悪魔は過去に
『りんごちゃん、ぼくやっぱむり…』
彼を探している大人たちから隠れて少年はそこにいた。
衣装や細具を一時的に置いておく、せまいクローゼットのようなものに囲まれた奥にある大人たちからは死角になるちいさな場所に。
『大丈夫だよ、青くんはカメラの前に出なくていいんだよ』
彼は、配役のひとり。
《白雪姫》の王子役―――の「声」だけを担当するために呼ばれた少年だった。
天才子役、姫菱りんごの相手に選ばれた少年は見目も演技も子役としては抜きん出ていたのだが惜しむらくは―――子供特有の滑舌の悪さ。
さ行とは行が聞き取りずらいと監督が撮影を中断したがために連れられてきた、ほとんど素人の少年だった。
現場を見に来たどこかのスタッフの子供。
たしかに、少年の声は高くもなく低くもなくどもらない。
そこらへんで拾ってきたにしてはかなりの逸材だった。
しかし、素人だ。
いきなり淀みなく台詞を言えるわけはなく。
大人の理不尽な怒りにさらされて泣けずに。つもりつもったものが爆発したのか、あと少しのところで少年は姿を消した。
『むりだよ。なんかい、いえばいいの』
言えるまでだ。
役者とはそういうものだ。
求められたらそれを差し出さなければならない。
しかし、彼はつい最近まで画面を眺めるだけの存在で。
まさか自分が画面の中に引きずりこまれるとは思わなかったのだろう。
自分は一般人だという気持ちを捨てられていない。
『大丈夫、君になら、できるよ』
それなら。
それなら、役者としての覚悟を引きずり出すだけだ。
『青くんの声、好きだな』
少女は、りんごはにっこり笑って少年の顔を手のひらで包んだ。
ぼっと、彼の顔が赤くなる。
そのはずだ。
姫菱りんごは美少女だ。お茶の間に愛される、正真正銘人気のアイドル。
それを自覚して、売り物にする。
だからこんなことをしても、良心が痛まない。
かわいらしく見える角度を調整して、少年を上目遣いでささやく。
『がんばってみようよ。わたしがずっとそばにいるから』
『りんごちゃんが…?』
昔の、あのひとのように支えてあげよう。
どうしても駄目になったら、抱きしめてあげる。
『約束、しよう? 今日の撮影、きちんと終わったら青くんのお願いひとつ、聞いてあげる』
『おねがいって、なんでも…?』
お菓子でもキスでも好きなだけあげる。
りんごはいままでそうしてきたのだ。
泣きそうな少年の頬に、軽くキスをする。
『うん、そうだよ』
なんでも、聞いてあげる。
少年は、赤くなりながらもゆっくり、しっかり考えてからそれを口にした。
『それなら、それならぼくがもっとおおきくなったら』
「大きくなったら、声だけじゃなくて共演してくれますか」
顔を覆いたい。
覆いたいが、手は頭の上に拘束されて無理だ。
言った。
たしかにそう言っていた。
わたしは彼の役者としての覚悟を引き出せたと喜んで頷いた―――だってその時はまさか自分がその世界からいなくなるだなんて思わなかったから。
「だけど、あなたはいなくなった」
泣きそうな笑顔のまま、少年は言う。
「あなたを追いかけて入った世界なのに。あなたはその直後にいなくなった。ぼくの、絶望があなたにはわかりますか」
「………」
わからない。
わたしは、あのとき、自分のことでいっぱいいっぱいだった。
逃げるだけで精一杯で、追ってきてくれたこの子のことなんてちっとも思い出せなかった。
「右も左もわからない世界であなただけが指標だったのに―――しばらくしたら戻ってくると信じていたのに」
彼のしばらくは、どれだけだったのか。
一年?
三年?
それとも、十年?
わたしは、姫菱りんごは死んだのだ。
戻らない。
いや、もう戻れない。
「姫菱りんごは、死んじゃったの。いまのわたしはただの―――幽霊だよ」