蠢く種子15
夜の底が、朝に押し上げられ始めた。
夜警当番が、これで仕事も終わりだと欠伸をし始め、炊事当番が一日の火を起こさねばと寝ぼけ眼を擦る頃合い。
戦場にあっても間延びした時間を引き裂くように、狼の鳴き声が響いた。
上空からだ。
空を去り行く月を追いかけて来たように、あるいは空へ昇ろうとする太陽に食らいつきに来たかのように、その狼は、砦の上空に銀翼を広げて咆哮を轟かせている。
東部の戦場にいる王国兵なら、すぐにわかる。
天狼の襲撃だ。
誰も彼もの眠気が吹き飛び、一斉に戦闘態勢に入る。
その反応は、刻まれた恐怖に比例して迅速だ。
しかし、それでも、もう遅かった。
砦の城壁の上に、蒼い雷光が閃く。
そこで警戒と恐怖を叫んでいた兵達は致命的な静寂に沈み込み、他の兵達がより一層の大声で駆け回り始める。
奇襲によって作られる戦場音楽を、砦の外で寝起きするメアリは、目覚まし代わりに聞いた。
居心地のいい天幕に作られたベッドで、のんびりと身を起こし、乱れた黒髪をかき上げながらぼんやりとした目で天幕の中を見渡す。
「まだ早いけど、朝みたいね。東部の狼は薄明に来るのかしら。夜中だろうが昼間だろうがやってくる森の魔物よりは扱いやすそうだわ」
この程度で慌てる必要など、メアリお嬢様の淑女教育の中には存在しなかった。
可愛らしい欠伸を手で隠しながら、ベッドを共にした抱き枕を手でぽんぽんと叩く。
「ジャンヌ、起きて。身支度を手伝いなさい」
白い抱き枕は、主人の声にぱっちりと目を開いて、すぐさま白い侍女に変身した。
天狼の咆哮も、雷鳴も、彼女の眠りになんら障害とならないが、主人の命令だけは違う。
『おはようございます、メアリ様。お着替えですね?』
「ええ、そう。一応、鎧を着るわ」
『はい、直ちに』
跳ね起きて、自分の寝癖も構わずベッドから飛び出す。
水を多く溜めている植物に、顔を洗う水を用意させながら、タオルを取り出して、主人の髪を梳いて、着替えさせてとくるくる天幕の中を駆け回る。
クリストファー公爵家で成長したジャンヌの活躍によって、メアリは短時間で身支度を整えられた。
これには、長年侍女っぽい侍女を求めていたメアリお嬢様も大満足である。
「うん、今の動きはとても侍女っぽかったわ。偉いわね、ジャンヌ。その調子で今後もお願い」
よしよし、とお気に入りの白い侍女を褒めて、主人としての務めを果たすと共に、手早い身支度で生まれた余裕を遠慮なく貪る。
急いで槍を取って砦の救援に駆け付ける、などという思考は、メアリの脳裏を一瞬たりともよぎらなかった。
天幕に生らせていた葡萄を一房手に取りながら、のんびりと天幕を出る。
大粒の葡萄を一粒頬張りながら、砦へと顔を向けると、吠え声や怒号や悲鳴や雷鳴が姦しい。
「ずいぶんと大騒ぎねえ……」
「あ、おはよぉごじゃいまぁす、メアリおじょうふぁ~まぁ~……」
特大の欠伸混じりで挨拶をして来たのは、自称・侍女騎士のマリエである。
メアリに程近い天幕から、薄い寝間着姿でやって来た。どう見ても寝起き、しかもまだ目が覚めていないマリエに、メアリは残念そうに溜息を吐く。
「もう少し侍女っぽくしてくれない……?」
「いやぁ、あたし、今は騎士でもあるんでぇ」
「なおさらきちんとしてないとダメでしょう。一応、味方の防御拠点への敵襲なのよ?」
「やあ、申し訳ないっす……。でも、これは仕方ないって、お嬢様も思わないっすか?」
ぐしぐしと目を擦りながら、マリエは仕方ない理由を訴える。
「確かに敵襲なんでしょうけど、ほら、聞こえてきたのが、獣の声だったじゃないっすか。お嬢様の別荘でああいう鳴き声は聞き慣れてるっていうか、日常茶飯事っていうか……」
「まあ、魔物の声が聞こえたくらいで目が覚めていたら、わたしの別荘だと体がもたないのは事実よね」
マリエの甘えた言い訳を、お嬢様はやや眉根を寄せながらも受け入れた。
実際、お嬢様本人も、実家にいると錯覚して、そのまま二度寝しかけたのだ。ジャンヌが声をかけられるまで起きなかったのも、多分同じ理由だろう。
陣地にいる東部派遣騎士団全体が、あっちに見える砦の必死さとは裏腹にのんびりと準備しているのは、なんとなくメアリの実家を思い出しているからに違いない。
「まあ、いくらか仕方ないとは思うけれどね……。それでも、主人であるわたしに向かって、寝癖つけただらしない恰好で、欠伸しながら声をかける侍女がどこにいるの」
叱責に、マリエは自分を指さした。ここにいます、と言いたいらしい。
彼女の主人が、血染めの悪名を捧げられていることを思えば、実にいい度胸だ。
メアリお嬢様も、これには苦笑してしまう。
「いい加減にしないと、本気で叱るわよ。ほら、身支度しなさい。メアリ・ウェールズの配下がだらしない恰好をしているところを、他家の連中に見せるつもり?」
「失礼しました、メアリお嬢様! これより、侍女騎士マリエ、仕事に取り掛かります!」
寝癖をつけながらも、背筋を伸ばして敬礼したマリエに、よろしい、とメアリも頷く。
ついでに、自分が持っていた葡萄を一粒、その口に食べさせてやる。お駄賃替わりである。
「甘っ! これお嬢様のところの葡萄っすね! やっぱりお嬢様産はめちゃうまっすよ! これなら今日一日フルパワーいけます! ご馳走様です!」
うおー、と気合いの入った咆哮をあげて、マリエは走り出した。身支度に向かって。
ふざけた態度に見えるが、今回の派遣騎士団の中で、マリエはその力を十二分に発揮している。元の所属である銀鈴蘭侍女団で、筆頭侍女と名乗っていたのは伊達ではない。
マリエは優秀なのだ。
優秀、なのだが。
「やっぱり、侍女っぽくはないのよねぇ」
なんとか、マリエの優秀さと、侍女っぽさは両立しないものか。
メアリお嬢様はわがままな贅沢者なので、その悩みは尽きることがない。
頬に手を当てて嘆息しているメアリお嬢様の視線の先で、天狼から放たれる雷撃が曲がった。
「確か、マクシミリアンは、渡河攻撃の兆候があるからと前線に増援に向かっていたわね。そうだとするとあれは――」
砦の防御を打ち破らんとした雷撃が、再び曲がり、逆に天狼に向かって走る。
「フィリップが守りについたのね」
キャステリア王家秘伝の魔術は、雷を操るもの。天狼があのように雷で攻撃してくるならば、王家の秘伝魔術で対抗するのが効率的だろう。
国王が敵の攻撃を防いでいる間に、強化された兵から投槍や大弓による射撃を浴びせる。
一方的だった天狼の襲撃だったが、国王の登場で立場は逆転し、天狼が一方的に攻撃を受けている。
とはいえ、天狼は空を飛んでいる。
どれほど槍や矢が当たっているかは怪しい上、その気になればすぐに逃げ去れる。
いや、逃げるというより、国王がいない他の場所を襲撃しに行ける。たとえば、渡河攻撃の兆候が見られる前線陣地だとか。
「なるほど。これでは国王も第一王子も、戦場を離れられないわね」
あの天狼一匹のために、この東部の戦場に雷の秘伝魔術を扱える人材が、複数必要なのだ。
片方が砦に残り、片方は前線の守りに向かう。そのような体制でなければ、兵の被害があっという間に拡大する。
無論、天狼とて魔力の限界があるため、縦横無尽とは行かないだろうが、それでも一人では手に余ろう。
戦場を走り回るとは、王族ともあろう者が落ち着かないこと。いささかメアリは二人に同情した。
戦場を駆け回る大変さは、メアリも西部で十分に味わっていた。その上で、後方地域の統治に気を配らねばならない。
どこかで無理を支えきれないところが出てくるのは当然だ。
支配者とは、大変なものなのだ。
それゆえ、とある結社は理想の支配者を作り上げようとした。
メアリ・ウェールズは、同業者に気の毒そうな苦笑を向けて、髪をかき上げる。
「さて、あの躾のなっていない犬がまだ帰らないようなら、わたしも追い払う手助けに行ってあげようかしら」
配下の面々が応戦準備を整えたことを確認し、メアリが呟く。
それを遠い距離から、攻防の喧騒の最中に聞き取ったわけではなかろうが、天狼の動きが変わった。砦から距離を取ったのである。
あら、残念。
メアリが思わず呟くが、その表情はむしろ当然のものを見るような笑みがある。
天狼は、雷撃による攻撃と、上空を闊歩する飛行で、二重に魔力を使っている。
当然、その消耗は激しい。あれだけ暴れてまだ魔力が尽きないとは、流石は災害級の魔物に分類されるだけのことはある。
それでも無限ではない。
天狼の一方的な優位は、空にあること。
魔力が尽きて地に下りたならば、仕留めようはいくらでもある。
そして、メアリの手元には、絡め取って押さえつける手札は多数ある。
もし、余裕のあるうちに撤退を判断する能がないのであれば、今日のうちに東部の戦場は片付いたかもしれない。
だから、メアリは残念だと呟く。
余力を残すだけの能がある天狼は、毒を秘めた笑みを咲かせたメアリの、その不吉さを感じ取ることもできたのかもしれない。
砦の上空から離れていく天狼が、その翼を向けたのは、メアリの築いた陣地の方角だった。
砦とは比べ物にならない脆弱な野営陣地、今まで東部で見たことのない旗、撤退のついでにつまみ食いをするには、丁度いいと見えたのかもしれない。
加速しながら迫る災害級の魔物に、メアリの配下達も急いで自らの主人を囲む。
上から見る天狼には、小動物が身を寄せ合って身を守ろうとしているようにしか見えない。
一部は捕食者に狩られても、大半は命を守れる。そういう弱者の行動だ。
生憎、大食いの天狼にとって余計に狙いやすい的に見える。
大きな雷球が、天狼の鼻先に生まれる。
先程まで砦に撃ち込まれていたものより、さらに大きい。天狼が、自身のねぐらに帰るまで必要な魔力を残して、全力で打ちのめしてやろうと考えたのだ。
砦で小癪な抵抗を見せた連中に対するいらだちが、誇り高い狼にそうさせた。
蒼い雷球が放たれる。東部戦線の人間は、ウェールズ家の部隊が大打撃を受けることを予想した。
敵も、味方も、どちらもである。
しかし、メアリ・ウェールズは、自身の配下が応戦準備を整えた、と判断したのである。
キリエを筆頭にした薔薇騎士団の面々が、金花園芸団と銀鈴蘭侍女団から選抜した臨時の騎士団員の面々が……そしてなにより、混沌花の女王メアリ直属の大幹部、第一世代適合者ジャンヌの準備が整っているのである。
この状況にあって、メアリは防御の動きも、回避の動きも必要としなかった。
ただ、形のいい頤に手を当てて、妖しく微笑むだけ。
蒼い雷球が炸裂する。
メアリ配下の集団を守る、蒼い宝石のような盾に防がれる形で。
驚愕の気配が、天狼から伝わって来る。
一方、メアリ配下の反応は姦しくも、危機感がない。
雷の炸裂音に楽しそうな悲鳴を上げたもの、自らを守ってくれた盾の綺麗さに歓声を上げるもの、盾の主である白い侍女の天使力を賛美する者、いずれものんびりしている。
命の危険などどこにもなかった。そういう反応だ。
当然、一団の主もそうだ。
メアリは、自身の手札の中で最大の防御能力を持つお気に入りの仕事に満足げに小さく頷く。
適切な時機にお茶を持って来た時のように、当たり前の仕事を当たり前にしたことを褒める時と同じ仕草だ。
それで充分。
災害級の魔物が相手とはいえ、逃げるついでに放たれた、腰の引けた攻撃への対処など、茶汲み仕事と変わりない。
天狼が、メアリ達の上空を通り過ぎる一瞬、両者の間で応酬された攻防は、そういう意思を如実に伝えた。
天狼は飛び去りながら吠えた。
砦に攻撃を仕掛けた時の、愉悦を含めた鳴き声とは違う。
撤退を決めた時の苛立ちを含めた鳴き声とも違う。
憎悪をこめた、殺意の咆哮だった。





