第82話 かそけき声に 身ゆだねて まほろばの闇
黒の宮の水鏡は、夜が明けても暗いままだった。
耀冥は燈を入れなかった。火皿の炎は低く揺れ、黒い石床に細い影を落としている。水脈の音だけが壁の奥を流れていた。志貴が消えてから、その音はやけに近い。
番の経路は閉じたままだった。切れたのでも、断たれたのでもない。内側から戸を下ろされている。
耀冥は水鏡の縁へ手を置いた。
映るのは暗い水だけだ。
先に一度だけ、岩陰に身を寄せた志貴の姿が映った。白い顔。震えた指。深くかぶった衣の影。志貴は見られたことに気づき、水面を叩き割った。
それから、何も映らない。
背後で衣擦れの音がした。
「兄上」
赫夜だった。
耀冥は振り返らなかった。
「少しでいい。休まれませ」
赫夜の声は低い。宮の主へ諫言する時の声ではなく、壊れかけたものへ近づく時の声だった。
耀冥の指先が水鏡の縁を掴んだ。黒い石に、爪の音が浅く立つ。
耀冥は答えなかった。
あの時、腕を伸ばしていればどうなった。
力ずくでも引き寄せていれば。
指先が石の縁へ食い込む。
考えた先にあるものを、自分でも見たくなかった。
「兄上」
赫夜が、もう一度呼ぶ。言葉が落ちた瞬間、火皿が芯から細く白んだ。
赫夜は退かなかった。
「今のあなたでは、志貴を生きたまま殺してしまう」
「黙れ」
「黙りません。何度でも言う」
耀冥は振り向いた。
赫夜の顔から、わずかに血の気が引く。
「俺の紅を、取り上げるな」
声は大きくなかった。
火皿の炎が揺れ、柱に薄く霜が這った。耀冥の足元から放射状に石床が凍りついていく。
言った耀冥自身、その言葉が自分の口から出たことを聞いていた。
希詠にすら、そんな言い方をしたことはない。
赫夜は何も返さなかった。
火皿の白い炎だけが揺れていた。
「もう、好きにさせてくれ」
それだけ告げて、部屋を後にした。
黒の宮の廊は、耀冥と連動し、氷塊がこびりつくほど冷えきっていた。
数少ない官吏たちは道を開けた。
黒い衣の裾が石床を掠めるたび、石は薄く凍りつき、火皿の炎は低く伏せる。
その光景に、数日前の夜が不意に重なった。
眠れなかった夜だった。
水鏡を閉じても志貴の顔が離れず、耀冥は黒の宮の奥へ足を向けた。
「今さら知って、どうする」
幼い頃、父から一度だけ聞かされた隠し部屋。
黒の王だけが開くことを許された記録室だった。
黒の王に関連する冥府側の公文書。冥府が残した、冷たい記録の山が保管されている。
「ひとりめの、黒の千年王」
後に黒の始祖と呼ばれることになる第一皇女。
皇位継承権上位にありながら、その記録は異様なほど少なかった。
第一皇女、祭礼欠席。
第一皇女、裁可遅延。
第一皇女、所在不明。理由不明。
第一皇女、議会欠席。代理執行。理由不明。
同じ文言が何年分も続いていた。
そして、ある年を境に記録の様子が変わる。
第一皇女、研究棟滞在。
第一皇女、医官との面談。
第一皇女、浄化術式閲覧申請。却下。同申請、再提出。
第一皇女、穢れ侵食研究資料閲覧。
第一皇女、延命術式閲覧。
第一皇女、肉体保持術式閲覧。
似た記録が何年にも渡って続いていた。
官吏の筆跡は、途中から露骨に険しくなる。
『当該分野への異常な傾倒を認む』
『再三の諫言にも改善なし』
『職務怠慢の傾向あり』
『王候補として不適格』
耀冥は頁を繰った。
理由はどこにも書かれていない。それでも、何をしようとしていたのかだけは見えた。
その先へ辿り着けば、何かが決定的に繋がってしまう気がした。
志貴が飛び出して行った時、考えがわからなかったわけではない。自分もまた既存の記録を信用していなかったからだ。
古ければ古いほどに記録は信憑性が薄れる。書き手の意志に左右される。
だから、見ようとも思わなかった。それなのに、今更、見てしまった自分がいる。
「俺は、何をしてるんや」
耀冥は深いため息をついた。
黒の宮を抜け、外郭を越えると、冥府の空気は急に薄くなった。
夜の霧が石段を這い、古い境界へ向かう道を白く濡らしている。
黄泉、冥府、宗像の古い継ぎ目。今では地図にも載らない祭場が、その奥にある。
耀冥しか知らないはずの場所だった。
黒の始祖に関する記録の中でだけ、繰り返し名の現れる古い祭壇。実在するのかどうかさえ分からなかった場所だ。
赫夜とその配下の気配は、いつの間にか途絶えていた。
追っては来ないらしい。
苔に覆われた鳥居を抜けると、朽ちた石柱が霧の中に立っていた。祭壇は半ば崩れ、水脈の跡だけが青白く残っている。
耀冥は石へ手を置いた。かすかな紅の痕跡があった。
やはり、志貴はここへ辿り着いていた。
冷えた石の奥に、まだ消えきらない熱が沈んでいる。志貴が素手で触れた痕跡だった。浅く、乱れ、無理に離れた跡がある。
まだ遠くへ行ってはいない。
初めてそう思えた。
張り詰め続けていたものが、ほんの僅かだけ緩んだ。
その瞬間、背後の霧が動いた。
振り向くのと同時に、黒が走る。
同じ速さで、蒼が立った。
耀冥の刃は相手の首筋へ届き、相手の刃は耀冥の喉元に添えられていた。皮膚一枚のところで、互いの刃が止まっている。
霧の向こうに、望が立っていた。
望は退かず、耀冥も刃を引かなかった。
霧が二人の間を流れる。
次の瞬間、鍔がぶつかって火花が散る。
二人は同時に身を引き、一度だけ間合いを切った。
石を蹴るより早く、再び刃が噛み合い、鈍い音が祭壇へ響いた。
黒が薙ぎ払えば、望は半身を開いてかわす。返す刃は耀冥の肩口を狙い、耀冥は柄で受け流した。刃先が石柱を掠め、長い年月を積んだ角が乾いた音を立てて砕け落ちる。
耀冥は踏み込みを止めなかった。
迎え撃つ望にも、一歩退く気配はない。
祭壇を挟んで刃が幾度も交差する。そのたびに霧が裂け、濡れた石畳へ細かな傷が刻まれていく。
狙うのは決定打だけだった。
試すような斬撃は一つもない。首、喉、心臓、急所だけを選び、躊躇なく刃を通す。その一撃一撃を、相手もまた当然のように受け切っていく。
耀冥は舌打ちを飲み込んだ。
宗像で見ていた望なら、とっくに命を落としている。
だが目の前の男は違った。
刃筋を読んでいるのではない。耀冥という剣そのものを知り尽くしているような受け方だった。
望の表情が、黒の刃を受け流したその一瞬だけ、わずかに動いた。
宗像で何を考えているのか、一度として読ませなかった男に、初めて感情の綻びが見えた。
耀冥は踏み込みを緩めなかった。
一歩も譲らぬまま、再び刃が噛み合う。
鍔元で押し合った距離は息が触れるほど近かった。
「相変わらず、気に食わんな」
耀冥が吐き捨てる。
望は鍔を押し返したまま、口元だけで笑った。
「そうでしょうね」
鍔元へ力が掛かる。押しても動かない。力を込めても均衡は寸分たりとも崩れなかった。
耀冥は奥歯を噛み締める。
鍔を押し返す力に、耀冥は違和を覚えた。腕力でも技量でもない。これほど真正面から己の剣を受け止め、この距離を崩さない者など見たことがない。
宗像で本気の刃を交えずに終わったのは、偶然ではなかったのかもしれない。
鍔元へ掛かっていた力が同時にほどける。示し合わせたように半歩だけ退き、その間隙を縫うように刃が走った。皮膚一枚のところをかすめた切っ先が羽織の袖を裂き、祭壇を渡る湿った風だけが二人の間を細く吹き抜けていく。
初めて顔を合わせた日から、この男だけは目障りだった。理由など考えたこともなかった。ただ、いつか刃を交えることになる。その予感だけは、不思議なほど確かだった。
望はいつも半歩ほど人の後ろに立ち、問われたことには答えるが、それ以上は決して踏み込まない。人の輪にあっても、不思議と誰の記憶にも残らない。目を離せば、その場にいたことさえ曖昧になるような男だった。
だが、今ここにいる望は違う。その立ち姿だけで、宗像にいた頃の男とは別人に見えた。
耀冥は志貴の痕跡が残る祭壇の石へ視線を落とした。
黒の始祖の記録にだけ名を残す祭場だった。石の奥には志貴の残した熱があり、その前に望が立っている。
偶然で済ませられる光景ではなかった。
「ここで、何をしているんや」
耀冥の声は低かった。
望はすぐには答えず、刃を向けられたまま耀冥を見返していた。その目は静かだった。問いの意味を量るような色だけが宿っていた。
「その問いは、お返しします」
状況に見合わぬほど穏やかな声だった。
その平静さが耀冥の神経を逆撫でする。
志貴を追っている。それ以外に何がある。
そう返そうとした言葉が喉元で止まる。
望の視線は志貴の痕跡ではなく、耀冥自身へ向けられていた。
耀冥の指先に力がこもる。
黒の刃がわずかに沈み、望の首筋へ細い血が滲んだ。
それでも望は一歩も退かなかった。
呼吸は乱れず、視線も揺れない。
その事実だけで十分だった。
耀冥は低く問う。
「お前は、何者や」
望の目が、ほんのわずかに細くなる。
祭壇の霧が流れ、苔に濡れた鳥居の下を水脈の音が抜けていく。石の奥には、志貴の残した熱がまだ沈んでいた。
望の口元に、笑みとも呼べぬ浅い歪みが浮かぶ。
「千年王でも、届かないものがあります」
その一言とともに、祭壇の空気が変わった。
耀冥の足元から霜が走り、崩れた石の継ぎ目を白く埋めていく。鳥居の根元に溜まっていた霧は薄い氷膜をまとい、湿った草葉が音もなく凍りついた。
望はそれを見ようともしない。
「随分と知った口を利く」
「知っている、と申し上げたら、どうなさいますか」
望は喉元へ刃を受けたまま、なお言葉を継ごうとはしなかった。
耀冥はわずかに眉を顰めた。
宗像にいた頃から、この男だけは知りすぎていた。
王玉も、古い祭祀も、誰も口にしない名も、望は教えられた者ではなく、見届けてきた者のように語っていた。
その素性を探らせたこともあったが、最後まで何一つ掴めなかった。
「千年王に刃を向けるとは、ええ度胸やな」
耀冥は静かに言った。
望の表情から、わずかに色が消える。
「そうか……」
短く漏れた声は驚きではなく、確かめるような響きを帯びていた。
「なら、話は早い」
望は刃を退けないまま、耀冥をまっすぐ見据える。
「俺が蒼なら、話は変わるか」




