第83話 月かげの さやけきほどに 惑ひけり
「俺が蒼なら、話は変わるか」
望の声は、崩れた祭壇を覆う霧の底へ静かに沈んでいった。
耀冥は答えず、望の首筋に添えていた刃をいったん引き、その反動を殺さぬまま横薙ぎに振るった。
黒い刃は狙いを違えず望の喉へ走ったが、望は膝を折って身を沈め、それをかわしざま足元の石を蹴って距離を詰めてくる。次の瞬間には、蒼い刃が耀冥の脇腹へ滑り込んでいた。
耀冥は半身を退いて柄でそれを打ち払う。金属の噛み合う音が霧を裂き、弾かれた望の刃は崩れかけた石柱の表面を削った。剥がれた苔と石片が、夜露に濡れた地面へ散っていく。その隙を逃さず、耀冥は踏み込んで肩口から斬り下ろした。望は刃を立てて受け止めたものの、押し込まれた足の下で古い石が鈍い音を立てて割れた。
「名乗っただけで、殺すんですか」
「名乗る相手を間違えたな」
刃を噛み合わせたまま、耀冥はさらに体重を乗せる。
燃えあがるような怒りはなく、ただ底冷えのする静けさがあった。
目の前にいる男を斬ると決めるのに、憎しみを必要としなかった。
望の顔つきは変わらないが、蒼だと知る前とは別の男に見えた。宗像の廊下で気配を殺して佇んでいた、あの掴みどころのない男とは重ならない。
望のことは、以前から気に食わなかった。単に虫が好かないというだけではなく、嫌な予感がつきまとっていた。
この男は志貴に、取り返しのつかない痛手を負わせかねない。
蒼と聞いた瞬間、その予感が輪郭を持った。
紅に触れさせてはならない。
理屈より先に、そう分かった。
ここで首を落としてしまえば、望が志貴へ届く前にすべてが終わる。それで十分だと判断し、耀冥は刃を押し返して望の手元を外へ逸らすと、空いた胸元へ氷炎を叩き込んだ。
冷気の奔流に霧が大きく押しのけられ、望の身体は祭壇の縁まで弾き飛ばされた。踏みとどまった足の下で石が軋み、かつて水が通っていた跡に沿って細い亀裂が走る。それでも望は倒れなかった。口の端から流れる血を拭おうともせず、ただ耀冥の次の動きを見据えている。
「宗像の王玉を外しても、咲貴との差は戻らなかったでしょう。志貴は脆すぎる」
「喋る余裕があるうちが、花やな」
耀冥は刃先を低く構えて踏み込んだ。声は低く、詰めていく足取りにはわずかの急ぎもない。その言葉ごと断つつもりで下から喉を狙ったが、望は紙一重で身を反らし、切っ先は顎の下をかすめて薄く血をにじませただけだった。
「あなたが守りすぎたからだ」
耀冥の刃が望の肩先を裂いた。群青の衣が破れ、その下から血があふれる。それでも望は眉ひとつ動かさず、耀冥の動きだけを追っていた。
「守ったつもりで逃げ場を奪った。あなたはそれを生かすと呼んでいる」
耀冥は答えない。ただ、握り込んだ柄の内側で、その言葉が引っかき傷のように残った。
続けて放った一撃が、耀冥自身にもわかるほどわずかに鈍った。その隙を突けば距離を詰められたはずなのに、望はむしろ後ろへ引いた。
勝ちにきているのではない。言葉が耀冥へ届いたことを、確かめようとしている。そう感じられる退き方だった。
二人のあいだに、ふたたび霧が流れ込んで視界を白く濁らせる。耀冥は刃を下ろさぬまま問いを投げた。
「この場所を、どこで知った」
望は肩の傷に目もくれず、祭壇の奥へ視線を向けたまま答える。
「答える必要がありますか」
耀冥の足元から霜が広がり、湿った石の表面が白く曇っていった。苔の先に小さな氷の粒が結び、背後の朽ちた柱も根元からゆっくりと凍りついていく。
「志貴に何を見た」
望は視線を戻し、静かに言った。
「あなたと同じものを」
耀冥の指が柄を握り込む。
宗像で過ごした日々が脳裏に立ちのぼった。
望が志貴へ近づくのを、自分が意図して許さなかった。
志貴が望を見るときだけ、わずかに肩を強張らせていた。あの反応には、単なる警戒では片づかない別の色があったことを耀冥は知っていた。
そのひとつひとつが、今になって鮮明に結びついていく。
望は足元の祭壇へ視線を落とした。
「まだ残っています」
その視線の先には、先ほど耀冥自身が触れた石があった。志貴の手のぬくもりが残っていた場所だ。
「触れたのでしょう」
問い詰める響きはない。ただ事実を確かめるように、望は言った。
耀冥は刃を望へ向けたまま、空いた手を石へ伸ばした。指先が苔の剥がれた窪みに触れる。
夜露に濡れた石は冥府の冷気を芯まで含んでいるはずなのに、その奥に、かすかな熱が宿っていた。
志貴が触れた痕跡だと思っていたが、人の体温がこれほど長く石に残るはずがない。
耀冥は目を閉じることなく、指先へ神経を集めた。血の匂いも、傷口の湿りも、穢れの濁りも、魂が削れたあとの気配も感じ取れない。
ただ、消えかけては揺れ戻る紅の気配だけが、そこにあった。
志貴はここにいない。それなのに、紅だけが残っている。
「これが、駄目だと言っているんですよ」
望の声が静かに響いた。
耀冥は石から手を離さないまま望を見る。
望には勝ち誇る色も、教え諭す色もなかった。耀冥が今この石から何を感じ取ったのか、それを見極めようとしているだけに見えた。
「身体が離れても、痕跡ひとつ消えない」
石の下を、水脈の細い流れが通り過ぎていく。
「志貴だからではありません。紅だから残る。そして、紅だから死ぬ」
その言葉に、石へ触れた手がわずかに強張った。黒の宮の記録室で目にした文字が、脳裏によみがえる。
第一皇女による穢れ侵食研究資料の閲覧記録。延命の術式が、繰り返し却下されながら、それでも申請され続けていた。黒の始祖が何を守ろうとしていたのか、その理由までは残されていなかった。ただ、この祭壇の名だけが、資料のあちこちに何度も書き記されていた。そして今、同じ場所に志貴の紅が残っている。
「始祖も、か」
考えるより先に言葉が出ていた。望の目が、わずかに細くなる。
「紅とはそういうものです」
耀冥は刃先を向け直し、問いを重ねた。
「宗像斎貴も、同じように死んだんか」
望はしばらく黙り込み、霧が流れて石の表面に水滴が集まっていくのを見つめてから、ようやく口を開いた。
「同じではありません」
それきり、望は語らなかった。口元をわずかに緩めただけで、その表情がかえって耀冥の神経を逆撫でした。
「何も知らないまま志貴を黒へ寄せれば、同じことを繰り返すだけです」
耀冥の目が鋭くなる。
「同じこととは、何や」
望は答えない。ただ、耀冥をまっすぐ見て、静かに続けた。
「宗像には咲貴を立てるべきだと、私は思っています」
「急に何を言い出すかと思えば、しょうもない」
「志貴は、宗像の理では測れない。測れないものは、いつか外れます」
耀冥は刃を下げなかった。
「測れんもんが恐い、か」
その一語を、耀冥は低く転がした。
「読めんから恐い。恐いから消す。お前は賢そうな顔で、いちばん頭の悪いことをしてる」
望の口元から、笑みが消えた。
耀冥はそのわずかな変化を見て取った。図星かどうかはどうでもいい。相手が言葉を継ぐのに、一拍を要した。
「否定はしません」
望はそれだけを返した。
「あれと繋ぐつもりだったのでしょう」
望の視線が、石に触れた耀冥の掌へ向く。石に残る痕跡から黒を流せば、志貴の行き先を辿れるかもしれない。そのためにこそ、耀冥はここまで来たのだった。
「何が言いたいんや」
望は沈黙を守り、水脈の音だけが響くなかで耀冥の掌を見つめ続けた。
「はっきり言えや」
促されてもすぐには応じず、望はやがて静かに口を開いた。
「あなたが繋いでいるのは、命ですか」
耀冥は言い返そうとしたが、その言葉は喉の奥で止まった。
掌の下にあるのは命ではない。呼吸も鼓動も意識もなく、ただ紅の熱だけが石に残っている。
「黒へ繋がっているから、消えずに残る。あなたが支えているかぎり、志貴は紅であることをやめられない」
耀冥は手を離し、望を正面から見据えた。
「俺がおらんかったら、とっくに死んでる」
「ええ。あなたが今日まで生かしてきた」
望は間を置かずに肯定した。その声に嘲りはなく、だからこそ耀冥は続きを聞きたくなかった。
「ですが、その方法で明日も生かせるとは限らない。黒が守っているのは紅です。紅であるかぎり、志貴は死にます」
耀冥は動かなかった。信じたわけではない。だが、否定する言葉がどうしても出てこなかった。
「蒼は、紅に何をする」
望の表情がわずかに変わった。
「紅であることを忘れさせます。紅をほどけば、寿命の縛りから外れる」
耀冥はさらに問う。
「志貴は残るんか」
「生きます」
「何者としてや」
望は石を見つめたまま答えた。
「身体は残ります」
それで十分だった。
志貴は名を失うことを何より恐れていた。名を呼ばれるたびにわずかに頬の力を緩める、あの小さな変化を耀冥は知っている。名を失えば、あれはもう志貴ではなくなる。
耀冥はゆっくりと首を振った。
「志貴でなくなる道を、生きるとは言わん」
「傲慢ですね。死んでは元も子もない」
「黙れ」
低い声が、霧を押した。
望は口を閉ざさなかった。
「では、志貴が知れば、どうします」
耀冥の目が細くなる。
「あなたの黒へ戻れば、命を削る紅から逃れられないと知っても」
望は祭壇へ視線を落とした。
「あなたのもとへ、帰るでしょうか」
「志貴は、俺から逃げへん」
答えは、考えるより先に出ていた。
望は何も言わない。
その沈黙のなかで、閉ざされた番の経路の感触が、指の奥によみがえった。
岩陰で身を伏せていた白い顔。
水鏡越しに合った目。
次の瞬間、水面を叩き割った手。
耀冥の指が止まった。
望は祭壇に残る熱へ目を向けたまま、静かに問う。
「番の経路を閉じたのは、誰です」
耀冥は答えない。
「水鏡を割ったのは」
石の奥で、志貴の熱がかすかに揺れた。
望はそれ以上、何も言わなかった。
水脈の音だけが、二人のあいだを通り過ぎていく。
しばらくして、望が口を開いた。
「いいでしょう。別の方法も、お伝えしておきます」
耀冥の眉が寄る。
「門番」
水脈の音が、わずかに強まった。門番という名は、古い記録で見たことがある。それ以上のことは知らない。
「門番なら、あなたとは違うやり方で、紅を消さずに命を繋げられるはずです」
耀冥の視線が冷える。
「志貴を生かせるのが自分だけだと、思わないことです」
望はそれ以上を語らなかった。門番がどうやって志貴を生かすのか、その先を耀冥が問うても、口を開く気配はない。ただ、語らずに残したその余白が、かえって耀冥の胸に居座った。
「門番を選ばせろとでも?」
「その選択が何を巻き込むとしても、あなたが手放せぬあの子に選ばせればいい」
「何を巻き込む、ね」
耀冥はその言葉を、口の中で冷たく転がした。
志貴以外の何がどうなろうと、耀冥の胸は動かなかった。
壊れるなら壊れたらいい。神が死のうが、この世が残らず沈もうが、それで志貴の名がひとつ残るなら、釣りが出るほどの安い取引だった。
「俺が惜しむもんは、この世にひとつしかない」
声には気負いも力みもなかった。ただ揺らぎのない事実を口にしただけだ。それでも望は、その一言のあとしばらく動かなかった。
「その代わり、志貴に触れるもんは、順番に消えてもらう。神でも、門番でも、宗像でも、同じことや」
耀冥は石へ目を落とした。志貴の熱は、何も答えない。
長い沈黙のあと、耀冥は低く言った。
「どのみち、俺が決めることやない」
望は小さくうなずくと刃を下げ、そのまま霧のなかへ歩き出した。数歩進んだところで足を止めた。
「あなたが門番を選ばせることはない」
望は振り返らないまま言葉を残した。
「あなたが死なせることになる」
その声に感情はなく、ただ結末だけを告げていた。望の姿は霧に溶けるように薄れ、やがて見えなくなった。
耀冥は追わなかった。
水脈の音だけが残る遺構で、耀冥はふたたび石に手を当てた。冷たい表面の奥に、細い熱がある。
黒を流せば辿れるはずだった。
だが指先へ集めた黒は、石に触れる寸前で止まった。
『あなたが繋いでいるのは、命ですか』
望の声が、耳の奥で静かによみがえる。
掌の下には、まだ志貴の熱がある。弱く、今にも消えそうで、それでも確かに残っている。
石へ流し込めば、この熱を辿れる。
閉ざされた番の経路の、その先まで届くかもしれない。
そのためにこそ、ここまで来た。
黒は掌のなかで静かに脈打っている。あとわずかに力を流せば、それで済む。
耀冥は石から目を離さなかった。
それでも、指先は動かなかった。
掌の下にある熱が、志貴のものなのか、紅のものなのか、初めて分からなくなった。
長く息を吐き、掌に集めた黒をゆっくりとほどく。凝縮していた闇は音もなく解け、霧のなかへ静かに溶けていった。
望の言葉を受け入れたわけではない。
自分のやり方を悔いたわけでもない。
それでも、これまで疑うことすらなかった一歩を、耀冥は初めて踏み出せなかった。
遺構には絶え間なく水音が流れ、白い霧が崩れた祭壇を静かに覆っていく。
望が残した門番という呼び名だけが、霧の底へ沈まなかった。




