蠢く種子7
カミラの言ったことは正しかった。
口惜しさと共に、グレイは思い知る。
彼女の実験体は、まだ完全に失敗したわけではなかった。
多くの生命活動を犠牲にしながらも、混沌花に抵抗し続けていたのだ。
グレイは、あらゆる手を尽くして、彼女の実験体を目覚めさせようとした。
しかし結社は、彼女の実験体を希少な事例と見なしながらも、グレイが要求する支援の大部分を叶えようとはしない。
グレイはもっと支援をしてくれるよう、必死に訴えた。
特に、実験体の父親であり、現在結社内で大きな実権を握っている導師エドワードに訴えた。
「あの実験体はまだ助かるはずです! もっとわたしのところに支援を回してください!」
すがりついた先で、実験体の父親は木石よりも無機質な顔で、枝が揺れるよりも非生物的に首を振った。
「君の要求はあまりに過大だ。他の全ての研究を止めろと言っているに等しい」
「それならば調達部門をもっと動かせばいいだけでしょう! 実験体はあなたの娘なんですよ!」
「そうだ、エリザベスは私の娘だ。だからこそ君の実験体になった。それは他の子も同じだということを、君は理解しているか」
冷え切った眼球が、グレイを見下ろしている。
もはや、それは人間の、生物の目とは思えないほどに凍えている。見つめられるだけで、グレイまで凍りついてしまいそうなほどだ。
「エリザベスはまだ生きている。その事例の希少性は私も理解している。だからこそ、まだ君の研究の打ち切りを命じていない。より多くの支援を求めるならば、エリザベスの事例から有意義な成果を吸い上げたまえ。新しい報告を随分と聞いていないが、なにかあるか」
結果を求める言葉に、グレイの唇が震える。
それができるなら、こんな男にすがりついてはいないのだ。
実験体達の父親は、研究者からの返事がないことに、失望もしなければ、叱責もしなかった。
「カミラの研究は順調だ。君に打つ手がなく、もしエリザベスのことを案じているのならば、現状維持に努めるといい」
命令とも言えない忠告めいた言葉は、怒鳴られるよりもグレイに衝撃を与えた。
「カミラ、さんが?」
「先日、カミラの担当の一人が王女化の段階に進んだ。結果的に失敗したが、これまでで最も手応えのある実験となったと見ている。カミラも、失敗から改善点を多く得て、次はもっと上手くやれると言っている」
「まさか、あんな、洗練されていない方法で……」
また、まさか、である。
グレイの思っていることと違う。グレイの知っていることと違う。
「まさか、まさか……? 導師、エドワード? それでは、まさか、このままカミラが成功すれば、わたしの実験体は?」
「王女化した混沌花があれば、エリザベスの体内の未成熟な混沌花を鎮めることも可能、と考えられる。そこまで簡単ではないだろうが、少なくとも今よりもわかることが増えれば、できることも増える」
グレイを見つめる男の眼差しは、どこまでも冷たい。
こんな冷血漢の言葉、とてもその通りには受け取れない。グレイは直感した。
もしも、カミラの研究が成功した時、いや成功の手前まで到達すれば、不要な研究は全て停止させられるかもしれない。
そうに違いない。だって、この男は、自分の子供をカミラが行っているようなひどい実験の犠牲にして、平然としているような人物だ。
逃げ出さなければ――グレイは決意した。
実験体を救うため、実験体と共に、こんなところから逃げ出さなければならない。
カミラの成功の前に、エドワードに切り捨てられる前に。
どうすればいい。どこに逃げればいい。どこまで逃げればいい。
焦燥と共に、彼女は研究室に戻る。グレイの知っている世界は、研究室の中にしかないからだ。
机の上の資料を手に取り、逃げるための都合のいい情報がないか文字を追う。
しかし、文字のほとんどは、実験体の今日の状態の報告ばかり。それも昨日と今日で変化がない。
役に立つ情報がまるでないと、資料を握り潰してめくり、次の資料に目を向ける。
「天狼が墜落した?」
それは、グレイが全く注意を払っていなかった、周辺国の情勢報告だった。
天狼といえば、強大な魔物だ。
それこそ、強大な魔力を誇る王族が討伐に乗り出さなくてはいけない。
つまり、エドワードの子に匹敵するか、上回る研究対象になる。
しかも、そうだ――グレイは自らの知性の閃きを感じた。
結社が打倒を目指している混沌花の女王は、大狼だ。天狼との共通点は多いはず。
研究対象として申し分ない。これは、国外へ出て行くのに丁度いい口実にできる。
「この天狼を、調べなければ……。でも、どうすれば?」
グレイの呟きに、隣で資料を整理していた研究員が、意外そうに顔を上げた。
「あれ、天狼に興味ありますか?」
「もちろんではありませんか」
「それはいいですね。実験体エリザベスの失敗以来、すっかりやる気がなくなってしまったとばかり」
そんなことはない。グレイはかすかに苛立ちを眉間のシワで表した。
自分は実験体を目覚めさせるため、救うために必死になっていた。
結社が、それに必要な支援をしてくれなかったばかりか、研究班から人員を引き抜くことさえしていただけだ。
今話している研究員も、グレイの下から去っていくことが決まっている。
資料を片付けながら、研究員は明るい口調でグレイに聞かせる。
「自分も面白そうなんで、向こうの国に詳しい奴に聞いてみたんですよ。そしたら、天狼の墜落の影響で、治安が乱れて怪我人が大発生しているから、結社の医学・薬学の知識を持って行けば、いくらでも潜りこみようがあるって話ですよ」
「それなら、確かに簡単ですね」
グレイでもできそうな内容に、口元を押さえて安堵の吐息を隠す。
「では、医者として行くのがいいでしょうか?」
「いきなり医者だって行っても、天狼まで辿り着くのは大変じゃないですか? 結社の常とう手段、商人に化けて向こうのお偉いさんと接触するか、あるいは向こうで流行っている宗教の信者として接触するのがいいんじゃないか、って話でしたけど」
宗教? 結社では馴染みの薄い言葉に、グレイが不思議そうに聞き返す。
「ええ、あっちの国じゃ、神等教って宗教が、怪我人や病人の世話をしているんだそうです。なんでも、神の下に全ての人は平等だから、余裕のある人間が貧しい人間に施して平等に、とかなんとかって理屈らしいですよ」
答えた研究員は、カミラに似た嘲笑を浮かべていた。
「結社とは相容れない考えですよねえ。結社は強い支配者を作って、人の上に立ってもらおうってんですから、全ての人は平等って言われてもピンと来ないって言うか」
研究員の言う通り、その宗教の教えは、結社とは相容れない。
その事実が、グレイの心のなにかを震わせる。
「それにほら、やっぱり人って能力にも、出す成果にも差があるじゃないですか。その差を神なんて巨大な数値と並べて、小さいから人の数値に有意の差はない、ってのはひどい誤魔化し方ですよ。それで道理が通るなら、自分達の研究ももっと楽ですよねぇ」
「そうですね。本当に、そう思います」
グレイは頷いた。
結社の人間として、その宗教を馬鹿にするには、妙に熱心な頷きだった。
「ですよねぇ。まあ、もし調査に行くなら、大人しく商人の方がいいでしょうね。この結社の人間じゃ、その宗教に馴染める気がしないですから」
「ええ、少し、考えてみます」
神の下に人は平等。
考えたこともなかった思想は、瞬く間にグレイの胸の内に根を張り、広がっていく。
「面白い。面白いですね」
本当に平等ならば、一体どうなるのか。
考えが広がる。
自分とカミラが平等なら?
彼女の成功も、自分の失敗も、存在しない。
だって、平等なのだから存在したらおかしいではないか。
カミラが成功するなら、自分も成功するはず。自分が失敗するなら、カミラも失敗するはず。
そういう話になるのか。
違うとしたら、平等とはなんだ。
どういった手順でそうするべきか、グレイにはまだわからない。
しかし、彼女の中ではすでに決定していた。
「天狼を調べに行きましょう」
そうすれば、平等について知れるかもしれない。
自分の実験体も目覚めるかもしれない。
カミラの成功を見ないで済むかもしれない。
エドワードの冷たい眼差しを見なくて済むかもしれない。
全ての良いことが、天狼に繋がっているかのようにグレイには感じられ、久しく覚えていなかった喜びが得られる。
「実験体を連れて行く許可は出ないでしょうね。かといって、実験体だけを残して行っては、カミラやエドワードに処分されるだけでしょうから、どうやって連れて行くか。……処分、処分か」
生きた実験体を連れ出すことは難しいが、実験体が死んだことにすれば、連れ出す隙は多くなる。
「そう、そうですね。その方向で、なんとか計画を……ええっと……」
先程握り潰した、実験体の資料を改めて確認する。
現在の実験体の状態と、その名前を見直すためである。
「エリザベス。そう、エリザベスでしたね。あなたのことは、必ず救ってみせますからね」
決意を口にするグレイの表情は、見通しの良い未来が開けたかのように明るい。
彼女は新しく見えた光景に向かって迷いなく進み出す。
その後、実験体エリザベスは死亡が報告され、身軽になったグレイは研究のため隣国へと旅立った。
結社・混沌花は、秘密の影の下に、深淵の闇の中を這いずる集団である。
その視野は暗く、低く、狭く、見えているものよりも見えていないものの方が多い。





