第90話 たまきはる 命絶ゆとも 名を忘れめや(後編)
咲貴は寝衣の端を握ったまま、石床に横たえた姉の胸元を見ていた。布はかすかに上下し、強張っていた右肩も下がっている。握っていた布を放し、上着を脱いで畳むと、髪の下へ滑らせた。肌に触れないようにするだけで、手首が震えた。
左の目に塗られた血は乾きかけていた。拭おうとして手を上げると、床を巡っていた蒼い筋が、望の胸の内側へ集まって見えた。さっき裂けた一本が、束の中で細い隙間を残していた。裂けたところから血が落ち、咲貴の左目に触れた手を伝っていた。
右の目には、望の襟元にそんな傷は見えなかった。
「君の名は、こんなに脆かったかな」
門番の指が望の胸元に触れ、咲貴の左目に映る裂け目と重なった。望は左手でその腕を払ったが、門番の指は衣の内側へ沈み、押し返した望の手まで巻き込んだ。
咲貴は立ち上がろうとした。望へ寄るより先に、床から伸びた煙に行く手を遮られた。
「寄るな」
赫夜は台から離れ、黒い筋を両手で掴んでいた。望の胸元へ続くものを引くと門番の袖が張り、赫夜はそこへ指を差し込んで、撚られた筋をほどこうとする。望が左手を引き抜いたので、赫夜の指はさらに奥へ入った。
門番は掴んでいた望の右手首を放し、赫夜へ片手を向けた。煙の中から伸びた細い筋が、赫夜の頬を掠めた。赫夜は首を引いてかわしたが、次の筋は台の朱へ潜り、背後から肩へ掛かった。引かれても赫夜は手を放さず、筋が首筋へ届きかけたところで、ようやく指を一本外した。
「何がしたいのか、不可解な動きばかりだね」
門番が望に言った。
「門番、あなたは宗像を壊せない」
望の右手が咲貴へ伸びた。こちらを掴む前に手首が下がったので、咲貴はその指の下に掌を差し入れた。血のついた爪が、掌の縁を浅く擦った。
「受け取ったね」
咲貴は頷いた。左目が痛み、涙が溢れたが、瞼を閉じずにその顔を見上げた。
「今度は、残せた」
望は、咲貴の肩越しに志貴を見た。顎をわずかに上げ、咲貴の掌に預けていた手を引いた。その手は門番の腕に戻ることなく、衣の脇に落ちた。
「頼んだよ」
声が咲貴へ届いたとき、門番の指が胸元から抜け、その指の間に、蒼いものが引き出されていた。咲貴の左目には、それが二つの字を形づくっているように見えた。陽貴、と読めたところで、細い筋が切れ、字の縁から光が欠けた。
咲貴は望の袖を掴み、前へ傾いてきた身体を、膝をついて受け止めた。その重さに肩まで引かれながら、後頭部が石にぶつからないよう腕を回し、床に横たえた望の顔を覗き込んだ。
「望」
頬についた血を袖で拭った。目は半ば開いたままで、咲貴が肩を揺すっても、こちらへ向かなかった。鼻先へ手を寄せ、胸元に耳を近づけた。四隅の火皿で油が鳴っていたが、その音の下に、望の息はなかった。
「咲貴、そこを離れろ」
赫夜の声がしたが、咲貴は顔を上げず、望の右手を取った。手についた血は、さっきまでその手首から流れていたものだった。
「まだ、温かい」
自分の衣で傷を押さえた。爪の痕に布が入り、指の腹まで血が滲んだが、それ以上、傷口から流れてはこなかった。
「望、起きて」
冬馬の火が、咲貴の横へ届いた。足首に残っていた布を引きずりながら、冬馬がこちらへ寄ろうとしている。
「誰を呼んでるんや」
咲貴は望の手を握ったまま、冬馬の顔を見た。冬馬は床に横たわる望へ目を向けたが、すぐに門番へ視線を戻し、こちらへ来るよう腕を伸ばした。
「早う、離れろ。そいつに近づくな」
「望よ。さっきまで、ここにいたでしょう」
冬馬の口が開いた。けれど、その名を言い返すことはなく、咲貴の肩の向こうへ手を伸ばそうとした。赫夜もこちらへ寄り、望の顔を一度見たあと、咲貴の腕へ目を移した。
「立てるか」
咲貴は赫夜の袖を引き、顔を寄せて声を落とした。
「この人が、私を助けてくれていた」
咲貴は左目に触れた。乾いた血が指につき、目尻の皮膚が引かれた。望の手に触れていた掌を開き、赫夜へ向けた。
赫夜は咲貴へ身を寄せ、声を落とした。
「すまんが、俺には認識できん。そいつは門番に名を消されたんだろう」
赫夜は咲貴の顔を見ていた。その視線は左の瞼まで下りたところで止まり、床に横たわる望へは戻らなかった。
「今は、離れろ」
門番の足が動いた。咲貴は望の身体に覆いかぶさろうとしたが、赫夜が間に入り、床へ落ちた黒い筋を足で踏んだ。その端を拾って引くと、門番の指先に残っていたものが、細く解けていった。
「まだ触るつもりかな」
門番が赫夜へ顔を傾けたが、赫夜は答えず、咲貴の肩を押した。立たせようとするその手に、咲貴は血のついた掌を重ねた。
咲貴は赫夜の衣を引き、耳もとへ顔を近づけた。
「どうして、私だけ覚えてるの?」
問い終わるより先に、床の下で硬い音がして、台の縁を巡っていた朱が継ぎ目で裂けた。四隅の火皿から炎が引かれて柱の根元へ寄り、床を走っていた蒼い筋が、望の胸元から抜けた糸とともに一本ずつ消えていった。
咲貴は握った手を引き寄せた。望の胸へ耳を寄せたときと同じ、返ってくるもののない静けさが、足もとの火にも広がっていた。
戸口の向こうで、何かが大きく倒れた。木が割れる音が廊を伝い、遅れて、外で石を叩く音が幾つも重なって聞こえた。格子に差していた薄い明かりが揺れ、窓の下に貼られていた札が、端から浮き上がった。
「道反が、壊れる!」
冬馬が戸口へ顔を向けた。片足を引こうとしたところへ織師の袖が伸び、膝の内側を払った。冬馬は柱に肩を預けて踏み止まり、布を掴んだまま火を通した。
札は剥がれて、灰の溜まる床に落ちた。望の胸からずっと流れていた蒼は、もう見えなかった。咲貴が左目を開いて見続けても、台の朱へ続く筋は戻らなかった。
「こんな危険な場所を、よくもまあ、長く保たせたものだ」
門番が柱を見上げて指を上げると、剥がれた札の下から、細い黒いものが浮き出した。朱の消えたところへ入り込み、台から戸口へ、壁から高窓へと渡っていく。
冬馬が火を放っても黒い筋は焼けず、火のほうが窓の手前で折り返された。床へ落ちた炎が赫夜の足もとへ走り、赫夜は手首を返してそれを壁際へ逸らした。
咲貴の背後で、寝衣の擦れる音がした。
振り向くと、志貴の右手が石床についていた。その手が、咲貴の広げた寝衣の裾を押し、上体がゆっくり持ち上がった。動かない左腕は身体の脇に垂れたままで、顔も俯いていたが、右膝が曲がり、足の裏が床を捉えた。
咲貴は手を伸ばしかけたが、志貴の背へ届く前に、袖口が押し戻された。風は、格子から入ってきたのではなかった。志貴の髪が持ち上がり、石床へ落ちていた灰が、背のまわりから遠ざかっていった。寝衣の下で紅の痕が淡く浮き、右手が床を離れ、志貴の身体は右脚だけで立ち上がった。
足もとから八つの光の玉が飛び出し、志貴の身体を巡った。
左の踵は床から離れなかった。目を閉じた志貴が顔を上げると、その唇が開くより先に、火皿の炎が低く伏せた。油の鳴る音も、織師の衣が擦れる音も、咲貴の耳へ届かなくなった。
『宗像の子は、吾の血より生まれた』
咲貴は、望の手を握ったまま身を伏せた。姉の声だったが、奥殿の柱を越えて響くその声を、近くで聞き続けることができなかった。床についた掌に力を込めても腕が震え、額が石へ近づいていく。冬馬も柱に背を当てたまま顎を下げ、赫夜は膝を曲げて床を掴んでいた。
志貴の右手が、望の身体へ向けられた。開いた掌の下で、血の染みた衣に火が灯った。
『吾が子を、餌にはさせぬ』
火は望の胸元から肩へ広がり、長い髪を包んだ。握っていた手が熱を帯び、咲貴は思わず指を緩めた。望の右手が石床へ落ちた途端、袖口から立った炎が指先まで覆った。咲貴は掴み直そうとしたが、掌に迫る熱に阻まれ、それ以上近づけることができなかった。
「望」
炎の向こうに見えていた顔が、衣の襟とともに焼け崩れた。胸を覆っていた火が床の高さまで沈み、舞い上がった灰も、落ちる前に焼け尽きていった。
火が消えると、望の横たわっていたところだけ石床が露わになっていた。衣も骨も、その形を残す灰さえなかった。咲貴は伸ばした手を戻せず、血のついた指の先に見える石の継ぎ目を見つめていた。
「厄介なことをしてくれる」
門番は手を開き、指に掛かっていた黒い筋を放して、志貴へ向けていた爪を袖の中に引いた。その間も足を動かし、台から離れて火皿の向こうへ退いていった。
「黄泉津大神が、ここで、おでましとはね」
声を聞いて咲貴は顔を上げようとしたが、門番の表情を見届けることはできず、目の端に映った姉の裸足へ視線を留めた。
志貴の右手が持ち上がると、壁に張りついていた黒い筋が、一斉にその手から遠ざかった。窓の手前に重なっていたものは柱の間で引き裂かれ、細い端が壁を打った。
『誰の許しがあって、頭を上げているのか』
志貴の掌が台へ向き、朱の上へ潜り込んでいた黒が、床から引き剥がされた。石の表を擦る音が響き、戸口から高窓までを囲っていたものが、輪を保てずに裂けていった。
咲貴は、破れたものの向こうから届く朝の光を見ていた。格子の影が床に落ち、さっきまで火皿の赤しか届かなかったところに、志貴の髪の影が伸びていた。持ち上がっていた長い髪が肩へ下り、開いていた右手も、ゆっくり胸の高さへ戻った。
柱へ伏せていた炎が油へ戻り、志貴の身体が左へ傾いた。咲貴が腕を上げるより先に、姉の右脚が踏み直され、垂れていた左手が寝衣にぶつかった。その音に合わせるように、志貴の瞼が開いた。
「なんや、これ。やられすぎやろ」
咲貴が姉の顔を見ると、志貴の目は望の横たわっていた場所を横切り、咲貴の血のついた手で止まった。唇がわずかに動いたが、声は出ず、視線は門番のほうへ移った。
「蘇芳、武器になれ」
その言い方を聞いて、咲貴は伸ばしたままだった手を膝へ戻した。床に広がった姉の寝衣を引き寄せ、左の踵に絡まないように端をよけた。
志貴の左肩に残る黒と紅の痕が袖の下で揺れ、肘から流れ出た煙が、垂れた指を巡りながら右の掌へ集まっていく。その内側から黒銀の柄が現れ、志貴は右手でそれを握った。
『その御身では、深く開いてはなりません』
低い声が聞こえた。咲貴が顔を上げると、志貴の右手の先で、鈍い色の穂先が門番へ向いていた。
「分かってる。けど、やらなあかん時もあるやろ。ここは、私の家や。勝手されたら困るんや」
志貴は柄の端を床につき、傾いた身体を起こした。右足の指が石を掴み、左足は踵を擦ったまま、その後ろに残る。寝衣の襟から覗く肩は細く、立っているだけでも右の手首に力が要るようだった。
「また、その矛か」
門番は足を止め、開いていた手を持ち上げて、志貴へ指先を向ける。
「君は、自分の身体で何ができるか、まだ分からないようだね」
志貴が右足で床を蹴ると、左脚が引かれ、膝の曲がらないまま身体が進んだ。穂先は床すれすれを走り、門番の手の下から胸元へ届いた。咲貴が息を呑むと同時に、黒銀の矛が門番の衣を貫いていた。
「残念ながら、お利口な戦い方は知らん」
志貴の右肩が止まり、柄を握る手がさらに押したが、門番の胸は動かなかった。衣に開いた裂け目から血は流れず、穂先の向こうには、火皿の炎が透けて見えた。
「八雷、道反の禁域を組み直せ!」
その声に応じて、八つの光の玉が飛び出していく。
「斎貴以上の才があるのに、頭が足りない」
門番の指が志貴の顎へ寄ると、志貴は矛を引いて、柄の中ほどを床に打ちつけた。それを支えに身体を回し、右足の外側で踏み止まった。
「私が不出来なんは今に始まったことやない」
門番の爪が志貴の頬を掠めたが、深く入る前に、黒銀の穂が横へ返った。
「自覚があるとは実に泣かせるね」
門番が首を傾けると、穂先はその頬を掠めて背後の柱へ届いた。石が削れて咲貴の前へ欠片が飛ぶと、赫夜が咲貴の肩を引き、台の陰へ寄せた。
「離れるな」
赫夜の手には血がついていた。赫夜自身の血か、咲貴の掌から移ったものか、確かめる間もなかった。戸口で冬馬の火が上がり、織師が引いた袖の縁を焼いた。冬馬はその隙に足を抜き、柱の内側へ回ったが、黒衣はすぐに戸口を塞ぎ直した。
「冬馬、その何か見たことない奴、さっさとやってしまわれへんのか?」
志貴は振り返らずに、冬馬に声をかけた。
「めいっぱい、やっとるわ!」
冬馬の声に、志貴の口角がわずかに上がった。
「冬馬、ひとりでできへんのやったら、咲貴に頼むか?」
志貴は柄に沿って右手を滑らせ、穂先を門番へ向け直して、動かない左脚を後ろへ引く。足を持ち上げられないため、踵は灰を擦り、寝衣の裾もその下へ巻き込まれていた。
「余計なお世話や!」
冬馬の目の色が明らかに変わった。
「志貴、危ない」
咲貴は身を乗り出し、踵の下に巻き込まれた裾へ手を向けた。膝を立てたところで、姉の左肩に残る紅が震えた。こちらへ向いた志貴の右手の指が一瞬だけ開き、すぐにまた柄を握り直した。
「よう耐えたな、咲貴。私がおとしまえつけるから、さがっとき」
咲貴は伸ばしかけた手で、台の縁を掴んだ。泣きたくないのに、涙がこぼれ落ちた。
「君は余裕があるのか、馬鹿なのか分からないね」
門番の袖から垂れた細い筋が、志貴の頬の傷に寄り、流れる血を伝って唇へ向かう。志貴は肩を引いたが、左脚が動かず、身体の向きが変わらなかった。
「うるさいわ」
穂先が髪の脇を通ると、唇へ届こうとした筋が切れ、黒い雫となって床に落ちた。志貴は矛を肩の高さまで上げ、右足をさらに引いた。朝の光の中へ顔が出ると、頬の傷から流れた血が、白い顎を細く濡らしていた。
門番はその血へ目を向けた。
「あのまま眠っていれば、傷を増やさずに済んだだろうに」
「だから、うるさいって」
志貴が言い終える前に、門番の指が曲がった。床へ落ちていた黒い雫が起き上がり、細く伸びて志貴の影へ入り、寝衣の下で右膝が揺れた。志貴は矛を床に突き立て、傾いた身体を支えたが、肩から肘へ、黒いものが這い上がっていた。
「引きずり込まれたら、終わりだ!」
赫夜は台の縁を越えて手を伸ばし、志貴の影に入り込んだ筋の端を掴んで床から引き出す。門番が顔を向けたときには、赫夜の指がすでにその撚りを解いていた。志貴の右肩を覆いかけた黒が、袖から落ちた。
「そこまで手を出せるんだね」
門番の声が届いたが、赫夜は顔を上げなかった。指の間に残った端を放し、咲貴の腕を台の内側へ押し戻した。
志貴が矛を抜くと、穂先の通った床に細い傷が残り、その縁に紅が滲んだ。右手で柄を握り直すと、柄の下から炎に似たものが這い上がってきた。
咲貴は姉の口元を見た。唇の端に溜まった血が顎へ落ちていたが、頬の傷から流れているものとは違う。咳を押し殺そうと顎を下げても、喉が動くたびに、また血が滲んだ。
志貴は歯を食いしばって息を吸おうとしたが、胸がわずかに膨らんだところで肩が跳ね、柄を握る腕に筋が浮いた。額から落ちた汗が頬の血に混じっても拭う手はなく、唇の端を上げ直そうとして、顔が引き攣れた。右脚に体重を移した途端に膝が折れかけ、矛の柄が石床を打った。志貴は柄に縋って上体を保ったが、息を吐ききれないまま、また血を飲み込んだ。
顎を引くたびに、首から肩へ細かな震えが走った。穂先を戻そうとする腕もすぐには上がらず、志貴は柄を握り直してから、ようやく肘を引きつけた。
咲貴は次の軽口を待った。志貴が口を開いても、出てきたのは血の絡む息だけだった。
左肩の紅が、襟の内側へ伸びた。志貴の右手首は白く、柄を握る指だけが赤くなっていた。穂先に集まるものが増すほど、身体を支える右膝が細かく震えた。それでも柄を握る手は緩まず、志貴は門番から目を逸らさなかった。
「志貴、もう限界だろ」
赫夜は台から離れ、脇腹を押さえていた手を下ろして、志貴の右側へ向かった。咲貴も立とうとしたが、赫夜が後ろへ向けた掌に止められた。
「これ以上は、おまえの身体が先に尽きる」
志貴は矛を下ろさなかった。穂先を門番の胸に向け、右肘をゆっくり引く。その足もとから広がった紅が、門番の衣の裾を持ち上げた。
「この一度で終わるなら、構わん」
声には息が混じっていたが、言葉は途切れなかった。志貴が右足で踏み込もうとすると、左の踵が石に引っかかり、身体が傾いて矛がさらに高く持ち上がった。
咲貴は台を回り、姉の左腕に手を掛けようとして、袖の下で震える紅を見た。指先には、拭いきれなかった自分の血が残っている。咲貴はその手を衣に押しつけ、志貴の前へ出ようとした。
「咲貴、来たらあかん」
姉の声に足が止まったが、志貴は咲貴を見ていなかった。右肩を後ろへ引き、矛を持つ手を門番へ向けたまま、もう一度足を踏み直した。襟から伸びた紅が、喉の下を巡っていた。
門番の指が開いた。
「そこまで使う必要はないよ」
その手が志貴へ伸びるより先に、赫夜が間に踏み込んだ。床に垂れた筋を左手で払い、右手を志貴の矛へ向けたが、柄には触れなかった。
「志貴、おまえの命を注いでも、そいつは終わらない。それに、耀冥をひとりにするつもりか?」
穂先に集まっていた紅が揺れ、志貴の目が赫夜へ向いた。口を開きかけたが、咳が先に出て、右手の指が一本、柄から浮いた。
「いまは退け」
赫夜は声を落とさなかった。志貴が握り直そうとした手に目を向け、彼女が矛を下ろすまで、その前から動かなかった。
穂先の紅が細くなった。志貴は武器を手放さず、右足を半歩引いた。左脚が遅れて引きずられ、倒れかけた身体を柄の端が受け止めた。
咲貴は姉へ手を伸ばせないまま、その足の動きを追った。赫夜の背に、門番の袖が触れかけていた。門番が上げた指の前で、赫夜は左手を返した。細い筋が赫夜の指に絡み、志貴のほうへ伸びる前に床へ引き下ろされた。
門番の視線が、志貴から赫夜へ移った。
「君、知りすぎているね」
咲貴の前で、赫夜の指が止まった。筋は掴まれたままで、その手の甲を、門番がゆっくり見下ろしていた。




