第86話 われても末に 逢はむとぞ思ふ
黒の宮には、朝を知らせる光が差し込まなかった。
夜が明けても石造りの寝室は暗く、寝台の両側に据えた灯りと、炉に残る熾火だけが室内を照らしていた。乾燥を防ぐために炉端に掛けた布から水滴が落ち、受け皿の底で硬い音を立てていた。
耀冥は寝台の脇にある椅子に腰掛け、三日間眠り続けている志貴の呼吸を確かめていた。
門番の領域から連れ帰った直後、明熾が身体を清め、裂けた衣を替え、傷の手当てをした。それでも濡れた石と古い水の臭いは消えず、寝衣や髪の奥にまで染みついている。
枕元には耀冥の上衣が畳んで置かれていた。夜ごと、新しいものと取り替えてきた。
左肩から指先まで残った黒と紅の痕は、三日が過ぎても薄くならない。左脚にも力は戻らない。
耀冥は幾度も右眼を使おうとしたが、結局、眼帯を外せなかった。
右眼で先を見れば、代償として大切な記憶を失う。何を持っていかれるのかは選べない。
脈と呼吸だけを頼りに待ち続けていると、寝台から掠れた声が聞こえた。
「お腹、すいた」
耀冥はすぐに身を起こした。
掛け布から出ている右手の指が動き、閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がる。焦点の定まらない目が天井をさまよい、灯りを横切って、耀冥の顔で止まった。
「何が食べたいんや」
「露店の肉の串焼き」
耀冥は張り詰めていた息を吐いた。
志貴が体調を崩したときに肉を欲しがることはない。串焼きを求めるのは、たいてい機嫌を損ねているときだった。
「ここをどこやと思うとる。露店なんかあるわけないやろ」
「それは残念や。なあ、一心、怒ってへんの?」
「怒ってるに決まってるやろ」
「勝手に飛び出したし?」
「よう分かっとるやないか」
「あとで怒られる?」
「今から怒ろうと思うてるとこや」
志貴は叱られると分かっているくせに、安心したように口元を緩めた。
耀冥は用意していた小言を飲み込んだ。勝手に宮を抜け出したことも、一人で遺構へ向かったことも、目を覚ましたのなら、これからいくらでも叱れる。
「やっぱりすごいな。来てくれたやろ」
「間に合ってへん。おまえが沈められる前に助けられへんかった」
「誰も来られへんと思ってた。あんなところ、誰にも分からへんと思ってたから」
志貴は乾いた唇を舌先で湿らせた。
「来てくれて、嬉しかった」
耀冥は頬へ触れようとして手を止めた。目覚めた直後の志貴は、必要もないのに身体を動かされることを嫌う。助けが要るなら、自分から言うはずだった。
志貴は寝台脇の卓へ目を向けた。明熾が用意した水と清潔な布が載っている。
「水、飲みたい」
「今、果林の水を用意させる」
「いいよ。これで飲める」
志貴は自分で器を取ろうとした。左肩を動かそうとしたらしく、掛け布の上の左手がわずかに揺れたものの、腕は持ち上がらない。
もう一度、右肩と背筋へ力を入れる。それでも左手は反応しなかった。
「おかしいことになってるやん」
志貴は右手で左手首を支え、掛け布の上から持ち上げた。掌を返し、指先を一本ずつ確かめたあと、支えていた右手を緩める。左手は何の反応も返さず、白い布へ落ちた。
志貴は落ちた手から目を離さなかった。見慣れた爪も、指の形も、手首に残る痕も変わらない。それでも、右手で持ち上げなければ、そこに左手があることさえ分からないらしい。
目尻から流れた涙が頬を伝い、耳の近くへ届いた。
耀冥は乾いた布を、志貴の右手が届く場所まで滑らせた。志貴は布を使わず、右手の甲で頬を拭った。
「左は足も動かんはずや」
「そう。なら、右は動くんやな」
掛け布の下で右足の指が動き、続いて右膝がわずかに持ち上がる。志貴は呼吸を整えてから、動かない左手を見た。
「まあ、串は持てるか」
「いきなり肉は無理や」
「一本だけならいけるやろ」
「本数の問題やない」
「小さく切ったら?」
「それでは串の意味がないやろうが」
声にはまだ震えが残っていた。それでも志貴は左手のことをそれ以上口にせず、右肘を寝台へついて上体を起こそうとする。
右肩は持ち上がったが、左半身が布の上に残り、均衡を失った身体が左へ傾いた。耀冥は右肩を支え、もう一方の腕を背へ回そうとして止めた。
「このまま起こしても、ええか」
志貴の右手が耀冥の胸元を掴んだ。
「水を飲むまで助けて。串焼きが来たら、食べ終わるまでも頼むわ」
「串焼きは来えへん」
「まだ頼んでもないやん」
「誰に頼むつもりや」
「玄綾か冬馬やろな。一心より話が分かるし」
耀冥は言い返さず、志貴の右側から背へ腕を回した。左腕を身体の下へ巻き込まないよう位置を確かめ、肩甲骨の下を支えながら上体を起こす。
掛け布の下で左脚が引きずられると、志貴はその動きを目で追った。左腕が身体の脇から外れたときも視線を逸らさず、自分の身体がどう動かされているのかを確かめている。
耀冥は枕を重ね、背中と左脇を支えた。
「手を離しても座れそうか」
「やってみる」
志貴が右手を寝台へついたのを見て、耀冥は背から腕を離した。身体は少し左へ傾いたが、脇へ差し込んだ枕が受け止めた。
「普通の水やぞ」
「見たら分かる。喉が渇いた」
器を差し出すと、志貴は右手で受け取った。指先に力が入りきらず、水面が揺れて縁を濡らす。
耀冥が手を添えようとすると、志貴はその動きを目で捉えた。
「下だけ支えて」
耀冥は器の底へ指を添えた。
志貴は器を口へ運び、一口、二口と水を飲んだ。喉が動いても、吐き戻す気配はない。乾きに耐えかねて続けて飲もうとしたところで激しくむせた。
「急いで飲むな」
耀冥が器を下げようとすると、志貴は首を横へ振った。呼吸が戻るのを待ち、もう一口だけ飲んでから器を返す。
耀冥は水を卓へ戻しながら、わずかに眉を寄せた。
身体が弱った志貴は、普通の水を受けつけない。果林を浸した水へ耀冥の血を混ぜなければ、飲み込んでもすぐに吐く。それが今は、一口も戻らず身体へ収まっていた。
「これ、戻してほしい」
志貴は、身体の脇から外れて掛け布へ沈んでいる左肘を見ていた。
耀冥は手首と肘を支え、左腕を身体の脇へ戻した。志貴はその動きを最後まで確かめていたが、腕の位置が変わっても痛みを訴えなかった。
「いつ治るんやろか」
「明熾と楼蘭に診せんと分からん」
耀冥が立ち上がろうとすると、志貴の右手が再び胸元を掴んだ。
「呼びに行かせるだけや。ここから離れへん」
耀冥は椅子へ腰を戻し、扉の外にいる守り手へ二人を呼ぶよう命じた。返事をした者の足音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。
「俺はここにおる。それでええか」
志貴はようやく指を離した。
「どこにも行かずにおるんやったら、いい」
耀冥は枕元の上衣を取り、志貴の右手が届く場所へ寄せた。
志貴は衣を引き寄せなかった。耀冥が椅子へ座り直したことを確かめると、強張っていた右肩から力を抜いた。
本人がそばにいるのだから、代わりの衣を必要としないだけかもしれない。それでも耀冥は、畳まれたままの上衣へ一度視線を落とした。
門番の領域で受けた傷が、志貴の習性にまで影響したと考えれば理解はできる。
それでも、首筋を伝った汗が襟の内側へ流れ込んだ。
***
明熾は薄い粥と耀冥が用意させた小さな包みを載せた盆を持ってきた。
明熾が首筋へ指を近づけようとしたところで、志貴の右肩が強張った。耀冥は自分の袖口を首筋へ当てた。
「布の上からにしてくれ」
「承知しました」
明熾は袖越しに脈を確かめ、胸元へ手を移すことを告げてから、呼吸を診た。
「命に関わる乱れはありません。左側は動かさず、今日は休んでください。食事は少しずつ、吐き気が出たらすぐに知らせてください」
明熾が水と布を右手側へ寄せると、志貴は寝台の左側を見た。
「左にも灯りを置いて。見えへんところにあると、左がなくなったみたいになる」
明熾は離れた場所の灯りを左へ移した。橙色の光が肩から指先までを照らすと、志貴は動かない手を確かめ、右肩から少しだけ力を抜いた。
明熾が寝台から離れると、志貴は盆の上を見て露骨に眉を顰めた。柔らかく崩れた米が白い汁に沈み、湯気には生姜の香りが混じっている。
「何これ。重湯みたいや」
「今はこれにしとけ」
器の隣には、耀冥の血から作られた飴の包みがあった。弱っているときの志貴なら、粥を見るより先にそちらへ手を伸ばす。耀冥が包みの端を指で押し、甘い香りが漏れるようにしても、志貴は目を向けなかった。
耀冥は包みを取り上げ、自分の懐へ収めた。その動きで、ようやく視線が追ってくる。
「俺の血が混じったもんはなしや」
志貴の顔から不満が消え、代わりに警戒が浮かんだ。
「私が欲しいって言うても?」
耀冥は言葉を選びかけて、結局そのまま口にした。
「身体の状態を確かめるまではあかん」
「どうして先に言ってくれへんかったん」
「目を覚ましたばかりのおまえに、いきなり聞かせる必要はないと判断しただけや」
志貴は粥から顔を背けた。
「これは食べへん。誰が作ったか分からへんし、どうせ味もないんやろ」
「明熾が材料も作った者も確かめとる。全部食えとは言わんから、一口だけ試せ」
本来なら、志貴はここで器を押し返し、代わりにせめて雑炊を作れと要求する。ところが器と耀冥の顔を見比べたあと、震える指で匙を取った。掬った粥を口へ運び、嫌そうに眉を寄せながらも飲み込む。
「おまえを外したところで何かを決めたわけやない。口にするものに制限をかけた理由は、楼蘭から説明させる」
志貴の右肩が下がった。しばらくの沈黙のあと、志貴は迷いながらも口を開いた。
「門番に、一心は餌やって言われたんや。番ではなく、餌やって」
耀冥は器から志貴へ視線を戻した。
「互いの血で足りんところを補ってきた。それを何と呼ぶかは、俺とおまえが決める。門番が口を出すことやない」
「それは、そうかもしれへんけど」
「何て言ってほしかったんや」
志貴の右手が耀冥の胸元へ伸びかけ、黒い布へ触れる手前で止まった。
「俺は番やから、血を分けてるわけやない」
口にしてから、耀冥は自分の言葉の飾り気のなさに気づいた。
志貴は止めたままの右手を見た。
「知らんことを黙ったままにされたら、私は何を聞いたらいいんかも分からなくなる。そうしてるうちに、わけの分からん不安が積み上がる。門番の言葉ひとつで振り回される気持ちを、分かってほしかっただけや」
志貴なら、知らないことを知らされないまま放っておかない。答えが返らなければ、自分で確かめに動く。今の訴え方には、その粘りがなかった。知らせてほしかった、とだけ言って、それで止まった。耀冥は、飲み干された水のことを思い返した。上衣を引き寄せなかったことも、飴へ手を伸ばさなかったことも、頭の隅から離れなかった。
***
楼蘭は、粥の器から湯気が消えないうちに寝室へやって来た。
「思ったより顔色は悪くないね。機嫌は悪そうだけれど」
「重湯は嫌いや。串焼きを食べていいって、言って」
「食欲があるのは悪くないけれど、今は駄目だよ」
楼蘭は寝台の左側へ回り、肩口に残る黒と紅の痕を見た。
「左肩に触れてもいい?」
志貴は楼蘭の指先を見た。明熾が首筋へ触れようとしたときには身体を強張らせたが、今度は耀冥へ判断を求めず、自分で頷いた。
「いいよ。触る前に言って」
「今から肩に触れる」
楼蘭の白い指が左肩へ触れた。志貴は右手で掛け布を握り、身体に起きる反応を待った。白い力が肩から流れ込んでいく気配を、耀冥は近くにいながら肌で捉えていた。
志貴の右手が持ち上がり、触れられている肩口を覆った。
「白が入ってきたんは分かる。でも、触られてる感じがせえへん」
楼蘭はすぐに指を離し、寝具の上に横たわる左手を見た。そして、志貴ではなく耀冥へ視線を向けた。
「診察を続けてもいい?」
「続けてくれ」
耀冥の言葉に、楼蘭はほんの一瞬だけ目を伏せた。
「わかった」
楼蘭は肩から腕、脇腹、左脚へ順に手を移し、そのたびに触れる場所を告げた。志貴は指先の動きを目で追い、最後まで中止を求めなかった。
「左側の麻痺は、身体と魂の結びつきがずれているために起きている。三日前に調整した状態は保たれているし、ヨルノミコトの侵食も進んでいない」
「戻せる?」
「いずれは戻る。ただ今は強い力を流さないほうがいい。いつもの飴を止めたのも、それが理由だよ」
気休めだと、耀冥には分かっていた。
「どれくらいかかるん?」
「もう少し診てみないと、はっきりしたことは言えないね」
楼蘭は道具を鞄へ戻しながら、耀冥へ顔を向けた。
「念のために聞くけれど、この三日、水を飲ませたことは?」
「一度も飲ませてへん。目を覚ましてから、普通の水を自分で飲んだ」
楼蘭の指が鞄の留め具の上で止まった。そのまま何も言わずに留め具を下ろした。
「隠してること、あるんやろ」
志貴の問いかけに、楼蘭は答えなかった。
「私の身体のことも、外で起きたことも、二人は知ってるんやろ。何を伏せるかまで、二人で決めんといて。私が聞いたことには答える約束やったはずや」
「その約束があったにもかかわらず、おまえはこっちの話を聞かずに飛び出して、今、この有様や。命に関わることを隠すつもりはないが、今のおまえに耐えられんことまで、一度に聞かせるつもりもない」
耀冥は反論されるものと思っていた。体調を理由に話を止めれば、志貴は聞くまで退かない。
ところが志貴は唇を引き結び、やがて小さく息を吐いた。
「ごめんなさい」
楼蘭が耀冥を見た。診断を告げたときとは違う驚きを秘めた目だった。
***
扉の外から玄綾の声が聞こえたのは、そのすぐあとだった。
耀冥が入室を許すと、玄綾は卓上の粥を確かめた。
「少しは食べたようだね。いつもよりはいくらかましだが」
「これを食事とは認めたくない」
「明熾坊ちゃんの許可が出たら串焼きを用意してやるとしよう。それより、遺構を調べた者から報告が届いた。聞くかい?」
「ここで話して」
耀冥は椅子へ深く腰を下ろし、玄綾を見た。
「構わん。報告してくれ」
「森の遺構は残っていた。石壁も通路も変わっていないが、水に満ちた石室へ降りる道が見つからない。壁を崩しても、その先には土と岩が詰まっていた。地下に空洞があった形跡さえ残っていない」
「最初からなかったってこと?」
「それは違う」
耀冥が答えると、志貴はすぐに聞き返した。
「じゃあ、なんでないんよ」
「門番なら、あった道を消すくらいは簡単にやってのけるよ」
楼蘭がそう言い、寝台の左側から離れた。
「まあまあ、落ちついて。厄介な報告がもう一つある」
玄綾は扉の外の気配を確かめ、声を低くした。
「黒の宮の西側で、見慣れない気配が確認された。敷地へ入った形跡はないが、外から本宮を探るように移動していたそうだ」
「本宮を覗く余裕があるとはな」
耀冥は気怠そうな息を吐いた。
「追わせているけれど、こちらを誘い出すための動きかもしれないね」
玄綾も面倒そうに眉を寄せた。
「これは、いくら何でもあからさますぎるだろう。深追いはさせないほうがいい」
楼蘭は鞄の紐を肩へ掛け、玄綾とともに壁際へ退がった。
「赫夜と冬馬は戻って来たんか」
耀冥の問いに玄綾は首を横に振った。
「僕も泰山をそう長くは空けていられない。午後には戻らせてもらうつもりだ。いいかな」
耀冥は楼蘭に目をやり、静かに頷いた。
「どこも総力戦になるね。坊ちゃん、宗像からだ」
玄綾は胸元から取り出した通知文を耀冥に手渡した。
志貴が卓の端へ右手を添えた。
「宗像からは何て?」
「禁域の境界が破綻。現にも影響が出てるそうや。……志貴を戻すな、とある。これが公式に来たとあれば、想像に難くない状況やろう」
耀冥は眉を顰めた。
宗像は戦力としての志貴を喉から手が出るほど欲しいはず。それなのに公式に帰還を止めた。
「何で、私はこうも狙われるんや」
耀冥は志貴へ視線をうつし、微かに喉を鳴らした。
宗像が気にならないのか、とせり上がってくる言葉を何とか飲み込んだ。
「紅の千年王は、それだけ得難い存在だからね」
楼蘭が横目に耀冥を見ながら言葉を続けた。
「門番は何が欲しいんや」
志貴は目を伏せた。
門番が欲しがっているものには見当がついている。しかし、その名をここで口にすれば、様子を探っている門番へ、こちらの把握した情報を渡すことになりかねない。
「門番が欲しがっとるんは、おまえ自身やない。おまえが受け継いだ異能や」
「それ、私であろうとなかろうと、構わないってこと?」
「おそらくな。肉体さえ殺さなければ、手段は選ばんやろ」
志貴は唇を噛んだ。乾いて裂けていた下唇に歯が当たり、赤い血がにじむ。
耀冥は息を止めた。
濡れた石の臭いも、明熾が使った薬草の香りも、今は血の匂いを遮っていない。違いは、ほかの者なら同じものとして通り過ぎるほどかすかだった。
だが、耀冥は志貴の血の匂いを間違えたことがない。三日のあいだ、脈を数え、呼吸の間隔を確かめ、番の印が消えないことを何度も見た。そのどれにも、今のこの匂いはなかった。
血には、身体の形では隠しきれない魂の香りが残る。志貴と同じ形の唇からにじんだ血に、志貴の香りはなかった。
代わりに届いたものを、耀冥の身体は嫌というほど覚えていた。
千年前に嗅いだことのある血の匂いだった。
希詠と呼ばれた女の血だった。
その匂いが、志貴と同じ形の唇からにじんでいる。
耀冥は、門番の領域で水から抱き上げた身体の重さを思い返した。
黒の宮へ戻るまで、一度も腕から離していない。連れ帰った当初、この重さも、この匂いも、志貴のものだった。それを疑う理由はどこにもなかった。だからこそ、この黒の宮の結界内でやられたとしか思えなかった。
あの三日のあいだのどこかで、入れ替わっていたのだ。
「一心、どうしたん?」
「唇が、切れとる」
耀冥は乾いた布を差し出した。
その者は右手で受け取り、血のにじんだ場所を押さえた。
「私、何か間違えたん?」
「何の話や」
「さっきから、私を見る顔が違う」
耀冥は右手を差し出した。
「触れてもええか」
頷いたのを見て、冷えた指を包んだ。
志貴と同じ形をした手の内側を流れる紅の波動。そして魂を繋ぐ番の印。それらは一見保たれているように見えて、耀冥が知る本来の熱を帯びていなかった。
「おまえが悪いことは、何もない」
耀冥は嘘をつかなかった。
目の前の者は耀冥を欺こうとしていない。志貴の記憶に従って言葉を選び、志貴として振る舞い、左手が動かないことに怯えている。自分が別の名を持つ者かもしれないとは、思いもしていないように見えた。門番に利用され、自分の来歴さえ知らないまま送り込まれたのであれば、この者に責はなかった。
門番が何を狙っているのかは分からない。志貴の姿と記憶を再現すれば欺けると考えたのか、違いに気づかせたうえで、耀冥がどう動くかを見ようとしているのか。どちらであっても、正体を見抜いたと知らせる利はなかった。この者を通して宮の中を探っているのであれば、なおさらだった。
「私が私でなくなっても、門番はそれでいいんやろな」
彼女は耀冥の手を握ったまま、自分の左手へ顔を向けた。
「そんなの、嫌や」
耀冥の手を、離さなかった。
「目の前に、おまえの望む答えがないなら、選ぶ必要はない」
伏せていた顔が上がった。志貴と同じ形の目が、耀冥を正面から見ている。
「盤ごと壊す」
「壊してくれるん?」
右手が胸元を掴んだ。指へ力が入り、黒い布に皺が寄る。
その問い方に、耀冥は千年前を見た。
希詠はいつも、自分の望みを口にする前に、耀冥が何を望んでいるのかを確かめた。彼女の意志を問わず、守ることだけを選んだのは耀冥だった。
ここで壊してやると答えれば、千年前と同じことを繰り返す。
そのことを今の耀冥に教えたのは志貴だった。志貴なら、自分で壊すと決めたうえで、耀冥が隣へ来るかを問う。
「おまえがやるんや。俺は、そのために必要なことをする」
指から力が抜け、布に寄った皺が緩んだ。
志貴と同じ場所へ、彼女を置くことはできない。それでも、門番へ返すつもりはなかった。
「話が済んだなら、西側を確認したほうがいい。気配が消えたからといって、宮の近くから離れたとは限らないよ」
楼蘭の声を聞き、耀冥は絡めていた指を静かに外した。
「確かめてくる」
立ち上がると、追いかけるように手が持ち上がった。その指は胸元へ触れたものの、先ほどのように強く掴むことはなかった。
「すぐに戻る?」
耀冥は枕元の上衣を取り、寝台の右側へ載せた。
「これを残しておく」
彼女は上衣へ右手を重ねたが、引き寄せようとはしなかった。
「戻ったら、私の話も聞いてくれる?」
志貴なら、聞いてほしいことはその場ですぐに口にしたことだろう。
「おとなしくしとけ。ちゃんと戻る」
耀冥は背を向け、扉へ向かった。
***
寝室を離れたところで、耀冥は玄綾を呼び止めた。
「西側は任せる。人数を増やしすぎるな。気配を見つけても、深追いさせるな」
「坊ちゃんは来ないのかい?」
「確かめたいことがあるんや」
「まったく、今度は何を見つけたんだい。それに、さっきの物言いはあまりに冷たくはないかい?」
耀冥は答えなかった。
目の前の者が志貴ではないと誰かへ話せば、その瞬間から宮の者たちは彼女を志貴として扱えなくなる。明熾も玄綾も悪意は持っていないが、驚きや警戒を完全に隠せるとは限らない。
「今は言えん」
玄綾は問い返そうとしたが、耀冥の顔を見て口を閉じた。
「分かった。ただし、一人で宮の外へ出るのは許さないよ」
耀冥は何も言わずに、地下の宝物庫へ続く階段へ向かった。
廊下の途中で、後ろから足音が追いついた。
「この僕に何も言わないつもりか」
楼蘭だった。
「何の話や」
「三日前に診たときと、何一つ変わらないように見えた。だけど、感覚がずれる」
耀冥は足を止めなかった。
「僕には、いま寝台にいる者が別人だと断定できる根拠がない」
楼蘭はそれだけ言うとしばらく黙った。
耀冥は振り返らずに低い声で言った。
「今は何も言うな」
「僕ら二人がいて、目と鼻の先でやられたんだ。言いたいこと、わかるだろう」
耀冥は返事をしなかった。
やがて、楼蘭の足音が止まり、遠ざかっていった。
黒の宮、それも本宮は耀冥の結界内であり、何人たりとも許可なく立ち入ることはできない。
不可侵の領域を崩せる者がいるとしたら、耀冥が許可を与えた者のみだ。ましてや、志貴の喉元に届くほどの至近距離に寄れるとなればさらに限られる。
楼蘭はそれを指摘したのだ。
頭が痛いどころではない。
今、後悔しても、耀冥が門番にしてやられた現実は変わらない。
門番は志貴のAnother Worldの異能を正確に把握していることだろう。その上で、手を打ってきた。
耀冥は、はっと息を呑み、足を止めた。
「あれが偶然であるはずもない……」
門番の領域で、水の中から志貴を抱き上げたとき、右眼の奥へ、自分が見ているものではない光景が流れ込んでいた。
黒ずんだ金属の縁と、磨かれていない鑑の面。裏側に刻まれた文字の向こうに、黒の宮の地下で使われている石棚が見えた。
望んで見たものではない。眼帯も外していなかった。右眼が先を見たのではなく、何者かが光景を送り込んだとしか思えなかった。
門番の誘導であり、罠である可能性は高い。それでも、あのとき感じた直感は、志貴が残したものだと告げていた。
地下の宝物庫へ入ると、乾いた埃と古い木の匂いが流れ出した。灯りを掲げ、壁際の石棚を順に確かめていく。
壊れた祭具と文字の消えた石板の奥に、古い布で包まれた丸いものが収められていた。
「何で、ここにあるってわかるんや」
耀冥は珍しく苛立った。
布を解くと、右眼の奥へ流れ込んだ光景の中にあった鑑が現れた。縁の金属は黒く変色し、裏側には耀冥の知らない文字が刻まれている。鑑の面は灰色に曇り、掲げた灯りも耀冥の顔も映さなかった。
「見ろってことやろな」
耀冥は眼帯の紐へ指をかけた。この鑑さえも、単独では何も映さない古い金属にすぎない。それでも今は、志貴の居場所を知る手段がほかになかった。
眼帯を外すと、右眼の奥に鋭い痛みが走った。
曇りが内側から薄れ、古い木柱と白い壁に囲まれた部屋が現れる。奥では、一人の少年が机に向かって書物を読んでいた。
少年は顔を上げ、鑑の向こうにいる耀冥を認めた。驚く様子もなく、右眼を確かめるように顔を近づけたあと、口元を緩めた。
「来るんは、宗像志貴という名の子のはずやった」
「この眼、過去を見る代物やないぞ」
「それは申し訳ないことしたな。僕は君からしたら過去やろな。でも、これは僕が『未来にした時間』や」
耀冥の首筋を冷たいものが滑り落ちた。
Another Worldならありえることかもしれない。
「おまえ、宗像斎貴か」
「いかにも、僕は宗像斎貴や。君がここへ来るとは思わんかった。随分と予定が変わったみたいやな」
「志貴はどこや」
「せっかちな男やな」
斎貴は書物を閉じ、耀冥の右眼を見た。
「僕が見とったんは、あの子がこの鑑へ来る先やった」
「来たんは俺や」
「道を君へ繋いだんは、僕やない。あの子やろ」
右眼を焼く痛みが強まり、鑑の縁へ細い亀裂が走った。亀裂は止まらず、鑑の面へ向かって伸びていく。次に使う機会はないと、耀冥は悟った。
「君の番、囚われでもしたんか。さて、どこや」
斎貴は指先で緩やかな円を描いた。
背後の白い壁が崩れ、黒い水と濡れた岩肌が現れた。
その奥には、幾重にも絡み合った荊棘があった。枝々が絡み合い、白く凍って隙間なく組み合わされている。内側から、人の指先がわずかにのぞいていた。
爪の形も、皮膚に残る紅の痕も、耀冥が幼い頃から守ってきたものと同じだった。
寝台に残してきた者も、同じ形をしていた。
それでも今は、鑑を隔てていても迷わなかった。
「志貴」
耀冥が身を乗り出すと、鑑の面に白い光が走り、映像が大きく揺れた。
凍った荊棘の奥で、紅の痕が弱く光った。
枝が、その指先を覆うようにわずかに動いた。
「解かずにおけば、門番は志貴へ手を出せん。けれど、君も触れられへん。このまま何者にも渡さず残すか、危険を承知で戻すか。選ぶんは君や、とでも言いたいようやが、どうするつもりや」
斎貴が耀冥の顔を正面から見た。
「門番も趣味が悪いな。君がよう捨てきらんもんを寝かせてきよった。それを抱えたまま、今の愛し子も取り戻せると思うてるんか」
鑑の面を走っていた亀裂が中央へ達し、耀冥の右眼から血が流れた。頬を伝った赤が顎から落ち、古い鑑の縁を濡らす。
「志貴が、志貴であることを手放すわけがない。それに、やってもみずに希詠を見捨てたと知れば、志貴は許してはくれん」
耀冥は凍った荊棘の奥を見た。
「俺の紅は、規格外や。思うままになるはずもない」
斎貴がわずかに息を呑み、やがて穏やかに微笑んだ。
「志貴は僕と違って、ほんまの阿呆なんやろな。悪く思うなよ、褒めてるんや」
斎貴は小さな笑い声をあげた。
「志貴がここに来たなら、何て言うつもりやったんや」
斎貴は片方だけ口角を上げた。
「何も。君の志貴なら、僕に答えを聞く前に動くやろ。現に、君はここへ辿り着いた」
耀冥は口元を緩めた。
「負けた奴に聞く必要なかったわけか」
「酷い物言いやが、そのとおりや」
斎貴は鑑の向こうで片手を上げた。
「さあ、もう行け。君が戻る場所は、ここやない」
亀裂の向こうで斎貴の姿が崩れ始めた。黒い水も、濡れた岩肌も、凍った荊棘も細かく分断され、その奥に見えていた指先が白い光へ呑まれていく。
「君のその眼、使わんことに最大の利があること、忘れたらあかんよ」
耀冥は最後まで目を逸らさなかった。
鑑の内側が軋み、砕ける寸前、斎貴の声が届いた。
『あの子は閉じ込められたんやない。君が来るまで、門番を閉め出しとるんや』
破片が石床へ散り、掲げた灯りを一度だけ返して転がった。
右眼の痛みが退いていく。頬を指先で拭うと、血が流れたはずのそこに、乾いた跡すら残っていなかった。耀冥は眼帯を着け直し、階段へ向かった。
志貴が機嫌の悪いときだけ串焼きを欲しがることも、二本目は必ず耀冥のために残すことも覚えている。
だが、その記憶へ続く道がなかった。思い出そうとするたび、踏み出す先に足場がないような、頼りない感覚だけが残る。知っているという事実だけが、過去から切り離されて浮いていた。
耀冥は石壁へ手をついた。
右眼を使い続ければ、志貴を取り戻したときには、取り戻したい理由さえ残っていないかもしれない。
覚えているうちに、志貴が繋いだ道を辿って迎えに行く。




