第81話 よるふかき 紅のもとを たづぬれば
志貴の消えた黒の宮は、妙に静かだった。
石廊の奥で水脈の音がしている。壁の内側を細く流れる水は、夜が明けても勢いを変えなかった。火皿の炎は低く、黒い床に映る揺らめきも小さい。それでも人は動いていた。赫夜の配下が外郭を駆け、玄綾の使い魔が軒の影を渡り、明熾の宮から戻った使者が応の間へと報告を運んでいる。
それでも冬馬には、この場所がひどく静かに見えた。
騒ぎがないのだ。
志貴がいなくなったというのに、誰ひとり取り乱していない。自分から出て行ったのだから当然だ、と言ってしまえばそれまでだった。押し入られたわけでも、連れ去られたわけでもない。玄綾の結界を外から破られた痕跡もない。
志貴がヨルノミコトを連れて、自分の足で抜けていった。
そこまでは冬馬にも理解できる。
志貴なら、やる。
大人しそうな顔をして、昔から肝心なところで人の言うことを聞かなかった。必要だと思えば、泣きそうな顔で謝りながら、それでも行く。
だから黒の宮を出たこと自体に、冬馬は驚いていなかった。
引っかかっているのは、そこではない。
ヨルノミコトのことだった。
冬馬は黒い石畳を踏みしめ、応の間へ続く廊の手前で足を止めた。柱の陰には、水を含んだ冷気が溜まっている。冥府の宮の朝は、宗像の朝とは違った。鳥の声も、人の暮らしの匂いも薄い。石と水と香の匂いだけが、古いまま少しも動かずにそこにある。
その動かないものの中に、ヨルノミコトもいた。
黒の宮の者は、誰ひとりそれを疑わない。玄綾も、赫夜も、明熾も、一心ですら。
志貴は、あの狼をあまりにも自然に受け入れていた。迷うそぶりひとつ見せずに。
それが、どうにもおかしかった。
冬馬は奥歯を噛んだ。考えれば考えるほど、腹の底に冷たいものが溜まっていく。
明熾のいる部屋へ向かうことにした。冥府の者ではあるが、聞く耳を持たない男ではない。盤面を見渡す目があり、都合の悪いことでも必要とあれば飲み込む。冬馬はそういうところを信用していた。
執務の小部屋は、応の間から少し離れた棟にあった。扉は半分ほど開いており、内側から紙をめくる音がしている。冬馬が足を止めると、明熾は顔を上げずに言った。
「入れ」
冬馬は扉を押して中へ入った。
中央の低い机に、報告札と地図が並んでいた。
宗像、泰山、冥府外縁、現世の病院名や役所名が記された札もある。明熾は黒刃を壁に立てかけ、袖を留めていた。
「何か、分かったんか」
冬馬が問うと、明熾は一枚の札を机の端へ寄せた。
「志貴が最初に触れた遺構から、兄上が痕跡を拾った。向かう先は大きく三つに絞れる。宗像の古層、泰山の白い脈、それと黄泉と冥府の境に沈んだ古い祭場だ」
「志貴はどれに行くと思ってんの」
「順に触れていく公算が高い。止められぬのなら、先に危険を削るしかない」
落ち着いた声だった。冬馬はその落ち着きに、かえって苛立った。
「なあ。ヨルノミコトって、何なん」
明熾はそこで初めて顔を上げた。黒い目が、まっすぐ冬馬を見る。
「何とは」
「何者なんか、って聞いとる」
「月の神より命を賜った神使だ。黒の宮では古くからいて、今は兄上に属している。玄綾よりも古い」
「そういう話ちゃう」
冬馬は机の前まで歩み寄った。報告札の端が袖に触れ、乾いた音を立てる。
「あれが何を考えとるか、知っとるんか。何のために黒の宮におるんか。お前、知っとるんか」
明熾の表情から、作業の気配が消えた。
「知らんのやろ」
冬馬の声が少し低くなった。明熾は否定しなかった。
冬馬は息を吐いた。怒鳴りたいわけではない。それでも、声が荒くなるのを止めきれなかった。
「ほな何で平気なんや」
「平気ではないが」
「そういう意味ちゃう。志貴はいま、あいつと二人や。一心もおらん。俺もおらん。玄綾も赫夜もおらん。ヨルノミコトがその気になったら、それで終わりやろ」
明熾の目が細くなる。冬馬は畳みかけた。
「あれが志貴に害をなすと決めつけとるわけやない。けどな、何を根拠に信じとるんか、それを聞いとるんや」
部屋の外で、使い魔の爪が梁を掠めた。小さな音だったが、二人のあいだではやけに大きく響いた。
明熾は視線を机へ落とした。だが、目は並んだ地図を読んでいなかった。
「ヨルノミコトは昔からいる」
「昔からおるなら、なおさらや」
冬馬は即座に返した。
「今いる誰よりも前からおるんやろ。下手したら、Veilmakerと同じくらい古いかもしらん」
明熾の息が、そこで浅く止まった。冬馬はそれを見逃さなかった。
「言うてる意味、分かるやろ」
「……分かる」
明熾の声は低かった。冬馬は、それが軽い気持ちで出た言葉ではないと分かって、少しだけ黙った。
「俺はお前を信頼しとる。一緒に戦ったし、お前がどう判断するかも、見た。何もかんも信用しとるわけやないけど、背中を預ける理由はある」
明熾は何も言わなかった。
「お前はどうや。俺を信頼した根拠は、何や」
明熾はすぐに答えた。
「君は退かなかった。兄上の盤面に乗せられても、自分の選択として引き受けた。君の言葉には一貫性があるし、嘘をつかないのを知ってる」
明熾はそこで口を閉じた。冬馬が次に何を言うか、察したのだろう。
「お前らは何を見て、何を確かめて、何を根拠に、志貴をヨルノミコトに預けられるんや」
明熾の喉が、かすかに動いた。答えは出なかった。
冬馬はその沈黙を責めるつもりはなかった。むしろ明熾が黙り込んだことで、自分の抱いた疑問が独りよがりではなかったのだと、ようやく分かった。
「もっと分からんのは、志貴のほうや」
冬馬は窓の外へ視線を逸らした。黒の宮の石庭が見える。白砂ではない。濡れた灰のような色の石が敷かれ、地の底を流れる水の冷えを吸って薄く光っている。
「志貴は、誰でも懐に入れるわけやない。むしろ逆や。自分の中に入ってくるもんを怖がる。手袋を欲しがったんも、触れたくなかったからやろ。境目が欲しい、そう言うてた。やのに、ヨルノミコトだけは最初から近すぎる。志貴は何を見て、何を信じて、あいつだけ受け入れたんや」
明熾の顔に、初めてはっきりとした動揺が浮かんだ。気付いてしまった者の顔だった。
冬馬は、それ以上は言わなかった。ここから先は明熾が自分で考えるべきことだと思った。
「一心に言うた方がええ」
短く告げて、扉へ向かう。出る直前、背中へ明熾の声が届いた。
「冬馬。君は、ヨルノミコトを敵だと思っているのか」
冬馬は振り返らなかった。
「分からんから、聞いとるんや」
それだけ言って、部屋を出た。
廊の空気は冷えていた。黒の宮の奥から、誰かが急いで歩く足音がする。冬馬はそれを聞きながら、無性に腹が立った。
皆、志貴が向かった先ばかりを見ている。誰と行ったのかを、誰も見ていない。
***
明熾は、机の上の札を一枚伏せた。紙の端が指先で少し折れる。
何を根拠に信頼しているのか。
冬馬を信じる理由なら、答えられた。耀冥も、赫夜も、玄綾も同じだ。
だが、ヨルノミコトだけは違った。昔からいる、ただそれだけだった。その答えの薄さに、明熾は初めて寒気を覚えた。
もし同じ条件の存在が外から現れたなら、即座に警戒の対象へ置いたはずだ。古く、正体が曖昧で、目的が知れないのだから。
ヨルノミコトがいつ黒の宮へ来たのか、自分は知らない。
物心ついたときには、すでにいた。耀冥の傍にいて、誰にも疑われず、何の由来も問われずにいた。
神使としての縛りがある、と聞かされてはいる。
だが、最後に誰がその縛りを検めたのか。いつのことだったのか。
明熾の記憶のどこを探しても、その一日が見当たらなかった。
見落としていたその事実を、言い訳で覆い隠すわけにはいかなかった。
応の間へ向かうと、すでに耀冥、赫夜、玄綾が顔を揃えていた。部屋の空気は張りつめていたが、誰も声を荒げてはいなかった。
耀冥は上座に立っていた。黒の衣の袖は整っているが、首筋のあたりにわずかな乱れがある。水鏡を幾度も開いた疲れが、まだ残っていた。
赫夜は机の横で報告札を握り、玄綾は柱の近くで小さな身体を動かさずにいる。
「戻ったか」
耀冥が目を向けた。
「志貴の足取りは」
本来なら、その話をするべきだった。だが明熾は、進路の札を出さなかった。
「兄上。確認したいことがあります」
赫夜がわずかに眉を動かした。玄綾も明熾を見る。耀冥は何も言わず、続きを促した。
明熾は背筋を正した。冬馬に問われたままを持ち込むだけでは足りない。自分の頭で考えたうえで、それでもなお問う必要がある。
「我々が、ヨルノミコトを信頼する根拠は何ですか」
応の間の空気が変わった。それまで意識の外にあった水音が、急に耳についた。
「……何を言っている」
赫夜の声は低かった。
明熾は赫夜を見ず、耀冥を見据えたまま続けた。
「ヨルノミコトが何を考え、何を望み、何を根拠に志貴の傍にいるのか。私は、冬馬に問われて初めて、答えられないと気付きました」
玄綾の目が細くなった。赫夜が口を開きかけたが、耀冥が手を上げてそれを制する。
「冬馬は、あれを敵と断じているわけではありません。ただ、志貴があまりにも容易く受け入れていることに、疑問を抱いていた」
その言葉で、玄綾が初めて顔を上げた。
明熾は続けた。
「志貴は今、触れることにも、近付くことにも慎重になっています。それなのに、ヨルノミコトだけは最初から近かった。考えてみれば、確かに妙です。……ヨルノミコトの意ひとつで、志貴の身は危うくなるやもしれません」
「神使の縛りがあるだろう」
玄綾の声は静かだったが、固かった。
明熾は退かなかった。
「では玄綾。その縛りを最後に検めたのは、いつですか」
玄綾の指が、袖の中で止まった。
応の間の水音だけが、しばらく続いた。
「……記録がない」
絞り出すような声だった。
「今ある結界も、印も、属する者の名も、私はすべて記憶しています。ヨルノミコトだけは、控えがない。その必要を、感じなかった」
赫夜が玄綾を見た。それから、信じられないという顔で明熾へ視線を移す。
「待て。何百年も傍にいて、一度も検めていないと言うのか」
「検める理由が、なかったからです」
明熾が代わりに答えた。
「兄上に属している。それで、今日の今日まで、誰もが納得していた。この私もです」
赫夜が口を閉じた。反論の言葉を探して、見つけられなかった顔だった。
耀冥は、それまで一言も発していなかった。
明熾は兄へ目を戻した。
耀冥の視線は、机の上のどの札にも向いていない。応の間の奥、何もない壁の一点に据えられている。そこに、誰の目にも映らない古い影でも見ているかのようだった。
「兄上」
明熾は呼んだ。
耀冥はすぐには答えなかった。やがて、低く、ほとんど自分に言い聞かせるように口を開いた。
「あれを疑ったことが、一度もない」
それは認める言葉だった。叱責でも反駁でもなく、自分の盤面の中央に、ずっと検めていない駒が一つあったと認める言葉だった。
明熾はその目を受け止めた。
「指摘されるまで、私も一度も考えませんでした。それ自体が、異常です」
誰もすぐには答えなかった。
赫夜は何も言わない。玄綾もまた、袖の中で止めた指を動かさなかった。
耀冥だけが、応の間の奥を見ていた。
外では水脈の音が続いている。黒の宮の壁の奥を、古い水が絶えることなく流れている。
何百年も、何千年も。
だから誰も、それがそこにあることを疑わない。
誰も、ヨルノミコトを検める必要があるとは思わなかった。その傍に、志貴がいる。
その事実を恐ろしいと思ったのは、これが初めてだった。
***
山道は、石の裂け目に沿って続いていた。
夜の湿りがまだ抜けきらず、斜面に張りついた苔は黒く濡れている。
踏みしめた土は柔らかく、ところどころに白い砂粒が混じっていた。火で焼かれたものでも、冥府の水脈に磨かれたものでもない。長い時間のうちに、石が崩れて、風に流され、ここへ溜まったような色をしていた。
志貴は蘇芳の背から降りた。
足を地につけた瞬間、膝の奥に鈍い重さが走る。
岩陰で休んだとはいえ、昨夜から読み取ったものの反動は、まだ身体の底に沈んでいた。
蘇芳は数歩先で足を止めた。
黒銀の毛並みは、朝の淡い光を受けても明るくならない。月のない夜を、そのまま身に纏っているようだった。
蘇芳の耳がわずかに動いた。
「堪えておられますか」
「大丈夫や。まだ、使わん」
志貴は小さく言って、唇を尖らせた。
「使うべき時には、申し上げます」
「言われんでも分かるわ」
そう返しながら、志貴は自分の声が少し掠れていることに気づいた。
蘇芳は振り向かない。こちらの足音を聞きながら、斜面の先に続く道を確かめている。
その背を見ているうちに、前から気になっていたことが、ふと口をついて出た。
「なあ、蘇芳。……蘇芳だけ、見えへんねんな」
蘇芳の尾が一度、静かに揺れた。
「何がですか」
「触った時のことや」
志貴は道端の石へ手を伸ばした。指先を置くだけで、冷えが皮膚の下へ入ってくる。石を打った鑿の痕、雨の重さ、誰かがこの上に手をついて立ち上がった時のわずかな苦しさ。意味を持つ前の細かなものが、薄い水のように流れ込んできた。
志貴は手を離す。
「石でも、人でも、残り香でも、だいたい何かは入ってくるやろ。けど蘇芳は違う。触っても、何も流れてけえへん」
蘇芳はしばらく答えなかった。
遠くの谷で、石が崩れる音がした。
「私は神使ですから」
ようやく返った声は、いつも通り穏やかだった。
「神使やったら、見えへんの」
「少々、勝手が違います」
「そういうもんなん?」
「そういうものです」
志貴はそれ以上問わなかった。
納得したわけではない。ただ、蘇芳の声音に、隠している者の焦りがなかったからだ。
黒の宮にいる者たちは、秘密を持つ時に少しだけ気配を硬くする。一心も、赫夜も、明熾もそうだった。蘇芳にはそれがない。
だから、志貴は流した。
道はさらに細くなり、やがて山肌を回り込む。
ここから先は、人の足で踏み固められた道ではなかった。草が茂り、根が石を抱え、白い砂粒が斜面のくぼみに溜まっている。
足を置く場所を知っているように、蘇芳は迷いなく進んだ。
志貴はその後ろを追いながら、息を整えた。
「ここ、来たことあるん」
問いは軽く投げたつもりだった。
蘇芳は振り返らずに答えた。
「古い場所です」
「答えになってへん」
「今の問いに、正しく答える言葉がありません」
志貴は眉をひそめた。だが、蘇芳はもうそれ以上を話す気がないらしい。黒銀の背は、岩のあいだを滑るように進んでいく。
やがて、斜面が開けた。
そこには、崩れた祭場があった。
三本の石柱が立っている。どれも半ばから折れ、表面は風雨に削られて、刻まれていたはずの文様はほとんど消えていた。中央には低い石の台がある。祭壇だったのだろうが、柱の配置も、石の合わせ方も、今のどの祭祀にも似ていない。
それでも、ここが何かを問う場所だったことだけは分かった。
志貴は足を止めた。
「匂い、違うな」
人が住み、使い、忘れた場所の古さではなかった。
もっと前だ。
制度が制度になる前、名が名として定まる前、神と人と死者の境が今ほど強くなかった頃の湿りが、石の奥に残っている。
蘇芳は祭場の入口で伏せた。
「入らへんの」
志貴は蘇芳を見た。
「私はここで、待ちます」
蘇芳は一度動かないと決めれば、梃子でも動かない。
「わかった。行ってくる」
志貴は祭場へ入った。
草が裾に触れる。地面に沈んだ白い砂が、足の裏でかすかに鳴った。
中央の石台へ近づくにつれ、右手の痺れが強くなる。手袋をしたままで届かないと、触れる前から分かった。
志貴は右手の手袋を外した。
指先が外気に晒される。冷えた風が皮膚を撫で、すぐに消えた。石台の縁へ手を置くと、表面のざらつきが指に食い込む。
最初に流れてきたのは、音だった。
たくさんの名が、まだ名になりきらないまま揺れている音だった。幼い子どもの声にも、老いた者の息にも似ていた。
問いかけられる前の魂が、自分の輪郭を探している。まだ答え方を知らない。自分が何者かを、誰も教えてくれない世界の理のど真ん中にいるようだ。
志貴は目を閉じた。
石の内側に沈んでいた景色が、ゆっくりと立ち上がる。
空は高くもなく、月も遠くなかった。
地上と黄泉の間に薄い帳が垂れていて、人はその際を歩いていた。死んだ者がすぐに遠くへ行くわけではない。生きている者の声に振り返り、名を呼ばれれば少しだけ戻り、呼ばれなければ、帷の薄い方へ寄っていく。
そこに、どちらにも引かれない者がいた。
名を失ったからではない。名が固まりすぎて、動けなくなった者だった。
問いに答える前に、自分の名へ縛られ、他の何も受け入れられず、やがて帷の白さへ沈んでいく。
志貴は息を詰めた。
同じ場所まで歩いてきた者が、別の道を取るのを見た。
その者もまた、帷に似た気配を持っていた。
どちら側にも留め置かれず、いくらでも別の形へ行けるのに、その者は動かなかった。
誰かに呼ばれたからでも、何かを守りたいからでもない。ただ、留まったことで、周囲の名が少しだけ動いた。
揺らぎしかない魂たちが、問いへ向かう支度を始める。覆われていたものが、ほどける。ひとつの名が、別の形へ移れるだけの揺らぎを取り戻す。
志貴の中へ、言葉ではない理解が入ってきた。
名が動かぬ者は、やがて帷へ寄る。名を覆い、留め、進めぬものを深い方へ沈める側へ。
けれど、そのすぐ際に立ちながら、沈まない者がいた。
覆う方へ行けたはずの手が、覆われかけた名をほどいている。
志貴は、その手つきを見た。
王と呼ばれるより前の、まだ名も定まらぬものの働きを。
志貴の右手が震えた。
紅だけではない。黒も、白も、蒼も、同じ根の近くに立つ。
神代坐を受け取るとは、落ちうる場所のすぐ傍で、それでもこちらに留まり続けるということだった。
志貴は手を離した。
視界が戻る。崩れた石台、草に覆われた祭場、伏せている蘇芳が見えた。
胸の中で心臓が強く打っている。今見たものを、すぐに言葉へ直すことはできなかった。
「千年王は……」
声が掠れた。
「みんな、あっちに行けてしまうんやな」
問いの形にはならなかった。確かめるまでもなく、もう身体が知ってしまっている。
蘇芳は静かに目を伏せた。
「強すぎる名は、時に帷へ近くなります」
「Veilmakerの反対側やと思ってた」
「反対に立つ者が、遠くにいるとは限りません」
志貴はその言葉を聞きながら、軽く唇を噛んだ。
自分もVeilmakerになりうる。
怖い、という言葉は浮かばなかった。ただ、握り込んだ右手の痛みだけが、まだ自分がこちら側にいることを教えていた。
「一心は、知ってるんか?」
志貴の問いに、蘇芳は答えなかった。
一心は黒の千年王として長い年月を過ごしている。知らぬはずがない。
「聞く意味、なかったな」
一心が隠したがった理由が、ようやく指先に触れた気がした。
けれど、それで立ち止まるわけにはいかなかった。
志貴は石台から離れようとして、足を止めた。
「蘇芳、なんで離れられたんや」
これまでは辺りを警戒して、蘇芳は常に傍にいたことを思い出した。
「なんで、何にも襲ってこんのや」
敵と出くわしては離脱してきたはずなのに、ここは静かすぎた。
「容易く立ち入れぬ場所だからです」
蘇芳は悪びれる様子もない。
「ここを認識できる者は、ほぼ皆無でしょう」
ならば、なぜ、蘇芳は認識できたのか。
志貴は、無意識に首を傾げていた。
「私は古いですからね」
蘇芳の声には微塵も揺らぎがない。
志貴は小さく息を吐き、肩を落とす他ない。
これ以上、語る気がないことは明白だった。
蘇芳が鼻先で、飴の入った袋をつついた。
「食べりゃ、いいんやろ」
志貴はさらに深く息を吐いた。朽ちながらも、まだ土台の残る石段に腰を下ろす。飴を口に含みながら、志貴は天を仰いだ。
「私ら、何と戦ってんのやろか」
Veilmakerを善悪で語りきれたのなら、すっきりするのに、と蘇芳の背に手をおいた。
「無駄、ですよ」
蘇芳が志貴を見上げて、わずかに首を傾け、目を細くした。
「どさくさでも、無理か」
志貴は、うまくいかないなと口先を尖らせた。
「生きて、動いているものの記憶は、時間と共に常に形をかえます。貴方が知りたいのは、ありのままの事実でしょう」
「時間が止まって、動かなくなったものの方が、知るには親切ってことか。……やから、蘇芳の記憶はあてにならないって言いたいん?」
「それで得心なさるなら、耀冥様を覗けば足りたはずでしょう。耀冥様は拒まないでしょうしね」
志貴は何も言い返せなくなった。
周りにいる知っている側の人間からの知識提供を嫌い、こうして自分で拾い集めることを選んだのは確かに自分自身だった。
志貴は胸元からもうひとつ包みを取り出した。
下街で買っておいた近頃のお気に入りだ。
二本の生地を美しくねじり合わせ、油でじっくりと揚げられた菓子だ。水気の抜けたそれは、少々潰したくらいでは形を崩さない。
志貴は一つ取り出して、無造作にへし折る。口に放り込みながら、ボリボリと乾いた音を響かせ、噛み締めた。
「耀冥様が不思議がっておられました。貴方がそんなものを気に入るなんて、と」
「硬いから、気に入ってるんや」
「黒の本宮にはもっと良い物があるでしょうに」
呆れた様子の蘇芳に、志貴は得意げに笑った。
「高級やと、お腹壊すから」
それに、あらかじめ準備されている物に手をつけないのは宗像本家の当たり前だとは言わなかった。
口にするものは予測できない場所で買う。なるべく味は単純で、異変に気づきやすい物を選ぶ。
志貴は、身体にこびりついた習性に苦笑いした。
「耀冥様の手からであれば口になさるのに、難儀なことですね」
「一心に殺されるのなら、仕方ないやろ」
志貴はゆっくりと立ち上がった。
志貴にとっては、いまさら説明するまでもない、当たり前の覚悟だった。
顔を上げると、蘇芳が少し目を丸くしていた。
「千年王って首落とさな、死ねんらしいし。毒は確実に斬首するための時間稼ぎなだけやろ。けど、一心にそれされたら……まあ、しゃあないわ」
志貴はもうひとつ飴を取り出してみせた。
「これが、いつか毒に変わっていても、私はたぶん口にする」
蘇芳が、低い声で言った。
「貴方の番が、貴方に手をかけるわけがないのに」
志貴は裾についた砂埃を軽く払い落とした。
「番、か。番って、都合のいい条件みたいなもんやなって、最近、思うんや。自分から、一心をおさえつけて、正式に番誓約を結ばせた奴が何言うてるんやと怒られそうやけど」
「都合のいい条件とは」
「護ってくれるし、助けてもくれる。余計なもんまで引き受けてくれる」
「ありがたいことですね」
志貴は頷いた。
「ありがたいんやけど……なんやろな」
「耀冥様は、貴方を目に入れても痛くないほど大切にしておいでですが」
「こじらせた年月の産物やろ。初めから、色眼鏡でしか、私を見てなかったとしたら、正直、やってられへん」
志貴はわざとらしくしゃがみ込んだ。
「でも、何を見ても、一心のことが好きなんは、ちっこい時から変わらへん。自分勝手で、性格も悪い。肝心なことは黙るし、人の話も聞かへん」
志貴は唇を噛み、少しだけ笑った。
「それでも、ほんまに危ない時は、悪態つきながらでも、絶対に来る。稽古なんか少ししかせんくせに、腹立つほど強い。それやのに、そばにおると、息がしやすい」
喉の奥が、勝手に詰まった。
「並べ出したら、きりがない」
どうしてか、涙がこぼれる。
「きっとな、ああいう人の番はもっと利口であるべきなんや。Veilmakerや冥府、宗像や泰山が簡単に手が出せないような」
蘇芳が歩み寄り、志貴の頬の涙をなめとった。
「なあ、蘇芳。なんで、紅の始祖はこんな私に、とんでもない爆弾を与えたんやろな」
蘇芳は答えなかった。この狼は、紅の始祖を確実に知っているのに、ただただそばに寄り添い、黙っている。
「人選、間違えてはるやろ」
泣きたいのか、笑いたいのか。
バランスのとれない自分の内面に、志貴は舌打ちした。
「世界をどうこうするような考えが、私にあるわけないやろ」
志貴は、乾いた石の上へ視線を落とした。
「昔の願いやら、古い因縁やら、全部まとめて知るか、と放り投げたくもなるわ」
蘇芳がすぐそばでくすりと笑った。
志貴はそれを見て、困ったように眉根を寄せた。
「千年王は千年生きるわけやないのに、ひとつの選択が何代も先まで響いて、人ひとりの癖みたいなもんが、何百年単位で残ってしまう」
志貴は息を吐いた。
「迷惑な話やな」
蘇芳は何も言わない。
「しかも、Veilmakerにもなれるってなんや。選択肢、多すぎへんか」
志貴は乾いた笑い声を上げた。
「そんな大層な話やったら、もっと賢い人、他におったやろ」
志貴は視線を逸らし、また硬い硬い菓子を口にした。
「なあ、蘇芳。ここでなら、ちょっと休憩しても構わんよね?」
ごろりと菓子をくわえたまま、大の字になってみる。
「喉に詰まらせてしまいますよ」
蘇芳がたしなめるような声を出した。
志貴は寝転がったまま、ずっと聞きたかったことを言葉にした。
「Veilmakerですらわからんような場所、蘇芳が知ってる。……あんた、何者や」
志貴は視線だけを動かした。
「まあ、何でも構わんのやけど」
一瞬、張り詰めた空気を志貴は欠伸ひとつで切り捨てた。
「おや、構わないのですか」
蘇芳が面白そうに志貴を見る。
「善いか悪いかで、何でも切れるほど偉くないねん、私。それに、蘇芳からは、馴染みのある香がする。何の香かはわからん。でも、今はそれでええんや」
蘇芳が静かに笑った。
「私に嵌められているのやもしれませんよ」
「なら、私はその程度で、お終いなだけや」
志貴はゆっくり瞼を閉じた。
ここ数日、まともに眠れていなかったのが、悪い。睡魔にあっさりと引きずり込まれていく。
「だから、菓子をくわえたままはいけませんと言っておりますのに」
蘇芳の声に志貴は笑って、ガリガリと音をたてて食べきってしまった。
「行儀作法を見直した方がよろしいかと」
蘇芳は尻尾の先で、胸元に散った菓子の粉を払った。
「余計なお世話や。なあ、期待に応えていられる間は、しっかり護ってや」
志貴は目を閉じたまま、かすかに笑った。
「この首、なかなかの高額やで、蘇芳」
柔らかな布団などない、石畳の上、雨風をよける気すらない場所で、志貴は眠りに落ちた。




