
「ぷるぅ!」
【硬化 Lv.3】。
触手を硬化させて地面へ固定し、二匹の動きを同時に鈍らせる。
「そのまま!」
レイが一匹の首へ飛び込み、ルークはもう一匹の脚を狙う。
スタッフで関節を何度も打ち、体勢を崩したところへプルが触手を引いた。
アイアンアントが横倒しになる。
最後はレイが戻ってきて首の付け根を切り裂き、四匹目も動かなくなった。
戦闘が終わると、ルークは真っ先にウィンドホークのところへ向かった。
「翼を見せて」
「キィッ!」
「怒っても駄目。さっき【風刃】を何回も使ったでしょ」
左翼そのものを動かしてはいなくても、攻撃のたびに身体全体へ力が入っている。確認すると、やはり昨日治療した傷が少し開いていた。
「ほら。やっぱり無理してる」
ウィンドホークは気まずそうに顔を逸らした。
ルークが薬草を取り出すと逃げようとしたが、その進路へレイが静かに立った。
ウィンドホークが鋭く睨む。
レイも動かない。
しばらく見つめ合った末、ウィンドホークは諦めたようにその場へ座った。
「ありがとう、レイ」
ルークは傷口をもう一度綺麗にし、薬草を塗り直した。
「強いのはよく分かったよ。僕たちを助けてくれたことも分かってる」
ウィンドホークがルークを見る。
「レイも助かった。本当にありがとう」
少し離れた場所でレイの耳がわずかに動いた。
ウィンドホークは何も反応しなかったが、今度は治療が終わるまで一度もルークを突かなかった。
それだけでも昨日とは大きな違いだった。
戦闘結果を確認すると、プルのレベルはLv20のままだった。
【プル Lv:20】
「やっぱり、今の種族ではLv20が上限なんだ」
経験を積んでも数値は増えない。
この先さらに成長するためには、キングスライムへの進化が必要になる。
一方でレイには変化があった。
【レイ Lv:18 → Lv:19】
「あと一つだね」
ダイアウルフへの必要レベルはLv20。
こちらも進化が近い。
ただし、ルークが気になっているのはプルの方だった。
進化条件を確認する。
【キングスライム】
【進化条件】
【Lv:20/20 達成】
【統率行動:1/3】
【スキル条件】
【硬化 Lv.3:達成】
【変形 Lv.2:達成】
【吸収 Lv.2:達成】
【特殊条件:硬質素材三種吸収 達成】
数字は変化していない。
今回プルは仲間を守り、戦闘でも全体を支えていた。
それでも【統率行動】には数えられなかった。
「ただ仲間を守るだけじゃ駄目なのか」
前回条件が進んだ時は、野生のスライムたちを助け、その後に安全な方向へ誘導した。
さらに表示には【同種個体からの信頼】という言葉もあった。
「やっぱり同じスライムを導く必要があるのかな。それとも、信頼された上で何かをする必要があるのか……」
まだ答えは出ない。
だが条件が簡単に埋まらないこと自体は悪くなかった。
何をすれば進化できるのか。
それを探して試すことこそ、ルークが昔から好きだったことでもある。
「焦らず探そう」
「ぷる!」
プルはいつも通り元気よく跳ねた。
再び山道を下り始めると、ウィンドホークは先ほどまでよりルークたちの近くを歩くようになっていた。
最初は数メートル離れてついてきていたが、今はプルの少し後ろを歩いている。時にはレイの横まで近づき、すぐに少し離れることもあった。
「さっきは本当にありがとう」
ルークがもう一度声をかけても、ウィンドホークは顔を向けない。
それでも歩く速度を変えることもなく、三人から離れていくこともなかった。
少し急な岩場へ差しかかった時、ウィンドホークの足が小さな石を踏んだ。
鉤爪が滑り、身体が大きく横へ傾く。
ルークは反射的に手を伸ばして身体を支えた。
「危ない」
一瞬だけウィンドホークの身体が硬くなる。
昨日なら、そのまま嘴で手を突かれていたかもしれない。
しかし今回は違った。
ウィンドホークはルークの手を見た後、ゆっくり顔を上げた。
「大丈夫?」
数秒間見つめ合う。
それからウィンドホークは自分で体勢を戻し、ルークの手から一歩だけ離れた。
拒絶するような鳴き声も、嘴も飛んでこなかった。
ほんの少し。
それでも確実に距離が縮まっている。
ルークにはそう思えた。
夕方前になると、山の下にグランゼルの城壁が見えてきた。
鉱山から立ち上る煙や、町へ向かう荷車の列も見える。
そこでウィンドホークが足を止めた。
「どうした?」
視線の先にあるのはグランゼルだった。
人の声が聞こえてくる。
荷車の音。
武器を持った冒険者たち。
町へ近づくほど、ウィンドホークの身体が強張っていく。
「人が多い場所が嫌なの?」
ルークは足を止めた。
昨日から人間への警戒心が強いことは分かっていたが、今の反応はそれ以上だった。
特に門を出入りする冒険者が持つ剣や槍を見るたび、ウィンドホークの目つきが鋭くなる。
何か理由があるのかもしれない。
ルークは無理に町へ連れていくことをやめた。
「今日は外にしようか」
グランゼルの門から少し離れた場所には、小さな林と岩場がある。
野営するには十分だ。
「僕たちは明日もここにいるし、飛べるようになるまで無理して町に入る必要はないよ」
プルが元気よく跳ね、レイもその場へ座った。
ウィンドホークは三人を順番に見る。
少し驚いているようにも見えた。
ルークは荷物を下ろし、野営の準備を始める。
「君が怖いなら、僕たちが外にいればいいだけだから」
どこまで意味が伝わったのかは分からない。
それでもウィンドホークはしばらくルークを見つめた後、自分から一歩だけ近づいてきた。
ルークは手を出さず、その場で待つ。
さらに一歩。
ウィンドホークはルークのすぐ近くまで来た。
昨日なら、これほど近づけば必ず嘴が飛んできた。
ルークが少し緊張していると、ウィンドホークは顔を伸ばした。
鋭い嘴が手の甲へ近づく。
だが、突かなかった。
嘴の先が、ほんの一瞬だけルークの手へ触れる。
それだけだった。
すぐに身体を離し、何事もなかったように近くの岩へ登っていく。
「……今の」
プルが嬉しそうに跳ねた。
「ぷる!」
レイも岩の上のウィンドホークへ耳を向けている。
ルークは自分の手の甲を見た。
助けたからではない。
餌を与えたからでもない。
今日、一緒に戦った。
互いに助け合った。
そしてルークたちは、ウィンドホークが嫌がる町へ無理に連れていかなかった。
その積み重ねの結果として、ほんの少しだけ認めてもらえたのかもしれない。
「明日は、もう少し仲良くなれるかな」
ウィンドホークは岩の上から夕方の空を見ている。
怪我した翼はまだ完全には広げられない。
それでも今、その魔物は逃げることなく、自分の意思でルークたちの近くに残っていた。
仲間ではない。
まだ名前すらない。
それでも昨日までより、四者の距離は確実に近づいていた。




