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第79話 すはう呼ぶ 月の狼 夜を越ゆ

楼蘭と明熾は、禁書の写しを抱えて先に明熾の宮へ向かっていた。冬馬は黒の宮の外郭に残され、不服そうに志貴を見送った。


黒の宮へ渡る橋の手前では、ヨルノミコトが待っていた。


いつもの小さな体躯ではない。四肢は黒い石畳をしっかりと踏み、肩は志貴の胸ほどまである。背に広がる毛並みは黒銀に沈み、首筋から尾の先へ、青白い水脈の光が細く流れていた。志貴ひとりなら、容易く乗せられる大きさだった。


「ヨルノミコト」


名を呼ぶと、獣は静かに頭を下げた。


『お迎えに上がりました』


低く、耳へ触れる声だった。人の声ではないのに、人の声よりも近く届く。胸の底に張りついていた下街のざわめきも、希詠の問いも、その一言の内側でわずかに遠のいた。


志貴は手袋をした右手で、外套の前を押さえた。


「一心は……」


『応の間においでです』


それ以上、ヨルノミコトは言わなかった。


志貴は獣の背に手を添えた。


黒銀の毛並みは深く沈んでいる。けれど、掌を押し当てると、その奥で白銀の光がわずかに返った。見えている色と、触れた奥の色が違う。


「……色が、違う」


ヨルノミコトは橋の方を向いたまま、静かに答えた。


『上弦の時、私は白銀になります。下弦の時は、黒銀に』


「今は、下弦なん?」


『はい。私は月の神より命を賜った狼ですゆえ、月の相に従います』


「一心の気配するのに?」


『それは致し方のないこと。今は耀冥様の眷属ですゆえ』


毛の奥から、深い黒の気配が立ち上がる。ヨルノミコト自身のものではない。もっと低く、もっと慣れた、何度も眠りの際で嗅いだ香だった。


一心の気配が、香の形を得てそこに閉じ込められている。


志貴の身体は、それを拒まなかった。


ヨルノミコトの背に跨ると、獣は足音を立てずに橋へ踏み出した。


黒の本宮へと続く橋は、相変わらず底が見えない。石の欄干の向こうで霧が沈み、白いものが幾筋も流れている。以前は、一心の腕に抱かれて顔を伏せていた。今はヨルノミコトの背から、その深さがよく見えた。


見えたからこそ、志貴は初めて思った。


一心が毎回、抱き上げて渡る以外にも、方法はあったのだ。


『貴方が考えておられることは、半分だけ当たっています』


橋の中ほどで、ヨルノミコトが言った。


志貴は、頭の中を覗かれたようでわずかに身を強張らせた。


『番が定まった身は、番でないものの手を受けにくくなります。触れられることも、触れることも、身体の奥が拒むのです』


「でも、ヨルノミコトは」


『私は耀冥様に属するものです。玄綾も同じ。私どもが貴方に触れるとき、先に届くのは私どもの名ではなく、あの方の名です』


橋の下で、凍えた水が鳴った。


『妹君であれ、冬馬様であれ、明熾様であれ、それぞれの名と香を持つ方々です。貴方を大切に思っておられても、あの方を越えて、貴方に近づくことはできません』


志貴は返事をしなかった。


『あの方を越えて近づけば、貴方に障りが出ます。だから、耀冥様は必要以上に神経質におなりになる』


ヨルノミコトの毛に、志貴は額を近づけた。


『ただ、心安らかに』


その声は、胸の奥に柔らかく届いた。


橋を渡りきると、黒の宮の石壁が目前に迫った。門扉は音もなく開き、内側から冷えた水脈の匂いが流れてくる。下街の油と蜜の匂いは、手袋の指先にだけ残っていた。腹の奥では、希詠を見たときに疼いた紅の筋が、まだ完全には鎮まっていない。


黒の宮の内へ入ると、空気の重さが変わった。


廊の灯は低く、壁際の火皿は揺れなかった。濡れた石の匂いと、古い香の薄さが、胸の内まで沈んでくる。


玄綾が奥から出てきて、志貴を見るなり眉を寄せた。


「出れば、何かと厄介に巻き込まれるらしい。疲れた顔をしているねえ」


玄綾に促され、志貴は奥へ通されかけた。だが応の間の前で、足が止まった。


扉は完全には閉じていない。黒の宮で、応の間の扉が偶然そうなるとは思えなかった。けれど、誰の意図かを考える前に、声が隙間から滑り出ていた。


「兄上」


丁寧で、冷えていて、言葉の端がよく研がれている。


煌承だ。


紙の匂い。薄い香。整えられた足音。白の階の気配は、下街の湯気よりもずっと冷たい。志貴は廊の石に立ったまま、動けなくなった。


「お訊きしておかなければなりません」


一心の声はしなかった。


「希詠と宗像志貴。どちらが本物の番なのです」


足元の石が冷たい。


手袋の指先には、下街の蜜の匂いが残っていた。楼蘭の手が頬へ伸びかけたとき、身体が先に退いた感覚。一心の香を嫌いではないと言った自分の声。希詠の笑みと、あの問いかけ。それらが乱れたまま、煌承の声の内側で重なった。


火皿の芯が、小さく鳴った。


その音が消えきる前に、一心の声が返った。


「志貴や」


志貴は息を吸った。


喉の奥に、冷えた空気が入る。身体のどこかが安堵しようとして、それより早く、腹の奥の紅が鈍く疼いた。


煌承は退かなかった。


「白の階には、希詠を番とする記録が残っています」


火皿が、また小さく鳴った。


「いま兄上は、宗像志貴を番と答えた」


煌承の声は、少しも乱れなかった。


「では、どちらを消すのです」


扉の向こうで、火皿の音さえ止まった。


「記録は、情で二重にはなりません」


志貴の名が、扉の向こうで測られていた。


父の生死も、咲貴を助けた人の名も、番の理も、希詠の問いも、今日になってようやく渡された。まだ飲み込めてもいないものを抱えたまま、また別の扉の向こうで、自分のことが裁かれている。


額に嫌な汗が張りついた。


息が詰まる。志貴は踵を返した。足がほんの少し早くなり、石廊に響いた。


玄綾が何か言うより早く、背後で扉が開いた。


次の瞬間、志貴は背から抱きしめられていた。


黒の香が、下街の油と蜜の匂いを包む。


一心の腕は強かった。痛いほどではない。けれど、緩まなかった。胸の前に回された手が、志貴の手袋に触れかけて止まる。一心の指が、わずかに震えた。


その震えが、手袋越しに伝わってきた。一心が何かを堪えていることを、志貴は自分の身体の側から知った。


志貴こそが番だと答えた声は、たしかに聞いた。けれど、希詠が何だったのかという問いは、まだ背に貼りついている。一心の腕はそれを剥がせない。ただ、志貴がその場から遠ざかるのを、反射のように止めていた。


答えのない腕だった。だから余計に苦しい。


志貴はきつく目を閉じた。唇が震えて、すぐには声が出なかった。


一心の息が、志貴の髪の近くで一度乱れた。


「一心、山ほど……言いたいことあるんや」


一心は何も言わなかった。


志貴は、胸の前で止まっている一心の手を見た。触れたいのか、触れてはいけないと思っているのか、そのどちらにも見えた。


「私が希詠やったら、丸く収まったんやろな」


一心の腕が固まった。


「希詠の記憶があって、希詠の証があって……一心のこれまでを、ちゃんと知ってる人……やったら」


志貴は息を吸った。吸ったはずの空気が、胸の底で止まる。


「一心が私を守る理由も、黒の宮へ入れた理由も、番やって言う理由も、きっと、どこにも引っかからへんかった」


腹の奥の紅が、細く熱を持った。


「でも、あの人を見て、わかってしまった」


志貴は振り向かなかった。振り向けば、一心の顔を見てしまう。いま見れば、言葉の形が変わる気がした。


「私は、希詠と違う」


一心の呼吸が止まる。


「違うって、わかってしまった」


声が震えていた。それでも、志貴は続けた。


「一心が長いこと、待ってた希詠は、私やない」


廊の奥で水脈が鳴った。


「別物や」


志貴はようやく、一心の腕の中で少しだけ身じろぎした。


こらえ損ねた言葉が、声になった。


「希詠のつもりで護ってきたんやったら、もう護っていらん。私は、自分で歩ける」


言ってしまった。


志貴は、唇の内側を噛んだ。痛みが薄く走る。


長く、誰も声を出さなかった。


一心は志貴を抱きしめたままだった。けれど、力を込めれば済むものではないと気づいたように、ゆっくり腕を緩めた。完全には離さず、肩に手を残したまま、志貴を振り向かせる。


「わかった」


眼帯の影が濃い。右眼の奥にある紫が、火のない場所で沈んでいる。泣き出しそうにすら見えた。


「明熾の宮へ行け」


志貴は一心を見上げた。


「俺は、煌承と話してから行く」


それだけだった。


黒の宮の奥へ隠すのではない。自分のそばに留めるのでもない。


「お前の知りたいことのために、楼蘭を呼んだんや」


一心の手が、もう一度伸びかけた。けれど触れなかった。途中で止まり、袖の中へ落ちる。


「行って」


志貴は頷きも、返事もしなかった。けれど足は動いた。


玄綾が先に立つ。ヨルノミコトが志貴の脇へ寄る。背後で扉が閉じる音がした。黒の宮の水脈が、深い場所で長く鳴っている。


下街の蜜の匂いが、まだ手袋の指先に残っていた。一心の腕の熱も、希詠の笑みも、煌承の声も、どれも剥がれないまま胸の奥で重なっていた。


「ヨルノミコト」


『はい』


志貴は、黒銀の毛並みに指を沈めた。


「私は、希詠のふりはできへん」


『はい』


その返事は、慰めではなかった。


『希詠様は、耀冥様の大切な方でした。それは、私が否定することではありません』


「うん」


『けれど、私がその側に侍ることは、ほぼありませんでした。玄綾も同じです』


志貴は目を伏せた。


黒の宮で目覚めた朝。首筋が疼いた夜。腹の奥の紅が裂けた時。玄綾かヨルノミコトの気配は、いつも近くにあった。


それは、一心が命じたからだ。


『貴方には、初めから私どもをお付けになった。耀冥様に属するものを、惜しまれたことがありません』


志貴は、そこで足を止めた。


止めた理由は、自分でもすぐには分からなかった。


明熾の宮へ向かう廊の灯が、先で細く揺れている。あそこへ行けば、楼蘭が待っている。一心が用意した答えがある。自分のために整えられた席がある。


そのことが、急に息苦しくなった。


志貴はしゃがんだ。石の冷たさが、膝の近くから衣越しに伝わってくる。


手袋の内側で、指先がかすかに疼いた。


ヨルノミコトの背に触れた時の感触が、掌の奥に残っていた。毛並みではない。黒でもない。もっと深いところにある、名の縁だった。


このまま明熾の宮へ行けば、きっと誰かが説明してくれる。志貴のためだと、皆が言うのだろう。


志貴は息を吐いた。


それでは、また同じだった。


「ねぇ、ヨルノミコト。頼みがあるんやけど」


志貴は右の手袋を外した。ヨルノミコトの毛並みが、直接指に触れる。


『そうなさいますか。貴方をひとりで行かせるわけにも参りません』


ヨルノミコトはほんの少しだけ困ったように見上げた。


『……何なりと』


「玄綾を、撒ける?」


先を歩いていた玄綾が、弾かれたように振り返った。


その一瞬の隙に、志貴は巨大な体躯となったヨルノミコトの背へ飛び乗った。


「お嬢!」


玄綾の声が廊を裂いた。


四方に結界が走る。だが、それは志貴を縛るための檻ではなく、外からの刃を防ぐための線だった。


ヨルノミコトは体を低く沈め、張られた線のわずかな継ぎ目をすり抜けた。黒銀の毛並みが石廊の灯を裂き、次の瞬間には玄綾の手の届かない場所へ跳んでいる。


『悪戯の咎は、甘んじて受けねばなりませんよ』


志貴は小さく頷いた。


「私に聞かせるために準備された回答なんか、必要ない。……自分で見つける方がいい」


志貴は、明熾の宮には向かわなかった。


共にいるのは、ヨルノミコトだけだった。


『耀冥様が酷くお怒りになりますよ』


「私から離れた一心が悪い。……いや、違うな」


志貴は深く息を吐いた。


「希詠を引きずってるから、私を見誤るんや」


希詠なら、明熾の宮へ行ったかもしれない。用意された話を聞き、場を荒らさずに済ませたかもしれない。


けれど、自分は違う。


志貴はヨルノミコトの首に腕を回した。


「私が、名に触れられるってこと、分かってたはずや」


『わかっていて、掴ませたのかもしれませんよ。あの方は貴方の番ですから』


志貴は答えなかった。


名を考えたわけではない。探したわけでもない。


黒銀の毛並みに顔を寄せた瞬間、奥に沈んでいた白銀が、ほんの一筋だけ浮いた。橋の上で触れた、あの月の色だった。


その光に触れた途端、胸の奥にひとつの字が浮かんだ。


それ以外ではないと、先に身体が知っていた。


「新たな字は、蘇芳にする」


狼の身体が、びくりと震えた。黒銀の毛並みの奥で、白銀の光が細く揺れた。


『……再び、賜るとは』


志貴の掌が、その震えを拾った。


『その名を与えていただいたのは、二回目です』


今度は、志貴の指が震えた。


二回目という言葉の向こうに、誰かが立っている気がした。聞けば、そこへ引き戻される。知れば、また誰かの用意した答えの中へ入る。


だから、志貴は聞かなかった。


志貴は毛並みに顔を押しつけた。


「蘇芳、行こう」


蘇芳と呼んだ瞬間、指先へ熱が戻ってきた。手袋を外した右手が、遅れて震えた。


いつもなら、その震えに一心の手が重なる。首筋か、掌か、腹の奥へ、黒が静かに沈んでくる。


けれど、今は来ない。


自分で離れたのだ。


志貴は唇を噛み、狼の毛を掴み直した。


『参りましょう』


蘇芳と名を与えられた狼は、石の床を蹴った。


水脈の灯が尾を引き、黒の宮の廊が後ろへ流れていく。玄綾の声も、火皿の光も、応の間の扉も、すぐに遠ざかった。


その日、志貴は姿を消した。

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