番外編1-2 少年Sは退学を決意する。
「これで退学手続きは完了です。最終登校日は明日ですね。学生証の返却と退寮は一週間以内にお願いします。学生証返却までは校舎への立ち入りは今まで通りで大丈夫です。お疲れ様でした」
少年Sがこの決断に至るまでに三週間、この退学願一枚を書き終わるのさえ二時間費やしたのだが、受理されたのは一瞬のことだった。
あれこれ複雑な手続きが必要かと思ったのだが、教務課に退学願を渡すとスムーズに退学は承認された。
Sの事故のことは校内でも噂が立っていたので、予めこのことは想定して準備をしていたのかもしれない。
あまりの呆気なさに自分の学生生活もあと数日である、という実感が湧かない。六年近くの学園生活がこの紙切れ一枚で無かったことになるだなんて、なにかの冗談のようだ。
「この学年の首席卒業はきっとあなたかオルコットくんのどちらかでしょうと話をしていたものですから、卒業後の活躍を楽しみにしていました。卒業を見届けられなかったことが残念でなりせん」
教務課の職員は、おそらく本心で言っているのだろ。眉を垂らして、哀れむような表情を浮かべた。
それを聞いたSは曖昧に笑う。かつてライバル視していた同級生の名前を聞いて、複雑な気持ちになった。
自分で言うのもなんだが、Sは優秀な学生だった。魔法使いとしては新興の家をなんとか盛り立てようと必死に勉学に取り組んだ。幸いにもその努力が結実し、この名門王立アンドレア魔法学園でも、全ての科目で一位か二位の順位をとってきた。卒業後は魔法軍士官学校の入学も決まっていた。
しかし、どれだけ足掻いてもSの上には同級生のロバート・オルコットが立っていた。同率一位の成績はあれど、オルコットがSの下にいた試しはない。その彼を差し置いて首席卒業だなんてありえない話だ。
それが分かっていても、品行方正、眉目秀麗、更に家格では遠く及ばない彼に勝つことはSの在学中の目標だった。卒業試験では彼よりも高い点数を出すことを目指していた。しかし、中退を決めた今となっては実現不可能な夢となれ果てた。今の自分にはまだ、彼の名前を聞いて穏やかな気持ちでいられるほど、気持ちの割り切りはできていなかった。
「仕方のないことです。今の俺では卒業試験に受かる見込みがないのに、諦め悪くこの場にしがみつくわけにはいきません」
Sは右目を隠す眼帯に手を添えた。Sの将来計画が崩れたのはすべてこの瞳の怪我のせいだった。
それは自室の魔法薬を整理していた最中に起きた事故だった。
最悪を想定できなかったと言えばその通りで、注意不足の謗りも甘んじて受け入れよう。それでもドミノ倒しのように不運が重なった結果であることは言っておきたい。
一つ目の不運は突発的な地震だった。アンドレア王国では地震は珍しい。体感で分かるほどの激しい地震は数年に一度起こるかどうかと言ったところだ。幸いにも建物が倒壊するほどの被害はなかったようだが、ちょっとした被害はそこらであったそうだ。Sの場合もそうだ。具体的に言うと、高いところにある棚から魔法薬の瓶が落下した。
普段ならそんな事故はありえない。魔法薬用の棚は魔法で固定しているし、中の魔法薬も同様だ。しかし、この時は整理のために、魔法薬の瓶の固定魔法を解除していた。棚は動かずとも、建物が揺れれば、固定されていない瓶は動く。整理のために棚の扉を開けていたことも悲劇の一因だった。
二つ目の不運は落下の最中に瓶と瓶が衝突したことだった。
魔法薬を保存している瓶には衝撃を和らげる保護魔法をかけていた。この魔法があることで、床に落下してもその瓶は割れることはない。だから問題はSの頭の上で、保護魔法がかかった瓶と保護魔法がかかった瓶が衝突したことだ。魔法のおかげで瓶は割れずとも、その衝撃は確かに容器全体に伝わっている。衝突の衝撃で瓶の栓が抜けて、勢いよく魔法薬が噴き出した。
三つ目の不運は、その魔法薬に人体に危険な成分が含まれていたことだ。咄嗟に避けようとしたが間に合わず、顔の右半分が直撃した結果、肌は爛れ、魔法液が直撃した右目は視野が欠け、視力自体も下がり、ほとんど機能しなくなった。
治癒魔法を施して、皮膚の爛れはほとんど戻ったが、右目はもう手遅れだった。
治癒魔法は、自然治癒力を前借りして、急速に回復させるものである。治癒魔法で治せる範囲はせいぜい民間医療で治せる範囲で、それを超えるような回復は望めない。
眼科医に見せて、匙を投げられたSの右目が元に戻る可能性はほぼゼロと言っても良かった。
あの時地震がなければ。
万が一に備えて保護ゴーグルをかけていれば。
顔にかかった魔法薬が人体に危害を与えるものでなければ。
何か一つでも違っていれば、笑い事ですむ失敗だったが、全てが噛み合ってしまった今、悔悟してももう遅い。
右目が使えなくても一部の魔法にしか支障がないが、視野が狭くなったことで、模擬魔法決闘の勝率に著しく影響が出た。
さらに問題だったのは模擬魔法決闘以上に魔法薬の調合だ。右目ほど視力に影響がなかった左目も、以前と比べて色の強弱の見分けがつかなくなった。微細な色の変化にも気付く必要のある魔法薬の調合においてこれは致命的だった。
事故が起きてから卒業試験の課題練習に取り組んだが、魔法薬の調合だけは何度やっても及第点が出なかった。
三週間なんとか粘ったが、以前と同じようにこなせない自分への嫌悪が募るだけで全く改善しなかった。このままではただ無為に学費を無駄にするだけだ。
もうじき六年間の総まとめとなる四月に入る。四月には最後の授業が終わり、五月からは卒業試験が始まる。同級生も教授たちも慌ただしくなる前に、この場から退場するべきだ。そう思ったSはいよいよ退学の決意を固めたのであった。
退学を明日に控えた今となっては、律儀に授業を受ける必要もないのだが、授業終わりにお世話になった各教授に挨拶をするついでに、出席することにした。
教室に入ると、クラスメイトたちが駆け寄ってきた。声音だけは心配そうにくぐもらせて口々に声をかけてきた。
「退学するって聞いたよ。授業を受けるのは今日が最後なんだろ」
「残念だよ。お前ほど将来が渇望された魔法使いはいないだろう」
六年近く同じ学び舎で過ごしてきた学友とも言うべき連中だが、真に残念そうな表情を浮かべた者は一人たりとも見かけなかった。
Sのようなたいした家柄でもないやつが、首席争いをしていたのが心底気に食わなかったのだろう。貼り付けた憐憫の裏に晴れ晴れとした感情を嗅ぎ取った。
魔法使いの蹴落とし合いは激しい。交友関係にはいつだって打算と利害関係がついて回る。どこの進路を目指すにしろ、目の上のたんこぶはいないに限るということかもしれないが。
無碍に扱うと進路に影響するかもしれないと思い今までは愛想笑いをして受け流していたが、あと数日の付き合いだと思うともうどうでもいい。話を聞きたがる彼らを無視してとっとと席に着き、机の上で顔を隠してふて寝をする。授業までもう誰とも話したくなかった。
しばらくすると、近くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。まだ始業の鐘は鳴っていないので、授業のことではないだろう。どうせろくな用事ではないと踏んで、聞こえなかったふりをする。
もう呼んでくれるなよ、という願望を込めて、組んだ腕の中に更に深く顔を埋める。
すると、前からの呼びかけとは別に後ろから自分の名前を呼ぶ別の声が聞こえ、更に肩を揺さぶられた。
乱暴に肩を揺さぶられては寝ているふりを続けるわけにもいかない。
「いったいなんだよ」
肩を揺する手を払いのけながら振り返ると、焦ったような顔つきのクラスメイトが正面を指さしている。
「なに……って、前見ろって! お前に客が来てるんだって!」
「は?」
正面をむき直す。栗色の髪をした、容姿端麗な少年が、Sの目の前に立っている。いるはずのないクラス外の人物を目の当たりにして、思わず椅子ごと後ずさってしまった。
芸術家が丹精込めて作り上げた彫刻のように整った顔立ち、眼光だけで人を圧倒するほどに凛々しい眼差し、そして、威風堂々とした佇まいを見れば、目の前の彼が誰かなんて説明されずとも分かる。
彼こそ、あの有名なオルコット家の御曹司。オルコット家を背負う次期当主にして、学年首席の優等生。ロバート・オルコット、その人だった。
次回更新は8/24(月)です。




