左です。
乗合馬車の荷台で丸一日揺られると、人は自分の骨の数を正確に言い当てられるようになる。
王都の南門で降りたとき、私の荷物はトランクがひとつ、路銀は宿代の三週間分、紹介状が一通。父の封蝋は少し欠けていた。荷台の隅で他人の肘に何度も押されたせいだ。
宛先は王立文書館。用件は見習い登用試験の受験。落ちたら家に帰って、隣領の毛織物商との縁組を受ける。男爵家の三女で、持参金の当てもない。断れば厄介者、受ければ厄介払い。話はもう半分決まっている。
前の晩、狭い石畳の夢を見た。両側から壁の迫る路地。突き当たりの手前で道が二つに分かれていて、その分かれ目に、蓋をした井戸がひとつ。そのそばで、誰かが板を叩いていた。とん、とん。二つ続けて、ひと呼吸ぶんの間を置き、また二つ。目が覚めても、しばらく耳の奥に残っていた。
馬車の疲れだ、と思うことにした。
宿へ向かう途中、妙な一角を通った。
建物がぐるりと壁で囲われ、門は石と漆喰で塞がれている。窓はどれも板が打ちつけられ、通りに人の気配がない。王都のまん中に、そこだけ息を止めたような場所があった。
地図を確かめようと足を止めたら、通りがかりの女に手の甲で払われた。
「そこは見るところじゃないよ」
それだけ言って、女は足早に行ってしまった。私は壁の位置を頭の隅に書き留めて、先へ進んだ。
文書館は石造りの四角い建物で、正面に十二段の石段があった。私は約束の刻限より半時ほど早く着いた。早く着くのは私の数少ない美徳のひとつだ。
門衛が一人、石段の下に立っていた。騎士だった。若い。けれど、目の配り方が若くなかった。人ではなく、出入口と、そこを通るものの流れを見ている。
私が石段に足をかけたとき、その騎士が言った。
「左です」
考えるより先に、体が左へ寄った。右の靴先がかすめた敷石が、こつん、と鳴って傾いた。もとからゆるんでいたのだ。
私は一段上で立ち止まり、振り返った。
「……ありがとうございます」
「よくゆるむんです、その石は」
騎士はそれだけ言った。石段を毎日見ている人間なら、知っていて当然の話ではある。そう思おうとした。
中へ入ろうとしたとき、背中に声がかかった。
「マイヤー嬢」
私はまだ名乗っていなかった。
振り返ると、騎士は私の鞄からのぞいた封筒に――その隅の、マイヤー男爵の名に、それから門衛台帳に、順に目をやった。
「受付にお名前が回っています」
説明はつく。全部、きれいに説明はつく。
それでも私は、石段を上りきるまで一度も足音を乱さないように歩いた。理由は自分でもわからなかった。
試験そのものは、拍子抜けするほど静かだった。
通された小部屋で、普通紙に書き写された抜粋を何枚か渡された。九十年前の避難記録と、その前後の年の人頭記録。指定の欄の数字を照合して、誤りを正す。赤斑病の流行のとき、王都がどの区から民をどこへ移したか、という記録だ。
途中で、おかしな箇所に気づいた。
ある世帯が、南の外区から百人あまりの避難民を「受け入れた」ことになっている。百人が入る屋敷なのかどうかも気になったが、それより、その世帯そのものが、渡された人頭記録の抜粋のどこにも出てこない。受け入れたはずの側が、見当たらない。
「こちらの欄ですが」私は係の役人に紙を示した。
「受け入れ先の世帯が、渡された範囲では見つかりません。転記の誤りか、あるいは――」
「古い書き損じです」
役人は紙を見もしなかった。
「指定した項目だけ答えてください。訂正はこちらで別に処理します」
言い方に棘はなかった。ただ、これ以上仕事を増やしてくれるな、という響きだけがあった。私は指定された欄だけを埋めて、部屋を出た。
合否は告げられなかった。
けれど、採る気はないのだと私は受け取った。廊下で待たされ、「追って沙汰があります」と言われ、そのまま帰された。追って来ない沙汰の顔つきを、私は前にも見たことがある。
石段の下に、まだあの騎士がいた。
私が最後の段を下りると、彼のほうから口を開いた。
「照合係に、欠員が出ています」
「……はい?」
「登用試験とは別枠で、臨時の採用があります。有給で、賃金は週払いです。半年勤めて実績を認められれば、正式な登用に回してもらえます。判断するのは古参のドルン女史です。試験官ではなく」
週払い、というところで、肩の力が少し抜けた。それなら宿代は続く。
それでも私は、すぐには返事をしなかった。見ず知らずの門衛が、なぜそこまで知っていて、なぜ私に教えるのか。理由を探したが、見つからなかった。
渡された話は、それでも本物に聞こえた。
「……ありがとうございます」私は言った。「帰るしかないと思っていました」
彼は小さくうなずいただけだった。
「申し込みには、照合の見本を一枚つけます。課題の用紙は、受付でもらえます。書いて、ドルン女史宛に」
「わかりました」
「ドルン女史に、愛想は必要ありません」
「それは助かります。今日は使い切りました」
「数字の出典は必要です」
「そちらは残っています」
彼の口の端が、ほんのわずかに動いた。笑ったのだと気づくのに、少しかかった。
門の脇に、記念祭の準備を知らせる貼り紙があった。それを見て、私は祝日はいつかと尋ねた。休みの日に歩いて街を覚えておきたかった。
「封鎖の記念祭が、三月ほど先です。九十年前、民の避難が無事に終わったことを祝う日です」
「では、その頃までには仕事にも街にも慣れておきたいですね」
「――その日の夕方は、一人にならないでください」
返事が、あまりに早かった。
「……なぜです?」
「祭りで人が出ます。南のほうは特に混む。慣れない人が巻き込まれると危ない」
筋は通っていた。通っていたが、声の切迫が、内容と釣り合っていなかった。祭りの雑踏の話をする声ではなかった。
「……お名前を、うかがっても」
「レントです。アーベル・レント」
彼は「では」と短く言って、門のほうへ戻っていった。
その夜、安宿の狭い部屋で、私は紙を一枚広げた。
いちばん上に、彼の名前を書いた。アーベル・レント。王都騎士団。
その下に、彼が今日口にしたことを順に書き出す。ゆるんだ敷石。名乗る前の「マイヤー嬢」。試験官が知らせるより先に知っていた欠員。記念祭の夕方の警告。
一つずつ、隣に印をつけていく。石段を知る門衛なら、説明がつく。封筒に差出人の名があったなら、説明がつく。文書館付きの騎士なら、館内の欠員くらい耳にする。
記念祭の夕方だけ、どの印もつけられなかった。
私は別の紙に、街衛兵所にいる従兄あての手紙を書いた。アーベル・レントという騎士の配属先を教えてほしい。それと、あの人はまともか、と。
最後に、受付でもらった課題の用紙を広げた。臨時採用の申し込みにつける、照合の見本。数枚の抜粋を突き合わせ、誤りを見つけて、直す。ドルン女史宛。愛想は要らない。数字の出典だけ、そろえればいい。
彼が何者であっても、確かめに行く先はできた。臨時採用のことも、彼のことも、明日から動ける。
警戒と感謝は両立する。私は、両方やる。
はじめまして。お読みいただき、ありがとうございます。
リーゼが自分の居場所と、まだ知らない明日を見つけるまで、お付き合いいただけたら嬉しいです。
毎日18時に更新予定です。




