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森へ入りしばらく走った後、唐突に馬車は止まった。外から扉が開けられ、目も合わせぬ御者が身振りだけでさっさと降りるようにと促す。先に降りた使者は、当然だが手を差し伸べる気などさらさら無いようだ。足を挫かぬよう、高いヒールで慎重に地面に降り立った。
「人の子がこの地に何用か?」
威厳のある低く冷たい声が響く。はっと気がつくと私と使者は玉座に座った男と対峙していた。どうやら遠くに見えた城の中の謁見室のようだ。転移させられたのだろう。あの距離を、一瞬で。力の差を見せつけられているようで身がすくむ。
男――魔王は気だるげにこちらを見下ろしていた。真冬の湖のような水色の髪は短く切り揃えられ、わずかに目に掛かった前髪の隙間からは、金色の瞳が輝いて見えた。美しい。その一言に尽きた。やはり人間ではないのだ。あまりにも美しすぎる。
「その瞳の色……確か西方の王族の証だな」
「あなた様のおっしゃる通りこの者は我が国の王家の血を引く娘でございます」
私が魔王に見惚れていると、先に我に返ったらしい使者が口を開いた。どの道、私に発言権も選択肢も無いのだ。遠慮なく闇夜に浮かぶ月のような金色の瞳を見つめることにした。
「魔王陛下が、海の国を攻め滅ぼしたという噂を耳しました。しかし、我が国は魔王陛下と良好な関係を築きたいと考えておりまして。この娘を献上しようと参ったわけでございます」
「なるほど、約束事好きの人の子らしい考えだ。我は降りかかる火の粉を払ったにすぎんのだがな」
魔王の美しい顔に嘲笑が浮かぶ。浮世離れした風貌だけに余計に恐ろしい。背筋がゾクリと震えた。
冷ややかな視線を浴びた使者がびくりと身を強張らせる。
「……まあ、よい。貰えるものは貰っておこう」
ひらりと虫を払うように手を降ると、使者は跡形もなく一瞬で消えた。ここへ連れてこられた時のように転移させられたのだろう。
面倒事が片付いたといわんばかりに仰々しくため息を吐いた魔王は、じっと私を見つめた。
「さて、人の子よ。そなたは我に何を望む?」
「私のこの身を捧げます。ですからどうか、我が国を、民を侵さぬと約束してくださいませ」
散々叩き込まれた文言は、すらすらと口から出てきた。魔王は気分を害するかもしれない。そうしたら、殺されるのだろうか。悪くない。できれば苦しまずに死にたいけれど。願うのはそれだけだ。
「……ふむ」
魔王が長い足を組み替える。金色に輝く瞳がすべてを見透かしているようで落ち着かない。
「己の欲望に素直になれ、人の子よ。そなたを虐げ、省みず、挙げ句捨て駒にするような国を本当に救いたいと思っているのか? ここにはそなたと我だけ。好きに物を申して構わんぞ」
予想外の言葉だった。私に、意見を求めてくれた。
じわじわと胸の奥から歓喜が湧き上がる。私を、私の相手をしてくれているのだ。こんなにも恐ろしく、美しい存在が。
「…………い…」
「ん?」
「……あんな国、どうなってもいい。あいつらが死んだってどうだっていい。命は惜しくない。でも、あいつらの為に死ぬのは嫌だ」
わずかな沈黙の後、魔王が音も無く立ち上がった。
圧倒的な存在が、ゆったりとした動作で近付いてくる。殺されるのだろうか。しかし、予想に反して魔王は優しい手付きで私の頭を撫ぜた。
「よく言った。これからは欲望に素直に生きればよい」
とても温かい手。心地よい人肌に思わず、すり寄ってしまう。愛玩動物を撫でるように頬から下へ滑った手が、すっと顎を持ち上げた。
「その美しい瞳を良く見せよ」
余程、私の瞳を気に入ってくれたのだろう。こちらを見つめるうっとりとした表情が恐ろしく色っぽくてゾクリとしてしまう。吸い込まれそうな金の瞳を見つめ返していると、唇が重なった。柔らかく、しっとりとした薄い唇で、幾度となく食まれる。心地よさに力が抜け、引き寄せられるままに魔王に身体を預けた。
「……ロベリア」
脈絡もなく、魔王は花の名前をつぶやいた。
「美しき花の瞳を持つ娘よ。そなたは我のロベリアだ。これからは我のために生きよ。出来るか?」
「……あなた様が、私を必要としてくださるのなら」
「愚問だな。魂、血肉の一片まで我のものとなったのだ。その魂が尽きるまで側にいろ。尽き果てるその時にはその魂を食らってやろう」
かくして私は、魔王に囚われた。




