↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/91

第85話 君がため 夢のかよひ路 絶やさじと

水はまだ、石室の床を薄く覆っていた。


夜の森は消えきっていない。黒い水の向こうにあるはずの石壁に、幹とも枝ともつかない濃い影が揺らぎ、湿った葉の匂いが遺構の冷気に混じっている。


しかし、その輪郭は刻々と崩れていた。木々の影は石へ染み込むこともできず、かといって森へ戻ることもできないまま、薄い靄となって水面へ沈んでいく。


耀冥は水のなかへ膝をついた。力の入らない志貴の左腕を胸元へ寄せてから、右腕を背から項へ差し入れた。自身の左腕を膝裏へ回し、首が後ろへ傾かないよう支えながら、慎重に抱き上げた。


濡れた衣は水を吸い、腕へかかる身体はひどく軽かった。


呼吸は浅く、細い。胸元を見ていなければ、止まっているようにさえ見えた。


左腕には力がなく、胸元へ寄せた指先は色を失っていた。黒と紅の入り混じった痕が肩口まで伸びている。傷というより、左半身そのものが志貴から切り離されかけているようだった。


耀冥は志貴の頬へ触れた。


冷たい。水に沈んでいたためだけではない。身体の奥から熱が抜けている。


「志貴」


返事はない。


それでも耀冥は、志貴の鼻先へ頬を寄せた。かすかな吐息が触れる。


志貴の声が、耳の奥に残っていた。


『一心』


ただ、そこにいてほしいと願う、細い呼び声だった。


届いたのに、間に合わなかった。


耀冥が志貴へ手を伸ばした時には、身体はすでに水へ沈み込んでいた。


背後で水が鳴る。


耀冥が振り返ると、石段の上に門番が立っていた。


長い黒髪も古い衣も、石室へ現れた時のままだった。しかし、表情だけが違う。眉間に薄く皺が寄り、耀冥へ向ける目には敵意よりも、理解できない現象を前にした者の硬さがあった。


門番の足元へ黒が絡みついている。


志貴へ届くために耀冥が引き裂いた拘束の残滓が、細い糸のように水の上を漂っていた。門番が動こうとするたび、それらは水底から引き戻すように足首へ巻きつく。


「紅には届いた」


門番の声が石壁へ触れ、低く反響した。


「だが、黒には届かない」


耀冥は答えなかった。


門番の疑問より、志貴の呼吸の方が重要だった。腕のなかで胸がかすかに上がる。次の息が来るまでの時間が長い。耀冥は数えるように、志貴の背へ回した手へ力を込めた。


「君は何を継いだ」


門番が問う。


その言葉が耀冥へ向けられたのか、それとも門番自身が理解できない何かへ向けられたのか、分からなかった。


耀冥は返事をせず、石室の空気へ黒を走らせた。


音はなかった。石室と黒の宮、そのあいだにあった距離だけが闇へ呑まれ、ひとつに重なる。壁際に生まれた裂け目の奥には、黒い石床が続いていた。


耀冥は志貴を抱いたまま、そのなかへ足を踏み入れた。


門番は追ってこなかった。


追わなかったのか。追えなかったのか。


どちらでもよかった。


裂け目が閉じる寸前、水面の向こうに立つ門番の姿が見えた。理解できないものを見る目だけが、最後まで耀冥を追っていた。


黒の宮へ戻った瞬間、乾いた冷気が肌を打った。


志貴の髪と衣から落ちた水が、黒い石床へ点々と続く。


「何があったんだい」


驚いた顔の玄綾の横を無言で通り過ぎた。


「人払いだ」


玄綾は耀冥の腕のなかを見た。すぐに踵を返し、近くに控えていた者たちを退かせる。


「玄綾。湯と乾いた布を用意しろ。明熾もここへ連れて来い」


耀冥は返答を待たず、自身の寝室へ向かった。


抱いた志貴の髪と衣から、雫が黒い石床へ落ち続けた。

その跡は、寝室の扉まで途切れずに続いていた。


    

***



寒々としていた寝室に、火が入れられた。


炉のなかで薪が鳴り、湯を沸かす匂いが乾いた空気へ広がっている。


耀冥は志貴を寝台へ横たえた。


左腕に触れないよう、右側から背を支える。腕を離した途端、胸の奥が冷えた。このまま志貴が、自分の届かない場所へ沈んでいくように思えた。


明熾は駆け込んでくるなり、一礼もせず寝台の脇へ膝をついた。


首筋へ指を添え、瞼を開き、呼吸を聞く。


「濡れた衣を替えます。兄上は少しお離れください」


耀冥は動かなかった。


明熾が顔を上げる。


「今は、私の手を邪魔しないでください。玄綾、着替えを。兄上はこちらへ」


耀冥は一度だけ志貴を見てから、明熾とともに衝立の外へ下がった。


視界から志貴の姿が消える。


布の擦れる音。湯へ浸した布を絞る音。明熾が衝立の外から短く告げる指示。そのどれもが、石室で門番と対峙していた時間より長く感じられた。


やがて衝立が外される。


志貴は乾いた衣へ替えられ、白い布のなかに横たわっていた。濡れた髪は首元から避けられ、額には布が置かれている。顔色は依然として悪く、唇には血の気がない。


明熾の掌の下で、志貴の胸が不自然に持ち上がった。


喉の奥で水が鳴る。身体が大きく震え、開いた唇の端から水が流れた。


耀冥は一歩を踏み出しかけた。


明熾が片手を上げて制する。


「お待ちください」


水が流れ出ても、志貴の意識は戻らなかった。胸は苦しげに上下し、瞼は閉じたままだった。


明熾は身体を温め、脇腹と肩の傷を処置していく。明熾が力を用いるにつれ、出血は止まり、裂けた皮膚も少しずつ閉じていった。


手順に迷いはなかった。


異変が現れたのは、左肩の侵食痕へ触れた時だった。


明熾の指が止まる。


「どうした」


明熾は答えず、志貴の左手首を取った。指先を押し、腕を持ち上げる。


明熾は左脚も確かめた。膝から足首へ指を滑らせても、志貴の身体は動かなかった。


「身体はここにあります。呼吸も、脈もあります」


明熾は志貴の首元へ手を当て、眉を寄せた。


「ですが、志貴の魂がまだ身体へ戻り切っていません」


耀冥は意味を測りかねた。


「分かるように言え」


「左側だけ、魂の動きから遅れています。身体と魂のあいだに、ずれが生じています」


戻せと、喉まで上がった命令は、声にならなかった。


明熾ができるなら、すでにしている。それが分からないほど、耀冥は明熾を軽んじていなかった。


「命を繋ぐ処置はできます」


明熾は静かに続けた。


「兄上、魂と身体のずれを戻す術は、私にはありません」


耀冥は寝台の上へ視線を落とした。


志貴の左手が、白い布の上へ落ちている。


石室では、その手でヨルノミコトを握った。誰かに命じられたのではない。自分で選び、矛を手にした。


今は指一本、動かない。


「白の千年王なら、このずれを戻せるかもしれません」


明熾が言う。


耀冥は顔を上げた。


「楼蘭を呼べ。今すぐや」



***



黒の宮は、誰もが容易に出入りできる場所ではない。それでも、ほどなくして楼蘭は寝室へ姿を現した。


「黒の宮は本当に不便だね。来るだけでひと苦労だ」


楼蘭は挨拶より先に寝台へ向かった。


明熾の報告を聞きながら、志貴の顔色と呼吸、左肩から腕へ広がる侵食痕を確かめる。額へ触れ、胸元へ手を当て、最後に左右の手を見比べた。


「応急処置は問題ないね」


明熾へ向けた声には、形式的ではない評価があった。


「ここからは僕が引き受ける」


楼蘭は室内を見回す。


「灯りを半分落として。明熾以外は出て行って」


耀冥は寝台の傍から退かなかった。


楼蘭が耀冥を見た。


「居ても構わないけれど、黒の力は志貴へ流さないで」


「なんでや」


「今の志貴には強すぎるんだよ。戻りかけた道を、あなたの力で固定されると困るんだ」


固定する。


その言葉が胸へ引っかかった。


楼蘭は寝台の右側を示した。


「手を握ってやって。今は、それだけで十分」


耀冥は志貴の右手を取った。


指先は冷たい。両手で包めば温められるはずだったが、力を込めることはできなかった。志貴が目を覚まし、嫌がったなら、すぐに離せる程度に支える。


楼蘭は志貴の左腕へ手を添えた。


白い光が満ちることも、空気が大きく揺らぐこともない。


ただ、志貴の乱れていた呼吸が少しずつ規則を取り戻していった。


浅く途切れていた息が、ゆっくりと胸の奥まで届くようになる。左側の皮膚へわずかな温度が戻り、肩口に浮かんでいた黒と紅の筋が、広がるのを止めた。


楼蘭は額、胸元、左肩へ順に触れていく。


志貴の身体へ何かを注ぎ込むのではない。切れかけた道を探し、ずれた箇所をひとつずつ戻しているようだった。


耀冥は手を出せなかった。


門番の拘束を裂くことはできた。空間を越えて志貴のもとへ行くこともできた。抱き上げ、ここまで連れ帰ることもできた。


だが、志貴を身体へ戻すためにできることは、冷えた右手を握ってやるだけだった。


その事実を、受け入れるよりほかなかった。


志貴の指が動く。


耀冥の手のひらへ、指先がかすかに触れた。


「志貴」


呼びかけた瞬間、楼蘭が首を横へ振る。


「声をかけないで」


耀冥は言葉を止めた。


志貴の指は、それ以上動かなかった。


処置は長く続いた。


炉の火が薪を崩し、明熾が布を替える。楼蘭は一度も手順を乱さず、志貴の身体へ触れ続けた。


やがて楼蘭が手を離す。


志貴の呼吸は完全ではないものの、先ほどより深くなっていた。頬にもわずかに色が戻っている。


「今はこれが精一杯だけれど、最悪の状況は脱せたよ」


安心してよい状態ではないと、楼蘭の表情が告げていた。


「今すぐ命を失う危険はない。でも、左半身は短い時間では戻らない。最低でも数か月はかかる」


楼蘭は志貴の左手を見る。


「歩けるようになるか、以前と同じ感覚を取り戻せるか、今は何とも。ヨルノミコトの侵食が、身体だけでなく魂の側へ触れてしまっている」


耀冥は志貴の右手を離さなかった。


「目を覚ますのか」


楼蘭は慰めを口にしなかった。


「戻るための道は繋いだ」


その視線が眠る志貴へ向く。


「戻るかどうかは、志貴自身にしかわからない」



***



明熾が退室すると、寝室には耀冥と楼蘭、眠る志貴だけが残った。


火は弱められ、部屋の半分が薄暗い。


乾かされた志貴の髪が枕へ広がり、右頬だけが灯りに照らされていた。


耀冥は寝台から離れないまま言った。


「紅の始祖の記録があると聞いた」


楼蘭はすぐに応じなかった。


「志貴のために知りたいのか」


声は静かだった。


「それとも、志貴の代わりに決めるためか」


耀冥は答えようとして、言葉を飲み込んだ。


次に同じことが起きた時、間に合うためだ。危険な力なら使わせない。門番が狙うなら遠ざける。志貴が何かを背負おうとするなら、その前に道を断つ。


どれも志貴のためだと思っている。


だが、志貴へ知らせず、自分だけで判断するなら、それは守ることと違うと、志貴に言われた。


寝台の端から志貴の手が落ちかけた。


耀冥はすぐに支え、布の上へ戻す。細い指が手のひらへ触れたままになり、離す理由が見つからなかった。


楼蘭はそれ以上答えを求めず、衣の内側から薄い記録板を取り出した。


「紅の始祖と呼ばれる宗像斎貴の治療と身体の変化、発現した現象だけが記されている」


記録板には古い文字が並んでいた。


「どうして、こんなに詳細な記録があるのかと問わないのか」


「旧知の仲なんやろう」


「旧知ね。まあ、そう言えなくもないか」


「やけに含みを持たせて、俺に何と言わせたい?」


楼蘭は口角をつり上げ、答えずに耀冥を見た。


耀冥は眉を顰める。


黒の始祖が遺した古文書を、耀冥は思い出した。


斎貴が黒を選ぶ以前、白の始祖はその傍らで穢れを取り除き、壊れかけた身体を繋ぎ止めていた。旧知という一語では足りない関係であったことも、そこには残されていた。


楼蘭は、眠る志貴へ一度だけ目を落とした。


「冗談だよ。僕と先祖は違う」


声音は軽い。けれど、その目は少しも笑っていなかった。


「けれど、かくも便利な僕だからと、安心されすぎるのも癪に障るだけだ」


楼蘭が指でなぞると、褪せていた文字が淡く浮かび上がる。


「泰山で秘匿してきた記録だ」


楼蘭の指が、記録板の一行で止まった。そこには、斎貴の未来視についての記載が続いていた。


「斎貴が見られたのは、すでにある理の延長だけだ。どれほど遠くを見通しても、神が固定した世界の外側には届かない。未来を知ることはできても、見えていない未来を生むことはできない」


耀冥は、記録板の文字を見たまま動かなかった。


「斎貴は、自分の未来視では神を越えられないと知っていた、ということになる」


楼蘭が言う。


「だから、同じ力を持つ紅を残そうとはしなかった。志貴に未来視の異能はない。それはあなたが一番わかってるはずだ」


志貴は未来視を継がなかった。その代わりに現れたものが、石室で起きた現象なのかもしれない。


「宗像斎貴は、優秀すぎる眼を剥ぎ取ることで、紅の異能の天井を取り払ってしまったのかもしれない」


楼蘭の声が静かな部屋へ落ちる。


「Another World」


楼蘭が記録板を指先で弾いた。


「名を解いてしまうのは副次的な作用で、真骨頂はそれじゃない」


耀冥の脳裏に、石室の壁へ重なっていた夜の森が浮かんだ。


隔てられたもののあいだへ道を生む。


本来なら重ならない場所を繋ぐ。


既存の理が交わることを拒んだもの同士を、それでも繋げてしまう。


その道の先にあったのは、石室の水へ沈み込んだ志貴だった。


「離れた場所だけじゃない。本来なら交わらない可能性のあいだにも、道を通すことができる。……そう記されている」


「俺は、どうやって志貴のいた石室へたどり着いたんか、分からへんかった」


耀冥は志貴の横顔を見た。


「志貴の声がして、振り返っただけや」


楼蘭は記録板を閉じた。


「Another Worldは、新しい世界を気まぐれに作る力ではない。本来なら届かないものへ、届くための道を作る力なのかもしれない」


胸の奥に、石室での感覚が戻る。遠く離れた場所から、声が届いたのではない。声よりも曖昧で、それでも拒めないほど確かな願いが、耀冥を振り向かせた。


そのなかで聞こえた『一心』という声を、耀冥は忘れられなかった。黒の千年王でも、紅の番でもない名で呼ばれたことに、救われたように思った。


あれは、生きるために呼んだ名にすぎないのかもしれない。それでも、あの一声を志貴の答えに変えることはできなかった。それを、自分が選ばれた証にしてしまえば、門番が宗像志貴を要らないものとして、紅だけを残そうとしたことと変わらない。


「門番も、Veilmakerも、この化け物じみた可能性を持つ異能を求めているということだよ」


耀冥は志貴の右手を包み直した。


「どいつもこいつも、志貴を見ない」


耀冥は眉を顰める。


「蒼の千年王、あのくそ狐が名乗ってきた」


楼蘭の目がわずかに細くなる。


「このタイミングで、本人が認めたのか……」


「あいつの言葉通りなら蒼の血で、志貴を生かせるらしい」


楼蘭はすぐには答えなかった。


「どこまで信憑性があるか」


楼蘭が耀冥の言葉を引き取った。


「可能性だけで言えば、否定はできない。うちの古い記載にも、蒼の血は紅を壊すとある。紅としての短命や破綻、背負わされた機能から、志貴を切り離せるかもしれない。だけど、紅だけを切り取れる保証もない」


耀冥は何も言わなかった。


「志貴にとって紅は、外から与えられた役割だけではないでしょう。紅として見たもの、傷ついたこと、選んだこと。そのすべてが、宗像志貴の生へ繋がっている。紅を消すために、宗像志貴のどこまでを失わせるのか。……生かされて、殺されるようなものだ」


楼蘭の声に初めて感情が滲み、耀冥はわずかに目を細めた。


「あいつのことを、よう見てるやないか」


耀冥は志貴の右手を包んだまま、眠る横顔へ目を向けた。


紅を壊したあと、志貴自身が自分を志貴と呼べる保証はない。


「黒の血は、固定すると言ったな」


「宗像斎貴の事例でしかわからないけれど、間違いないとは思う」


楼蘭は別の記録を開いた。


そこには、斎貴の身体変化が記されていた。


「宗像斎貴の番だった、当時の冥府の第一皇女琅玕が、彼を救うために蒼の申し出を受け入れ、蒼の血を食事に混ぜていたそうだ。斎貴がそれを察知した時には、すでに相当な量の蒼の血が取り込まれていた。侵食を止めるため、斎貴は琅玕の血を自らへ取り込んだ。その経過を記したものが、これだ」


記載には蒼の侵食は止まったとある。


だが、その後、斎貴の身体は成長しなかった。傷は悪化しない代わりに、治りきることもなかった。老いも回復も止まり、生きてはいても、時間の先へ進めなくなった。


「志貴にも同じことが起きるとは断言できないけれど、遠い話でもない」


楼蘭は言った。


「志貴は幼い頃からあなたの血で傷を癒してきた。身体が黒の血を受け入れることに慣れているのは確かだ。でも、紅として成立した今も同じとは限らない。黒の血が志貴のなかで何を固定し、どこまで影響するのか、僕にもまだわからない」


耀冥は記録板から目を上げ、眠る志貴の横顔を見た。


門番は紅だけを残す。蒼は紅を壊せても、宗像志貴が残る保証はない。黒は現在を繋ぎ止める代わりに、志貴が未来へ進む時間を奪うかもしれない。


志貴が志貴のまま生きる道は、そのどこにも見えなかった。


「蒼の血も、黒の血も選べない」


楼蘭が言った。


耀冥は否定しなかった。


「門番は論外や」


楼蘭は耀冥を見返した。


「志貴の未来は、誰が決めるべきと考えているのか、聞いてみたいと思っていた」


楼蘭の声音は穏やかだった。


それだけに、逃げ道がなかった。


「番であることは、志貴の未来を決める理由にはならないからね」


耀冥は反論しなかった。


番であることを、志貴の傍に立つ資格だと思っていた時期がある。理に定められた関係なら、拒まれても、いずれ受け入れさせればよいと考えていた。


「それに希詠のこともあるだろう」


楼蘭が続けた。


耀冥は目を逸らさなかった。


希詠を忘れたことはない。忘れられるはずもなかった。だが、志貴のなかに希詠を探すことは、とうにやめていた。


「希詠は、希詠の時間を生きて死んだ」


胸の内側へ古い痛みが戻る。それでも声は揺れなかった。


「志貴に、あいつの代わりをさせる気はない」


楼蘭は眠る志貴へ目を向けた。


「あなたたちが千年抱えた契約も、死者との時間も、神代から続く責任も、今の志貴がすぐに答えを返さなければならないものではない」


ゆっくりと、楼蘭は耀冥を見た。


「けれど、知ればきっと、自分とは関係ないと切り捨てられない。心が柔らかすぎる。真っ直ぐに受け取ってしまう。だから怖いんだよ」


言い返しかけた言葉が止まった。


志貴は弱いから守るべきだと言われれば、耀冥は否定しただろう。


志貴は自分で選べる。守られるだけの存在ではない。それを誰より知っているつもりだった。


だが今の志貴は、自分の左半身がどうなったかも知らない。石室で何を起こしたのかも、門番が何を求めたのかも知らない。


己が標的にされる元凶である異能がAnother Worldという名を持っていることさえ知らない。


そして、耀冥が千年前に番と信じてやまなかった希詠との時間も知らない。


耀冥が支えている右手とは反対に、左手は白い布の上で、まだ何の反応も返さなかった。


すべてを知らせれば、志貴はどうするだろう。


自分の身体も整わないまま、誰かを救える可能性があると知れば、世界のためにその力を使おうとするのではないか。


希詠が居たなら、耀冥の番の座を譲ろうとするのではないか。


耀冥はそれを何より恐れていた。


「真っ直ぐ受け取られすぎても、困るんやけどな」


耀冥は目を伏せて、苦い表情を浮かべた。


「結局、知らせないつもりか」


楼蘭が言う。


耀冥は答えなかった。


「Another Worldのことは、じきに伏せておけなくなる」


「今は、言わん」


「それを、あなたが決めるのは正しいのか」


室内の静けさが重くなる。


志貴の呼吸だけが聞こえた。


身体が戻ってから。

安全になってから。

志貴のためだと言いながら、自分が決める。


「正しいはずがないやろう。それでも、もう少し時間が欲しい」


ようやく出た言葉は、楼蘭への反論ではなかった。


自分へ向けたものだった。


「では、あなたは一体、何をするつもりなんだ」


「答えがあるなら、もう動いてる」


自分の矛盾を隠さず、耀冥は言った。


「門番にも蒼にも、白にも。もちろん俺にも、志貴の未来を決める権利はない」


耀冥は志貴の手を見る。


「けど、志貴が自分で選べる場所までは、俺が連れていく」


楼蘭がわずかに目を見開く。


耀冥は続けた。


「その記録は、貴重すぎる。世に出れば、何を招くか分からん。これまで通り秘匿して、誰にも触らせるな。……ただし、消さんといてやってくれ」


「志貴が知りたいと言った時に備えるためか」


「俺は、志貴から知る権利まで奪いたいわけやない」


耀冥は志貴の額へ触れた。


今の志貴へ背負わせられるものではない。


だが、恐れているからといって、事実まで奪ってよい理由にはならなかった。


「志貴が問うた時には、隠していたことも、この記録の存在も話す」


言葉にした途端、逃げ場がなくなった。


いつか志貴は問う。


その時、黒の王として答えてはならない。

志貴から隠した一人の人間として、一心の言葉で話さなければならない。


楼蘭は記録板を衣の内へ戻した。


「分かった。消さずに封じておく。だけど、それが本当に志貴のためなのか?」


楼蘭は最後に問う。


「いつか、あなたは今日の判断の是非を問われる」


耀冥は頷かなかったが、否定もしなかった。



***



楼蘭が部屋を出たあと、黒の宮はさらに静かになった。


耀冥の手には、石室で触れた志貴の髪の冷たさが残っていた。


寝台の傍へ腰を下ろし、眠る志貴を見る。


門番も、蒼も、斎貴も、自分も、志貴を憎んでいるわけではない。それでも、誰かが差し出す道を選べば、志貴の何かが失われる。


門番をどう退けるかも、斎貴が残した設計をどう越えるかも、まだ見えなかった。


耀冥は志貴の右手を包んだ。


「今あるこの盤の上には、おまえがおまえのまま生きる手がない」


眠る志貴へ届いたかどうかも分からない声だった。


「盤ごとひっくり返してやる」


誰かへ聞かせるための言葉ではなかった。


その声が消えたあとも、耀冥は眠る志貴から目を離さなかった。


志貴を失うことを前提にした答えだけは、選ばない。


志貴の指が動いた。


耀冥は息を止める。


細い指が、耀冥の衣の端を掴んでいた。


「志貴」


呼びかけると、志貴の眉がわずかに寄った。


閉じていた瞼が震え、ゆっくりと開く。


瞳はすぐには耀冥を捉えなかった。灯りの方へ揺れ、天井へ向き、周囲を確かめようとする。


志貴が身体を起こそうとした。


左側が動かず、肩が傾く。

耀冥はすぐに背へ腕を回し、身体を支えた。


「動くな」


志貴の唇がわずかに開く。


右手だけが耀冥の袖を探り、布を掴んだ。


焦点の合わなかった目が、少しずつ耀冥の顔へ留まる。


長い時間をかけて確かめるように、志貴は彼を見た。


「一心」


息に近い声だった。


耀冥は志貴の背を支えたまま、答えた。


「ここに、おる」


志貴の瞼が閉じる。


眠りへ戻ったのか、意識を保てなくなったのかは分からない。


そのまま、志貴の呼吸がゆっくりと整うまで、耀冥は手を離さなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
番契り 番地獄 狂愛 執着愛 奪愛 蜜毒 独占欲 贖罪愛 狂おしい愛 倒錯愛 契り地獄 奈落契り 血と魂 狼と少女 禁忌の契り 赦しは毒
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。