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第80話 たどり来し 道を返さず 夜は行く

志貴の姿が消えた廊で、玄綾はしばらく動けなかった。


四方に走らせた結界は、外からの刃を断つための線であって、内から駆け抜ける者を縛るためのものではなかった。その隙を、ヨルノミコトは見抜いていたのだろう。


だから、ヨルノミコトは継ぎ目をすり抜け、黒銀の毛並みひとつ残さずに跳んでいった。


手のひらに残ったのは、たった今まで近くにあったはずの志貴の気配の名残と、すり抜けられたという事実だけだった。


玄綾は置き去りにされた場所に立ち尽くしたまま、自分が遅れたことの意味を量りかねていた。


たった数歩の距離で、どうして微塵も悟れなかったのか。


志貴は、息をするように、与えたばかりの字を呼んだ。


『蘇芳』


その一声で、ヨルノミコトは迷いなく跳んだ。


「……桁が違うね」


玄綾の声は、自分でも驚くほど乾いていた。


黒の千年王に仕えてきた神使が、間を置かず、その字を受け入れた。奪われたのでも、命じられたのでもない。黒の王の命をも越える呼び声に、自ら身を翻した。


その事実が、いちばん重かった。


「子犬だと思っていたなら、手を噛まれる。わかっていたのにね」


玄綾は唇を噛む。


志貴に万が一のことがあれば、耀冥がどうなるか、玄綾には見当もつかなかった。


水脈の灯が、廊の奥で長く尾を引いている。火皿の焔は、風もないのに、ひとところで縫いとめられたように動かない。濡れた石の匂いが、足元から冷たく立ちのぼっていた。


玄綾は踵を返して、応の間へ急ぎ戻った。



***



「なん、やと……」


耀冥は、煌承との話を終えていなかった。


玄綾に耳打ちされた内容に、しばらく頭が追いつかなかった。


志貴を送り出したばかりの腕には、まだあの細い肩の感触が残っている。


自分で歩けると言った志貴を、初めて引き留めなかった。


檻へ戻すのではなく、明熾の宮へ行けと促した。


楼蘭を呼んだのも、志貴の知りたいことのためだった。玄綾を供につけたのも、せめてそばにあたたかな誰かを残しておくためだった。


その玄綾までも、志貴は撒いた。


用意した道へ進まず、つけた供を振り切って、蘇芳だけを連れて消えた。


耀冥は、何も言わなかった。


黒の宮が、内側から冷えはじめた。火皿に灯っていた焔が芯から白く固まり、太い柱を霜が音もなく這いのぼっていく。磨かれた石床に薄い氷が走り、垂れ下がった帳が凍てついて、わずかに身じろぎするたびに硬い音を立てた。


なぜだ、と耀冥は胸の底で思っていた。


手を離したのは自分だった。行けと言ったのも自分だった。それでも、こうも容易く手の中から消えてしまうとは思っていなかった。


明熾の宮で楼蘭と向き合い、知りたいことを知り、いくらか落ち着いて戻ってくる。そう描いていた道筋を、志貴は最初の角ですべて打ち捨てた。


自由を、許しすぎたのか。


胸の底で問いかけて、すぐに打ち消した。許す許さないの話ではないと、自分でもわかっていた。それでも問いは、答えを持たないまま、凍えた水脈のように体内を巡り、出口を見つけられずに同じところを回り続けた。


行って捕まえればいい、という声が頭の中に響く。


捕まえて、なぜ行ったと問い詰めればいい。二度と抜け出せないように足へ枷をかけ、腕の中へ閉じ込めてしまえばいい。それを守護と呼び、志貴自身にもそう信じ込ませればいい。


耀冥としてならば、平然とそれをやってのけることを正確に知っていた。


だからこそ、玉座から立たなかった。立てば、必ずやってしまい、志貴の心を確実に失う。


「志貴……」


それでも、と耀冥は番の経路へ手を伸ばした。繋がりそのものは、確かに残っている。けれど、いくら引いても、手応えはひとつも返ってこなかった。


紅が本気で拒めば、たとえ番であろうと、黒の千年王は気配のひとつも追えなくなる。これは耀冥が遠い昔から承知していた理だ。


だから、驚きはなかった。


それに、これは二度目だ。


一度目は静域だった。志貴を神格へ変生させるため百日の眠りへ沈めた。千年単位で編んだあの完璧なはずの檻。志貴はそれを内側から破って出てきた。神になることを拒み、眠りごと砕いて、檻の中から抜け出した。


あのとき耀冥は思い知らされたはずだった。紅が本気で拒めば、黒の最も完璧な術式でさえ、濡れた砂で組み上げた城のように崩れるのだと。


思い知って、見ないふりをした。あれは例外だと自分に言い聞かせた。情が、理を見る目を曇らせていた。そして今、こうしてまた二度目を突きつけられている。


「……兄上、追いますか」


赫夜がそこまで言って、続きを呑み込んだ。


長い沈黙のあとで、耀冥はようやく口を開いた。声は宮を満たす冷えと同じ温度をしていた。


「誰にも、追えん。あれが本気で閉じた」


赫夜が顔を上げる。


「希詠を探せ。出処を洗え」


声が、底へ沈んだ。


「影なら裂け。記録なら剥がせ。人なら連れてこい」


煌承が何か言いかけたのを、耀冥は視線だけで制した。


「消すかどうかは、俺が決める」


希詠がどれほどまでに大切であったのかを、耀冥は知っている。それでも胸の底には、確かに消してしまいたいという熱があった。


希詠を消せば志貴が戻る。志貴を苦しめている棘を抜けば、また帰れる場所を作ってやれる。


そう思いたかった。そうであれば、どれほど楽だったか。


我ながら、冷たく醜悪な獣だと思った。


「満足か、煌承」


耀冥はゆっくりと視線を持ち上げた。


「俺は機嫌が悪い。失せろ」


耀冥のあまりに低い声に、煌承は静かに踵を返した。



***



下街は、宵の口から霧が出ていた。


志貴はフードを目深に引き下ろし、人の流れの端を選んで歩いた。


冥府にある古い街並みは、石畳が雨を吸って黒く濡れ、軒先の灯籠がにじんだ光を路面へ落としている。


煮売り屋の湯気と、香木を焚く匂いと、湿った苔の匂いが入り混じって、霧の中に重く沈んでいた。


蘇芳はいったん小さな姿に戻り、志貴の足元の影に身を潜めている。


黒の宮を飛び出したとき、手元にあったのは、いざというときのためにふだんから懐へ忍ばせていたわずかな金と、同じく備えとして持ち歩いていた飴の包みだけだった。


だから志貴はまず、人目を引かない身なりを整えなければならなかった。


古着屋で旅装をひとそろい求め、顔を隠せる深いフードを選んだ。


王族とひと目でわかる衣は、すべて畳んで風呂敷の底へ押し込み、道端の祠の下へ隠した。


軒下で身支度を終えると、志貴は懐から飴の包みを取り出し、霧明かりの下でそっと数えた。


十四個あった。


これから先、反動を抑えてくれるのは、これしかない。


「希詠からお調べにならないのですか」


足元の影から、蘇芳が低く問うた。


「知りたい気持ちはある」


志貴は前を見たまま答えた。


「でも、希詠を読んだところで、希詠になれるわけやないし、Veilmakerが止まるわけでもない。先に始祖や。始祖が、最初に何をしたんか。そこを読まな、何もはじまらへん」


声に、感情へ流された熱はなかった。傷を抱えたまま、それでも順序を見誤るまいと決めた声だ。


蘇芳はそれを聞き取って、何も言い返さなかった。


ただ、志貴は自分でも気づいていた。これは順序の問題であると同時に、先延ばしでもある。


希詠を読めば、一心がどれほどあの者を待ち、護ってきたかを、まざまざと知ることになる。


それを知ったとき、自分の心がどう動くのか、志貴には見当がつかなかった。


ちらりと足元に目を落とす。


蘇芳という名を授けたとき、狼は、賜るのが二回目だと言った。その向こうに誰が立っているのかを、志貴はまだ確かめていない。確かめれば、また誰かの過去の中へ引き戻される気がして、聞けずにいた。


ふと、蘇芳が付け加えるように言った。


「今は、誰も貴方を追えません」


都合のよい知らせだ、と志貴は受け取った。誰にも追われないのなら、邪魔をされずに済む。一人で歩くと決めた自分には、むしろ追い風だ。志貴はそう聞き流して、霧の奥へ足を速めた。



***



明熾の宮には、志貴出奔の報せが、黒の宮よりもわずかに遅れて届いた。報せを運んだのは、玄綾だった。


冬馬は、玄綾が口を開ききらぬうちに立ち上がっていた。


明熾が冬馬の腕を押さえ、落ち着けと低く言った。その明熾自身の顔からも、血の気が引いている。


境界の向こうには名を失った悪鬼がさまよい、Veilmakerの傀儡が徘徊している。そこへ、志貴は黒の宮の誰も連れず、蘇芳一騎だけを伴って踏み込んだのだ。焦るなというほうが無理だと、玄綾も思った。


ただ一人、楼蘭だけが、椅子の背に深くもたれたまま、低く笑った。


「想像できなかったわけではないだろう」


白の千年王の声は、室を満たした緊張をかえって際立たせるほど静かだった。


「安全で当たり障りのない知識しか与えてもらえないと見切った。だから自分で取りに行くことを選んだ。それだけのことだ。むしろ、ここまで静かだったほうが不思議なくらいだよ」


冬馬が何か言い返そうとするのを、楼蘭は手のひらで軽くいなした。


「あの男は、あの子が相手だと鈍くなる」


玄綾の背筋に、黒の宮の冷えが遅れて這い上がった。


玄綾には、楼蘭が黒の宮にいる耀冥のことを言っているのだとわかった。


「いつもの耀冥なら、手を打てていた。あの子がどう動くか、いくつもの筋を読んで、退路まで塞いでいたはずだ。それをしなかった。できなかったのだろうね」


楼蘭は息を吐き、わずかに目を細めた。


「僕を含めこれだけの面子がいて、あの子は僕らの誰一人、供に選ばなかった。笑える話だ。……まあ、紅の本質からいけば、簡単に首を落とされることはないだろうがね」


番という情が、黒の千年王の目を曇らせている。その情が、紅と黒の本当の序列から耀冥の目を逸らさせ続けてきた。楼蘭は、そう言いたげだった。


「僕は泰山へ戻る」


楼蘭は立ち上がった。


「あの子が知りたがっているのはおそらく始祖のことだ。始祖の根を辿れば、いずれ僕の領分にも触れる。来なければ、それもあの子の判断だ」


扉口で、楼蘭は一度だけ振り返った。


「誰も、志貴を追えない。志貴が本気で拒むということは、そういうことだ。僕たちの誰よりも、あの子は今、ひとつ高いところにいる」


その言葉を残して、白の千年王は宮を去った。


残された室で、冬馬が拳を握りしめていた。


志貴のために冥府の四天王の座まで奪った男が、今はその志貴へ近づくことすら許されない。


玄綾は、その背を見ていられなかった。


冬馬が、玄綾に向き直り、絞り出すように言った。


「飴は……飴を持って出たんか」


玄綾は、力なく頷いた。


「いざというときのために、いつも懐に。ただ、こんなことを想定していたわけではないからね」


玄綾が、目を伏せて言葉を継いだ。


「多く見積もっても、十四、十五。下手をすれば、それより少ないはずだ」


冬馬の顔が歪んだ。志貴の異能の反動がどういうものか、知っているらしいと、玄綾は思った。


番の血で作られた飴は、その反動を抑えるための、ただひとつの支えだ。それが十四か十五しかないということは、志貴が回復できる回数も、それきりだということだった。


「あの読み取りを、立て続けにやったら」


冬馬の声は震えていた。


「身体が、保たん」


誰も、それに答えられなかった。



***



志貴が向かったのは、黄泉と冥府と宗像、三つの領が触れ合う境にある古い遺構だった。


どの領の理にも完全には属さない。緩んだ継ぎ目のような場所だ。


崩れかけた石の柱が霧の中に何本も立ち、苔に覆われた祭壇が傾いだまま夜露に濡れている。地を這う水脈の跡が、わずかな燐光を帯びて石畳の隙間を縫っていた。風はなく、ただ古いものの匂いだけが、湿った空気に厚く沈んでいる。


志貴は古い文書を当てにしなかった。文字に起こされたものには、必ず書き手の都合が混じる。何を残し、何を伏せたか、その取捨そのものに嘘が混じる。


だから手袋を外し、素手で直接触れることを選んだ。石へ、柱へ、傾いだ祭壇へ、そして燐光を帯びた水脈の跡へ触れて、ありのままを飲み込む。


指先が石に触れた瞬間、古い記憶が冷たい水のように腕を遡ってきた。


それは、始祖の代よりもさらに古い、世界がまだ今の形に固まりきっていなかった頃の名残だった。志貴の頭の奥に、断片が像を結ぶ。


帳は、もともと名を奪うためのものではなかった。固まりすぎて動けなくなった名を、一夜のあいだだけ覆い隠し、ふたたび揺らげるようにするためのものだった。


死後の問いに焼かれる魂を、その問いの前まで運び、答える支度を整えさせるための役目だった。


つまり、帳と呼ばれるだけのことはあった。

Veilmakerは本来、名を奪い、改竄し、ただ消すだけの存在ではなかったのだ。


そこまで読んで、像は途切れた。


では、いつ、何が、変えたのか。続きを掴もうとした志貴の指先から、像はするりと逃げた。代わりに、読み取りの反動が背骨を伝って這い上がってくる。視界の端が白く明滅し、額に脂汗が浮いた。


志貴は懐から飴を一つ取り出し、口に含んだ。淡い甘さが舌に広がると、こめかみで脈打っていた痛みが、ゆっくりと薄らいでいく。


「帳の根に、近づいておられますか」


蘇芳が、石畳の上に四肢を据えて問うた。霧の中で、黒銀の毛並みがいっそう深く沈んで見える。


「うん。でも、まだ掴みきれん」


志貴は息を整えながら答えた。


「ただの異物やったら、世界がとっくに吐き出してるはずや。それやのに、残ってる。……残るだけの役目が、もとはあったってことや」


志貴は、もう一度、傾いだ祭壇へ手を伸ばした。その指先が石に触れる寸前、霧が、不意に重くなった。


最初に届いたのは、呻きだった。


遺構の奥の闇から、人とも獣ともつかない、掠れた声が這い出してきた。


「おれ、は……おれ、は……」


名を失った魂が、自分が何者であったかを思い出せぬまま、その問いの形だけを繰り返している。悪鬼に堕ちきる手前の、最も惨たらしい姿だった。声は近づきも遠ざかりもせず、ただ霧の奥で同じ言葉を擦り続けている。


それとほとんど同時に、霧の別の方角から、硬く澄んだ音が降りてきた。


結界が組まれていく音だった。冷たく、整然と、一分の隙もない。


志貴の知る冷たさだった。


白の階、煌承の側が組む、保護と管理の名を冠した檻の音だ。それは志貴を直接害するためのものではない。志貴を見つけ、囲い、安全だが、陰湿な牢獄へ連れ戻すための網だった。そして、捕まれば、煌承に耀冥の弱みを握らせることになる。


そして、三つ目の声が、霧のすぐ近くで囁いた。


「希詠を、お探しですか」


志貴の足が、止まった。


その声には聞き覚えがなかった。誰のものでもない、誰のものでもありうる声だった。


Veilmakerの傀儡が、過去の名をひとつ、餌のように霧の中へ投げてきた。


ここで足を止め、揺らげば、付け入られる。傀儡はただ、その一語を繰り返した。


「希詠の席を、空けに来られたのですか」


不快な言葉だ。


誰が、番の席を明け渡すと口にしたというのかと、志貴は眉を顰めた。


三つの気配が、霧の中で志貴を緩く取り囲もうとしていた。名を失った末路、囲い込もうとする保護、過去の名で揺さぶる罠。性質はまるで違うのに、どれもが等しく、志貴へ向かって距離を詰めてくる。


志貴は、祭壇へ伸ばしかけた手を引いた。紅の熱が、腹の奥でちりちりと立ちのぼりはじめる。蘇芳の背に乗って斬り抜けるか、紅で焼き払うか。志貴の身体は、すでに迎え撃つ構えに傾いていた。


「退きましょう」


蘇芳が、低く、けれど有無を言わせぬ声で言った。四肢を沈め、志貴を背に乗せられる位置へ素早く回り込む。


「今は、可能な限り戦闘をなさらないことです。お乗りください」


「でも、まだ途中や」


「志貴様、お乗りください」


二度目の声は、最初よりも低く、硬かった。逆らうことを許さない響きだった。


志貴は一瞬ためらったが、三つの気配がさらに距離を詰めてくるのを肌で感じて、蘇芳の背へ身を投げた。


黒銀の狼は地を蹴り、霧を裂いて走った。背後で結界の音が乱れ、悪鬼の呻きと傀儡の囁きが、見る間に遠ざかっていく。


志貴は走る背の上で、なお振り返った。


「見つけてくるのは、敵ばっかりやな」


その問いは、追っ手から逃げながら口をついて出た、ほとんど無意識のものだった。


蘇芳は走る速度を緩めず、けれど確かな声で答えた。


「貴方が、本気でお拒みになったからです」


志貴の指が、毛並みの上で止まった。


「紅は、最上位にあります。貴方が本気で拒めば、耀冥様であっても、貴方の波長ひとつ辿れません。楼蘭様であれ、咲貴様であれ、同じこと。貴方が御自ら報せぬかぎり、誰一人として、貴方を容易く見つけることはできないのです」


走り去る霧の中で、志貴はようやく、自分のしたことの形を理解しはじめた。


志貴はしばらく黙って、少ししてから小さく言った。


「……なら、なんで敵だけが来るんや」


蘇芳は走る速度を緩めなかった。


「あれらは、貴方を辿ってきたのではありません」


蘇芳は続けた。


「遺構のあちこちに、もとから散らばっているのです。だから、こうしてたまたま行き合う。貴方と出くわすのは、皮肉なことに、貴方を辿ろうとしない者たちだけなのですよ」


志貴は、声を失った。


「すぐに見つかるとお思いでしたか。味方は遠方、はるか彼方なのです」


一人で歩くと決めて、その糸を自分の手で断ち切ったとき、思い描いていたのは、数日間、誰にも邪魔されず自由に進む姿だった。


けれど実際に切り離したのは、邪魔だけではなかった。助けへ通じる道も、案じてくれる者の手も、すべて同じ一本の糸だった。


「戦えば、貴方は勝てます。けれど、その分だけ弱られます。だからこそ、戦闘は何をおいても避けねばならないと、腹を括っていただきたい」


霧が、走る背の後ろで静かに閉じていった。


「この場は離れます。休息は、追っ手を振り切ってからです」


その後、志貴は近隣の小さな遺構を二つ三つ渡った。


どこでも深くは読めなかった。ごく浅い断片だけを拾い、穢れや結界の気配に悟られる前に退く。


「この辺りで、休息といたしましょう」


追っ手の気配をようやく振り切った頃には、志貴の身体はもう限界に近かった。


「戦闘を避けられても、こうも穢れに触れてしまえば同じことですね」


蘇芳は、人気のない谷あいの岩陰へ志貴を運び込んだ。


霧はいくらか薄れ、頭上には黒く沈んだ空が広がっている。


志貴は岩の根方に背を預けて座り込み、浅い息を繰り返した。


境界遺構で読んだ古い記憶の断片が、まだ頭の奥でちらついている。


帳の奥には門を守る者がいること。

その門番だけは、ほかのVeilmakerとは格が違うこと。

そして紅の千年王の始祖が、その門番とほぼ互角に渡り合えたらしいこと。


何故、それが出来たのか。


すぐ手の届くところにある気がして、志貴は震える手を押さえ込んだ。


「まだ、読める」


志貴は掠れた声で言った。


「飴は……まだ取っておきたい」


「今夜はもうお読みになれません」


蘇芳の声が、はっきりと志貴を遮った。


「これ以上、間を置かずに読み続ければ、お身体どころか、お命に障ります。飴を惜しんで、何になりましょう」


「でも、もう少しなんや」


「これ以上、進言をお拒みになるのなら」


蘇芳は、志貴の正面へ回り込み、低く言い切った。


「耀冥様へ、お報せします」


志貴の身体が、こわばった。


脅しではないと、すぐにわかった。蘇芳の声には、ためらいの色がひとつもなかった。


誰一人として志貴を辿れぬこの状況で、ただ一つ残された連絡の道を、この狼は持っている。


志貴自身が報せること、あるいは志貴に属する神使が代わりに報せること。


志貴が世界から自分を切り離してなお、蘇芳だけは、その壁を越えて一心のもとへ繋がることができた。


「私は、貴方の神使です」


蘇芳の声が、わずかに和らいだ。けれど、芯は緩まなかった。


「だからこそ、貴方を死なせるわけには参りません。貴方の御意志をお守りすることと、貴方を死なせることとは、まったく別のことです。御自分でそれがおわかりにならぬのなら、私が止めます」


志貴は、長いあいだ蘇芳を見つめていた。やがて、伸ばしかけた手を、力なく引いた。


負けを認めるように、懐から飴をひとつ取り出して口に含む。淡い甘さが、削れた身体の奥へゆっくり染みていった。


飴が、一つずつ確実に減っていく。


蘇芳は、それを見届けて、ようやく志貴のかたわらへ身を横たえた。志貴に体温を分けるように、大きな身体をぴたりと寄せる。


夜が更けると、熱はいくらか引いた。


志貴は岩陰で蘇芳の毛並みに身を寄せ、薄く目を開けていた。眠れはしなかった。


読み取った断片と、自分が断ち切ってしまった糸のことが、頭の中で順番もなく行き来している。


「耀冥様とこの旅をなされば」


蘇芳が、低く言った。


「貴方の御負担は、これほどではなかったでしょう。読み取りの反動も、あの方の力で和らげられた。追っ手も、あの方が払われた。何より、貴方は、御一人で考え抜く必要などなかったのです」


志貴は、泣き出しそうな顔で、それでも笑った。


「知ってる」


声は、少し掠れていた。


「一心がおったら、私、考えへんで済むんや。大丈夫やって言われたら、ほんまに大丈夫やと思えてしまう。待てって言われたら、待ってしまう。……それくらい、信じてしまうんや」


志貴は、膝を抱えた。


「一心がそう言うたから、って言えてしまうんや。そうしたら私は、何も選ばずに済む。間違えた時も、傷つけた時も、私のせいやないって逃げられる。それやと、意味ない。希詠のことも、結局は自分で見るしかない」


蘇芳は、何も言わなかった。


口にはしなかったが、志貴は自分でも、希詠を後回しにしている本当の理由を知っていた。


軽んじているからではない。希詠がどのような者であったか、その人生を知ることが怖いのではなかった。希詠を知ったとき、自分の心がどう動くのか、それが見当もつかないのだ。


一心がどれほど深く希詠を待ち、護ってきたかを知ったとき、自分が平気でいられる保証など、どこにもなかった。


一心への想いそのものは、出会ってから一度も揺らいだことがない。揺らいだことがないからこそ、希詠を知るのが怖い。


その怖さから目を逸らすために順番を持ち出しているのではないか。志貴は、そう疑う自分を、夜の底へ押し込めた。


志貴は、もう一度、夜空へ目を向けた。


「順番に変更はない。始祖から読む」


声に、迷いはなかった。それは、弱音の終わりではなく、覚悟の始まりだった。


何度も手袋の縁に指をかけた。そのたびに、蘇芳の尾が静かに伸びて、手首を押さえた。


決めた順番を、自分の手で実行に移したい。それなのに、身体が思うようにならない。その屈辱と焦りだけが、頭の中で行き場を失って熱を持ち、紅の網目を歪ませた。そうして、志貴の遮断は、意志とは別のところで、わずかに緩んだ。



***



黒の宮の奥で、耀冥は水鏡の前に座していた。


志貴を辿ることは、できない。紅が自ら閉ざしている以上、番の経路は、黒の手に何ひとつ返さなかった。


耀冥に残された唯一の窓が、この水鏡だった。けれど、それさえも、ほとんど何も映さなかった。


水鏡を開くたび、暗い水しか返らなかった。


力任せに押し開けば、番の経路を、無理にこじ開けることになり、志貴に負荷を与えかねない。


だから耀冥は、そのたびに閉じて、また開いた。何も映らないとわかっていて、それでも開かずにはいられなかった。


その水面に、ふいに、像が滲んだ。


志貴だった。


深いフードをかぶり、岩陰に身を寄せている。顔色は紙のように白く、こめかみには脂汗が浮いていた。手袋越しにもわかるほど、指先が小刻みに震えている。明らかに、限界まで身を削っていた。


志貴が見せたとは、耀冥には思えなかった。見られたくないという志貴の意志は、最後まで揺らいでいないはずだ。であれば、これは志貴が望んで開いた窓ではない。


削りきった身体が、上位者の制御を、ほんの一瞬だけ取りこぼした。その隙間から、像が漏れたのだろうと耀冥は読んだ。


耀冥の指が、水面へ伸びた。


その気配を、間髪いれずに志貴が捉えた。


水鏡の中の志貴が、はっとした顔で顔を上げる。そして、震える手を振り上げ、迷いなく水面を叩いた。


像が砕け、波紋が広がって、あとには暗い水だけが残った。それは耀冥への拒絶であると同時に、見られてしまった自分への、苛立ちまじりの叱責かもしれなかった。


『あかん』


砕ける寸前、志貴の唇がそう動いたのを、耀冥は確かに読み取った。


耀冥は、低く笑った。


あの状態でなお、志貴は救いを求めることなく閉じた。ただそれだけの事実が、苦かった。


「俺が、もう無理や」


そう呟き、明確に自覚した。


固めたはずの決意が、たった一度、志貴の姿を見ただけで、音を立てて崩れた。志貴の弱りきった姿ひとつが、千年かけて鍛えた自制よりも、はるかに重かった。


耀冥は立ち上がっていた。水鏡の縁を掴み、床にたたきつけ、宮を飛び出そうとした。


「兄上」


赫夜が、その前へ回り込んだ。


「もう、間に合いません」


声には、理を説く冷たさはなかった。あったのは、兄を案じる温度だけだった。


「駆けつけても、その頃には、もう次の場所へ移っている。兄上をもってしても、必ず一足、遅れる」


「そこをどけ」


「冷静におなりください」


赫夜は、退かなかった。


「あれは俺の唯一だ」


耀冥の声は、低く、軋んでいた。


「だからこそ、駄目だと言っている」


赫夜は、まっすぐに兄を見上げた。


「今、駆けつければ、怒りをぶつけて、縛って、閉じ込めてしまうだろう。そうしない確証があるのなら止めはしない。できるのか?」


「……できん」


認めた声は、血を吐くより苦かった。


立ち上がった耀冥の足が、行き場を失った。


駆け出す力はある。だが、駆け出した先で何も掴めないことを、赫夜の言葉で、もう一度突きつけられていた。


動けるのに、動いても無駄だと先にわかってしまう。それは、自分で飛び出して空を切るよりも、ずっと深く骨身にこたえた。


耀冥は、ゆっくりと床に転がっている水鏡の前へ腰を落とした。


「志貴を追うのは、難儀の極みだ」


赫夜は、慎重に続けた。


「けれど、辿っているものが何か。探し物には必ず一貫性があるはず」


耀冥が、顔を上げた。


「それさえ掴めれば、先回りは、できるやもしれない。志貴を追わずとも、その場所で、待つことはできる」


赫夜は、救いのつもりで言葉を押し出したらしかった。


耀冥は、しばらく赫夜を見ていた。それから、ゆっくりと立ち上がり、自室を出た。


志貴を追うためではない。志貴が触れた場所を、辿るためだった。


「確認に行く」


赫夜は何も言わずに、後ろをついてきた。


耀冥は黒を指先に沈め、宮の結界を一枚ずつ開いた。次の瞬間、足元の石が消え、境界の湿った夜気が肌を打った。


水鏡に映った岩陰そのものではない。


だが、地脈の走り、結界が乱れた方角、穢れの寄り方を重ねれば、志貴が最初に触れた遺構は限られた。


「やはり、ここか」


来てみて、確信に変わる。間違いなく、ここに志貴がいた。


耀冥は境界の遺構に立ち、辺りを見渡した。


「逃げ足が早いな」


志貴の残り香がする。


押し殺した怒りは、行き場を失ったまま胸の底で燻っていた。


志貴へ向けることのできないものは、そこに残っていた穢れの群れへ落ちた。


有象無象は指先ひとつで砕け、黒い灰となって風へ散る。


隣に立つ赫夜は、その光景を久しぶりに見て深く息を吐いた。


「もう少し穏便にできないものか」


「うるさい」


崩れかけた石の柱。傾いだ祭壇。燐光を帯びた水脈の跡。そのどれにも、志貴が素手で触れた痕が、かすかに紅を残してこびりついていた。


耀冥は、記憶と死を司る黒の千年王だった。志貴自身は辿れなくとも、志貴が何に触れ、何を読もうとしたかであれば、その痕跡から手繰り寄せることができた。


耀冥は、志貴の指がなぞった石へ、自らの手を重ねた。


そして、知った。


志貴が読もうとしていたのは、始祖と世界がまだ固まりきっていなかった頃の、門番の成り立ちだった。


紅の始祖が、最初に何をしたのか。


誰が、いつ、門番を消す者へと変えたのか。


志貴は、希詠という名を生んだ手のありかそのものを、世界の根まで遡って暴こうとしていた。


耀冥は、長いあいだ、その石の上で動けなかった。


希詠を失ったとき、耀冥は、これ以上の痛みはないと思った。失ったものには形があった。だから、嘆くことができた。


けれど、これは違った。志貴は失われたのではない。耀冥の見ていない場所へ、耀冥よりも先に、ただ一人で進んでいった。


失われたものなら、嘆けばいい。


追い越された者は、嘆くことすらできなかった。


腕の中にいたはずの少女が、いつのまにか、自分よりもずっと遠くを見ている。そのことを、耀冥は、冷えた石の手触りを通して、ようやく思い知った。


紅は、黒の、はるか先を歩いていた。

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