第78話 うつし名を 白火に照らし 紅問ふ
下街の朝は、黒の宮よりも早く息づいていた。
石畳の隙間に夜の湿りがまだ残っているのに、露店の火はもう赤く、鍋の縁では湯が白く泡立っている。干した薬草の束、串に刺した肉、油で揚げた餅、蜜を塗った焼き菓子、香を染み込ませた布袋。狭い通りにはいくつもの匂いが層になって漂い、人の声はそのあいだを縫うように流れていた。
志貴は手袋をした右手で、外套の前を押さえた。
外套の内側には、黒紫の衣が重く重なっている。裾を踏まぬよう短く整えられているのに、歩くたび、布の奥で黒い光が沈む。
首元には布を高く合わせてある。けれど、動くたびに、その下にある番の痣が衣の内側で熱を持つ。自分の身体なのに、誰かの印を隠して歩いているようだった。
黒の宮を出るとき、一心は志貴を抱き上げて橋を渡った。
黒い水脈の音が足元の深いところを流れ、橋の下には底の見えない暗がりが口を開けている。一心の腕はいつもと同じように安定していた。衣越しに伝わる胸の熱も、首筋に触れる香も、昨日までと変わらない。
けれど、橋を渡りきると、一心は志貴を地へ下ろした。
下街で楼蘭と会え、とだけ告げ、冬馬と明熾をつけた。昨日までなら、志貴を誰かに託すことなどなかった。一心の手は、志貴の外套の肩口に一度だけ残り、それから静かに離れた。
そのことに、志貴はそっと唇を噛んだ。
一心の香は衣に残っている。黒の宮の石、水脈、火皿の灰に混じる冷えた沈香のような匂い。嫌ではないのに、そのことを考えると、昨日の名が耳の奥へ戻ってくる。
『先の番、希詠』
あの紙は燃やされた。玄綾が火皿に投げ込んだ。けれど、音だけは燃えなかった。
黒の宮の廊を歩くときも、橋を渡るときも、下街のざわめきの中に立った今も、その名はまだ志貴の内側にあった。
一心の気配が側にない。それだけで、足元の石畳が少し広く見えた。人の肩が近づくたび、志貴の手は外套の前を押さえる。冬馬も明熾も側にいる。守られていないわけではない。けれど、いつもの腕の中ではなかった。
志貴は視線をあげられず、足元の石畳だけを睨みつけて歩く。人の声も、鍋の音も、湯気の白さも、全部が自分を弾くように、勝手に動いているようだった。
「不機嫌の最上級か」
声は露店の布屋根の下からした。
視線を上げると、楼蘭が壁際に立っていた。
煤けた灰色の外套を羽織り、深いフードを被っている。下街の湿った影に紛れるには十分だったが、裾から覗く衣だけが不自然に上等だった。白と銀を沈めた織りが、露店の火を受けるたび、外套の内側でかすかに光を返す。
フードの奥から、楼蘭の緋色の髪がひとすじ覗いていた。目立たぬ外套を選んでいるのに、立ち方が隠れていない。壁際にいるだけで、露店の男も通りの客も、無意識にその前を避けていく。
隠すなら、もっと徹底すればいいのにと、志貴がそう思ったのを見透かしたように、楼蘭は片眉を上げた。
「何か、言いたそうだね」
「それで、隠してるつもりなん」
「隠れてるだろ」
「高そうな服の裾、しっかり見えてる」
「そこまで見るな。君も一心に感化されて、嫌な目つきになったね」
楼蘭は鼻で笑い、露店の男から紙包みを二つ受け取った。湯気の立つ揚げ餅だった。ひとつを志貴に差し出す。揚げたての熱が、紙を通して手袋の指先に伝わった。蜜と胡麻の匂いが、黒の宮の石と沈香の匂いを一瞬だけ押しのける。
「食べられる?」
「食べる」
「よろしい。冥府のお高い食事は、何を食べても宮の主人の顔色をうかがっているみたいで気が滅入るだろう。下街のものは、気楽でいい」
「一心に言うたら怒られるよ」
「全く気にならないね」
楼蘭はそう言い、露店の横の細い通りへ歩き出した。
志貴は餅に歯を立てる。外側は熱く、内側は少し固い。蜜が舌に乗ると、ようやく腹のあたりが自分のものに戻った気がした。
黒の宮で口にする膳は、どれも整っている。けれどこの餅は、油の熱も、蜜の量も、少し粗い。その加減が、今はありがたかった。
通りの端で、冬馬の気配がした。人混みの中に紛れているのに、志貴には分かった。明熾も少し離れたところにいる。二人とも姿を見せないのは、楼蘭がそうさせたのだろう。
「あの二人、弾いたの?」
「居ると気が散る。ひとりは無駄にでかいし、もうひとりは君を見る目がうるさい」
「ひどい言い方」
「僕を呼びつけたからには、僕の自由にしたって構わない」
「自己中」
「君こそ、柄にもなく大人しくしている。似合わないね」
「失礼な」
楼蘭といると、息の置き場所に困らなかった。
腫れ物のようには扱わない。かといって、踏み荒らしもしない。触れる前に刃の向きを見ているくせに、口だけは遠慮がない。その遠慮のなさのそばでは、志貴は息がしやすかった。
「君、相当いらいらしてるだろ」
志貴は噛んでいた餅を飲み込み損なって、咳き込んだ。楼蘭は志貴を見ず、前を歩いたまま続けた。
「皆、悪気はないんだよ。そこが余計に腹立たしいところだけどね」
通りの向こうで、鍋の蓋が鳴った。誰かが笑い、子どもが串を手に走っていく。
「君が眠っているあいだに、事が動きすぎた。宗像も、冥府も、泰山も、目の前の穴を塞ぐだけで手一杯だった。誰かが君のために順番を整えて、きれいに並べて差し出す余裕なんかなかった」
楼蘭はそこで初めて、志貴を見た。
「けど、置いていかれた側からすれば、たまったものじゃない。君は知りたい。知ってから怒るか、許すか、忘れるかを自分で決めたい。当然の反応だね」
志貴は紙包みを握った。蜜が少し染み出し、手袋の指先に付く。
「私、怒っていいのか……」
「怒るくらい、勝手にやればいい。許可を取ることじゃない」
楼蘭は軽く笑った。けれど、その笑いには鋭いものが混じっていた。
「それに、Veilmakerに好きにされるのは癪だしね」
その名が出た瞬間、下街の音が少し遠のいた気がした。
「世界がどうとか、他人がどうとか、僕はあまり興味がない。そもそもが、本人の問題だからね。……志貴、いま表に立っている千年王は君を含めて三人いる。けれど本来、千年王は自由だ。出自や所属を慈しみ、護る義務なんかない」
楼蘭は露店の列から外れ、水路へ下りる石段の方へ向かった。下街の火の匂いが薄くなり、湿った石と水の匂いが強くなる。
「それでも僕は、僕の周りにいる人たちへちょっかいを出されるのが嫌いだ」
志貴は楼蘭の横顔を見た。
布陰から覗く顔は、いつものように整っていて、少し退屈そうにも見える。けれど、その言葉だけは、退屈とは違う場所から出ていた。
「なにを怖がってる。宗像志貴のくせに」
志貴は思わず足を止めた。
楼蘭は振り返らなかった。けれど、その歩調は志貴が追いつくまで少しだけ緩んだ。
石段の下には、使われなくなった祠の跡があった。扉はなく、屋根の一部が欠け、古い香炉だけが苔を被って残っている。
祠の奥には神体も札もなかった。香炉の縁に古い灰だけがこびりつき、水路から上がる湿りが石の床を冷やしている。露店の火はすぐそこにあるのに、この場所だけ火の届かない底のようだった。楼蘭の外套の裾から落ちた雫が、石に小さく弾けた。
楼蘭が指を二本立てると、周囲の水音が少し変わった。音が消えたわけではない。外へ漏れなくなったのだ。
楼蘭は振り返った。
「ここからは、軽口では渡さない。聞くかい?」
志貴は紙包みを胸の前で持ったまま、頷いた。
「これは、泰山でも僕しか知らない。宗像でも、公介と一心だけだ。一心ですら、長いこと知らされていなかった」
志貴の喉が、急に狭くなった。
楼蘭はすぐに続けなかった。志貴が息を吸い直すまで、黙っていた。
「宗像泰介は死んでいない」
湯気も、油の匂いも、人の声も、その瞬間だけ志貴の外側へ退いた。
父は死んだはずだった。志貴が七つの時から、それは変わらないものとして心の底に沈んでいた。
白い布の端。焼けた香の匂い。誰かの袖を握っていた自分の指。庭の砂利が、膝の下で冷たかったこと。大人たちの声は低く、志貴の頭の上を通り過ぎていった。もう会えない、と誰が言ったのかは覚えていない。ただ、その言葉だけが、十年のあいだ形を変えずに残っていた。
幼い手で掴めないまま落としたもの。何度呼んでも戻らなかった名。十年のあいだ、死んだ人としてしか置けなかった父。
その名が、いま、水路の冷えた空気の中で息をした。
「……泰介さんが?」
声は、喉の奥からやっと出た。
楼蘭は目を逸らさなかった。
「生きている。ただ、万全ではない」
志貴は紙包みを握った。熱はまだ残っているはずなのに、指に伝わらない。
「熊野で咲貴を助けたのは、君の父だ」
今度は、胸ではなく腹の奥が反応した。
「咲貴を、助けた」
そこで言葉が切れた。父の名をもう一度言おうとして、声が引っかかる。
「不完全な状態で出て、無理をした。だから、しばらくはまた動けない」
楼蘭の声は低かった。
「事情が絡みすぎている。すぐに会える、と簡単には言えない。ただ、熊野へ出したことを含めて、もう黙っておく必要がなくなった」
志貴は石段の側面に手をついた。苔の湿りが手袋越しに分かる。握っていた紙包みが潰れ、冷めかけた蜜が指先へ滲んだ。目の前の古い香炉がぼやけた。涙が出たのかと思ったが、すぐには落ちなかった。水路の光だけが、視界の端で細く揺れている。
父は生きていた。
この十年、知らなかった。
その父が、咲貴を助けていた。
死んだと思っていた名が、自分の知らない場所で動いていた。志貴が手を伸ばすことも、呼ぶこともできない場所で、咲貴へ手を伸ばしていた。
「……なんで」
声は喉の奥で一度引っかかった。志貴は息を吸い直した。胸の奥に、冷たいものが詰まっていく。
「なんで、黙ってたん」
楼蘭はすぐには答えなかった。
水路の音だけが、祠の外で低く続いている。露店の火はすぐ近くにあるのに、ここだけが遠かった。握り潰した紙包みの中で、揚げ餅の形が崩れている。蜜が手袋の指先へ染み、甘い匂いだけが場違いに残った。
「大切なことやろ。泰介さんが生きてることも、咲貴を助けたことも。私、十年……死んだと思ってたんやで」
言い終えてから、手袋の中で指が震えていることに気づいた。
怒りなのか、喜びなのか、分からなかった。どちらにも形を取れないものが、胸の中でぶつかって、どこにも入れずにいた。
怒れたら、まだ楽だった。
けれど、怒りはどこへ向ければいいのか分からなかった。泰介が生きていたことを喜ぶには、十年が長すぎた。黙っていた者を責めるには、そのあいだに何が起きたのかを志貴は知らなすぎた。
知らないことばかりだった。
知らないまま泣くことも、怒ることも、志貴にはうまくできなかった。
「僕も黙っていた側だ」
楼蘭が言った。
声は低かった。慰める調子ではなかった。
「だから、怒ってくれて構わない」
志貴は首を振った。許すためではない。責める言葉が、まだ形になっていなかった。
「怒りたいのに、何に怒ったらいいか分からへん」
楼蘭の目が、わずかに細くなった。
「無理もない」
志貴は顔を上げられなかった。
「全部、いっぺんに言われても……私の中に、置く場所がない」
楼蘭は黙っていた。
志貴は石段に置いた手に力を込めた。苔が潰れ、指の腹に湿りが広がる。手袋はよく馴染んでいるはずなのに、今だけは、自分の手ではないもののようだった。
「なんで、今」
ようやくそれだけを言った。
楼蘭はすぐに答えなかった。少しのあいだ、祠の外を流れる水を見ていた。
「君に返すものが多すぎるからだ。順番を選ばないと、君はまた誰かの説明の中に閉じ込められる」
楼蘭は手を下ろし、祠の柱にもたれた。
「今日、最初に宗像泰介のことを話すと決めてきた。君が怒るなら、まずそこから怒ればいい。泣くなら、そこから泣けばいい。何もできないなら、それでもいい」
志貴は楼蘭を見た。
「急がせる気はないよ。ただ、次に話すことも、君を置いて進めていいものじゃない」
楼蘭の声が、少しだけ硬くなった。
「希詠の名を聞いたなら、避けて通れない。番のことだ」
楼蘭は祠の影から一歩出た。志貴との距離は近くない。
「少し試す」
次の瞬間、楼蘭の手がこちらへ伸びた。
頬へ届く前に、志貴の身体が退いた。
思考より早かった。石段に踵が触れ、肩が祠の柱へ近づく。
楼蘭の手は空中で止まっていた。触れてはいない。指先は、志貴の手前で、最初からそこを越えないと決めていたように静止している。
「ほら」
楼蘭は手を下ろした。
「嫌だと思っただろ」
志貴は答えられなかった。
楼蘭を嫌だと思ったわけではない。汚いとも、怖いとも思っていない。けれど身体は拒んだ。その動きがあまりに速くて、自分の身体ではないものを見た気がした。楼蘭の指が近づいた場所だけ、空気が冷たく残っている。
「僕にはまだ番がいない。だから、誰かに手を伸ばせる。触れることも、触れられることも、ただの接触で済む」
水路の音が、低く続いている。
「番が成立した者は違う。ただ触れるだけなら、誰にでもできる。だが、本物なら、触れたい相手も、触れられていい相手も、ひとりだけだ。本人が気づく前に、身体がそれ以外を退ける」
志貴は何も言えなかった。
楼蘭は淡々と訊いた。
「一心の手は、嫌か」
志貴の右手が、紙包みの上で少し動いた。
「彼の匂いは、嫌いか」
一心の指は冷たく見えるのに、触れられるといつも内側から温度が戻る。手袋を外された掌。薬湯の椀を受け取るときに触れた爪の先。首筋に痣を確かめるように置かれた指。
逃げたいと思うより早く、身体はその重さを知っていた。腹が立つこととは別に、そこだけは嘘をつかない。
いつも何かしら隠されていることに苛立つ。それでも、一心が近いと、身体のどこかが眠れる場所を見つける。
怒りたいのに、近づかれると息がほどける。問い詰めたいのに、あの香が近いと身体の奥が先に静かになる。それが自分の意思なのか、もっと古いものなのか、志貴には分からなかった。
「嫌いなわけがない」
「なら、好きか」
志貴はまともに答えられなかった。
好き、という言葉は軽い。愛や恋という言葉は、もっと外側にある。自分のものなのに、自分の手で測れない場所があった。
「それでいい。恋や愛で説明するには足りない。もっと前に結ばれている。生まれてくる前の約束に近い」
楼蘭はフードの影から志貴を見た。
「だから、一心に前の番がいることの方がおかしい」
志貴の胸の奥で、昨日の名がまた動いた。
「番は席じゃない。空いたら次が座るものではない。回帰だろうが何だろうが、成立した番があるなら、そこに二つ目は並ばない」
楼蘭は懐から細長い布包みを取り出した。古い留め具に指をかけると、乾いた紙と血に似た匂いがふっと立った。
「だから、これを見せる。泰山の禁書だ。正しくは、宗像の禁書の外殻に残った写し」
布が開かれる。
「十年前、君の父が持って来た。始祖からの口伝を元に、白の千年王へ預けるためにね」
紙の端はところどころ黒く縮れ、綴じ目には細い赤褐色の糸が残っていた。文字は墨ではない。乾いた血にも、焼け残った香にも似た色で、紙の表ではなく内側に沈んでいる。
畳まれていた内側からは、古い血と灰の匂いがした。触れていないのに、志貴の手袋の下で右手が強張る。
楼蘭の指先に、小さな白火が灯った。熱はなく、紙の内に沈んだ言葉を底から照らす火だった。
「千年王と番には因果がある」
志貴が目を落とすと、文字は古く、読めないはずなのに、いくつかの形だけが胸の奥へ届いた。
紅、黒、白、蒼。
並びのはじめに、紅がある。
楼蘭が横から低く読んだ。
「千年王の始まりは紅。始祖が、己の番を二人目の千年王とした。そこから黒が現れ、白が現れ、蒼が現れた。Veilmakerの敵として初めて立ったのも、始祖だ、とある」
志貴は紙から目を離せなかった。
紅の始祖。
言葉にしたわけではないのに、その名もない輪郭が腹の奥へ沈んでいく。文字を読んでいるのではない。焦げた紙背の奥から、何かがこちらを読み返しているようだった。咲貴へ繋がっていた暗い紅の筋が、遠くでかすかに熱を帯びた。
その時、水路の音が一つずれた。
水が流れを変えたのではない。音だけが、薄く裂けた。祠の外に残っていた下街のざわめきが、布で覆われたように鈍くなる。
鍋の前で銭を数えていた男の指が途中で止まった。それに誰も気づかない。湯気はほどけず、薄い布のように横へ流れている。鍋の泡だけが、変わらず白く弾けていた。
通りの端を走っていた子どもが、誰もいないはずの一点だけを避けて曲がった。避けたことに、本人は気づいていない。
楼蘭の目が、祠の外へ動く。
「場所を選ばないのか」
苦笑いの形をした声だった。けれど、顔は笑っていない。
志貴は振り向いた。
下街の通りの向こう、露店の湯気の中に、人影が立っていた。
最初に思ったのは、似ている、だった。次に思ったのは、違う、だった。
黒い髪。白い肌。整いすぎた輪郭。志貴に近い部分があるのに、生きた人なら必ず持つはずの揺れがない。布屋根の影がその顔へ落ちても、目元の線は崩れない。
希詠の衣は白かった。冥府の白でも、泰山の白でもない。何度も洗われた布の白ではなく、最初から汚れを知らないものの白だった。襟元は正しく、袖の落ち方も乱れない。風はあるのに、裾だけが遅れて揺れる。
そこに人が立っているのに、人の重みが足りなかった。
「なるほど、あれが希詠とやらか。すぐにわかるのが腹立たしいね」
昨日、火皿の中から落ちた名が、その姿に重なった。
楼蘭が一歩前へ出る。フードの下で、白の気配が薄く立ち上がった。攻撃が来れば焼く。そういう身構えだった。
けれど希詠は何もしなかった。
志貴だけをじっと見ていた。
その目は、懐かしむには冷たかった。憎むには静かだった。何かを測っているようで、すでに測り終えているようでもあった。
希詠は志貴を見て、微かに笑んだ。
「あなたは、本物ですか?」
問われたのは、それだけだった。
志貴は小さく息を呑む。喉はうまく動かなかった。けれど、問いだけが胸の底で引っかかった。
「……どういう、意味や」
声はかすれていた。
希詠の笑みは変わらない。
首筋の番の痣は、一心に触れられたときのようには動かなかった。
かわりに、腹の奥が熱を持った。さっき禁書の文字を見たときと同じ場所。咲貴へ続いていた暗い紅の筋が、灰の底で炭を掻かれたように、じくりと疼く。
志貴の背中に、冷たい汗が流れた。
「志貴」
冬馬の声が割って入った。
人混みから冬馬が現れ、志貴の前に立つ。夏の気配が薄く広がり、露店の火がわずかに揺れた。明熾はその横にいた。黒刃は抜いていない。けれど、柄に置かれた指はすでに刃の一部のようだった。
「志貴、下がれ」
明熾の声は低い。
希詠は動かなかった。楼蘭を見て、冬馬を見て、最後にもう一度志貴を見る。何か言うかと思った。けれど次の声はなかった。
湯気が通りの風に裂ける。
次の瞬間、希詠の輪郭が薄くなった。楼蘭の白が伸びかかる。けれど、焼くべき攻撃がない。明熾の黒刃も冬馬の夏も、触れる対象を持てない。
希詠は、笑みだけを残して消えた。
下街の音が戻る。
鍋の蓋が鳴り、客が銭を置き、子どもが露店の隙間を駆け抜ける。誰も悲鳴を上げない。誰も、いまそこにいたものを口にしない。
志貴は立っていた。
揚げ餅は、もう冷めていた。蜜が紙に染み、手袋の指先だけがべたついている。背中の汗は衣に貼りつき、腹の奥の紅はまだ熱を持っていた。希詠の声が、湯気の向こうに残っている。
『あなたは、本物ですか』
誰に向けられた問いだったのか。志貴へか、希詠自身へか。あるいは、もっと古い何かへか。
答えようとする前に、腹の奥の紅がじくりと疼いた。
「楼蘭」
明熾が言った。
「分かってる。どこへ行けばいい?」
楼蘭は禁書の写しを布に戻した。フードを深く被り直す。その仕草に、いつもの軽さはなかった。露店の湯気を一度だけ振り返り、舌打ちに近い息を吐く。
「この分では、場所を変えても大差ないと思うが、従ってやるよ」
明熾は返事をしなかった。柄から手を離さないまま、周囲を見ている。
冬馬は志貴の前に立ったまま、希詠が消えた場所を睨んでいた。
「お前は、黒の宮に戻るで」
冬馬が言った。
志貴は頷こうとして、うまく動けなかった。
冬馬の顔が歪んだ。志貴の手元から冷えた揚げ餅をそっと取りあげ、紙包みごと自分の手に持った。
「あとで食えるなら置いとくから」
そんなことを言うから、志貴は少しだけ息を吸えた。冬馬の言葉は、いつも肝心なところで雑だった。その雑さに救われることが、今もまだある。
「二手目が来る前に離れる」
明熾の声で、冬馬が半歩前に出た。志貴はすぐには動けなかった。足元の石畳は見えているのに、そこへ重心を移すだけのことがひどく遠い。
「志貴」
冬馬が名だけを呼んだ。急かす声ではなかった。
志貴は頷いたつもりで、ようやく一歩を踏み出した。手袋の指先には、冷えた蜜がまだ残っている。腹の奥の紅は、希詠が消えた場所へ置き去りにされたように、じくりと熱を持ち続けていた。
「楼蘭」
明熾が低く言って、外套の裾へ目を落とした。
「その身なりでは、隠れたことにならない」
楼蘭は口をへの字に結び、外套の前を引き寄せた。
「余計なお世話だ」
人波の端がわずかに動いた。下街の者たちは、こちらを見ないようにしている。見ないよう勤めて、少しずつ道を空けていた。誰も騒がない。
黒の宮へ戻る道は、来たときよりも静かだった。
歩くたび、手袋の指先で蜜が冷えていく。甘い匂いはまだ残っているのに、舌にはもう何の味もなかった。外套の内側で、番の痣は静かなままだった。だからこそ、腹の奥の熱だけが際立っていた。
下街の火と油の匂いが背中から遠のき、石橋の冷えが足元へ戻ってくる。腹の奥では、暗い紅の筋がまだ熱を持っている。
渡されたものも、目の前に現れたものも、ひとつずつ受け取れる重さではなかった。胸の内で重なり、押し合い、まだ名のない塊になる。
志貴は手袋の指を握った。
希詠の問いは、まだ下街の湯気の中に残っていた。
『あなたは、本物ですか』
問いは、もう希詠の声だけではなかった。
腹の奥で、まだ名を持たない古い紅が、その音を聞いていた。




