第11話 近づけない距離
翌朝。
ルークは昨日より早く宿を出た。
「行こう、プル」
「ぷる!」
向かう場所は決まっている。
昨日。
森の奥で出会った、一匹の狼。
後ろ脚には矢が刺さり。
全身を血で汚し。
それでも人間に牙を剥いた。
あの狼の姿が。
昨夜からずっと頭を離れなかった。
「……生きててよ」
ルークは自然と足を速めた。
森に入る。
昨日の道を辿る。
薬草採取の依頼はすでに達成している。
今日は依頼ではない。
ただ。
あの狼に会いに来ただけだ。
「この辺だったよね」
「ぷる」
血の跡はもうほとんど見えない。
目印にしていた大きな木。
そこから少し奥へ。
「…………」
ルークは足を止めた。
狼がいた。
昨日と同じ茂みの奥。
横になっている。
「よかった……」
生きている。
ルークが息を吐く。
その瞬間。
狼の耳が動いた。
顔を上げる。
目が合う。
グルルルル……。
「…………」
昨日と同じ。
いや。
それ以上かもしれない。
「おはよう」
グルルル……。
「やっぱり怒るよね」
「ぷる?」
ルークは近づかなかった。
少し離れた場所へ座る。
鞄から干し肉を取り出す。
地面へ置く。
「今日も持ってきたよ」
狼は動かない。
「毒なんか入ってないから」
当然。
言葉は通じない。
それでもルークは話しかけた。
「僕が食べようか?」
一つ取り出し。
自分で口へ入れる。
「ほら」
狼の目が。
ルークの口元を追った。
「見てる」
「ぷる」
「頭いいね」
狼の耳が動く。
「ぷる?」
「昨日もそうだった。ずっと僕たちを観察してた」
ただ怯えているだけではない。
こちらが何をするのか。
武器を持っているか。
どこまで近づくのか。
ずっと見ている。
「君も僕を調べてるんだね」
狼は答えない。
けれど。
ルークは少し嬉しくなった。
自分も同じだからだ。
分からないなら。
観察する。
知ろうとする。
「似てるかも」
「ぷる?」
「僕とあの子」
「ぷる……?」
プルがルークと狼を交互に見る。
そして。
「ぷる」
微妙な反応をした。
「なんで納得してないの」
しばらくすると。
狼が動いた。
傷ついた後ろ脚を引きずりながら。
干し肉へ近づく。
昨日より。
警戒する時間が短い。
一歩。
止まる。
ルークを見る。
また一歩。
止まる。
見る。
「…………」
ルークは目を合わせない。
やがて。
干し肉へ辿り着く。
匂いを嗅ぐ。
一口。
食べる。
その間も。
狼は何度もルークを確認していた。
「大丈夫」
ルークは動かない。
「取らないよ」
狼が食べ終える。
そして。
すぐ茂みへ戻った。
距離は縮まらない。
でも。
昨日より少しだけ早く。
食べてくれた。
「今日はこれで十分かな」
「ぷる」
ルークは立ち上がった。
その時だった。
狼も立とうとした。
「…………?」
前脚を地面へつく。
身体を持ち上げる。
後ろ脚。
矢が刺さっている方を地面へ――
「キャインッ!」
崩れ落ちた。
「!」
ルークが反射的に動く。
「待って!」
一歩。
狼が顔を上げる。
グルァッ!
「っ!」
牙。
ルークは止まった。
「…………」
狼の呼吸が荒い。
脚だけではない。
昨日より明らかに弱っている。
「まずい……」
矢が刺さったまま。
傷口も汚れている。
このままなら。
傷が悪化する。
「治療しないと」
グルルルル……。
近づけない。
「…………」
ルークは拳を握った。
無理に押さえることはできる。
今のプルなら。
弱った狼を拘束できるだろう。
その間に矢を抜く。
薬草を使う。
それが一番早い。
でも。
ルークはしなかった。
「嫌だよね」
狼を見る。
「人間に押さえつけられるのは」
昨日の冒険者たち。
両親を殺した。
自分にも矢を撃った。
そして今度は。
別の人間が力ずくで身体を押さえる。
狼からすれば。
同じだ。
「…………」
ルークは座り直した。
「待つよ」
「ぷる?」
「この子が決めるまで」
三日目。
また森へ来た。
「おはよう」
グルル……。
干し肉を置く。
狼は食べた。
二日目よりさらに早かった。
それだけ。
四日目。
「今日は肉じゃなくて、これ」
焼いた肉。
宿の主人に頼んで。
味付けなしで焼いてもらった。
狼の鼻が動く。
「いい匂いでしょ」
「ぷる!」
「プルのじゃないよ」
「ぷぅ……」
狼が。
初めて。
ほんの少しだけ。
プルを見た。
「…………」
その視線に。
昨日までの敵意はなかった。
興味。
そんなものに見えた。
五日目。
狼は。
ルークが肉を置く前から身体を起こしていた。
「待ってた?」
グルル。
「違うか」
肉を置く。
今までなら。
ルークが離れるまで動かなかった。
だが。
この日は違った。
ルークが座っている状態で。
狼が動いた。
「…………」
一歩。
一歩。
距離。
十メートル。
八メートル。
五メートル。
止まる。
ルークを見る。
「…………」
三メートル。
肉を食べる。
ルークは動かなかった。
手を伸ばせば。
まだ遠い。
でも。
今までで一番近い。
「すごいね」
小さく呟く。
狼の耳が動く。
逃げない。
「少しずつでいいよ」
六日目。
変化があった。
ルークが来ると。
狼がいなかった。
「…………え?」
いつもの茂み。
空っぽ。
「プル」
「ぷる?」
「いない」
治った?
移動した?
それならいい。
でも。
嫌な予感がした。
「探そう」
「ぷる!」
すぐに見つかった。
数十メートル離れた場所。
狼は。
地面の匂いを嗅ぎながら歩いていた。
傷ついた脚を引きずって。
「何してるんだ……?」
明らかに。
身体は限界に近い。
それでも。
何かを探している。
少し歩く。
匂いを嗅ぐ。
また歩く。
そして。
ある場所で止まった。
「…………」
ルークも気づいた。
地面。
乾いた血。
争った跡。
折れた矢。
昨日。
冒険者たちと出会った場所より。
さらに奥。
そこに。
二匹の狼が倒れていた。
「…………」
ルークは言葉を失った。
一匹は大きな灰色の狼。
もう一匹は。
少し小柄な狼。
どちらも。
動かない。
冒険者たちが言っていた。
『親は仕留めた』
「…………」
子狼が。
ゆっくり近づく。
大きな狼の身体へ。
鼻を押しつける。
反応はない。
もう一度。
押す。
反応はない。
「…………」
子狼が。
隣の狼へ移る。
同じように。
鼻を押しつける。
それでも。
動かない。
「…………」
ルークは近づけなかった。
狼は。
何度も。
何度も。
親の身体を押した。
起きろと。
そう言っているように見えた。
やがて。
動かなくなった。
その場に伏せる。
二匹の間。
まるで。
昔そうして眠っていたかのように。
身体を丸めた。
「…………」
ルークは唇を噛んだ。
探していたのだ。
ずっと。
傷ついた身体で。
親を。
もしかしたら。
生きていると思っていたのかもしれない。
あるいは。
分かっていても。
確かめずにはいられなかったのかもしれない。
「プル……」
「ぷる……」
プルも動かない。
ルークの横にいる。
しばらく。
誰も動かなかった。
どれくらい経っただろう。
狼が立ち上がった。
そして。
こちらを見る。
「…………」
目が合う。
いつもの。
人間を睨む目。
でも。
何かが違った。
怒り。
悲しみ。
恐怖。
全部が混ざっている。
「…………ごめん」
ルークは言った。
自分が謝ることではない。
分かっている。
それでも。
他に言葉が出なかった。
「助けられなくて」
狼の目が細くなる。
「僕は……」
何を言えばいい?
人間にも良い奴がいる。
そんなことを言っても意味がない。
自分は違う。
それを決めるのは。
自分ではない。
だから。
ルークは何も言わなかった。
ただ。
その場に座った。
狼が。
親の身体から離れた。
一歩。
ルークの方へ。
「…………」
一歩。
また一歩。
プルが動こうとする。
「プル」
ルークが小さく制した。
「大丈夫」
狼が近づく。
五メートル。
三メートル。
二メートル。
今までで。
最も近い。
そして。
止まった。
グルルルル……。
牙を見せる。
「…………」
それでも。
ルークは逃げなかった。
狼がさらに一歩。
一メートル。
手を伸ばせば。
届く距離。
「…………」
狼が。
ルークの匂いを嗅いだ。
「…………」
鼻が動く。
それから。
プルを見る。
「ぷる」
プルが小さく身体を揺らした。
狼が。
プルの匂いも嗅ぐ。
「…………」
不思議そうな顔。
なぜ。
魔物が。
人間のそばにいる?
そう問いかけているようだった。
プルが一歩前へ出た。
狼が警戒する。
だが。
プルは止まらない。
「プル?」
ルークも見守る。
プルが狼の前へ。
そして。
ぺたり。
自分の身体を。
狼の前脚へ触れさせた。
「…………」
狼が固まる。
「ぷる」
プルは逃げない。
狼も噛まない。
しばらく。
二匹はそうしていた。
やがて。
狼が。
ゆっくり。
その場へ伏せた。
「…………え?」
ルークが息を呑む。
後ろ脚。
矢が刺さった場所を。
ルークから見える方向へ。
身体を横たえた。
「…………」
偶然かもしれない。
でも。
ルークには。
そうは思えなかった。
「触っても……いい?」
返事はない。
ルークはゆっくり手を伸ばす。
狼の耳が動く。
止める。
さらに。
少し。
手を伸ばす。
毛に触れた。
「…………」
噛まれない。
初めて。
触れた。
毛は汚れ。
血で固まっていた。
身体も痩せている。
「治すね」
狼の目がルークを見る。
「痛いと思う」
矢を見る。
深い。
このまま抜けば出血する。
ルークは母から教わったことを思い出す。
傷口を洗う。
止血の準備。
薬草。
包帯。
全部並べる。
「プル」
「ぷる?」
「そばにいてあげて」
「ぷる」
プルが狼の顔の近くへ移動する。
「いくよ」
矢を握る。
狼の身体が強張る。
「…………ごめん」
一気に。
抜いた。
「ギャインッ!」
狼が暴れる。
「っ!」
牙がルークの腕へ。
反射的に。
噛みついた。
「痛っ……!」
「ぷる!」
プルが膨らむ。
「駄目!」
ルークが叫んだ。
「プル、攻撃しないで!」
「ぷる……!」
狼の牙が。
ルークの腕へ食い込んでいる。
痛い。
血が出る。
それでも。
ルークは動かなかった。
「大丈夫」
狼を見る。
「怖かったよね」
「…………」
牙の力が。
少し弱くなる。
「僕は何もしない」
ゆっくり。
狼が口を離した。
「…………」
ルークの腕から血が流れる。
でも。
今は後回し。
「傷、洗うよ」
水を使う。
狼が震える。
プルがそばにいる。
「ぷる」
狼がプルを見る。
暴れない。
薬草を潰す。
傷へ当てる。
包帯を巻く。
「……よし」
終わった。
ルークは大きく息を吐いた。
「終わったよ」
狼は動かない。
ただ。
疲れ切ったように横たわっている。
「…………」
ルークは自分の腕を見る。
噛まれた。
結構痛い。
「僕も治療しないと」
「ぷる……」
プルが心配そうに寄ってくる。
「大丈夫」
その時。
狼が顔を上げた。
ルークの腕を見る。
自分が噛んだ場所。
血。
「…………」
狼の耳が下がった。
ほんの少しだけ。
「気にしなくていいよ」
ルークは笑った。
「僕が勝手にやったんだから」
狼は。
しばらくルークを見ていた。
そして。
ゆっくり。
目を閉じた。
「…………寝た?」
「ぷる」
初めてだった。
ルークの前で。
この狼が。
目を閉じたのは。
「少しは……信じてもらえたのかな」
「ぷる」
ルークは狼の横へ座る。
契約の表示は出ない。
当然だ。
まだ。
そんな段階ではない。
この狼が失ったものは。
数日の食事と治療だけで埋められるようなものではない。
それでも。
昨日まで。
絶対に近づかせてくれなかった距離。
その距離は。
確かに。
少しだけ縮まった。
夕方。
狼が目を覚ました。
ルークは立ち上がる。
「今日は帰るね」
狼は見ている。
「また明日来る」
「ぷる!」
二人で歩き出す。
十歩ほど進んだところで。
ルークは振り返った。
狼は。
まだこちらを見ていた。
いつものように。
けれど。
もう。
唸ってはいなかった。
翌朝。
ルークはまた森へ向かった。
いつもの場所。
狼がいる。
「おはよう」
狼が顔を上げる。
ルークは干し肉を取り出した。
いつものように。
少し離れた場所へ置こうとする。
その時。
狼が立ち上がった。
「…………?」
傷ついた脚を庇いながら。
ゆっくり。
ルークへ近づいてくる。
一歩。
一歩。
そして。
ルークの目の前で止まった。
「…………」
手には干し肉。
狼が。
それを直接。
ルークの手から取った。
「…………!」
噛まない。
奪わない。
静かに。
肉だけを取る。
そして。
少し離れた場所へ座った。
食べ始める。
ルークは何も言えなかった。
「ぷる!」
プルが代わりに嬉しそうに跳ねた。
狼がプルを見る。
そして。
ほんの一瞬だけ。
尻尾が動いた。
「……今、振った?」
ピタッ。
止まった。
「振ったよね?」
「…………」
「プル、見た?」
「ぷる!」
狼が顔を逸らす。
「…………」
ルークは笑った。
まだ。
名前もない。
契約もない。
仲間ですらない。
けれど。
昨日までより。
ほんの少し。
近くなった。
それで十分だった。
焦る必要はない。
この狼が。
自分から近づいてくれるまで。
待てばいい。
ルークはまだ知らなかった。
この誇り高く。
誰より人間を警戒した狼が。
いつの日か。
ルークが何も言わずとも。
その意図を理解し。
誰より冷静に戦況を読み。
数多の魔物たちを率いる。
ルークの参謀となることを。
そして。
最初の従魔であるプルとは。
何度もぶつかり。
競い。
助け合い。
やがて誰より互いを信頼する。
かけがえのない相棒になることを。
今はまだ。
一人と二匹。
その距離が。
ほんの少し。
縮まっただけだった。




