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第77話 かりそめの 紅に触れて 帷鳴る

帷の内側に、夜はなかった。


灯は低く、けれど尽きることなく白く燃えている。


天井の高い廊には窓がなく、壁には細い札が層をなして貼り込まれていた。札の表には時刻、場所、続柄、職分、最後に呼ばれた番号が記されている。名の欄だけが白く、紙の繊維そのものから、その部分が抜き取られていた。


白の階の官吏の衣を着た者が、廊の椅子に腰を下ろし、膝に帳簿と印章を載せている。下街の納入人の半纏を掛けた者の足元には、蓋の開いた木箱があり、薬湯の瓶が一本だけ横倒しになっていた。病院職員らしい白い上着の女は、鍵束を指に絡めたまま目を閉じている。


葬儀場の受付係は、灰の匂いを吸った封筒を両手で抱えていた。火皿の札を仕分ける老婆の爪の際には、乾いた朱墨が入り込んでいる。仕立て屋の見習いだけが、薄い革の切れ端を握ったまま、壁の札を見ていた。


誰も背筋を伸ばして命令を待ってはいない。眠っている者もあれば、目を開けたまま動かない者もある。ただ、誰の膝からも道具は落ちていなかった。名をなくしても、指だけが仕事の形を覚えている。


その廊を、春の四天王が歩いてきた。迦謡の靴音は軽い。右手には、黒い布に包まれた古文書があった。布は宗像の奥殿に使われるものではなく、運ぶ途中で何度も包み替えられていた。それでも、布の隙間から紙の古い湿りと、乾いた血に似た匂いが漏れていた。


記録室の扉に取っ手も蝶番もない。紙を厚く重ねたように薄く見えるのに、廊の壁よりも重い。


迦謡が足を止めるより早く、扉の前に立っていた者が顔を上げた。


門番は、扉の影に紛れるように立っていた。


女の顔にも少年のようにも見えた。フードからこぼれる髪は白い灯を受けても色を定めず、まぶたの線だけが柔らかい。唇には笑みの名残があるが、その笑みは誰にも向いていない。


「戻りましたか」


門番の声に、廊の椅子にいた者たちの視線が一斉に伏せられた。


迦謡は布包みを掲げる。


「宗像奥殿の地下にあったものだ。要は抜かれているようだけれど、外殻だけでも十分読める」


「読める、ものならですが」


門番はそう言って、扉に触れた。扉は音を立てずに開いた。


記録室の内側は、廊よりも冷えていた。


壁面の棚には白い背表紙の帳面が隙間なく並び、天井から吊るされた薄い札が微かな気流で揺れていた。札には人の記憶の断片が縫いつけられている。


奥の机では、織師が紙の層を剥いでいた。指先は長く、爪は墨で黒い。札に書かれた文字を細い銀の針で持ち上げ、隣の札へ移す。その瞬間、元の札から意味が消えた。紙は白くなり、残された項目だけが事務的に並んだ。


典録師は帳簿を広げている。筆は休まず動き、消えた札の番号と、隣へ移された記録の端だけを拾っていく。


迦謡は机の中央へ布包みを運んだ。


宗像の古文書が露わになると、室内の灯が細くなった。


黒ずんだ表紙は、乾ききった獣皮のように硬い。綴じ紐は古いが、紐の奥だけが新しい湿りを帯びていた。表紙の右下には、焦げがある。焼けた紙なら灰の匂いが残るはずだった。だが、そこからは火の匂いがしない。むしろ水に浸された古井戸のような冷えが、机の上へ広がっていた。


織師が顔を寄せた。


「欠落がある。中心を抜かれている」


「知っているわ、見ればわかる」


迦謡は退屈そうに言った。


「だから開くんだろう。裂け目から要の場所を読むんじゃないの」


織師の指が表紙へ伸びる。典録師が記録欄を用意した。


その時、門番が言った。


「開くな」


織師の指が止まった。


声は低くも高くもない。ただ、その言葉が落ちたところから、机の冷えが床へ流れた。


織師は唇を噛み、手を引いた。


迦謡は肩越しに門番を見る。


「ここまで運ばせて、眺めるのか」


門番は答えず、古文書へ近づいた。


焦げから指一本分ほど離したところで手を止め、表紙の端、紙背の沈み、綴じ紐の撚れを見た。


「慎重なことで」


典録師の帳簿が、ぱらりと鳴った。


誰も触れていないのに、前日の記録の一行が滲んだ。そこには、宗像奥殿より回収、表紙破損なし、と記されていた。その『破損なし』の字が黒く潰れ、ゆっくりと別の文字へ変わっていく。


『表紙右下、焦げあり』


典録師の筆が止まった。


「昨日の記録が、変わりました」


門番は、そこで薄く目を細めた。


「たった一夜で、古文書の様相が変わりましたか」


迦謡の顔から軽さが消えた。

織師は、伸ばしかけた指を握り込んだ。


門番の唇が、名を作った。


「斎貴」


その名が室内に沈んだ時、壁の札が一斉に揺れた。紙の乾いた音が重なり、すぐに静まる。


迦謡が舌打ちした。


「始祖の紅に何ができる。死んだ後のことじゃないか」


「通常であれば、できるわけがない。ですが、斎貴が相手だから面倒なのです」


門番は古文書から視線を離さない。


「斎貴は、私と相打ちにすら届かなかった」


織師が低く笑った。


「であるならば、何を警戒しているのか」


「負けた後の処理だけは見事でしたから」


門番の声には感傷がなかった。記録上の不一致を訂正する時のような平坦さだった。


「名をほどく才、未来を覗く眼、他にもいくつも、あれは抱えすぎていた。肉が理に追いつかなかったのでしょう。けれど、死の直前には、その多くが消えていた」


迦謡は目を細める。


「異能を分けたというのか」


「この私に微塵も悟らせず、後の盤面へ散らした」


門番はわずかに首を傾けた。


「こちらの完敗だったのです」


記録室の奥で、影が動いた。


壮馬が、壁際から半歩進んだ。顔は穂積壮馬のものに似ていたが、肉の輪郭の中に別の薄い線が重なっている。目の奥には、執着だけが腐らず残っていた。


「斎貴の仕業と決めつけるのか」


「斎貴だけではありません。誰かが触れ、斎貴が水面下で動きを変えたのでしょう」


門番は候補を並べるように言った。


「紅の姉か。紅の妹か。黒か。あるいは、白。まだ顔を見せない蒼か」


「これを開けば、狙いが分かるのでは?」


迦謡が言う。


「分かるでしょうね。こちらが読むものも、こちらを読むものも」


門番は、織師が引いた手を見た。


「そのまま読んではいけない」


「なら、どうするの」


迦謡の声に苛立ちが混じった。


門番は、しばらく古文書を見ていた。やがて、焦げから目を離さずに言った。


「斎貴は、希詠を知らない、か」


室内の温度が、また変わった。


織師が目を上げた。迦謡が笑いかけて、途中でやめた。壮馬の目だけが細くなる。


「希詠を連れて来なさい」


門番が命じた。


記録室の奥、未完成の棚が開いた。


そこには棺はなかった。棚の一段には髪の記録が封じられている。別の段には声の記録。さらに下には、耀冥の周囲に残った記憶から剥がした表情の断片が、薄い膜のように吊られていた。それらの前に、一人の女の形が立っていた。


棚の奥で、薄い膜が一枚ずつ外れた。


最初に落ちたのは、声の記録だった。誰かが遠い昔に呼んだ名の響きだけが、乾いた硝子のように棚の中で震え、すぐに女の喉へ沈んだ。次に髪の記録がほどけた。暗い色が肩へ流れ、最後に、その表情の断片が、閉じた瞼の奥へ貼りついていく。


その作業は、衣を着せるよりも静かだった。


誰も櫛を入れない。誰も肌に触れない。けれど、女の輪郭は少しずつ希詠に近づいていく。頬の傾き、唇の閉じ方、視線を上げる直前のまぶたの重さ。人が人を覚えている時に残る、些細で、捨てにくいものばかりが選ばれていた。


そのせいで、余計に生者から遠かった。


髪は暗く、肌は淡い。瞳は開いている。息をしているように見えるのに、空気が胸へ入っていく気配はない。歩いてくるたび、床がそれを受け止め損なう。人の形でありながら、人が生きる時に発する小さな乱れがなかった。


迦謡が顔を背けた。


「悪趣味にもほどがある。そこまでして使うものか」


「有用です」


門番は短く返す。


希詠が机の前へ来ると、古文書の焦げが鈍く光った。古い鍵穴が、合わない鍵の形を一度だけ確かめたような反応だった。


「触れなさい」


希詠の白い指が、焦げへ伸びる。


触れた瞬間、表紙の黒が指先へ移った。希詠の肌に焦げが染み込み、爪の下まで紅黒く沈む。けれど、その色は手首へ進まなかった。焦げは指先で止まり、古文書の奥へも戻らない。


綴じられた頁の内側から、乾いた音がした。紙背に、文字が浅く滲む。


『千年王』


三文字の縁に、墨の滲みも煤の粉もなかった。紙の繊維だけが、内側から押されたように浅く沈んでいる。


それ以上は出てこない。続くはずの行も、名も、封も、何も現れなかった。


同時に、遠い場所で何かが軋んだ。紅の経路のどこかで、眠っていた線が爪を立てた。希詠の瞳に一瞬だけ、小さな光が入る。それは彼女のものではなく、もっと古く、もっと生々しい紅の名残だった。


門番は息を吐いた。


「やはり、嫌がらせですね」


壮馬が笑う。底の腐った沼が息を吐くような笑みだった。


「結局、使えないのか」


「使える以前の問題です。これは挑発です」


門番は、希詠の指先に沈んだ焦げを見た。


「斎貴の時代に、千年王という号はありません。知っているぞ、と言われたようなものです。これが、かつて獲り損ねた斎貴のやり口です」


門番は、古文書を見下ろした。


「つまらないと言わずに済みそうですがね」


どこを口火に踏み込み、何を搦手とするか。門番は、焦げの端から目を離さずに呟いた。


「宗像志貴」


迦謡が名を出した。


古文書に反応はなかった。だが、記録室の壁に吊られた一枚の札が紅に震えた。紙の端だけが内側から押されたように膨らむ。


門番はそれを見た。


「志貴の内に戻りすぎている」


織師が、針を指の間で回した。


「斎貴と同じものとして扱うべきか」


「いいえ。同じものとして扱うには、まだ足りません。志貴は斎貴ほど擦れていない。黒が庇いすぎてくれたおかげで、傷の使い方も、読まれる前に噛む方法も、まだ知らない」


門番の声は低くなかった。だが、部屋の隅にいた傀儡たちまで、その言葉を聞いていた。


「それでも、いずれ、あの紅を外に置けば、帷がほどける」


「殺す方が早いのでは?」


迦謡が言った。


「紅は死んだ後が面倒です」


門番は、机の上の古文書と希詠を交互に見た。


「必ず収めるのです」


壮馬が、ここで口を開いた。


「志貴と咲貴は別にしてもらう。咲貴を壊してもらっては困る」


その声には、咲貴の名を呼ぶ温度がなかった。咲貴が持つ血の濃さ、双子として志貴に近い肉の形、宗像の王紋を受けた器としての条件。そのひとつひとつを、湿った指で確かめるような響きがあった。


壮馬の視線は古文書にも希詠にも向いていなかった。


織師の針が、指の間で止まった。


迦謡は笑わなかった。春の四天王である彼女の目からも、軽口の色が消えていた。


門番は振り向いた。


「登貴のためですか」


壮馬は否定しなかった。彼の影が床の上で濃くなり、薄い黒が足元から染み出す。名が壊れても、登貴という一点だけは彼の内側で崩れなかった。執着は、記録より強く残ることがある。


門番はそれを見て、静かに頷いた。


「耀冥には希詠。志貴はこちらへ。咲貴は壮馬へ。宗像も冥府も、表向きは安泰です」


迦謡が声を立てて笑った。


「本気で言ってるの。ありえないでしょう」


「まさか」


門番は即答した。


「この程度で片づくなら、斎貴にこれほど煩わされていません」


笑いが止まった。


門番は机の焦げから目を離さなかった。


「安い配置は役に立ちます。誰がどの名に噛みつくか、よく見える。耀冥は希詠で揺れる。志貴は希詠で傷つく。咲貴は壮馬で動く。宗像は双子で乱れ、冥府は黒の逆鱗を制度の名で隠しきれない」


壮馬の目が険しくなる。


「咲貴を餌にするつもりか」


「あなたが咲貴を欲しがるなら、あれは必ずこちらを見る。あれがこちらを見れば、志貴の経路も揺れる」


「志貴を引くために、咲貴を使うだけだろう」


「利害は、しばらく重なります」


しばらく、という言葉が、室内に冷たく残った。


壮馬は何も言わなかった。門番はその沈黙も記録したように、典録師へ目を向けた。


「白の階の照会文書を使いなさい」


典録師の筆が走る。


「黒の宮へ直接入れるのですか」


門番の視線は、廊の向こうで待つ傀儡たちへ向いた。


「耳へ届けばいい」


傀儡たちが立ち上がった。


「人は、単純な手ほど避け損なう」


白の階の官吏が封緘を手にし、下街の納入人は薬湯の瓶を木箱へ戻した。仕立て屋の見習いは黒い布を畳み、葬儀場の受付係は白い封筒を抱える。


彼らは一様に無表情ではない。むしろ、職務へ戻る者の自然な顔をしている。


「ただ、届けなさい。それで、十分です」


門番はそれだけを命じた。




***



白の階には、いつもの薄明が満ちていた。


官吏は文書束を運んでいる。封緘は正しく、印の朱も白の階のものだった。帳簿の順に文書を重ね、黒の宮外縁で検分される分だけを別にする。手つきに迷いはない。ただ、一枚の紙を挟む時、その指だけが、本人の動作よりわずかに遅れてついてきた。


紙は薄い。正面から見れば、名抜け現象に関する追加照会でしかない。


官吏はただ正規の手順で封をし、黒の宮へ向かう文書として差し出した。


黒の宮の外縁で、文書は止められた。


黒の血を持たぬ者は、許しなく宮の最奥へ入れない。封緘は検められ、紙は透かされ、墨の匂いも確かめられる。


黒の宮にいる数少ない人員の手に届くまでは必ずその手順を踏む。だからこそ、内側にいる人間にわずかな隙を生みやすい。


志貴は、その時、黒の宮の執務室の隅に置かれた長椅子で横になっていた。


薬湯の苦い匂いが水脈の冷えに混ざっている。手袋をした右手の内側に、白の階で拾ったざらつきが薄く残っていた。石壁の奥を流れる水の音が、いつもより近く聞こえる。


玄綾が文書を受け取った。


「白の階からかい。嫌な紙ばかり寄こす」


赫夜が封を切る。いつもの手順だった。紙の表を検め、裏を透かし、最初の一枚をめくる。


一心は机の前にいた。黒の衣は火皿の灯を吸い込み、襟元の影を深くしている。志貴はその横顔を見た。宗像にいた一心ではない。黒の宮の主として、耀冥の名を持つ者の顔だった。


赫夜が二枚目をめくる。


玄綾の小さな手が、三枚目に触れる前に動いた。


「待ちな」


だが、言葉より紙の方が早かった。


紙の繊維が、赫夜の指の間で細く鳴った。声ではない。けれど、読み上げられるはずのない記録が、紙そのものを震わせて音になった。


『先の番、希詠』


その名だけが、部屋へ落ちた。


志貴の指先が冷えた。手袋の内側で、爪が掌に当たる。右手の奥のざらつきが、急に近くなる。水脈の音が大きくなり、火皿の匂いが遠のいた。


一心が立ち上がる。


「赫夜」


怒鳴ってはいないが、黒の宮の石がその声に応え、部屋の温度が一段下がった。


赫夜は紙を握りつぶした。玄綾がそれを奪い、火皿へ投げる。黒い火が紙を舐め、墨の匂いを立てずに崩した。


それでも、遅かった。


志貴の耳には、もう残っていた。


『希詠』


続きがあったのか、どんな字が紙の上を走ったのか、長椅子の位置からは見えなかった。見えなかったものほど、胸の奥へ沈んでいく。


喉が狭くなる。志貴は一心を見ようとして、目が途中で止まった。一心の首元にある紅の痣が見えた。自分と分け合った色のはずなのに、その向こうに、志貴の知らない千年がある。


希詠という名が、自分より先にそこへ沈んでいるような感覚がした。


黒の宮へ入る橋の手前で、一心が志貴を抱き上げた時の腕の強さが、ふいに蘇った。


番として晒された日、周囲の視線を一瞥した横顔。白の階へ渡す気はないと告げた声。宗像へ帰ると口にした自分を、低く止めた夜。咲貴へ続く経路を強制的に封じることもできたくせに、志貴の想いを遮らず、寸前で手を引いた指。どれも、一心が志貴を守るためにしたことだった。


希詠について、志貴が問えば、一心はありのまま、隠すことなく答えてくれた。


けれど、どうしても、聞けない問いがある。


希詠が戻ったものだと思ったから、自分は護られてきたのか。


志貴は、その問いが胸の内に形を取る前に、目を伏せた。


一心が一歩、動きかける。


志貴はただ、顔を上げられなかった。そのことが、一心の足を止めた。


数歩の距離だった。いつもなら一心は迷わず寄り、髪に触れ、肩を抱く。志貴も拒まない。そういう距離だった。


今日は、違った。志貴は一心を見られず、一心はその沈黙へ踏み込めなかった。


玄綾が燃え残りの灰を見て、顔を歪めた。


「傀儡だね。いやらしいことをする」


赫夜の目が冷える。


「もう手段選ばずだな。どこからでも来る」


「柔らかいところを狙ってくる」


玄綾は志貴を見て、力を抜け、というように小さく頷いた。


志貴は、袖の端を力いっぱい握りしめていることに気づき、そっと指をほどいた。


「……部屋に戻ってもいい?」


自分でも驚くほどに声色が揺れた。今にも泣き出しそうになる。


返事を待つ余裕がなかった。執務室にいれば守られていると分かっている。それでも、空気が喉に詰まった。


志貴は答えを聞く前に廊へ出た。玄綾がすぐ後ろにつき、足元にはヨルノミコトの小さな影が寄り添う。


一心の声はなかった。


その沈黙を許しと受け取り、志貴は振り返らなかった。


廊へ出ると、水脈の音が壁の奥で細く続いていた。


玄綾は志貴の半歩後ろを歩いた。倒れれば受け止め、振り返ればそこにいると分かる距離だった。ヨルノミコトは足元で音もなく進み、時折、志貴の足首へ小さな体温を寄せた。


追ってくる足音はなかった。


それが分かるたび、志貴の胸の奥が少しずつ沈んだ。来てほしくないわけではない。けれど、いま来られても、何を言えばいいのか分からない。


黒の宮の廊は長く、灯は低い。壁の奥で水の音だけが続き、自分の影は一心のものと重ならなかった。


部屋の前で、志貴は一度だけ足を止めた。


手袋の中の指が冷えている。希詠という名は、紙と一緒に燃えたはずなのに、まだ耳の奥に残っていた。先の番という言葉と、その名だけが、志貴の中で細い棘になっている。


黒の宮に迎えられなかった者。耀冥が死の介添えをした者。自分と似ていると言われた女。聞いたはずの断片が、遅れてその名の周りに集まってくる。


玄綾が何か言いかけ、やめた。


ヨルノミコトが、扉の前で志貴を見上げた。やはり、何も言わなかった。


志貴は扉に手をかけた。


部屋の中には、火皿の細い灯と、薬湯の冷めかけた匂いが残っている。一心の香も、まだわずかにあった。けれど、その香の奥に、志貴の知らない千年が混じっているように思えて、胸の奥がまた狭くなった。


扉は静かに閉じた。


黒の宮の廊には、誰の声も残らなかった。




***



夜が明けきらぬうち、明熾と冬馬は泰山にいた。


泰山の石段には霧が薄く降り、松葉から水が落ちていた。白い火皿の芯は、炎を高く立てない。奥で静かに燃えるだけだった。冥府の黒とも、宗像の紅とも違う。余分なものを焼き、必要なものだけを残す場所の匂いがした。


泰介は寝台の上にいたが、死の縁にいた頃の薄さは抜けていた。槍は枕元に立てかけられ、穂先の影も以前より澄んでいる。冬馬はその様子を見て、短く息を吐いた。


「無茶しかしてないらしい」


泰介は薄く笑う。


「おまえに言われるとは思わなかったよ」


「俺はもう、人間の範囲から外れたんで無茶したって壊れない」


「便利な言い訳を覚えたな」


冬馬は返せず、視線を逸らした。


その傍らで、明熾は泰介の霊脈の流れを確認し、必要なことだけを楼蘭へ告げた。


楼蘭は窓際に座っていた。白の衣が霧の光を含み、指先は火皿の縁に触れている。泰介の状態を聞き終えると、彼は冬馬へ目を向けた。


「志貴はどう?」


冬馬は、すぐには答えなかった。


「なるほど、それでだいたいわかったよ」


楼蘭の目が細くなる。


「あの過保護、志貴にはとことん弱いからなあ」


わざとらしく肩をすくめて、楼蘭は泰介の方に目をやる。


「泰介さん。数時間なら、何とかできそうですが、どうしますか?」


泰介はむうっと唇を歪めてから、腕を組んで目を伏せた。


楼蘭は小さく笑うと窓際からゆるゆると歩いてくる。


「この調子じゃ、あなたが生きていることすら、志貴はまだ知らないでしょうしね」


楼蘭は冬馬の鼻先に指を突きつけた。冬馬は小さく声を上げ、苦い表情を隠しきれなかった。


「こんな風に、志貴は常に置いてけぼりだ」


楼蘭が、長椅子に座り直した。


明熾はようやく口を挟む隙を得て、息を吐いた。


「兄上の先の番の名を使われた。志貴の耳へ届いている」


楼蘭は顎を撫でて、黙った。


火皿の白い芯が、低く鳴ったように見えた。外の霧が薄れ、庭石の輪郭が現れる。


「先の番、ね」


楼蘭は喉の奥で笑った。


「馬鹿馬鹿しい。何をしているんだ」


楼蘭は鼻を鳴らした。


「やっぱり泰介さんは留守番していてください。僕はあの男の顔でも見て、笑ってやるかな」


楼蘭は立ち上がった。


「来てくれるんか」


冬馬が顔を上げる。


「どうせ、志貴のために僕を呼べとでも言われて来ているのだろう。公式に、白の千年王が紅にご挨拶してやるよ」


「楼蘭、君は白の千年王だってことを、もっと自覚すべきだよ」


泰介が、目を覆って露骨に肩を落とした。


「千年王なんて者を縛れると思ってる方が愚かだ」


楼蘭は、そのまま部屋を出た。


「先触れが必要なら、出しておいて。然るべき場で会う」


楼蘭は足早に廊を通り抜けた。


「あの志貴が小さくまとまっているなんて、おかしいだろ」


道すがら手渡された外套を羽織り、楼蘭は舌打ちした。


「千年王の番は、一人しか成立しない。先の番なんて、そもそもあり得ない」


楼蘭は夜明け前の空を睨んだ。


「志貴が一心と正式に番契約を結べたなら、先の番は何者なんだろうな……」


楼蘭は深い息を吐いた。


「厄介なのは、帷の手癖か。それしかないな」

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