第89話 たまきはる 命絶ゆとも 名を忘れめや(前編)
志貴の寝衣を握った指の間に、望の血が滲んだ。咲貴はその手を姉の口元から離し、まだ汚れていない袖で顎の下を覆った。胸に預けた頭は重く、垂れた左腕を戻しても、志貴は目を開けなかった。
頭上で衣が擦れた。望の右腕を引き上げたまま、門番が空いた手をこちらへ下ろしてくる。
咲貴が姉を抱いたまま背を丸めると、頬の脇を細い黒い筋が走り、門番の指に絡みついた。
台の角に片手をついていた赫夜が、血のついた唇を拭いもせず、もう一方の手を引いていた。門番の袖から伸びる筋が張り、志貴の髪へ届く寸前で向きを変える。赫夜はそれを刃で断たず、指の間に挟んで捻った。
門番の爪から黒い雫が落ち、咲貴の膝の前で石床の継ぎ目へ吸い込まれた。
「随分、手慣れているね」
門番は赫夜へ顔を向けたが、望の腕を掴む手は緩めなかった。
袖に隠れていた望の手首の傷がさらに開き、そこから滴る血が、また寝衣に落ちかけた。咲貴は姉の頭を抱く腕に力を込め、落ちる血を避けて身を引いた。
「冬馬、焼いても切っても、それだけでは足は抜けん。巻かれている端を引き出せ」
赫夜の言葉に、戸口で膝をついていた冬馬が顔を上げた。
「引いても戻る。これ以上、どないしろって言うんや」
冬馬は歯を食いしばって裾を掴み、足首から引き剥がそうとした。
「ほんまに面倒やな」
織師が腕を上げるほうがわずかに早かった。
「こっちの動き、把握済みってわけか」
薄い黒衣が冬馬の指を包んだが、その布の下には赫夜の煙が潜り込んでいた。布の戻る動きに引かれて煙も流れ、戸口に立つ織師の袖口から白い霜が広がった。
「死に物狂いは、慣れてんねん」
冬馬は巻き込まれた手を引き抜き、足に残った布に掌を伏せた。火が布の表を走ると、織師は腕を引いて霜を払った。その隙に冬馬は足首に巻きついた端を引いたが、抜きかけた踵は、また布に阻まれた。
「いくらでもお付き合いしますよ」
織師は腰を落としたまま、冬馬を見た。
「冬馬とは相性が悪い。これでは埒が明かんな」
赫夜は立ち上がろうと片膝を伸ばしたが、台から離した手を脇腹に回し、咳とともに血を吐いた。その指が濡れた衣を掴むのを見て、咲貴は得体の知れない恐怖に襲われ、声を上げかけた。
「赫夜」
呼んだ声が掠れ、咲貴は姉を抱いたまま身を乗り出した。脇腹を押さえる指の下で、衣の染みが広がっていく。その膝が折れてしまえば、二度と顔を上げてくれない気がした。赫夜がこちらを向いても、咲貴は息を吸い込めず、開いた口から泣き声を漏らした。
膝を浮かせかけ、腕の中の重さに動きを止めた。志貴を支え直そうとしても肘が震え、咲貴は姉の身体へ頬を寄せるほど背を丸めた。胸の奥が痛み、息を継ごうとするたびに声が引き攣れた。唇を閉じても嗚咽は収まらず、赫夜へ伸ばしたかった手で、姉の寝衣を握り締めていた。
志貴の右手が、咲貴の襟元に触れていた。
冷えた指の腹が布をかすかに擦った。咲貴が息を詰めると、胸の奥に温かさが返ってきた。握り込んだ寝衣を緩められずにいるあいだにも、その熱は退かず、襟に触れた指がもう一度、ゆっくりと動いた。
咲貴は赫夜へ向けていた顔を下げた。姉の目は閉じられたままで、唇も動いていなかった。それでも、大丈夫、と言ってくれた気がして、咲貴は詰めていた息を少しずつ吐いた。頬から落ちた涙が志貴の髪を濡らし、拭おうとした手は、襟元にある姉の指へ触れた。
「志貴、わかるの?」
襟を握ろうとした指はすぐに滑り、姉の胸の上に落ちたが、咲貴はその手を両手で包み直した。寝衣に染みた望の血が、自分の指にもついていた。姉の口へ近づけないよう、志貴の右手を寝衣の襟の下へ戻した。
手を収めても震えは残り、咲貴はすぐに赫夜へ目を戻した。脇腹に当てられた手も、濡れた衣も変わっていない。胸に残る温かさの中で、咲貴は赫夜が顔を上げていることを確かめ、ようやく息を吸った。
「咲貴」
望の声だった。返事をしようとしたところへ、すぐ脇で衣の擦れる音が重なった。
門番に右腕を捻られ、望の肩が引き上げられていた。喉へ伸びた手を左手で払い、膝をついたまま身体を捩る。咲貴の膝の前へ、手首から落ちた血が散った。望は腕を引き戻そうとしたが、門番の指は動かず、傷口ばかりが開いていった。
咲貴が顔を上げると、望はこちらを見据えていた。門番の手が再び喉元へ戻ってきても、望は左腕でそれを押し留め、咲貴から目を離さなかった。
「よく見て、覚えておくんだ」
すぐそばで望が言った。
右手首を押さえられたまま咲貴に顔を寄せ、門番の腕を払っていた左手を、血の流れる傷口に重ねる。手のひらで血を受けると、濡れた手をこちらへ伸ばしてきた。
「必要になれば、君がやるんだ」
望の指は、姉の唇へ向かわなかった。咲貴の頬に優しく触れ、左の瞼に血を塗った。閉じようとした瞼を親指で押し留められ、咲貴はその手首を掴んだが、指に力が入らなかった。
血が睫毛の間へ入り込み、熱いものが目の奥へ押し込まれてきた。咲貴は息を詰めた。右の目には、門番に腕を取られている望が見えていたのに、左には、同じ望が傷のついた腕を自分へ差し出していた。
自分が歯を立てる前の腕だった。腕の傷にはまだ、咲貴がつけた痕がなかった。瞬きをしても二つの光景は重ならず、左の視野では望の袖が下がり、右の視野では同じ腕が門番の指に引き上げられたままだった。
「左を閉じるな」
望の声を聞いても、咲貴は顔を上げられなかった。足もとの石床には、左の目にだけ蒼い筋が映っていた。その筋は低い台の朱へ流れ込み、火皿へ伸びて、柱の根元を巡っている。束になった筋は、望の衣の内側へ続いていた。
左の目に映る望が、右手を差し出したまま、左手で自分の胸元を押さえた。衣の奥から引き出された細い蒼が、床を走る筋に重なった。
咲貴は右の目を瞑り、台の縁を見た。火皿の明かりが揺れても、左の目に映る蒼い筋は同じところを流れ続けていた。
望の親指が瞼から離れる間際、咲貴の左目に映る胸元で、束になった蒼い筋の一本が裂けた。細い隙間が開くのと同時に、目の奥の熱が強まった。咲貴がその手首を放すと、望の指の間で血が一度だけ深い紅色に淀み、開いた傷口から落ちた。
望の血に、紅の気配が混じったことはなかった。何度その血を与えられても感じなかったものが、いまは傷口から落ちる滴に宿っている。目の奥に残る蒼とは違う、自分にも志貴にも馴染みのある、宗像の本流の紅だった。
咲貴は、濡れた手から望の顔へ目を上げた。蒼の下には、もとからこの血が流れていた。自分たちと同じ宗像に生まれた人が、いま、蒼を渡したその手で咲貴の頬に触れている。
「望、あなたっ」
咲貴の唇を押さえるように、望の指が触れた。
「何をした?」
門番が望へ顔を戻した。望は答えず、石床に右足を踏み直した。左手が再び門番の腕を掴んだが、火皿の光の中で、その指の輪郭が咲貴には薄く見えた。
「長年、私にやられてきたのだから、積もるものもおありでしょう。さあ、蒼は目の前です」
門番に掴まれたまま、望の右腕が急に下がった。望はその腕に体重を掛け、右膝を起こした。門番と目を合わせたまま、ゆっくりと立ち上がり、微笑んでみせた。
「千年王なら、あなたとは相打ちが関の山らしいですし、徹底的にやり合いましょうか」
門番の空いた手が喉へ伸びた。望は左手の甲をその手首に当て、肘を下げながら顔を横へ逃がした。爪が襟を通り過ぎるのに合わせ、掴まれた右腕を捻って半歩寄る。
門番が腕を引けば、引かれる勢いに足を合わせ、肩がこちらを向く前に台の脇へ戻った。袂が翻っても蒼は湧かず、次に伸びてきた指を払うと、その爪で左手の皮膚が細く削がれた。
門番が足もとへ目を落とすと、望はすでに足を踏み替えていた。引かれた右手首の傷から血が散っても、腰を沈めて堪え、左手を相手の喉へ伸ばす。門番がその手を押さえにかかったところで指を引き、開いた胸元へ肩を入れた。押し退けることはできなかったが、咲貴たちへ向きかけた門番の顔が、再び望へ戻った。
望は薄く笑ったまま、左手を襟元の高さへ上げ直した。さっきまで傷口にまとわりついていた蒼は見えず、望は血の滴る手と、石床を踏む足だけで門番の動きに応えていた。咲貴がその足先を見つめていると、望の踵が石の継ぎ目に掛かり、引かれた身体がそこで止まった。
手を払い退けた隙に、望が一度だけ咲貴の左目を見た。流れ込んだ蒼はまだ熱く波打ち、瞬きをするたび、過去の望に門番の袖が重なった。咲貴が目を開き直しているあいだにも、望は喉へ伸びる爪をかわし、姉を抱く咲貴の前から退かなかった。
赫夜はその攻防に目をやると、門番へ向けかけた手を戸口へ返した。煙が床の継ぎ目を走り、織師の裾が戻るたびに、冬馬の足もとへ潜っていく。赫夜は台に手をついたまま戸口のほうへ身を寄せ、冬馬へ声を落とした。
「蒼が強いのは紅に対してだ。門番相手には長く持たん。あいつが耐えているうちに、咲貴たちを出す」
冬馬が足首の布へ目を落とすと、赫夜は煙をその下へ滑らせた。
「足を抜いたら、戸を開けろ。黯が、境界にいるはずだ」
冬馬が布を引くのに合わせて煙が持ち上がり、床と黒衣のあいだがわずかに開いた。赫夜はそこから戸口へ煙を伸ばしたが、織師が袖を払うと、垂れた裾が石床を覆い、行く先を塞いだ。
胸に抱いた志貴が苦しそうに息を漏らし、咲貴はすぐに姉の顔を覗き込んだ。唇は開いているのに、細い息が喉で止まっていた。肩を支え直そうと腕を回すと、志貴の右手が咲貴の衣を掴んだ。けれど、曲がった指で衣を引き寄せようとはせず、咲貴の胸元を押し返していた。
「志貴、ここにいるから」
声を出すと、噛み切った唇の傷が開いた。顎へ流れかけた血を指で押さえ、その指で姉の口元を拭おうとしたとき、志貴の喉が引き攣れ、寝衣の下で紅の痕が強く浮いた。
咲貴が手を引いて指が離れた途端、止まっていた息が細く通った。血を袖に擦りつけ、汚れていないところで姉の頬に触れようとしても、右肩は強張り、咲貴の胸へ預けていた頭が反った。唇が動いても、声は出ない。
咲貴は腕を緩めた。志貴の背が少し離れると、強張っていた肩から力が抜けたが、抱き直せばまた、喉で息が詰まった。
咲貴は声を上げかけたが、唇を閉じた。姉の頭を右手で支え、もう一方の手で動かない左腕を身体の脇へ寄せる。掌が肌に触れるたびに姉の指が震え、咲貴は寝衣を厚く畳んで手と肌の間に挟んだ。
指先を拭った袖に、血が黒く染みていた。望の血が姉の口へ入らぬよう守っていた指に、いまは自分の血がついている。その指を近づけるだけで息を詰まらせる姉を見つめ、咲貴は胸を支える手を浮かせた。肌との間に寝衣を一枚挟んでいても、指を曲げることさえためらわれ、力を抜きすぎた腕の中で志貴の頭がずれた。
慌てて掌で支えると、姉の身体がまた強張った。蒼を受け取った自分が、志貴を殺せる者になっている。そう分かっても、望が差し出した手を、姉を殺せという命令として受け取ることはできなかった。姉を抱いている自分の前で、望はいまも門番を引き留めている。唇を押さえた指も、頬への触れ方も、まだ肌に残っていた。咲貴は左目を閉じずに望を見た。これで姉を救えるのかと尋ねかけ、腕の中で志貴が身を強張らせると、口をつぐんだ。
門番の袖が望の肩越しに見え、咲貴は志貴の口元を隠すように身体の向きを変えた。門番が蒼と呼んだのは、いまも目の前で爪をかわしている望だった。姉を抱けなくなった理由まで悟られれば、あの指はこちらへ向く。咲貴は血のついた指を自分の袖で包み、志貴の寝衣を厚く畳んだところだけを支えた。左目の熱に顔を歪めかけても、門番へは向けなかった。
「咲貴、何してるんや」
冬馬の声がした。こちらへ伸びた手を見ても、咲貴は口を開かなかった。姉の頭を胸へ寄せかけ、喉で息が詰まるのを聞いて、咲貴は腕を止めた。
「少し下ろすわ。傷に触ってしまうから」
門番に背を向けたまま答え、咲貴は姉の首を支える腕を緩めた。
咲貴は膝をずらし、冷えた石床に寝衣の裾を広げた。姉の背を支えて下ろすと、髪が灰の上へ散った。後頭部の下へ袖を入れようとした手も押し返された。咲貴の衣を掴んでいた右手の指が、布の上を滑って離れていった。
胸の奥に、あの温かさはもう戻ってこなかった。
つい先ほどまで、咲貴が苦しめば、眠っている姉からも熱が返ってきた。呼ばずにいても、見捨ててほしいと願っても、離れた場所から近づいてきたものだった。咲貴は空いた胸元に手を当て、床に横たわる姉を見つめた。志貴の息は細く続いているのに、自分の内には何も届かなかった。
同じ血を分けた妹がそばにいても、志貴の身体が遠ざけようとするのは蒼だった。目も醒まさずに咲貴を助けに来た姉が、その咲貴の腕の中で息を詰まらせる。姉の名を呼んでも戻らなかった温かさを探しながら、咲貴は離れていった指を追わず、寝衣の端だけを握った。
***
寝室へ戻った耀冥を、寝台の上の者が見ていた。背と左脇に重ねた枕は、出ていったときのままだった。右手側へ寄せた水の器も、包みを取り上げたあとの卓も変わっていない。灯りの油が減り、炉端の布から落ちる滴だけが、受け皿の縁を濡らし続けていた。
耀冥の上衣は、彼女の膝に掛かっていた。
「お帰りなさい」
彼女は右手で衣の端を撫で、耀冥へ差し出そうとした。持ち上げる途中で指が緩み、黒い布が掛け布へ落ちる。
「楼蘭が泰山へ戻った。何かあれば、明熾がみる」
耀冥は扉を閉じ、椅子に座る前に、眼帯の紐に触れていた指を下ろした。
「身体はまだ痛むか」
「痛くはない。でも、自分の手がどこにあるんか、見てへんと分からん」
彼女は右手で左手首を持ち上げ、枕のそばへ寄せた。仕草がわずかに違うだけのはずなのに、耀冥は軽く唇を噛んだ。
志貴を水から抱き上げたときの重さが、耀冥の腕に戻ってきた。左肩を支えた指の位置も、濡れた髪が袖に貼りついた感触も、残っている。
天は残酷だと思い、すぐに、残酷なのは自分自身かと小さく息を整えた。
「少し、確かめることがある」
言葉遣いが千年前の自分に戻っていた。志貴のために一心でいたが、今は耀冥でいるべきだと思っていた。どちらも自分だが、その違いははっきりと感じていた。
「怖い顔してる。確かめるって、何?」
耀冥は彼女の膝に掛かる衣を脇へ寄せ、その右手を取った。左手で包むと、冷えた指がすぐに握り返してきた。その手の甲に右の親指を添え、爪の縁から皮膚の下を流れる紅に触れる。
「触ってるが、何ともないのか?」
「どういう意味?」
「手袋はどうした。どこにある?」
声が低くなると、触れている彼女の手に緊張が走った。
手袋は枕元の小さな台に置かれたままだった。手袋を外してやったときも、志貴は指を引きかけていた。耀冥が親指を動かしても、彼女は手を引こうとせず、手袋へ目を向けることもなかった。
その右手で肌に触れることを、彼女は少しもためらわなかった。指を絡めてくる動きに応えず、耀冥は皮膚の下の紅を確かめながら、その手を返した。志貴が気にしていた右手の働きまで、門番は写し取れていなかった。
手の甲に番の印があった。志貴の首筋で、三日のあいだ確かめ続けたものとは場所が違う。耀冥は指先を印の縁に沿わせ、鑑の中で書物を閉じた斎貴の手を思い返した。あの少年の証も、右手の甲にあった。
そこへ指を進めると、印の内側が開いた。耀冥が崩したのではなく、触れるより先に、そこを覆う薄いものが指を避けて退いた。
黒の宮へ連れ帰った志貴には、こんなものはなかった。
手の皮膚の下で、古い紅が小さく揺れた。目の前の指から伝わってくるものに、灰色の鑑で見た少年の名が重なった。書物を閉じた手も、机の向こうからこちらへ寄ってきた顔も、鑑が砕けて見えなくなったはずの部屋の明かりまでもが、そこへ戻ってきた。
「斎貴」
声にした途端、寝台の白い布が、千年前に見た寝具の皺に変わった。
袖から出した自分の指が、希詠の胸元に残る紅を掬い上げている。紅は一人の魂を包むほどの大きさを持たず、指の間で小さな欠片となっていた。その欠けた縁にも、斎貴の名が残っている。
「やはり、そうか。だから、俺は反応したわけか」
欠片でしかないのに、指に触れる紅に黒が応えていた。耀冥はそれを包もうとする自分の手を見た。志貴へと連なる紅の始祖の魂が、濃さを失わずに残されている。千年前にも、この濃さに引かれて希詠を番だと信じた。
「まあ、番であろうとなかろうとどちらでも良かったが、門番に良いようにされていたとしたら、確かに手痛いな」
暗い部屋の床を黒が這い、寝台から離れた足の下で、石が音を立てて砕けていく。希詠が何か言っていたが、今の耀冥には、何も聞こえなかった。
彼女の手を握る指に、力が入っていた。
「痛い!」
耀冥は指を緩めた。寝室の灯りが戻ると、彼女の手首には、自分の指の痕が白く残っていた。彼女は手を引かず、代わりに、耀冥の指の間へ自分の指を差し入れてきた。
「何かおかしいで。何があったん?」
耀冥は、握り合った指を見た。眼帯へ手を上げず、彼女の指を一本ずつ外した。
「そうだな、確かに、おかしいかもしれないな」
彼女の右手が、耀冥の袖を掴んだ。
「何を言うてるん」
「おまえは千年前に死んだ」
どう死んだのかも、自ら選んだ最期だったことも覚えている。けれど、その前に交わした言葉を辿ろうとすると、寝具の皺より先が思い浮かばなくなった。失ったあとに何をしたのかも、記憶が途中で途切れ、その先に続くはずの時間がない。右眼を使うたびに失ってきた記憶には、希詠との日々も含まれていた。
志貴が生まれるまでの千年、希詠の魂が還るのを待ち続けた。その志貴が希詠ではないと知ったとき、もっと取り乱すと思っていたのに、耀冥は驚くほど静かに受け入れていた。目の前に希詠がいるいまも、袖を握る指を見つめたまま、その手を胸へ引き寄せようとはしなかった。
彼女は耀冥の袖を放し、その顔を見てから、自分の左手へ目を落とした。黒と紅の痕が残る腕を右手で持ち上げ、灯りへ向ける。動かない指を確かめようとしたが、手首を支えていた右手まで震え、左手は掛け布へ落ちた。
「意味が、わからん」
耀冥は答えず、その腕を枕の横へ戻した。
「おまえは希詠という名を、持っていた」
彼女は口を開きかけ、声が出ないまま唇を動かし、やがて首を横に振った。
「知らん。そんな名前、私は知らん」
彼女は右手を自分の胸へ戻し、寝衣の襟を掴んだ。
「それはおかしいな。希詠の存在を俺は伝えていたし、名くらいは知っているはずだがな」
耀冥が手を伸ばすと、彼女はその指から逃れるように上体を引いた。左側の枕が崩れ、身体が寝台へ倒れかけたので、耀冥は肩を支えた。
彼女は右手で、その袖にしがみついた。
「頭がごちゃごちゃや。わからんもんは、わからん」
袖を握る彼女の指にいっそう力がこもり、耀冥は肩を支えたまま、倒れた枕を立て直した。枕に身体を預けさせ、彼女の右手を袖から外そうとしたが、彼女は離さなかった。
「おまえは何も悪くない」
「それなら、なんで」
「おまえに分け与えるものは何ひとつないからだ。俺は志貴しか選ばない」
「私がその志貴や。門番に何かされたんか?」
「いいや、何もされていない。ただ、おまえは志貴じゃない」
耀冥は椅子から腰を浮かせ、彼女の背に左腕を回した。右の掌を頭に添え、すがりついてくる身体を枕へ押し戻す。袖を引かれても腕を引かず、起き上がろうとする彼女の頭を枕に下ろし、額に掌を当てたまま顔を覗き込んだ。
「千年前、おまえを大切に思っていた。だからこそ、門番と真正面からやり合った。それなのに、おまえは自害を選んだ」
彼女の指が袖を引いた。耀冥は額に手を置いたまま、その目を見ていた。
「志貴は、俺をひとりにはしないそうだ。ぼろ雑巾のようになっても最後まで抗うらしい」
背を支えていた左腕を抜き、袖を掴む指に触れたところで、耀冥の手が止まった。
「門番がおまえに志貴の記憶を重ねた継ぎ目から、あいつまで辿れる。志貴の記憶はひとつも残さん。自分を志貴だと思うことも、ここで俺と話したことも、残せなくなる」
彼女は袖を引いたが、耀冥の肩はわずかに寄っただけで、それ以上は動かなかった。
「やめて。一心が違うって言うても、自分が誰かぐらい、私には分かる」
耀冥が左手で手首に触れると、彼女は袖を放して右手を胸へ引き戻し、寝衣の下へ隠した。そのまま肘を張って、耀冥の腕を押し返してくる。
「そうか、わかるのか」
耀冥は額から手を外し、身体を離して椅子に座り直した。右手を取ろうとしたが、彼女は胸元に隠して出そうとしなかった。伸ばした指が寝衣の縁に触れたとき、彼女は胸元から右手を抜き、耀冥の手を叩いた。
指の甲に、爪が細い傷を残した。
「もうよそう。時間は有限だ」
耀冥は血の滲んだ傷を見てから、左手で彼女の右手首を掴み、掛け布の上に押さえた。
「おまえが希詠だとわかっても、俺が何もできないと門番は踏んだ。それだけ、おまえは俺の急所だったのだろうな。悪いが、俺にはその元となる記憶自体が曖昧だ」
炉端の布から水滴が落ち、受け皿の底に当たった音が、次の滴が落ちるまで長く残った。
「離して。お願い、待って」
耀冥は彼女の顔を見た。彼女はなおも手首を引こうともがき、やがて指先で耀冥の袖口を探り当てると、布に爪を立てた。
耀冥は右手の指を、彼女の手の甲の印に重ねた。手首を押さえる左手は緩めず、印の奥から浮いてくる薄い層へ指を差し入れた。
「やめてください、耀冥様!」
紅の下で黒い継ぎ目が露わになった。耀冥がそこに触れると、彼女は再びその名を呼ぼうと唇を動かしたが、声は途中で切れた。爪を立てていた指が止まり、目は自分の手を押さえているものへ向いた。
「志貴は一度もその名で呼んでくれたことはない」
耀冥は指を退けなかった。彼女に重ねられた志貴の名と記憶を、この寝台で交わした言葉ごと剥がしていく。指に絡んだ層には串焼きを持つ手が映り、縁をほどくにつれて、指の形も包みも崩れて消えた。水を求めた声が途切れ、一心と呼ぶ声も続かなくなった。志貴の名が薄れていく層をさらにほどき、残る像も声も消えるまで手を止めなかった。
彼女の右手が耀冥の袖から離れ、掛け布の上に落ちた指は、もう布を掴まなかった。顔を覗き込んでも口は動かず、耀冥が彼女の右手を持ち上げても、開いた目はそれを追ってこなかった。耀冥が支えを外すと、掛け布に落ちた手は、その形のまま動かなかった。
「希詠、逢いたいと気が遠くなるほど幾度も願っていた。もう一度、抱きしめてやりたいとも思っていたはずなのに、今の俺にはできない」
耀冥は指の間に残った薄い層をほどききった。手の甲の印の奥には、古い紅の欠片が残っていた。千年前の寝台も、自分へ差し出されていた手も、その欠片に重ねれば戻せるところにあった。耀冥はそこへ指を進めず、層を縫い留めていた黒い筋だけを引き出した。
「こんなやり方で、おまえの眠りを妨げたあいつを俺は許さない」
指の間で筋が張り、手首に絡もうとしてきた。耀冥はそれを黒で包み、一本ずつ離していく。そのうちの一本は、寝台の脚に落ちた影を通り過ぎても、途切れなかった。壁へも床へも留まらず、引くたびに、別の暗がりから力が返ってきた。
「希詠、おまえには千年前の俺をやる。おまえを愛していたことは変わらん。だが、おまえの帰りを待つのは、これで終わりだ」
耀冥はその一本を残した。脇へ寄せた上衣を彼女の膝に掛け直し、握っていた右手を、器に触れないところへ戻した。
「門番の天敵は結局俺でしかないのだから、もう行く」
彼女の指先が上衣に触れても、引き寄せることはなかった。耀冥は立ち上がり、眼帯の紐を指で確かめた。紐を緩めずに手を下ろし、もう一方の手で暗がりへ続く筋を掴み直した。
耀冥は寝台へ手を伸ばし、開いたままの瞼を下ろした。枕の上で頭の向きを直してから、部屋の外にいる玄綾へ声をかけ、呼び込んだ。
「黯は赫夜と出たのか?」
「個々に命を受けてるよ。赫夜坊ちゃんに何かあれば、二人は確実に宗像へ向かってる」
玄綾は続けて何か言おうとして、すぐにやめた。
「宮の判断の一切を明熾にさせろ。それから、志貴はいま深く眠っている。俺が戻るまで起こさなくていい」
耀冥はそれだけ言うと足早に部屋を後にした。




