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第76話 しろたへの 名なき灰より 時裂ひて


病院の待合は、午前の熱を抱えていた。


入口の自動扉が開くたび、雨上がりの湿った風が床を這い、消毒薬と紙の匂いを薄めては、また閉じ込められる。受付の表示板には番号が並び、壁に据えられた時計の秒針だけが、誰にも急かされずに進んでいた。


男は端の椅子に座っていた。


診察を受けに来たのではない。昨夜から戻る場所をなくし、駅の構内を歩き、始発の音に追われるように外へ出て、雨を避ける場所を探しているうちにここへ入った。警備員に咎められなかったのは、具合の悪い人間に見えたからかもしれない。実際、胸の奥はずっと空いていた。


誰かに名前を呼ばれたのは、どれくらい前だったか、もうわからない。


家族は彼を呼ばなくなった。職場は名札を回収した。友人だった者の連絡先は、画面の中で古いまま沈んでいる。自分で自分の名を思うことも、近ごろは減っていた。名は、呼ぶ相手がいて初めて形を持つのだと、そんなことを考える気力もなくなっていた。


受付の奥では、白い事務服の女が茶封筒を抱えたまま、何度か表示板を見上げていた。病院職員の札を胸に下げ、行き先を探しているようにも見えた。けれど、その足は急いでいなかった。


表示板の番号が変わった。


「百三十二番の方、二番窓口へお越しください」


受付の声が響いた。少し離れた席で、臙脂のカーディガンを着た女が立ち上がった。膝の上に置いていた鞄を腕へ掛け、診察券を指に挟んでいる。白髪の混じった髪を後ろでまとめ、首元には小さな銀の鎖がかかっていた。


隣には制服姿の少女が座っていた。娘だろう。少女は表示板を見たまま、まだ動かなかった。


女が受付へ向かって一歩踏み出した。


その瞬間、表示板の番号が滲んだ。


男は目を細めた。液晶が壊れたのかと思った。百三十二という数字の端が白くほつれ、紙を水に浸したように薄くなる。受付の職員は気づいた様子もない。少女も、まだ表示板を見ていた。立ち上がった女だけが、胸元へ手を当てた。


「お母さん」


少女が言った。


けれど、その声は女に届かなかった。


女は通路の途中で立ち尽くしていた。唇が何かを言おうとしている。だが声にならない。喉の奥で、空気だけが細く震えていた。


受付の奥から、一人の男が出てきた。


白い上着を着ていた。医師にも看護師にも見えない。けれど、病院の中にいる者として不自然ではなかった。通路を歩く足取りは静かで、誰も道を譲らないのに、誰ともぶつからない。臙脂のカーディガンの女の前で足を止めると、その男は女の肩へ手を伸ばした。


周囲の人間は、見ていた。


見ているのに、何も起きていない顔をしていた。


白い上着の男が、女の首筋へ顔を寄せた。介抱するようにも見えた。倒れかけた人を支える姿にも見えた。少女は首を傾げ、受付の職員は手元の書類を揃え、近くの老人は新聞の頁をめくった。


白い上着の男が、女の首筋で口を開いた。


その肩越しに、赤いものが見えた。床へ落ちたそれが、最初は紐に見え、次に水に見え、最後に血だと分かった。女の指が震え、鞄が床に落ちる。中から薬袋と保険証が滑り出た。保険証の氏名欄だけが、男の席からは白く抜けて見えた。


「やめろ」


男は声を出したつもりだった。


喉が乾いて、掠れた音しか出ない。


白い上着の男が、女の首に深く顔を埋めた。歯の音がした。人が食事をするときの、ありふれた、湿った音だった。男は胃が裏返るような感覚に襲われ、椅子の背を掴んだ。


少女はまだ座っていた。


「お母さん?」


今度の声には、迷いが混じっていた。けれど少女の目は、倒れかけた女を正しく見ていない。そこに母がいると知っているはずなのに、知っている形へ結びつかない。少女の目は、血と、床の鞄と、首筋を食われている女を、まだ一つの出来事として捉えていないように見えた。


「何してるんだ」


男はようやく立った。


足が椅子に当たり、乾いた音が待合に響いた。何人かが振り向いた。その視線は男へ向き、すぐ険しくなる。誰も女の方を見ない。いや、見てはいる。見ているのに、そこに助けるべき人間がいる顔ではなかった。


「誰か、あれ、見えてるだろ」


男は通路へ踏み出した。


白い上着の男が顔を上げた。


その顔は、人ではなかった。


目も鼻も口も、あるべき場所にある。血を浴びていても、人間の顔に見える。けれど、皮膚の下が空洞のように暗かった。唇の端から、赤黒いものが糸を引いて落ちる。男と目が合った瞬間、その口元がわずかに吊り上がった。


見えているのか、と言われた気がした。


男は後ずさった。


その時、受付の職員が声を上げた。


「患者様、どうされましたか」


男へ向けられた声だった。


「そこにいるだろ、人が」


「落ち着いてください」


警備員が近づいてくる。白い上着の男ではない。正規の制服を着た、濃紺の警備員だった。待合の視線が集まる。恐怖ではなく、迷惑そうな、関わりたくないという空気が広がる。


「違う、俺じゃない。あそこに」


男は指を差した。


指先の先で、臙脂のカーディガンの女が膝から崩れた。白い上着の男は、その身体を支えるふりをして、さらに深く食っている。床に広がる血は、蛍光灯を鈍く映していた。


「やめろって言ってるだろ」


警備員の腕が男の肩を掴んだ。もう一人が駆け寄り、男の両腕を押さえる。床へ膝をつかされる直前、男は女の保険証を見た。


氏名欄は白いままだった。


だが、血で濡れた端に、ひらがなの一文字だけが残っていた。


男はそれを読もうとした。読めなかった。文字は見えている。形も分かる。けれど、それが名の一部だと理解した瞬間、頭の奥から誰かの手が伸びて、意味だけを摘み取っていった。


白い上着の男は、女の身体を通路の影へ引きずった。


誰も止めない。


男は叫ぼうとした。警備員に押さえ込まれ、頬が床に触れる。消毒薬と血の匂いが混ざっていた。誰かが救急を呼ぶ声がした。けれど、その声は男へ向けられている。


「大丈夫ですか。暴れないでください」


女の血は、男の視界の端でまだ広がっていた。


それでも待合は、少しずつ元の音を取り戻していく。受付の表示板が切り替わり、椅子が軋み、子どもが咳をした。


少女だけが、床に落ちた鞄を拾おうとして、手を伸ばしたまま固まっていた。


「お母さん」


少女の声は、今度は疑問にもならなかった。


その時、白い事務服の女が待合の奥から出てきた。


手には、先ほどと同じ薄い茶封筒を持っている。顔立ちは目立たない。急いでいるようにも見えない。けれど、その女は床の血ではなく、保険証の氏名欄を見た。


白く抜けた欄。


男の目がそこへ縫いつけられていることも、女は見た。


「すみません」


女は警備員へ頭を下げた。


「その人、うちの身内です。持病がありまして。こちらで引き取ります」


「ですが、かなり興奮されています」


「発作の前にこうなることがあります。処置室へ連れていきます」


女の声は静かだった。責めも、怯えもない。胸の職員札へ指を添えた。札の裏で、朱がごく浅く沈んだ。


警備員たちは一瞬だけ目を泳がせ、それから男の腕を押さえる力を緩めた。


女は男の横へ膝をついた。


「立てますか」


男は答えられなかった。


女は男の腕を取った。力は強くない。けれど、その手は迷わなかった。警備員から男を受け取り、待合の視線を背にして、廊下の奥へ歩かせる。男は何度も振り返ろうとした。だが女の手が、それを許さなかった。


処置室ではなかった。


女が男を連れて入ったのは、非常階段の手前にある狭い倉庫だった。清掃用具と古い車椅子が置かれ、換気扇の音が低く鳴っている。扉が閉まると、待合のざわめきは遠くなった。


女は男の腕を放した。


「何を見ました」


男は息をした。


肺が痛む。床の匂いがまだ頬に残っている。舌の奥に血の味がした。自分の血か、あの女の血か分からなかった。


「食われてた」


声は掠れていた。


「誰が」


男は口を開いた。


臙脂のカーディガン。銀の鎖。少女の声。床に落ちた鞄。保険証の白い欄。ひらがなの一文字。


どれも浮かぶのに、名にならない。


「分からない。でも、人だった。あそこにいた。みんな見てたのに、誰も」


女は目を伏せた。


信じていない顔ではなかった。むしろ、聞きたくなかったものを聞いた顔だった。


女は事務服の内側から、小さく折った札を取り出した。朱で細い紋が入っている。男には何の印か分からない。女は倉庫の棚から金属の皿を引き寄せ、札を置いた。


「私は祓えません」


女は低く言った。


男に向けた言葉か、自分に向けた言葉か分からなかった。


「見えたものを消すこともできません。できるのは、報せることだけです」


女は札の端へ細い棒を当てた。火は見えなかった。けれど、札の表面が内側から赤くなり、文字が浮いた。


病院名。時刻。二番窓口。名抜け。悪鬼捕食。目撃者一名。


被害者氏名の欄だけが、白く空いていた。


女はその空白を見て、わずかに唇を引き結んだ。


「本家へ上げます」


「本家って何なんだ」


男が聞き返した時、札の朱が深く沈んだ。紙が燃える匂いはしない。ただ、灰に似た細い粉が皿の上に残り、次の瞬間にはそれも消えた。


女は男を見た。


「あなたは、今すぐにここを立ち去りなさい。目をつけられたのなら、急いで」


「そんなことを言われても」


男の声は、そこで途切れた。


「あなたは自分が誰かわかりますか」


男は何も言えなかった。


待合の方から、少女の声が微かに聞こえた。誰かを呼ぼうとしているのに、呼ぶべき名を持たない声だった。


女は扉へ手を掛けた。その指先が、ごく短く震えた。


「名前を、離さないでください」


女は振り返らず、病院の奥へ戻っていった。男は狭い倉庫に残され、金属の皿の上にあったはずの札の跡を見つめた。


そこにはもう、何もなかった。


男は、自分の名を思い出そうとした。音は、喉の手前まで来た。けれど、そこから先へ出なかった。


扉の向こうで、待合の表示板がまた切り替わる音がした。




***




宗像本家の火皿は、朝から幾度も沈んでいた。


芯火が伏すたび、灰の上へ報せ札が浮く。病院、駅、役所、学校、葬儀場、商店街。場所と時刻、名抜け、悪鬼捕食、封鎖済、焼却済、目撃者保護。必要な欄は、ほとんど埋まっていた。


被害者氏名の欄だけが、どれも白かった。


白い欄は火皿の上にあるはずなのに、咲貴にはそれが部屋の中へ薄く染み出してくるように見えた。畳の目、襖の縁、膝の上に置いた王紋の紙片。どこを見ても、白い抜けだけが残った。


公介は火皿の前に立っていた。


左袖は空のまま落ち、右手だけで札を扱っている。


封鎖、焼却、照合不能、継続監視。


筆も声も使わない。火皿へ触れた札が、返答だけを沈めていく。


時生は柱の傍に座していた。膝脇には弓が置かれ、矢羽の根には細く折った王紋札が結ばれていた。まだ弦は引かれていない。けれど、廊に異変があれば、彼は躊躇なく奥殿の道を閉じるだろう。


咲貴は、積み上がる札を見ていた。


「……全部、焼いて終わりか」


その声は、火皿の灰に落ちる前に乾いた。


公介は振り向かなかった。


「それしかできん」


次の報せ札が浮いた。


小学校。名抜け。悪鬼接近。児童二名保護。対象焼却済。氏名欄は白い。


「こちらが代わりに名を与えれば、それは宗像がその者を作ることになる。宗像が踏み越えてええ領分やない」


公介の声は低かった。慰めでも、責めでもなかった。ただ、何度も確認した事実をもう一度口にしただけだった。


「喰わせるところまでは向こうの仕掛けや。けど、幕引きだけこちらに持たせる気でいる。悪趣味やな」


火皿の芯火が一度、深く沈んだ。


咲貴は返せなかった。


苛立ちなら、いくらでも胸の奥にあった。焼く前に、もっと早く見つけられたら。名が欠ける前に手を伸ばせたら。喰われる前に誰かが気づけたら。


けれど、報せ札は誰かがいたことだけが抜けたまま、終わったあとに届く。


咲貴は膝の上の紙片を押さえた。王紋の朱は、昨夜から爪でなぞり続けたせいで荒れている。爪の先にはまだ痛みが残っていた。その痛みだけが、自分の手がここにあることを教えてくれる。


志貴ならと、思った瞬間、喉の奥が硬くなった。


志貴ならばあの白い欄の向こうへ手を伸ばしたかもしれない。落ちたように見えるものの底へ届いたかもしれない。焼却済みの札を、ただの終わりにしなかったかもしれない。


けれど、志貴はここにいない。


咲貴が呼べば、道が開く。志貴へ続く紅の経路が、咲貴の腹の奥でまだ息をしている。


志貴を呼ぶことは、志貴を宗像へ返すことではない。今ここで積み上がっている終わりの中へ、志貴を立たせることになる。


それだけはできなかった。


火皿に、また札が浮いた。


葬儀場。悪鬼捕食。焼却済。氏名欄、空白。


咲貴は立ち上がった。


公介がこちらを見た。


「どこへ行く」


「少し、外に出る」


咲貴の声は自分でも驚くほど静かだった。


公介は止めなかった。ただ、火皿から目を離さずに言った。


「奥殿の外へは出るな」


「わかってる」


時生が弓へ指を添えた。追ってくる気配ではなかった。もし咲貴の足元が崩れれば、その場で結界を張れるようにしているだけだった。


咲貴は襖を開けた。


廊はいつも通り白く磨かれていた。柱の根には火皿の香が残り、庭からは雨上がりの土の匂いが入ってくる。何も起きていないように、奥殿は静かだった。


その静けさが、ひどく遠かった。


白砂は湿りを含んで、足の裏をかすかに冷やした。飛び石の脇に、雨を受けた榊の葉が光っている。火皿の報せは聞こえないはずなのに、白い欄だけがまだ目の奥に残っていた。


咲貴は白砂の中央で足を止めた。


志貴なら、どうしただろう。


また浮かんだ。


咲貴は息を吐いた。


驚く暇も、怒る暇も、悼む暇もなかった。


火皿が沈めば現世の報せが立ち、廊で札矢が鳴れば本家の内に開いた穴が閉じられる。名を欠いた身体は、結界の内側にあっても悪鬼の入口になる。喰われた者は戻らず、遺体は次を呼ぶ餌になる。だから焼く。


守っているはずの本家の内側に、穴は何度も開いた。


名のない終わりを、宗像が焼いて閉じている。その繰り返しだ。


咲貴は腹へ手を当てた。


冷えが走った。

望の血だ、と咲貴は思った。昨夜、回復のために受け入れたのは、自分だ。


あの蒼いものが、腹の奥で細く締まる。禁書の要がその下で動いた。火皿に重なっていた白い空欄が、腹の奥で一枚ずつ開いていく。さらに深いところから、知らない気配がゆっくりこちらを向いた。


白砂が揺れた。


風ではない。足元の砂の下に、別の土がある。宗像の庭ではない。もっと古く、もっと乾いた土。火皿の香ではなく、夜露に濡れた草と、古い血の匂いがした。


咲貴は顔を上げた。


奥殿の庭が、遠のいていた。


榊の葉も、濡れた飛び石も、柱の影もある。けれど、それらの向こうへ、別の庭が重なっている。月のない夜のように深く、空気だけが澄んでいた。


その庭の端に、ひとり立っていた。


少年とも、娘ともつかない姿だった。


小柄で、白い肌に古い夜の光を受けている。髪は肩口で切り揃えられ、瞳は静かだった。だが、相手の目にも、同じ驚きがあった。


「君、誰だい」


咲貴は胸元を握った。


似ている、という言葉では足りなかった。顔立ちの一つひとつが同じなのではない。声の高さも、立ち方も、志貴とは違う。けれど、ふと首を傾ける角度、相手を見てから言葉を選ぶまでの静けさ、目の奥に余計な濁りを置かないところが、嫌になるほど志貴に近かった。


「あなたこそ、誰」


問いは、白砂の上へ落ちた。


その者はすぐに答えなかった。その視線に、咲貴は肌が粟立つのを感じた。


覗かれている。


けれど、暴かれている感覚とは違った。閉じた戸を無理に開けるのではなく、そこに戸があることを確かめているような目だった。


「僕の名を、君の時代では何と呼ぶのだろうね」


その者は静かに言った。


「僕の時代には、まだ君たちが使っている名は、きっとない」


「どういうことか、わからない」


「君の知る名で呼ばれる頃の僕を、僕はまだ知らないと言ってるんだよ」


咲貴は息を呑んだ。


「君が、時間を越えてるんだ」


「私が、時間を越える?」


「ここは道反だけれど、君の知る道反とは随分と違うのではないかい」


咲貴が辺りを見回すと、馴染みがあるようでいて、何もかもが違っていた。


「君は、来るはずのない時に来ている。けれど、道の選び方は知っている。僕の弟に似ているよ」


腹の底で、禁書が震えている。震えは痛みではなかった。古い火皿に触れた時、灰の下から熱が返る感覚に近い。知らないはずのものが、知っていると告げている。


この人を、知っている。


いや、咲貴が知っているのではない。


咲貴の中に沈めた禁書が、この人を覚えている。


「始祖の千年王」


咲貴は、ほとんど息だけで言った。


その者は瞬いた。


「千年王」


初めて舌に乗せるように、少年はゆっくり繰り返した。


「始祖。僕は、そういう号になったのか」


咲貴の喉が乾いた。


目の前の者にとって、その名は過去ではない。後から与えられるものだった。咲貴たちが当然のように使っていた王の号が、この人の前ではまだ生まれていない。


白砂の下の古い土が、少しだけ近づいた。


「なら、君の姉は、そう呼ばれているのだね」


「志貴は」


咲貴は言いかけて、止まった。


その者は、咲貴の怯えを見ているようでいて、その奥にある別のものを探していた。


「君の姉のそばに」


声が、少しだけ低くなった。


「白銀の髪と、瑠璃の瞳をした者はいるかい」


咲貴は息を止めた。


一心の顔が浮かんだ。黒の衣。眼帯の奥の色。志貴を抱く腕。宗像を秤にかけない、あの人の無音の執着。


「いる」


咲貴は答えた。


その者の目が、ほんのわずかに緩んだ。


「そう」


それは安堵に似ていた。だが、咲貴の知る安堵より、ずっと古く、ずっと遠かった。


「なら、届いたのだね」


「届いた?」


「君の姉が、ひとりで立たされていないなら、それでいい」


咲貴は答えられなかった。


目の前の者がどうして、咲貴に姉がいるとわかったのか。どうして一心のような者を探したのか。冷たいものが背を滑り落ちた。


「そんなにわかりやすく怯えないでおくれ。僕だって、今起きていることに、それなりに衝撃を受けているのだから」


「驚いているようには見えない」


咲貴は言った。


「驚いているよ。僕の想定では、数ヶ月後に、僕によく似た者に逢う予定だった」


そこで、少年は一度だけ息を詰めた。白い指が喉元へ触れ、すぐに離れる。咲貴が目を向けるより早く、彼は何もなかった顔に戻っていた。


「先が、見えているの?」


その者は、小さく頷いた。


「志貴、咲貴。とても良い名だ」


まっすぐで、あたたかな声色だった。


けれど、それを聞いた瞬間、咲貴の胸の奥がひどく痛んだ。


その者の視線が、咲貴へ戻る。


「君は宗像咲貴、妹だね」


咲貴は答えなかった。


「同じ根から分かれた片割れ」


白砂の上で、咲貴の足が冷えた。


「双子でも違いすぎる」


「違いすぎることはない」


その者は、少しも声を荒げなかった。


「互いに、外から届かないものへ、内側から届いてしまう」


咲貴は唇を引き結んだ。


「私が、志貴を傷つけるって言いたいの?」


「君がそうしたいかどうかではないよ」


咲貴は腹に当てた手に力を込めた。


その者の目が、そこへ落ちる。


「そこに、僕の弟の冷えがあるね」


咲貴の背に、細いものが走った。


「僕の弟は、君の時代では何と名乗っているのかな」


咲貴は答えたくなかった。けれど、腹の底の蒼が、名を隠すことを許さなかった。


「望」


その者は、しばらく黙った。


夜の庭の奥で、草が揺れた。風はなかった。けれど咲貴には、目の前の者の沈黙が、空気を動かしたように感じられた。


「そうか。まだ、望んでいるのだね」


先ほど一心のことを聞いた時とは違う声だった。


「失わずに済む道を探しているのか」


咲貴は腹を押さえる手を離せなかった。


「それに、僕の血で記したものを、君は身に入れているのか。……なるほど」


それは咲貴を責める声ではなかった。だが、驚きがあった。静かで、深い驚きだった。


禁書の要。


奥殿の地下から奪わせなかったもの。


その者の目が、初めて明確に揺れた。


咲貴は息を止めた。


「持っていかせるわけには、いかなかった」


咲貴は言った。


「そうだろうね。分かるよ。……僕はまだ、それを書いていないのだけれど」


咲貴の指が、腹の上で強張った。


「少なくとも、君が抱えている形ではね」


その者は咲貴を見つめたまま、わずかに息を吸った。古い庭の空気が、その胸に入る。けれど、その呼吸は浅かった。


「どういうことか、わからない」


咲貴は眉を寄せた。


「君が未来を持って、僕の前へ来た意味が、本当にわからないの」


その言葉が、白砂に沈んだ。


咲貴の中で、火皿の白い欄がまた揺れた。


病院、駅、役所、学校、葬儀場。名を欠いた人間。悪鬼に喰われた身体。宗像が焼いて閉じた終わり。氏名欄だけが白い報せ。


その者の目が、咲貴の中のそれらを見ていた。


今度は、確かに顔色が変わった。


「まだ、続いているのか。……よく分かったよ」


声は低かった。


「続いてる?」


咲貴の問いに、その者はすぐ答えなかった。


目を凝らしている。咲貴が見た現世を、そのまま覗いているようだった。


「人の名を落とし、悪鬼へ渡し、最後の幕だけ君たちに引かせている」


その者の瞳から、先ほどの柔らかさが消えた。


「僕は、あれを終わらせられなかったのか」


咲貴は、喉が詰まった。


それは咲貴に向けた問いではなかった。けれど、答えは咲貴の中にあった。


Veilmakerは、まだ動いている。


咲貴が黙っていると、その者は小さく頷いた。


「眠らせるのが、精一杯だったということか。ずいぶん、しくじったものだね」


咲貴は、初めて目の前の者を怖いと思った。


自分の死を、まだ来ていない敗北を、咲貴の中から読み取っている。それなのに、その声には取り乱しがなかった。次の手を探す者の静けさだけだった。


「あなた、門番を知っているの」


「知っているよ」


その者は言った。


咲貴の胸の奥が冷えた。


「女の顔で来て、男の声で笑うこともある。……つまらない、これが口癖だ」


門番の声を、咲貴はまだ直接知らない。けれど、その言葉だけで、火皿の白い欄がひとつ深く沈んだ気がした。


「門番は消えないの?」


咲貴は聞いた。


その者は咲貴を見た。


「一人では無理だった、ということなのだろうね」


その答えは、あまりに静かだった。


「僕には番も弟もいる。けれど、門番の前へ出られるのは僕一人だけだ」


白砂の下の古い土が、かすかに脈を打った。


「君を見て、よく分かった」


咲貴の喉が鳴った。


その者の視線は、咲貴の腹から胸へ、さらに咲貴自身へ移った。


「君の姉が、僕だ」


咲貴の手から、王紋の紙片が落ちかけた。


「けれど、僕ではない」


その者は、少しだけ首を傾けた。


「宗像志貴として生まれ、宗像志貴として選ぶ。そこを取り違えてはいけない」


「意味が、分からない」


「今は、それでいい」


その者は、少しだけ首を傾けた。


その仕草が、ひどく志貴に似ていた。だが志貴ではない。志貴よりずっと古く、志貴よりずっと遠い。それなのに、志貴の笑い方の端に、この人がいるのだと分かってしまう。


「君は僕ではない。けれど、僕がこれから血で記すものを、その身体で抱えている」


その者の視線が、咲貴へ戻った。


「だから君は、君の姉へ届く」


咲貴は顔を上げた。


その者の目は、痛みを帯びていた。


「守るためにも」


咲貴は、次の言葉を聞きたくなかった。


けれど、その者は言った。


「殺すためにも」


白砂の音が消えた。


咲貴は動けなかった。喉が開かない。胸の奥がひどく狭い。志貴の名を呼びたくなった。呼んではいけないと分かっているのに、呼びたくなった。


「私が、志貴を殺すわけがない」


ようやく出た声は、低く掠れていた。


「知っているよ」


その者は即座に言った。


責める間も、疑う間もなかった。


「だから怖いのだよ」


咲貴は唇を噛んだ。


「殺したい者なら、止め方がある。憎んでいる者なら、遠ざければいい。けれど、守ろうとする片割れは、内側から届く。君の火は、君の姉が許してしまう場所へ入れる」


咲貴の目の前に、一心の腕の中で眠る志貴が浮かんだ。咲貴の名を呼ぶ志貴。咲貴の手を取る志貴。自分を責めるより先に、誰かの痛みを拾おうとする志貴。


その志貴が、自分を拒まないことを、咲貴は知っていた。


「どうしろっていうのよ」


その者は答えなかった。


咲貴は、答えを待っていた自分に気づき、腹の奥が冷えた。


この人なら知っている。門番を眠らせた人なら、志貴と同じ顔で違う時代に立つこの人なら、答えを持っているのではないか。


そう思ってしまった。

そのことが、ひどく嫌だった。


「知らないよ、そんなこと」


その者は言った。


咲貴の内側を読んだようだった。


「僕は、君たちの時代で言えば、負けた人間なのだろう。聞く相手が違うというものだ」


咲貴は目を伏せた。

また、誰かに答えを預けようとしている。

志貴にも、この人にも。


火皿の白い欄が、また胸の奥に浮かんだ。


「私では、宗像を護れない」


咲貴は言った。


「護るとは、失わないことではない」


その者の声が、少しだけ近くなった。


「失うものの意味を知ることだ」


咲貴は顔を上げた。


「君は、もう見ている。焼くしかないものを焼く場に立ち、名を失っていく者たちを、他人事にしなかった」


その者は、ほんのわずかに咲貴へ近づいた。


古い庭の土を踏む音はしなかった。


「僕は、ひとりで足りると思っていた」


咲貴は、その言葉を聞いた瞬間、息を止めた。


その者の目は、もう咲貴だけを見ていなかった。咲貴の向こうにいる志貴を、さらに先にいる門番を、そしてまだ自分の足元にない未来を見ている。


「一つで足りないなら……二つにしよう」


白砂の下で、何かが音もなく変わった。


咲貴は、それを肌で感じた。


この人は、今、考えを変えた。


「何、する気」


声が低くなった。


その者は、静かに咲貴を見た。


咲貴は視線を逸らさなかった。


「僕が置けるのは、条件だけだ。やるかどうかは、君たちが決める」


その者は、少しだけ笑った。


志貴に似ているのに、志貴よりずっと意地の悪い笑みだった。


「未来へ手を伸ばす者は、たいてい勝手だ」


咲貴は言葉を失った。


その時、その者の肩がわずかに揺れた。


最初は笑ったのかと思った。違った。咳だった。細い身体の奥から乾いた音が続けてこぼれ、白い指が胸元を掴む。さきほどまで静かに立っていた足が、砂の上で頼りなくずれた。


咲貴は思わず踏み出しかけた。だが、相手が片手を上げて制した。


「君を……彼女に見られるわけにはいかないんだ。帰ってくれ」


咲貴はわずかに身構え、足を引いた。


時を置かずに、黒衣の女が現れた。


どこから来たのか分からなかった。

気がつくと、古い庭の端、廊の影のような場所に、長身の女が立っていた。白銀の髪が夜気の中で冷たく光り、瑠璃の瞳が、まず咳き込む者を見た。


咲貴は息を止めた。


一心に似ているのではない。

それでも、一心を見た時と同じものがそこにあった。


人を退かせる黒。黙って立つだけで、場の重さを変える気配。


女は何も言わず、咳き込む身体を抱き上げた。


軽すぎる、と咲貴は思った。


女の腕に収まったその肩は薄く、衣の下の骨が分かるほど痩せていた。女は自分の膝の上へその身体を座らせ、片腕で背を包み、もう片方の手で胸元を掴む指をほどいた。


「また、隠すつもりか」


女の声は低かった。


「斎貴。お前より優先されるものはどこにもない」


責めるより先に、息を戻すための声だった。


咲貴はその名を知っていた。禁書の奥に、焼け残った墨のように沈んでいた名だった。


斎貴は何か言おうとしたが、咳が先に出た。女は答えを待たず、痩せた背を撫でた。強くも弱くもない手つきだった。何度もこうしてきた者の手だった。


咲貴は動けなかった。


咲貴が禁書の奥で知った始まりの王は、完全な姿でそこに立っていたのではない。門番とやり合うずっと前から、もう削られていた。

それでも、その目は退いていなかった。


女の腕の中で、斎貴がこちらを見た。咳の余韻に濡れた瞳だけが、まだ静かだった。


「ありがとう」


声は掠れていた。


「僕は、いつだって、したいようにするんだよ」


斎貴は、女の腕の中で小さく笑っていた。


「また、碌でもないことを思いついた顔だ」


女の声には呆れがあった。けれど、語尾の奥に、かすかな濡れが残っていた。


「斎貴、何もしてはいけない。もう、何もだ」


咲貴は、その女の言葉を理解したくなかった。


けれど、禁書が震えていた。望の蒼が、腹の奥で冷たく締まっていた。志貴へ続く紅の経路が、細く熱を持っていた。


「僕は、諦めが悪いんだ」


斎貴の声はかすかだった。


「いつだって、君は結局、僕のそばにいるのでしょう」


斎貴は言った。


「当たり前だ」


女の声に、斎貴がくすくすと笑う。


古い庭が遠のき始めた。


咲貴は一歩踏み出した。


「待って……」


黒衣の女が、始祖を抱いたままこちらを見た。瑠璃の瞳が、一瞬だけ咲貴を捉える。その奥に、冷たい警戒と、知るはずのない懐かしさがあった。


咲貴は声を上げた。


「その人を置いていくな」


斎貴は、少し考えるように咲貴を見た。


「大丈夫。彼女は、待てる人だからね」


その言い方も、首の傾け方も、腹が立つほど志貴に似ていた。


咲貴が言い返す前に、白砂の下の古い土が消えた。夜露の匂いが薄れ、火皿の香が戻ってくる。榊の葉に残った雨粒が、現実の光を返した。


咲貴は奥殿の庭に立っていた。


腹の奥には、先ほどまでとは違う重さが残っていた。禁書の要は沈んでいる。望の蒼も消えていない。けれど、その二つの間に、知らない熱が細く通っていた。


斎貴が「二つにしよう」と言ったあの瞬間から、禁書の奥で、まだなかったはずの線が一本増えていた。


咲貴はその場に崩れ落ちた。


急激に頭が冷えた。

自分が何に触れたのか、遅れて分かった。


咲貴の声は、もう戻せない場所へ届いていた。


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