第88話 あかときの 揺るる火影に うつしみ ふたつ(後編)
赫夜の足もとから黒い煙が這い出し、湿った灰の溜まる石床の継ぎ目に沿って広がっていった。壮馬の踵を捉えていた影は、沼のように足首まで呑み込んでいる。足を引き抜こうと壮馬が身を捩ると、その膝が前へ折れ、赫夜の左手に掛かった糸が張り詰めた。
糸を伝ってきた黒い雫が、赫夜の指先から飛び散った。床に落ちた滴には火皿の赤い明かりが映ったが、赫夜は目も向けず、糸を握ったまま影に刺していた刃を引き抜いた。
「出てきたら、どうだ」
壮馬の肩口へ向かった切っ先を、皮膚の下から現れた細い指が挟み込んだ。裂けた肉の間で指がうごめき、刃を横へ逸らそうとしている。
咲貴は布都御霊を構えたまま、一歩退いた。壮馬に近づくほど胸苦しさが増し、息を深く吸い込めなくなっていた。
「それでいい。相性があるんだ。退がっていろ」
赫夜が小さく頷いたので、咲貴はさらに足を引いた。
赫夜は前傾して刃に体重を乗せたが、切っ先は壮馬の肩へ届かず、皮膚のすぐ手前で押し留められていた。
「そうか。ならば、これはどうだ」
刃を挟む指に白い霜がつき、手首から肘へ走った氷炎が、壮馬の衣の下へ潜っていった。肩から剥がれた薄い布が何枚も重なって宙へ浮き上がり、その縁から白く凍りついていく。
咲貴の火を受けたときには、焼けたそばから別の布が傷を覆っていた。その布が、いまは傷へ届く前に凍りつき、広がる途中で止まっている。
赫夜は指の間から刃を抜くと、凍った布を峰で砕き、そのまま壮馬の懐へ踏み込んだ。壮馬は身を反らしたものの、足首を捉えた影に引き止められ、喉を庇って上げた腕の内側に刃を受けた。傷口へ被さろうとした衣も、赫夜の左手に掴まれていた。
「咲貴、冬馬の後ろへ行け」
赫夜の声に促され、咲貴が低い台に沿って下がると、冬馬が半歩前へ出た。
赫夜はそれを見届けてから衣を引き下ろし、壮馬の肩から突き出した細い腕を、肘まで露わにした。その腕を掴み直して引くと、濡れた布を剥がすような音とともに、一人の男が壮馬の背から引きずり出された。黒衣の裾はまだ肩の傷に絡んでいたが、赫夜が手首を返すと、それもぬるりと抜け落ちた。
「織師殿、どれくらいぶりだ?」
男へ声を掛ける赫夜の口角が、わずかに上がっていた。
咲貴は冬馬の肩越しに、滅多に表情を変えないその顔を見つめた。赫夜がこんなふうに笑うところを、一度も見たことがなかった。
「耀冥でもないのに、随分な仕打ちだね」
織師は赫夜の手を振りほどくと、睨み据えたまま、わざと首と肩を鳴らしてみせた。
「耀冥だけができると思わせてしまっていたのなら、俺は謝るべきか」
赫夜は立ち上がりかけた壮馬の肩を掴み、石床へ叩きつけた。その音が奥殿に響くのとほとんど同時に、織師の右腕が斬り飛ばされていた。
巻き起こった風に灰が舞い上がり、咲貴は袖で顔を覆った。落ちた腕の行方を確かめる間もなく、赫夜はもう織師の前へ回り込んでいた。
火皿の炎が大きく揺れ、油の焦げる匂いが強く立った。冬馬は向けていた掌を下げかけたが、すぐに元の高さへ戻した。
「明熾が、一心より危ないところがあるって言うてたけど」
そこで言葉を切った冬馬は、首筋についた灰を手の甲で拭った。咲貴が顔を向けても、冬馬の目は赫夜の背から離れず、その動きを追い続けていた。
壮馬と織師を相手に一人で立つ赫夜は、織師の左腕を払うと、刃を戻すより早く次の足を踏み出した。退こうとした先へ斬り込まれ、織師の裾が翻る。背後から伸びた壮馬の手も、赫夜が振り向くときには糸に絡め取られていた。二人に挟まれているのは赫夜のほうなのに、咲貴の目には、その二人のほうが追い詰められているように見えた。
「一心が、いるみたい」
口に出してから、咲貴はもう一度その足運びを目で追った。刃の届かないところへ逃れた相手に目を向ける、その顎の傾け方まで、咲貴の知っているものと同じだった。
攻撃系の黄泉使いで、父の泰介と一心ほどの技を使う者を、咲貴はほかに知らなかった。とりわけ一心の型を写そうとしたときには、動きをなぞりきる前に身体が悲鳴を上げた。次に踏み込む先も、そこへ至る動きも見えているのに、自分の手足は同じように動かない。模倣しきれなかったのは、あのときが初めてだった。
志貴の異能を写したときも、三秒しか保てなかった。術を止めてからも腹の痛みは治まらず、傷めた臓腑を庇うだけで精いっぱいで、次の一手を放つどころではなかった。そのときの痛みを思い返しながら、咲貴は赫夜の手元を見た。
赫夜は足もとの黒を操り、奪った糸を指の間で選り分けている。それでいて、刃を包む氷炎は衰えていなかった。
織師が斬られた右袖を振ると、裂け目から新しい指が覗いた。だが、その手が何かを掴む前に、赫夜の刃が肩口へ入った。
咲貴が布都御霊を握り直すあいだにも、凍った布が床へ落ちては砕けていく。
異能の跳ね返りは、赫夜の身体には起きていないのだろうか。
「あの耀冥と、僅かな差もないとはね」
耳元で望が言った。咲貴の肩に添えられていた手は、いつの間にか離れていた。
「黒の千年王の懐刀は化け物だね」
振り向くと、望は半歩退いたところで目を細め、赫夜を見ていた。咲貴に見上げられていることには気づいているはずなのに、望がこちらへ顔を向けることはなかった。
赫夜が糸を刃に巻きつけて織師を引き寄せると、その背後で、壮馬が床についていた手を浮かせた。
顔を上げた壮馬と目が合い、咲貴は布都御霊の穂先をそちらへ向けた。
「おまえを取れば済む」
織師の黒衣が膨れ上がり、幾重もの布が天井近くまで広がった。布の端が梁へ貼りつき、赫夜の視界を塞ぐように裾が垂れ下がる。その陰で壮馬が足を引くと、踵にまとわりついていた影が千切れ、石床を擦る音がした。
咲貴は布都御霊を突き出そうとしたが、前へ出た冬馬の腕に遮られた。冬馬の向こうでは、片膝をついていた壮馬が身を起こしつつあった。
「冬馬、咲貴から離れるな」
赫夜は天井から降りてくる織師へ向き直った。黒衣の襟元では、先ほどの顔に代わって、幾筋もの細い線が重なり合っていた。火皿の光を受けた線は文字に似た形を作り、読み取る間もなく別の形へ変わっていく。
「こちらは何とかする。壮馬を止めろ」
足もとへ滑り込んできた裾を、赫夜が刃で床に縫い止めた。布を駆け上がった氷炎が縁まで白く凍らせ、それを踏み砕く音が、奥殿の低い天井に響いた。
「壮馬は以前とは全く別物のはずだから、気を抜くとやられるよ」
望が左から咲貴の前へ出ると、袖の下にあった短い刃が火を映した。
右へ回った冬馬は薄く笑い、手の内に刀を呼び出した。その刃が禁忌とされていることは、咲貴も知っていた。
「見たらわかるわ」
外廊から、時生を呼ぶ公介の声が聞こえた。春の四天王の笑い声を遮るように、石の砕ける音が続いた。
柱を伝ってきた震動が足裏に届き、首筋を流れる冷たい汗に、咲貴は身震いした。
時生の返事はすぐ近くから聞こえたが、こちらへ来る足音はなく、廊下の向こうでも戦いが続いていた。時生の刃が石床を掠める硬い音に、公介の苦しげな声が重なる。
冬馬と望が動くたびに咲貴の目はそちらへ向いたが、壮馬の視線だけは動かなかった。二人が間を横切っても、壮馬はその向こうから咲貴を見ていた。
「その身、取りに来るといったはずだ」
冬馬の刀に脇腹を裂かれ、望の刃に肩を掠められても、壮馬は足を止めなかった。骨の位置までずれるように身をくねらせて二人の間を抜け、台の縁へ足を掛ける。
飛びかかってくるとわかった咲貴は、布都御霊を払って踏み込み、壮馬の右肩を突いた。黄金色の穂先が肉を貫き、両手に重みが掛かる。ようやく止まった壮馬の左手首を冬馬が捉え、望が首へ刃を送った。
壮馬は顔を逸らしながら、貫かれた肩をさらに押し込んできた。衝撃が咲貴の肘まで抜け、後ろ足が石床を滑る。傷口の肉は穂先を抱き込むように閉じていき、柄を引いても槍は抜けなかった。不自然にせり上がった右肩から伸びた腕が、柄を越えてくる。咲貴は押し返そうとしたが、襟元へ届いた指に衣を掴まれた。
「宗像に二人も王は要らないと、よくわかっているのだろう」
右肩の痣に爪を立てられたような痛みが走った。思わず身を引くと、襟を掴む指が喉の下へ食い込んだ。
「本物がいれば、事足りるからな」
咲貴は間近にある壮馬の顔を睨み返した。その肩越しに、望が刃を返すのが見えた。
「おまえの姉なら、俺を焼き尽くせるぞ。助けを求めてみるか」
息を吸おうとした途端、胸から喉へ何かがせり上がり、咳き込むことさえできなくなった。詰まった息を吐けずにいるうちに、柄を握っていた指が外れかける。
「布都御霊を離すな、咲貴」
赫夜の声に、咲貴は両手へ力を込め、指が白くなるほど強く柄を握り締めた。
「呼んでみろ。志貴、と」
「黙れ」
咲貴は顔を背けると同時に火を放った。間近で壮馬の頬が焼け、皮膚の下から黒い筋が覗いたが、襟を掴む手は離れなかった。
「咲貴の身体つこうても、死んだ者は還らん。子どもでもわかることや」
冬馬は掴んでいた左腕を放し、咲貴へ伸びる右腕の肘を逆に折り上げた。骨の折れる音がしたのに、関節の曲がる位置が変わっただけで、咲貴の胸元を捉えた指は動かなかった。
「正しい器さえあれば再現できるさ」
焼けた頬を引きつらせて、壮馬が笑った。
「なあ、咲貴。志貴が無理なら、もう一度、泰介を呼んでみろ。おまえでは俺を退けられないぞ」
父の名まで出され、咲貴は腹の底から込み上げる熱に唇を噛んだ。挑発だとわかっていても、言葉を返すより先に、この顔へ火を叩きつけたくなる。穂先へ火を通そうとしたが、柄を握り締めているはずの手には、力が伝わらなかった。
「宗像の王は、君だ」
望の声とともに、壮馬の手の下へ短い刃が差し込まれ、咲貴の襟ごと指を削いだ。
衣が緩み、咲貴はようやく首を引くことができた。けれど、切り離された指と胸元との間には粘ついた黒い液が糸を引いていて、離れようとするほど細く伸びるその糸に、胸の奥まで引かれていた。
「咲貴、自分の名を口にして」
答えようと唇を開くと、喉は震えたものの、漏れたのは自分の名とは違う、知らない音だった。
「大丈夫、言える」
望に顎を上げられ、咲貴は目の前で、咲貴、と動く唇を見た。その動きを追おうとしても、自分の舌は意に従わず、同じ形を作れなかった。
右肩の痣から肘へ熱が下り、柄に絡む蒼い火紋が細くなっていった。両手で握り締めているのに、布都御霊の感触が薄れていく。壮馬の肩から抜けた穂先が透けて見え、続いて柄も石突も消えて、手の中には蒼い火紋だけが残った。その火紋も指の間でほどけていき、咲貴が見下ろす空の掌を、四隅の火皿から届く明かりが照らしていた。
「阿呆か、おまえ、何のまれてんねん」
冬馬が咲貴の腕を引き、壮馬との間に身体を入れながら、部屋の角へ押し戻した。
「宗像咲貴。おまえの最も大事なことや」
冬馬の顔を見上げた咲貴は、口にしかけた名を歯の間で止めた。冬馬の向こうに、何も言わずこちらを見ている姉の姿があるように思えた。咲貴へ差し出されようとしているその手を、呼んではいけないと思うより先に、取ろうとしていた。
「口にするな!」
赫夜の怒声に、咲貴は歯を食いしばり、喉までせり上がった声を呑み込んだ。膝が折れ、冬馬の腕に支えられても涙は止まらず、目を閉じるとかえって志貴の顔がはっきりと浮かんだ。
「それ以上は、おまえを殺さないといけなくなる」
冬馬が振り返った先で、赫夜はなおも織師を牽制していた。その刃は、こちらへ向けられれば咲貴にも届くところにあった。
「そう命じられている」
目を大きく開いた冬馬に顔を向けることなく、赫夜は織師に視線を据えたまま続けた。
「優先順位は明確だ。だから、明熾ではなく、俺が来た」
志貴を危険にさらすくらいなら自分を排除するよう、一心が命じることは、咲貴にもわかっていた。驚きはなかった。姉を守るために向けられる刃なら、ここで逃げるわけにはいかない。
「さっさとやればいい」
噛み切った唇から滲む血が舌に触れ、咲貴はその味を覚えながら息を吐いた。自分の名を口にすれば、続けて、呼んではならない姉の名まで出てしまいそうになる。けれど、自分が宗像咲貴であることを思い続けていなければ、その名さえ奪われてしまいそうだった。
「私は、自分では死ねない」
自ら命を絶つことは禁忌だ。
咲貴は冬馬の腕から顔を上げ、赫夜の刃を見た。こちらへ向けられても身を引くまいと待ったが、赫夜は動かず、火皿の炎のほうが向きを変えた。
四隅から寄せる熱が腹の奥へ集まり、冬馬が掌を返しても、咲貴の内側に生まれた温かさは消えなかった。
まだ名を呼んではいないのに、志貴は気づいてしまった。
咲貴が助けを求めるより先に、いつも手を伸ばしてくる姉だった。自分が傷ついているときでさえ咲貴を放っておけなかった志貴が、呼ばれるのを待ってくれるとは思えない。眠っているから大丈夫だという考えも、強まっていく温かさの中では保っていられなかった。
「繋げないで、お願い」
姉の顔を思い浮かべるだけでも、その手を求めてしまっている気がして、咲貴はきつく目を閉じた。
「私を見捨てて。助けなくていいから」
胸の奥の温かさは退かなかった。咲貴は、ここにいる自分の名をもう一度言おうとした。志貴が来てしまわないよう願いながら、言い損ねた名を口の中で確かめる。
「私は、宗像咲貴だ」
ようやく自分の名を言えたとき、肩から力が抜け、喉に詰まっていた息が通った。そのまま続けようとしたところへ、織師の裾を払い退けた赫夜が来て、冬馬を押しのけた。
「私は、宗像……」
赫夜の掌に口を塞がれ、喉元に刃が当たって、咲貴は顎を上げた。刃の冷たさに肌が粟立ち、頬には指が食い込んでいる。けれど、どれほど強く押さえられても、喉に触れた刃はそこから先へ進まなかった。
「なかなか良い展開だね。実に好ましい」
壮馬の背後に、男が立っていた。
どうやって入ってきたのか、咲貴にはわからなかった。開いた戸口も、外廊を走る炎も先ほどまでと変わらず、高窓の格子には薄い夜明けの色が滲んでいる。火皿に照らされた石床は足跡で汚れているのに、男の足もとの灰だけは踏み荒らされることなく、白く積もっていた。
「事情が変わった。戦闘中止だ」
赫夜の声が硬くなり、咲貴の喉から刃が離れた。口を塞ぐ掌だけは、頬へ強く押し当てられたままだった。
「道反を放棄する。宗像全員、撤退させろ」
「赫夜!」
冬馬に呼ばれても、赫夜は振り向かなかった。
咲貴が口を覆う手を掴むと、赫夜はその手を外し、代わりに咲貴の腕を取って背後へ押しやった。咲貴が下がるたびに、足もとを確かめるように身体を寄せ、一歩ずつ男との距離を取っていく。
「冬馬、退け」
赫夜は冬馬の刀の峰に指を添え、その切っ先を下げさせてから言葉を継いだ。
「何が何でもあれから離れることだけに集中しろ。……あれが、門番だ」
こめかみから流れた汗が目の縁へ入っても、赫夜は瞬き一つせず、男を見据えていた。
「千年王でも、相打ちが関の山だ」
「嬉しいことを言ってくれるね。でも、残念ながら逃がさないよ」
笑った門番の顔が、次の瞬間には咲貴の目の前にあった。
金属のぶつかる音が弾け、咲貴へ伸びた爪を刃で受けた赫夜の喉から、苦しげな息が漏れた。押し込まれてくる爪の先が肩に触れる寸前、咲貴は冬馬に腰を攫われ、その身体とともに床を転がった。
「壮馬、役目ご苦労様」
門番は床へ転がった咲貴を追わなかった。壮馬は呼びかけに顔も向けず、削がれた指を再生させながら咲貴へ手を伸ばしてきたが、その腕を門番に押さえられ、指は咲貴に届く手前で止まった。
「ここで咲貴の名を消されると、困るんだ」
壮馬が腕を引くにつれ、右肩の位置がずれ、首筋の皮膚まで引きつれた。冬馬に肘を折られても襟を離さなかった腕を見ていると、槍ごと押し返された重みが、咲貴の両手に戻ってきた。壮馬がいくら腕を引いても、押さえている門番の手は動かなかった。
「繋がりを開いてもらわないと、厄介な檻からは引きずり出せないからね」
胸を内側から強く打たれ、咲貴は冬馬の腕の中から身を起こしかけた。戻ってきた赫夜に引き上げられ、その背に庇われてからも胸の熱は強まり続け、咲貴は襟元を握り締めて息を殺した。
「手数は増やしたくない」
門番の空いた手が額へ近づくと、壮馬の口元が歪み、その目がようやく咲貴から離れた。壮馬は門番の袖へ爪を立て、自分に伸びてくる指を遠ざけようとしている。
「登貴の記録に触れるな」
背後へ回された赫夜の手に促され、咲貴はその袖を握ったまま足を引いた。わずか一歩退くだけでも膝が震えたが、赫夜は咲貴の歩幅に合わせながら、門番との距離を少しずつ広げていった。
「壮馬、君は宗像に詳しいし、助かったよ。ここは僕でも入り込むのは難儀だったからね」
門番の指が、薄い汚れを拭うように額からこめかみへ滑った。袖を掴んでいた男は、口を開けたまま動かなくなった。
咲貴はその男の顔を見た。焼けた頬の下で右肩がひどく歪み、裂けた衣から大きな刺し傷が覗いている。つい先ほどまで知っていたはずの顔なのに、いくら見つめても、その傷を誰がつけたのか思い出せなかった。
男を指さそうとして持ち上げた自分の手に、咲貴は目を落とした。何を確かめたかったのかも、もうわからなくなっていた。
胸元に残っていた黒い液もいつの間にか消えていて、破れた襟の下で肩が痛んだ。その痛みを目の前の男と結びつけようとするたびに、考えが途切れてしまう。
「織師。残りは食べていい」
門番が手を離し、男の膝が折れるより早く、黒衣の裾がその足首へ巻きついた。脛を這い上がった布に両脚をまとめて締められ、腰まで持ち上げられた男が、両手を床につく。その片方の膝が、曲がらない向きへ折れた。
皮膚を突き破った骨の白い端に黒衣が絡みつき、肉ごと捩じって引き込んでいく。男の身体が大きく跳ね、奥殿に叫び声が響いたが、その叫びにかき消されることなく、もう片方の脚が砕ける音も聞こえた。
「見るな」
赫夜の胸へ頭を押しつけられ、咲貴の目の前は衣に塞がれた。それでも、赫夜の腕の下からは男の手が見えていた。上へ引かれる身体を支えようと石の継ぎ目に指を掛けるたびに爪が反り、剥がれた下から血が滲んだ。一枚が折れ飛んでも、残る指は床を掻き続け、血で濡れた石の窪みにしがみついていた。
「見るなというのに」
咲貴は赫夜の袖を押し下げた。
黒衣が脇腹まで達して腰がさらに持ち上がると、床に残ろうとする腕が引き伸ばされ、肩から乾いた音がした。肘の皮膚が裂け、赤い肉の間から骨が覗いても、開いた口からはもう声が出ず、血を吸い込んで咳き込む音だけが漏れていた。その音に重なって、織師の襟の奥からも同じ濡れた音が聞こえてくる。
胸を締める布の下で肋骨が折れ、その音がいくつも重なるうちに、男の口から血が溢れた。顎まで締め上げられて砕けた歯がこぼれ落ち、裾に覆われた顔は、内側から突き出ていた鼻も、開いたままの唇も、布の下で潰れていった。最後まで石床にしがみついていた指も一本ずつ離れ、曲がった腕ごと黒衣へ呑まれた。
床へ戻った織師の裾が血溜まりの上を滑り、赤い筋が布に吸い上げられていった。石の継ぎ目には、折れ飛んだ爪が一枚だけ挟まり、拭われたような血の跡の中に残っていた。
「喰われた」
そこまで口にして、咲貴は唇を閉じた。
誰が、と尋ねたかったのに、目の前で見ていたはずの顔を思い浮かべることができなかった。焼けた頬も、開いていた口も、思い出そうとすると一つの顔にならない。耳には骨の砕ける音ばかりが残っていて、胃がせり上がった。
赫夜は咲貴を支えたまま床を見ていて、何も答えなかった。冬馬も右手を差し出した姿勢で止まっていたが、やがて半ば開いた指をゆっくりと握り込み、その爪が掌へ食い込んでからも、拳を緩めることはなかった。
「君たちは、誰と向き合っていたか覚えていられたかな」
問われて、咲貴は奥殿を見回した。台の周りには血が散り、床を斜めに走る溝には、刃で削られた石の粉が溜まっている。自分の襟も裂けているのに、何があってこうなったのかが思い出せなかった。ここで戦っていたのだろうかと考えても、誰を防ぎ、何を守ろうとしていたのか、何一つ浮かんでこない。
冬馬が血を流すほど手を握り締めている理由も、咲貴にはわからなかった。自分も何かを握っていた気がして両手を開いてみたが、指のつけ根がひどく痛むばかりで、その感触から思い出せることは何もなかった。
「望」
台の反対側へ呼びかけると、こちらを見た望の顔に、いま口にした名が結びついた。
咲貴はようやく息をつき、振り向いた冬馬を見た。冬馬の顎は口を開きかけたまま震えていて、言葉が出てくることはなかった。血の滲んだ右手は、自分の衣に押しつけられていた。
「名を消せば、いたこともなくなる。記憶されない者は消えても誰も気に留めない。泡沫のようなものだよ」
咲貴は床に残った爪へもう一度目を向け、何か思い出せないかと見つめ続けたが、吐き気が強まるばかりだった。
「何をしていたのかすら、わからない。何に必死になっていたのか、思い出せない。愉快だろう」
門番が声を上げて笑うと、すぐ傍らで赫夜の奥歯が軋んだ。咲貴の背を支えていた腕に力が入り、床へ向けられていた赫夜の顔が上がった。
「しっかりと立て」
咲貴は頷いて足を伸ばしたものの、膝に力が入らず、赫夜が腰を低くして支え直してくれた。その動きに合わせるように、門番が一歩寄った。
「君はあの耀冥の実弟だ。さぞかし、知恵を与えられてきたことだろう。でも、要らないことはしないで欲しいね」
咲貴の襟元へ伸びた爪を赫夜の刃が弾き、頬の脇で火花が散った。咲貴が肩を引くと、赫夜はその動きに身体を合わせ、咲貴と門番の間に立った。
「冬馬、よく聞け」
赫夜は門番を見据えたまま、振り返ることなく言った。
「公介たちに、道反の結界を全て放棄してでも、退路を開けさせろ」
冬馬は床を蹴ったが、戸口へ達する前に黒衣の裾が足もとへ滑り込み、向きを変えた先にも布が持ち上がった。咲貴には冬馬が立ち止まったように見えたが、すぐにその上体が捻られ、脇を走った布が袖を裂いて血を散らした。
赫夜が刃を振ったときには、織師はもう裾を引き上げていて、届いた氷炎は床に残る血だけを凍らせた。
咲貴は赫夜の手元へ目を戻した。赫夜の切っ先が動きだすより前に、織師の腕は上がっていた。
「少し先でも、見えるようになると違うだろう」
門番は織師へ顔を向けた。
「黒の千年王ほどの眼ではないけれど、役には立つ」
戸口を塞がれた冬馬は、裂けた袖から流れる血にも構わず、織師を睨み据えていた。
「あいつまで、先を読むんか」
「さっきまでとは別物だな。動きを変えろ。正面から抜けようとするな」
赫夜は咲貴を台の陰へ引き寄せると、戸口とは反対側の壁へ目を走らせ、高窓から柱の間隔、その下の床へと視線を移していった。
格子に滲む朝の色は、まだ床を照らすほど明るくはなく、柱の間には火皿の揺れる影が落ちていた。
望は壁際で刃を下げ、門番と咲貴を交互に見ていたが、目が合っても近づいてはこなかった。逃げるつもりがあるのか、助けを求めてよいのかさえ、咲貴にはその顔から読み取れなかった。
赫夜も一度は望へ目を向けたものの、声を掛けることなく門番へ向き直った。
「戦っても、無理なの」
「おまえ、素手で猛獣とやりあえるのか」
咲貴は答えようと息を吸ったが、喉に残る痛みに咳が出て、返事は声にならなかった。
「兄から言われている。出くわせば、どう逃げるかを考えろ、と」
自分を抱えたままでは、逃げるにしても動けないだろう。そう思って、咲貴は赫夜の腕から離れようとした。けれど足を踏ん張っても膝が震え、腰に回された手に引き戻されてしまった。
「ここから出られるの」
赫夜の目が下がり、咲貴はその手にある刃を見た。喉へ通すには十分な近さで、冬馬は戸口にいて、望も手を伸ばせるところにはいなかった。
「リスクヘッジは必要よ」
「わかっている。おまえを生かしておけば、それだけ志貴が危うくなる」
すぐに返ってきた言葉を聞き、咲貴は顎を上げた。それでも赫夜の手が動かないので、咲貴はその手首を掴み、刃を自分の喉元へ引き寄せた。刃先が肌に触れ、小さな痛みに思わず息を詰めると、赫夜の腕が強張った。
冬馬の隣に現れたのが明熾だったなら、咲貴もこんなふうに刃を待ちはしなかっただろう。赫夜がここへ来た意味は、もう告げられていた。咲貴は身体を引くことなく、赫夜の顔を見上げた。
「あなたの兄上は正しいと思う」
自分が逆の立場なら、姉を危険にさらす道を残してはおかない。赫夜だけにそれを負わせるのは酷だと思ったが、咲貴にはほかに頼める者がいなかった。
赫夜は眉を寄せ、刃を握る手に筋が浮くほど力を込めていたが、切っ先は進まなかった。咲貴の腰を抱く腕ばかりが強く締まり、門番から隠すように、咲貴の身体を引き寄せた。
「足を動かせるなら、俺に合わせろ」
刃が喉から離れ、咲貴が顔を見ようとしたときには、赫夜はもう壁際へ向き直っていた。赫夜が足を踏み出すと同時に黒い煙が床へ広がり、柱の根元から舞い上がった灰が、二人と門番の間を覆った。
咲貴は赫夜の衣を掴んで足を合わせ、高窓の下まで行ければと思ったところで、門番の手に襟を引かれた。首が締まって声を失った咲貴の脇を、赫夜の刃が下から走った。刃が門番の手首へ届く直前、門番はもう一方の手でその刃を押さえた。
白い霜に覆われながらも門番の指の関節は曲がり、掴まれた刃の向きが変わっていった。赫夜は柄を放して咲貴へ両腕を伸ばしたが、奪った刃を投げ捨てた門番に、その胸を掌で打たれた。
咲貴の腰にあった腕が離れ、赫夜の身体が台の角へ叩きつけられた。衝撃で朱の縁が欠け、床を滑ってきた石片が咲貴の爪先に当たった。
「咲貴!」
踏み込んだ冬馬の腕の下へ織師の黒衣が潜り込み、その足首を巻き取った。冬馬は片膝をつきながらも手を引かず、咲貴の袖へ指を伸ばしてくる。咲貴も掴もうとしたが、あと少しで触れられるところで、門番の腕が胸へ入ってきた。
衣が裂けることはなく、指の沈んだところだけが冷えて、皮膚の下を通り過ぎていく感触があった。咲貴は胸を押さえようとして門番の手首を掴み、両手で押し返したが、肋骨の内側を押し広げるように入ってくる腕は止まらなかった。
足裏が床を離れると、胸の奥へ差し込まれた冷たさに、あの温かさが応えた。苦しむたびに温かさは強くなり、近づいてくる。姉が来てしまうのだと、咲貴にはわかった。咲貴を助けるためなら、閉じ込められたところからでも手を伸ばす志貴が、自分の身体のことを構うはずはなかった。
「お願い、私を見捨てて。繋げて助けようとしないで。……赫夜、いそいで。早く、私を殺して!」
どこまで声になったのかもわからないまま、咲貴は掴んだ手首に爪を立て、腕ごと捻った。胸から引き抜こうとするたびに背が反って息が漏れたが、門番は咲貴の顔を見ず、差し入れた手を奥で動かし続けていた。
灰の臭いに乾いた布の匂いが混じり、門番の袖に沿って白いものが覗いた。
咲貴自身の衣とは違う、細かな皺の寄った寝衣の袖が、細い腕を包んでいた。押し返そうとしていた咲貴の手が止まった。門番が腕を引くにつれて、その袖は肩まで現れ、長い髪が咲貴の胸元を滑った。
俯いていた顔が持ち上がり、火皿の光が頬に届いた。目を閉じた志貴がそこにいた。片側へ寄った寝衣の襟の下で、垂れた左腕は咲貴にぶつかっても動かなかった。
袖の隙間には黒と紅の痕が残っていた。咲貴は門番の手首を放して姉の指先に触れたが、冷えたその指は、こちらから握っても握り返してこなかった。
門番が志貴の右の上腕を掴み、引かれるままに志貴の身体が奥殿へ出てくると、胸の圧迫が不意に消えた。襟を掴んでいた手も離れて咲貴の足が床に落ちたが、同時に姉の膝まで折れたため、咲貴は慌ててその背に腕を回した。けれど支えきれず、二人で石床へ崩れた。志貴の左脚が寝衣の裾を引いたまま横へ流れ、裸足の踵が灰の上を擦って、白い肌を汚した。
「志貴!」
頬に掛かった髪をよけて唇へ耳を近づけると、細い息が触れ、胸もかすかに動いていた。咲貴は志貴の身体を抱き直したが、腕に預けられた頭は重いままで、呼びかけを重ねても瞼が開くことはなかった。
姉の腕を離していない門番の指を外そうと、咲貴は爪が剥がれかけるほど力を込めた。それでも指は一本も動かず、かえって志貴の肩のほうが引かれてしまう。慌てて手を緩めると、すぐ脇で衣の裾が灰を擦った。
「仕方がないこともある」
膝をついた望が、志貴の背と後頭部へ手を差し入れた。咲貴は姉を抱く腕に力を込めたが、望はその腕ごと押し上げ、志貴を自分のほうへ引いた。姉の肩が引き攣れるのを見て、咲貴は門番の手へ目を向けた。その指が開き、志貴の上腕を離れた。
志貴の身体が腕の中から引き抜かれ、咲貴はその寝衣を掴んだ。望がさらに引くと、握った布は指の間から抜け、咲貴の膝に残っていた姉の左腕まで滑り落ちた。伸ばした手が触れるより早く、望は志貴の上体を膝に抱え込み、その後頭部を自分の腿に預けていた。
「望」
顔を上げると、望は右の袖を払っていた。露わになった腕には、咲貴の歯がつけた傷が残っている。望が左手の爪を乾きかけた血の縁に掛けて傷口を開くと、赤い血が肌を伝い、手首の内側へ流れはじめた。
望は傷口を上に向けたまま、左手を志貴の顎に添えた。親指が下唇に掛かり、閉じていた口を開かせる。咲貴が顔を覗き込んでも、望の目は志貴の口元から離れなかった。
「何、してるの」
先ほど咲貴に血を与えてくれたときには、背を撫でていた手だった。その手が、いまは姉の顎を強く支えて上向かせている。咲貴は志貴の肩に手を掛けて自分の膝へ引き戻そうとしたが、望の腕に阻まれ、姉の頭をこちらへ向けることさえできなかった。
「その血を、志貴に飲ませるな」
口の端から血を垂らしながら、赫夜が台に片手をついて身体を起こしていた。咲貴は志貴の頬へ手を添え、その唇を自分の胸元へ隠そうと身を寄せた。志貴の顎から離れた望の左手が、咲貴の首を捉えた。
喉を押されて上体が反り、姉の頬に触れていた指が滑った。咲貴は望の手首を掴んで押し返そうとしたが、石床についた膝が後ろへずれるばかりだった。志貴の肩を掴んでいるもう一方の手まで引き離されそうになり、咲貴は寝衣を握り直した。
「息が、できない。やめて」
声を出そうとするたびに、喉へ食い込んだ指が痛んだ。見上げても望の目はこちらへ向かず、血の溜まった手首を返して、志貴の唇へ近づけていく。咲貴は喉を押さえる手を両手で引き剥がそうとしたが、息が詰まり、指先に力が入らなかった。
血の流れる手首を、横から門番が掴んだ。望の右腕は志貴の口元へ届く前に引き上げられ、傷口から落ちた血が、顎の下の白い寝衣を濡らした。
「君が動くのを待っていたんだよ。初めまして、蒼の千年王」
望が顎を上げ、門番と目を合わせた。
咲貴の首に食い込んでいた指がほどけ、その手が門番の腕を横から打った。音とともに喉の圧迫が消え、咲貴は咳き込みながら床に手をついた。吸い込んだ空気には灰の臭いが混じり、喉を通るたびに痛んだが、姉へ伸ばした手は、今度は止められなかった。
望の左手は門番の手首を掴んでいた。押し返しながら右腕を捻り、血の流れる傷を志貴の口元へ近づけようとしている。
咲貴が姉の肩を抱えると、望の右肘もこちらへ動いたが、手首を握る門番の指は外れなかった。
「ようやく尻尾がつかめたよ」
門番の空いた手が望の喉へ伸びた。望は手首に掛けていた左手を離してその腕を打ち払い、なおも右腕を押し下げようとした。ぶつかった二人の袖が咲貴の頬を掠め、傷口の血が飛んだ。
咲貴はその腕の下から志貴を引き寄せ、望の腿から滑りかけていた姉の頭を胸に抱き込んだ。
「まずは、君からだ。蒼の千年王」
門番に掴まれた望の手首には筋が浮いていたが、血は姉の唇まで届かなかった。白い寝衣の胸元に染みが広がり、咲貴が握った布の内側まで濡らしていった。




