第76話 「会長、名前呼びの『ミ』だけで動揺する」
黒瀬くんがまた、呼び方を変えようとした。
「ミ……」
たった一文字。
けれど、ミレイには十分すぎた。
ミ。
それはおそらく、ミレイのミ。
黒瀬くんは慌てて、
「ミスです。睡眠ミスです」
と言った。
睡眠ミス。
意味はまったくわからなかった。
でも、黒瀬くんが動揺していることはわかった。
そして、自分も同じくらい動揺していた。
リコが横で言う。
「会長、たった一文字で顔赤いですよ」
ミレイは咳払いする。
「赤くないわ」
「ミ、だけでそれなら、ミレイ先輩って呼ばれたらどうなるんですか」
ミレイは想像してしまった。
黒瀬くんの声で。
「ミレイ先輩」
その瞬間、ペンを落とした。
リコが言う。
「はい、落ちました」
「重力よ」
「今日の重力、名前呼びに反応してますね」
ミレイは一日中そわそわした。
黒瀬くんが話しかけてくるたびに、次こそ呼ばれるのではないかと思う。
「白鳥先輩、この資料……」
いつもの呼び方だった。
少し安心する。
少し残念にもなる。
自分でも忙しい。
放課後、二人きりに近い時間があった。
リコは職員室へ行っている。
生徒会室には、ミレイと黒瀬くんだけ。
黒瀬くんは書類を揃えながら、何度もこちらを見ている。
ミレイは勇気を出して言う。
「黒瀬くん、呼び方のこと、無理しなくていいのよ」
彼は少し驚いた顔をする。
「気づいていたんですか」
「ええ。少しだけ」
「少しだけ……」
ミレイは微笑む。
「でも、呼んでくれたら……たぶん嬉しいわ」
言ってしまった。
黒瀬くんは完全に停止する。
ミレイも、自分の言葉の威力に気づいて赤くなる。
しばらく沈黙が流れる。
黒瀬くんは小さく言う。
「練習してきます」
ミレイは思わず笑ってしまう。
「練習が必要なの?」
「必要です。ボス戦なので」
「私はボスなの?」
「いえ、最高難度ヒロインです」
言った瞬間、黒瀬くんは自分の発言に気づき、真っ赤になった。
ミレイも真っ赤になった。
◆オチ
リコが戻ってきて、二人の空気を見る。
「何がありました?」
ミレイは慌てる。
「何もないわ」
黒瀬くんも言う。
「何もありません」
リコは二人を見る。
「何もない人たちは、そんなに茹で上がりません」




