第十三章 博士の知らないレポート
バリ島での数日間は夢のように過ぎた。
直樹は辛い料理で涙を流し、観光客に「博士ですか?」と冷やかされ、夕暮れのビーチでアユの横顔にどぎまぎした。
それでも心の奥底では、ひとつの思いが膨らんでいた。
(これで、ようやく日本に帰れる……!)
免税店でお土産を買う場面を想像しながら、直樹はにやけ顔を隠した。
「帰ったらみんな驚くだろうな。いや、逆にバレて笑われるか……」
独りごちる彼に、アユが不意に問いかけた。
「博士、帰国……寂しいですか?」
直樹は思わずむせた。
「い、いや!その、まあ……」
――
観光を終えてホテルに戻った夜。
ベッドに倒れ込んだ直樹はスマホを手に取り、AIアプリを開いた。
画面に無機質な文字が並ぶ。
Navi:任務終了。帰国可能。
「……よし」
直樹は安堵のため息をついた。
だが、机に向かって書類を整理していたアユが振り返り、真剣な顔で口を開いた。
「博士、でもジャカルタの問題はまだ解決していません」
「ジャカルタの問題って……?」
アユは静かに説明した。
「人口が集中しすぎて、街はインフラが限界です。水も、道路も。
特に深刻なのは地下水です。工場や住民が井戸を掘ってくみ上げすぎて、地盤沈下が進んでいます」
直樹は目を丸くした。
「沈んでるのは洪水じゃなくて……地面そのものが下がってるのか」
ちょうどそこにハリムが加わり、淡々と補足した。
「違法井戸が数え切れないほどあり、取り締まりは難しい。メーターをつけても逃げられる。首都機能移転の議論まで出ている」
直樹は胃の奥が重くなるのを感じた。
(そんな大問題、俺がどうこうできるわけないだろ……)
――
思わず、口から出たのは冗談だった。
「じゃあさ……地方にディズニーランドみたいな巨大テーマパークを作れば、人も仕事も分散するんじゃない?
それと、違法井戸は……日本でテレビで見たんだけど、バイオグラウトって技術で埋めればいいんじゃないか?」
アユが目を丸くし、そして瞳を輝かせた。
「博士……それ、素晴らしいです!」
「えっ、いやいやいや! ただの思いつきだから!」
直樹が慌てて手を振るのも聞かず、アユはキーボードを叩き始めた。
「博士の新提案、レポートにまとめます」
――
翌朝。
荷物をまとめて「帰国だ!」と意気込んでいた直樹を待っていたのは、青ざめる知らせだった
「博士、政府に提出したレポートです。控えをどうぞ」
直樹は受け取り、ざっと目を通した。
数ページ程度のメモを想像していたのに――実際は百枚近い分厚さだった。
「な、なにこれ……!?」
見出しには大きく書かれていた。
《ジャカルタ都市問題解決に向けた総合提言》
(俺の名前が……!?)
ページをめくるごとに冷や汗が滲む。
地方の島を繋ぎ、マン島TTのような国際レースを開催 → 観光による人口分散
違法井戸を恩赦で整理し、バイオグラウトで補強 → 地盤沈下対策
中水利用の普及と減免申請制度の導入 → 都市の水資源管理
河口にマングローブを散在的に移植 → 消波堤・生態系保全
幼児教育での分別遊び導入 → 循環文化の育成
「ちょ、ちょっと待て! これ、俺そんなこと言ってないぞ!?」
アユは涼しい顔で答えた。
「博士が“少し”おっしゃったことを、私が体系化しました。日本での総務部での経験も活かされてますよ」
「いや、総務で減免申請の書類処理しただけだって!」
その時、外から足音が近づいた。
ハリムがドアを開け、短く告げる。
「博士の提案、政府で大きな反響です。すぐに説明を求められるでしょう」
直樹はその場で崩れ落ち、天を仰いだ。
(……もう絶対帰れない……!)




