第75話 埋み火に 妹が名残りて 灰は鳴る
志貴が眠りに沈んだあと、黒の宮には水脈の音だけが残った。
壁の内を巡る水は絶えず鳴っていたが、その響きさえ志貴の寝息を避けるように遠く、低かった。火皿の芯火は細く絞られ、足元へ落ちる影も淡かった。寝殿に残された数本の蝋燭も、壁へ届く前に黒い空気へ沈んでいった。黒の宮の奥は、温度も匂いも、志貴の呼吸を乱さないところで静まっていた。
一心は寝台の傍に座っていた。
志貴の顔には血の気が薄い。呼吸は浅いが乱れてはおらず、掛布の下で胸がゆっくり上下していた。腹の奥に残る紅の筋は、まだ閉じきっていない。先刻まで青黒く浮いていた侵入の跡は皮膚の下へ沈んだが、暗い紅だけが細い線のように腹を横切っていた。
志貴の指は一心の袖を握っていた。眠りに落ちる寸前に掴んだまま、離さなかった。力は弱い。けれどほどけば目を覚ましそうで、一心はその手を外せずにいた。
寝台の足元で、ヨルノミコトが前脚を揃えて伏せていた。黒に近い毛並みの狼で、口元には経路の奥から咥えて戻したものの残り香がまだ薄く絡んでいた。琥珀の瞳は半ば閉じられ、眠っているようにも見えたが、耳だけがかすかに志貴の呼吸を追っていた。
玄綾が音もなく入ってきた。
床の上に黒布を広げ、ヨルノミコトが吐き出したものをそっと載せた。幼い娘の姿のまま、玄綾は迷いなく指を動かした。布の上の残滓は、一見すると糸くずのようだった。色は灰白。蝋燭の灯を受けて、鈍く光っていた。
玄綾が指を近づけると、残滓はかすかに縮んだ。生きているように見えた。けれど、そこにあったのは生きたものの反応ではなかった。古い衣の裏に忘れられた虫の屍を指先でなぞったときの、乾いた手応えに近い。
玄綾は残滓を見下ろしたまま、誰にともなく呟いた。
「織師の糸かねえ」
声は小さかった。目だけが、燻銀の古さを宿している。
玄綾はさらに指を寄せ、残滓の端が逃げるように縮むのを見て、首をわずかに傾けた。
「いや、違うねえ。生きた名を織るものではない」
火皿の向こうで、赫夜が身じろぎした。
「死んだ名の残り香か」
「その見立てが、いちばん近いねえ」
一心は黙って聞いていた。
志貴の身体には、紅が焼き切れた跡がある。咲貴へ続く経路を辿られた爪の跡もある。そこまでは、一心にも分かっていた。
玄綾が黒布の端を少し持ち上げた。灰白の残滓が灯に透け、その奥にかすかな黒い筋が走る。
一心の視線が、そこで止まった。
自分の黒だった。
百日の眠りを守るために張り続けた黒の血脈。番の契りで志貴の内側へ沈めた力。黒の宮へ迎え入れるとき、志貴の魂へ重ねた気配。そのひとつひとつが、残滓の糸にわずかに噛まれている。
守るために結んだものが、辿られていた。
玄綾が顔を上げた。
「坊ちゃんの黒も、辿られたか」
「かすったくらいや」
一心はそれだけ答えた。声は平らだったが、袖を握る志貴の手に添えた左手だけが、指の関節が白く浮くほど力んでいた。
志貴が眠りの中で小さく身じろぎした。眉間がかすかに寄り、袖を握る指がわずかに締まる。腹の奥へ、残滓の冷えが返ったのかもしれなかった。
一心は袖越しにその手を包んだ。指の細さが、掌の内へ収まる。こんなに頼りなかったかと思った。
「坊ちゃんにまで触れるとなると、口にするのも癪だが……間違いなく、アレだろうねえ」
玄綾が深く息を吐いた。
「門番か」
赫夜が言った。
「やろうな」
一心は頷いた。
一心の視線は黒布の上ではなく、志貴の腹のあたりに落ちている。掛布の下に隠れた暗い紅の筋を、布越しに見透かすように。
「明熾と冬馬を呼べ」
赫夜が頷き、廊へ出た。衣擦れが遠ざかり、扉の向こうが静まると、黒の宮はまた水音だけに沈んだ。
ヨルノミコトがふいに身を起こした。志貴の腹のあたりへ鼻先を寄せる。嗅いでいるのではなかった。そこに残った細い道の気配を鼻の奥で測っているように見えた。
しばらくそうしてから、もとの場所へ伏せた。
一心はその黒い背を見ていた。
塞ぐ。
浮かんだ言葉は短かった。志貴と咲貴を繋ぐ紅の経路を、完膚なきまでに塞ぐ。黒の千年王として己の血脈を通し、宗像の名も火も通れないほど深く沈める。敵が一度辿った道を残しておく理由はない。
指先が、志貴の袖を握る手の上で止まった。
眠っているはずの指が、かすかに布を掴み直す。力など残っていないはずだった。腹の奥に沈んだ紅の筋も、もう消えていいはずだった。それでも志貴の身体は、咲貴へ続く道を手放そうとしない。
一心の目が細くなった。
先刻、志貴は迷わなかった。経路の奥で咲貴の火が揺れていると知った瞬間、一心の腕の中で、自分の腹へ手を押し当てた。血を吐きながら、紅を流した。あの身体で、なお道を開いた。
「思うようにならん」
一度は、心を殺してでも志貴を神格へ押し上げようとした。その道半ばで志貴に拒まれ、今がある。
袖を握る志貴の指が、また少し締まった。
一心は眉を顰めた。拒むだけの力など残っていない。そのはずなのに、眠る手はまだ袖を離さず、皮膚の下に沈んだ紅の筋も消えようとしなかった。
足音が二つ近づいた。ひとつは迷いのない歩幅、ひとつはそれより速い。扉が開くと同時に、冬馬の声がした。
「志貴、大丈夫なんか」
「眠らせたところや」
一心が答えると、冬馬は口を引き結んだまま部屋へ入った。明熾が先に一心の前へ立ち、志貴へ一度だけ視線を落として、すぐ一心へ向き直る。冬馬のほうは志貴の顔色の悪さに息を呑み、足を止めた。
一心は座ったまま動かなかった。視線も上げない。
「宗像がどういう状態か、見てきてほしい。言うまでもないことやが、優先は宗像やない」
明熾が静かに頷いた。
冬馬は奥歯を噛んだ。
「俺は構わんけど。たぶん、志貴は納得なんかできひんで」
一心がようやく冬馬を見た。
「それでもや」
冬馬の表情が変わった。怒りとも焦りとも違うものが、目の奥に沈んだ。一心の目が、志貴を守るために何を切り捨てるかを選び終えた目であることに、冬馬は気づいたようだった。
「咲貴に志貴を呼ばせるな。二度と、や」
冬馬は返事をしなかった。明熾がすでに戸口へ向かっている。冬馬も続きかけて、振り返った。
「手出しするなってことでいいんやな」
「くどい」
「わかった」
短い応酬のあと、冬馬は踵を返した。
扉が閉まる直前、明熾が一心へ視線を戻した。その奥に問いがある。一心が言ったのは、宗像を守れ、ではなかった。明熾はそれを読み、小さく顎を引いて、扉を閉めた。
黒の宮の奥で、ヨルノミコトが静かに耳を立てた。
***
庭の砂は白く均され、枝葉には朝露が残っていた。灯籠に火が入り、奥殿へ続く廊下には人の気配がある。
冬馬は結界をくぐった最初の一歩で、息が詰まった。
宗像はいつもと同じ顔をしていた。石畳に苔が薄く張り、木戸の桟に朝の湿りが降りている。奥から衣擦れの音がして、人が動いている。掃き清められた庭も、磨かれた廊下も、冬馬が知っている宗像そのものだった。
ただ、火だけが違った。
咲貴が一季の王として立ってからは、宗像のどこにいても火のどこかに咲貴の気配が混じっていた。気の強い火だった。背中を突くような、あの気性のまま燃える火。志貴の灯とはまるで違う。
それが今はどこにもなかった。
火皿には火が入っていた。だが誰のものでもない火が、ただ油を消費しているだけだった。
「黒の宮で聞いたんと、かけ離れすぎや」
「宗像なら、あり得ないこともないだろう」
明熾は半歩先を歩きながら呟いた。
中庭から廊下へ上がると、古くから宗像に仕える女が火皿を抱えて通りかかった。冬馬の顔を見て、小さく頭を下げる。
「冬馬様」
「咲貴はどこや」
名を出した瞬間、女の目がわずかに揺れた。まばたきとも違う。名の音が耳に届いてから口元へ降りるまでの間に、何かに掠め取られたような顔だった。
「あの方なら、奥に」
咲貴とは呼ばなかった。
冬馬は追及せず、先へ進んだ。
若い下役が王紋の札を整えている。手つきはいつも通りだった。しかし朱で書かれた札のうちひとつだけが不自然に外され、ただの覚書のように粗雑に握られていた。朱は燻んだ茶に変わりかけている。火皿の灰が湿り、王紋がくすみ、咲貴の名が『あの方』に逃げる。
ひとつだけなら見逃しただろう。
灰を替え、札を整え、廊下を拭く。どれも宗像の日常に見える。だがその日常の積み重ねが、少しずつ咲貴の火へ届く道を痩せさせていた。
冬馬は廊下の途中で足を止めた。奥殿へ向かう順路に沿って歩いているはずなのに、足が自然に別の廊下へ向きかけている。意志ではなく、身体が逸れる。一度踏み直してもまた逸れかけたところで、冬馬は自分の足元を睨み、三歩目を強く踏み返した。
「明熾。道がおかしい」
「結界があべこべだな」
明熾が低く答えた。足を止めず、肩越しに振り返る。
冬馬は先ほどの女が廊下の奥へ消えていく背を目で追った。あの人は志貴が子どもの頃に焦がした畳を、笑いながら片づけてくれた人だった。宗像の匂いを身体で知っている人だった。その手が今は、灰をただ運んでいる。
「あの人らは普通に歩いてるやないか。なんで俺らだけ逸れるんや」
「お前はもう宗像の血に縛られていない。俺はそもそも部外者だ。結界が弾いているのは、宗像の外にいる者だけだろう」
明熾はそう言ってから、わずかに足を緩めた。冬馬が追いつくのを待つ間合いだった。
「中にいる者の動線は、あらかじめ制御されている。結界そのものが、住む者の足を決めている」
冬馬はすぐには言葉を飲み込めなかった。だが腹の底が冷えた。
「何がそうさせてるんや」
「宗像の王だろうな」
「王が、なんでそんなことを」
「それは直接聞いてみるしかない。Veilmakerに入り込まれていたなら、素直に語るとは思えんが」
明熾の声は静かだったが、目は廊下の奥を見据えていた。
冬馬は思わず口を半開きにした。
「だらしない顔をするな」
明熾が指先で冬馬の顎を押し上げた。触れたのは一瞬だった。その手がもう前を向いたとき、冬馬はわずかに息を吐く。
「してへんわ」
「している」
明熾は振り向かずにそう言って、奥殿への角を曲がった。
***
奥殿の前に時生がいた。
衣は整っているが顔色が悪く、目の下に濃い影がある。冬馬と明熾の姿を認めると、わずかに安堵の色が浮かび、それからすぐに顔を引き締めた。
「冬馬。一心の指示ですか」
「いいや、俺の独断や。咲貴はどうなってる」
嘘だった。
一心の指示で来たと言えば、話は早い。けれど、その役を一心に背負わせる気はなかった。恨む先が要るなら、自分でいい。冬馬はそう決めていた。
冬馬が咲貴の名を口にした瞬間、時生の喉がつかえた。息が詰まり、唇の形が崩れる。時生は自分でもそれを厭うように、もう一度口を開いたが、名の音になる前に声が途切れた。
「奥に、います」
喉を押さえるように息を整えてから、ようやくそれだけを言った。
「名、言えへんのか」
時生はしばらく答えなかった。やがて顎を引くように頷いた。
「口にする前に、喉で鈍ります。名だけが通らない」
冬馬が奥殿の戸へ目を向けると、時生が戸に手をかけた。その指先が震えていた。
戸が開き、灰の匂いが廊下へ流れ出る。乾いた灰ではなかった。水を含んで重くなった灰の匂いで、鼻の奥にへばりつくような湿り気があった。
咲貴は座っていた。
王紋の描かれた低い台の前に正座して、背筋を伸ばしている。髪は結い上げておらず、肩に落ちていた。頬は白く、唇の色も薄い。だが目だけは、冬馬の記憶にある咲貴のままだった。鋭く、真っ直ぐで、折れていない目だった。
「遅い」
声は乾いていた。
冬馬はその一言で、安堵より先に苛立ちが込み上げた。それだけの口を利けるなら、もう少し自分を大事にしろと言いたかった。だが言ったところで聞く女ではないことも、嫌というほど知っていた。
「お前な。開口一番がそれか」
「一心に、殺せって言われて来たの」
「あながち外れてもないけど、今回は外れや」
「あの人なら、やりかねないと思うけど」
咲貴の声に火は混じっていなかった。いつもの鋭さだけが、乾いた喉から出てくる。だから余計に痛々しかった。火のない咲貴の声を聞くのは、冬馬にとって初めてだった。
冬馬は咲貴の前に膝をついた。明熾は戸口に立ったまま、部屋の四隅をゆっくり見渡している。
火皿が四つあった。芯も油も残っているのに、炎は立っていなかった。灰の下で小さく赤を抱えているだけで、外へ出られない。火皿の縁には湿った灰が薄く積もり、部屋全体が火を封じたまま息を詰めているようだった。
冬馬の目が咲貴の右手に止まった。王紋を写した紙片を握っていた。手の内側には、自分の火に触れた跡があった。指の腹は赤く腫れ、ところどころ皮膚が薄く裂けている。爪の際には煤がこびりつき、紙片に触れるたび、焦げた皮膚の匂いが灰に混じった。足元にも同じような紙片の欠片がいくつも落ちていた。
咲貴の火は消えていなかった。冬馬にはそう感じられた。
一季の王として高められた火は、逃げ道を失っていた。無理に通せば志貴への経路が否応なく開く。それを避けるために、咲貴は火を自分の身体へ押し込めているのだと、冬馬には見えた。
「望を使おうとはした」
咲貴は火皿を見たまま言った。
「でも、あれを通したら宗像の血脈がどう波及するかわからなかった。志貴だけで済む保証がなかった」
声に迷いはなかった。
「躊躇しているうちに、志貴に気づかれた」
冬馬の腹に、咲貴が続けなかった言葉が落ちた。
だから一心に始末されてもおかしくない。
咲貴が飲み込んだその先を、冬馬は聞いた気がした。
「双子の繋がりを断つ方法がないか、探しているところ。だから、もう少し待って」
「待って、どうするつもりや」
冬馬は眉を顰め、深くため息をついた。
「あのなあ。お前ら双子はそもそも、他人を頼るってことを知らんのか。それが敵の思う壺やったらどうするつもりや」
すぐそばで、明熾がかすかに笑った。
「明熾、なんで笑ってんの」
「お前が偉そうに言えることなのかと思っただけだ」
明熾の唇の端に笑みが残っていた。冬馬はわざとらしく舌打ちをしてから、咲貴を見た。
「で、ほんまのところ。宗像は何をしたんや」
咲貴が目を伏せた。
時生が戸口の脇で息を吸った。声はまだ掠れていた。
「奥殿まで春の四天王が来ました」
冬馬の目が細くなった。
「春が、ここまで?」
時生は頷いた。
「禁書を狙われました。奥殿の地下に封じていたものです。奪われかけましたが……」
そこで時生の声が止まった。
名を呼べなかったときとは違う。続きの言葉を、口にしていいかどうか測った沈黙だった。
咲貴は膝の上の紙片を見たまま、親指で焦げた端をなぞった。
「持って行かせるわけにはいかなかった」
冬馬は咲貴の手を見た。血と煤のついた指が、紙片の端を握っている。王紋の線がいくつも焦げ、折れ、床に散っていた。
「それで、何をした」
咲貴は答えなかった。
膝の上に置いた紙片の端を、焦げた指が一度だけ押さえた。焼けた紙片は脆く、爪の下でかすかに欠けた。その手が、次に腹の前で止まった。庇うほど大きな動きではない。ただ、衣の奥に残る何かを確かめるように、指先が一度だけ布を押さえた。
冬馬が言葉を返す前に、明熾が冬馬の腕を引き、咲貴から距離をとらせた。
「身体の中、ということなら話は変わる」
咲貴は否定しなかった。目を伏せたまま、膝の上の紙片の端を親指でなぞっている。
「Veilmakerや春の四天王に渡らなかったことは賞賛に値するが、禁じ手の弊害については褒められたものじゃない」
奥殿の奥の戸が開いた。
公介だった。望に肩を支えられ、壁伝いに歩いてくる。顔色は咲貴より悪かった。着物の襟元から覗く首筋に、焼けた痕が残っている。望の手が公介の腕をしっかり支えていたが、公介は途中でその手を離し、自分の足で立った。膝がわずかに震えていた。
「冬馬か。戻ってきてくれたんか」
公介の声はかすれていた。
「残念ながら違います。それより、なんでこんなことになったんですか」
「禁書は建前上、二分冊や。下巻はあえて奪わせ、春の四天王が持って行った」
冬馬は眉を上げた。
「要の部分は咲貴の中にしかない。Veilmakerが囮を切ってでも欲しがったのは、こっちや」
公介は冬馬の目をまっすぐに見た。穏やかで、どこか遠くを見ているような目だった。けれど今はその奥に、抜けない杭のようなものが刺さっていた。
「一心に伝えてくれ。志貴を、宗像へ帰すな」
冬馬の足が止まった。
「今度こそ守りきれん。頼む」
冬馬は公介の顔を見ていた。宗像の当主がこの言葉を口にする重さを、冬馬は知っている。志貴が帰りたいと願う場所を、その場所の側から閉じる。
それから咲貴へ視線を移した。
咲貴は顔を上げなかった。膝の上の焦げた紙片を見たまま、動かない。
「お前も同じ考えか」
咲貴は小さく頷いた。
冬馬は奥歯を噛んだ。守るためだと分かっていても、胸の奥に熱いものがせり上がった。
「帰る場所なくして、志貴が泣くってわかってて言うんやな」
「泣くくらいで済むなら、それでいい」
咲貴の声は小さかった。だが折れてはいなかった。
冬馬はしばらく黙った。奥殿の灰の匂いを吸い込み、深く吐く。
「……伝える。分かったとは言わん」
その言葉を口にした瞬間、自分の声が他人のもののように聞こえた。
明熾が戸口から一歩入った。腰の黒刃に手を添えている。
「外から被せられた分なら、斬れる」
明熾の声は淡かった。黒い刃が抜かれ、空気に触れた瞬間、部屋の灰がかすかに震えた。刃は咲貴の身体へ向かったのではなく、咲貴の火を覆っている灰の層へ向かった。
外側の膜が裂けた。
火皿のひとつが小さく音を立て、灰の下の赤がわずかに明るくなる。
だが刃が二層目に触れたところで、明熾の手が止まった。
冬馬は明熾の横顔を見た。明熾が斬りかけた刃を止めたのは、冬馬が知る限り初めてだった。
「これ以上は斬れない」
明熾はそれだけ言って、刃を収めた。
冬馬は咲貴の手元を見ていた。血と煤で汚れた指が、紙片を握りしめていた。
昔からそうだった。咲貴は泣かない。助けてとも言わない。その代わりに、自分の手を潰す。火を止めるのも同じ顔でやっている。
冬馬は立ち上がった。
咲貴が目で追う。冬馬は四隅の火皿のうち、王紋に最も近いものへ歩いた。膝をつき、灰に指を入れる。冷たい。しかし底には、かすかな温度が残っていた。咲貴の火の名残だった。
冬馬は掌を火皿の縁に当てた。夏の律が身体の奥からゆっくりと手へ通る。熱を増やすのではない。火を煽るのでもない。火が向かう先を、ほんのわずかだけ変える。志貴へ続く紅の経路ではなく、宗像の結界へ、王紋へ、かつて咲貴の火が通っていた場所へ向かう道を細く敷いた。
「咲貴」
冬馬はその名を呼んだ。
「お前はたぶん間違ってへん」
咲貴は黙っていた。冬馬は言葉を重ねなかった。重ねれば、咲貴は余計に手を閉じる。それも知っていた。
明熾が動いた。
黒刃がもう一度、灰の外縁に入る。今度は咲貴の火には向かわない。Veilmakerが被せた封じの層だけを、薄く削る。
咲貴の右手が震えた。握っていた紙片の端から、赤い光が漏れる。
咲貴は反射的に手を閉じようとした。冬馬は何も言わなかった。火皿の底に残る温度へ、夏の律を細く通し続けた。
咲貴の指が、ほんの少し開いた。
赤い一筋が、焦げた紙片から火皿へ移った。湿っていた灰が音もなく乾き、白く変わる。炎は大きくなかった。しかしまっすぐに立った。灰の底から首を上げるように、細く、確かに。
廊下で時生が息を呑んだ。
「咲貴」
名が通った。
時生の声が宗像の廊下を渡った。時生は自分でもそれに驚いたように口元を押さえた。唇の端が赤く濡れていた。封じられた名を喉の力だけで押し通した代償で、粘膜のどこかが裂けたらしかった。
咲貴が顔を上げた。時生の声を聞いた目が、一瞬だけ揺れた。
次の瞬間、咲貴は自分の手を握り直した。
立ったばかりの炎が細くなり、灰の下へ沈む。消えたのではない。咲貴が自分で火を内側へ押し戻していた。
灰はふたたび湿り返っていく。
「ごめん」
咲貴は火皿を見たまま言った。
「これでいい」
冬馬は言葉を失った。取り戻しかけたものを、咲貴は自分の手で沈めた。時生の声が届いたことを知った上で、なお閉じた。
公介が壁際で小さく息を吐いた。望は何も言わず、その背を支えている。
誰もすぐには動けなかった。
***
黒の宮の寝殿で、志貴の腹の痣が紅く灯った。
淡い光だった。蝋燭の灯りに紛れるほど細い。だが一心の目はそれを見逃さなかった。
咲貴の火が一筋通った。
そして沈んだ。
一心は迷わなかった。右手を伸ばし、志貴の腹部に残る経路を閉じにかかる。咲貴の火が自ら退いた今なら、道を塞げる。志貴と咲貴を繋ぐ紅の経路を、黒の血潮で底まで沈める。名も火も通れないほど深く。志貴が眠っている今のうちに。
袖口に乾きかけた血が触れた。鉄の匂いがかすかに立ち、喉の奥が硬く塞がる。先刻、志貴が吐いた血の温度を、身体がまだ覚えていた。
黒の水脈が壁の奥で太く鳴った。この宮の隅々まで、一心の黒は届いている。ヨルノミコトを退けることも、志貴の手を解くことも、今の一心には造作もない。
一心の指が志貴の腹部に触れかけた瞬間、ヨルノミコトが動いた。
黒い狼は一心の手と志貴の腹の間に身を入れると、前脚を揃えて伏せた。耳を伏せ、身を低くして、その場所にただ在る。
先ほど鼻先を寄せ、細い道の気配を測っていた場所と同じだった。一心を止めるというよりも、道の上に身を置いている。通すものと通さないものを選ぶ、古い獣の構えだった。
一心の指が止まった。
志貴の手が動いた。袖を握っていないほうの手が、ゆっくりと腹のほうへ寄り、ヨルノミコトの背に触れた。目は開かない。呼吸のリズムも変わっていない。意識が戻ったとは言えなかった。
けれどその手は、一心ではなくヨルノミコトの背を選んだ。
一心はその手を見ていた。
閉じるなら、まだ間に合う。志貴の手に力はない。ヨルノミコトも、一心を阻めるほどの力は持っていない。
だが塞げば、志貴は掻き分ける。一心の黒を掻き分けてでも、紅を通そうとする。先刻のように腹から血を滲ませ、口から赤いものを吐きながら、それでも道を開こうとする。そのたびに、志貴の身体が壊れる。
一心は手を引いた。
玄綾が息を詰めた。赫夜は戸口に立ったまま、何も言わなかった。
黒の宮の水脈の音が変わる。志貴の腹を押し潰すような重さから、その周囲をゆるく巡る流れへ。深い底へ沈める音ではなく、門の周りを見張る水音へ。
一心が選んだのは、封鎖ではなかった。
ヨルノミコトが一度だけ一心を見た。責める目ではなかったが、従う目でもなかった。
一心は志貴の袖を握るもう一方の手に視線を戻した。志貴は眠ったまま、その袖をかすかに掴み直していた。
「門番が敵なら、この動きすら想定のうちや」
一心は誰に向けるでもなく言った。
赫夜は無言のまま一心を見ていた。
黒布の上の残滓は、端だけが焦げていた。咲貴の火が一度だけ通った跡のように、灰白の糸の先が黒く縮んでいる。
志貴の唇が、眠りの底でかすかに動いた。声にはならなかった。
一心はその口の形が誰の名であるか、聞かなくても知っていた。
***
宗像の奥殿では、火皿の炎が沈んだままだった。
咲貴が一度だけ通した火はもう見えない。灰は湿り、冬馬が敷いた道にも重い気配が戻っていた。四隅の火皿は相変わらず低く沈んでいた。
それでも、時生が呼んだ咲貴の名は廊下にまだ残っていた。声はとうに消えている。だが名の形だけが、湿った空気の中に沈みきらずにいた。
咲貴は新しい王紋の紙片を一枚手に取り、膝の上に載せた。指はまだ震えていた。だが今度は握り潰さなかった。
紙片の上に、咲貴の指が王紋の線をなぞりはじめた。火は使わなかった。爪の先で紙の表面に筋をつけるように、ゆっくりと、王紋の輪郭だけを辿っていく。その線は誰の目にも見えない。紙の繊維がわずかに潰れた跡が残るだけだった。
けれど咲貴は繰り返した。
同じ線を、同じ速さで、何度も。
明熾が戸口へ向かった。冬馬も立ち上がりかけて、もう一度だけ咲貴を見た。
「ほんま嫌いやわ、そういうとこ」
「お互い様でしょう」
咲貴はそれ以上返さなかった。
冬馬もまた何も言わずに奥殿を出た。
廊下に出ると、時生が壁に片手をついていた。口元を拭った手の甲に赤い筋が残っている。冬馬と目が合うと、時生は手を下ろし、背筋を伸ばした。
「あの人の名は、俺が呼びます」
声はまだかすれていた。
喉を裂いてでも名を通した男の声だった。冬馬は何も言わずに頷いた。
結界を出る道は、来たときと同じように足が逸れた。冬馬は三度踏み直し、明熾は一度も逸れなかった。
冬馬は石畳を歩きながら右手を握った。火皿に触れた掌には、まだかすかな温度が残っていた。咲貴の火だった。志貴へは届かず、宗像にも留まりきれなかった火の、最後の温度だった。
明熾が隣を歩いていた。しばらく、どちらも言葉を発さなかった。
「あれは王の判断だ」
明熾が低く呟いた。
冬馬は曇った空を見上げ、それから小さく息を吐いた。
「咲貴が死ねば、あれも沈む。……ようこんな札切ったわ」
「切らなければ、もっと深く届いていた」
冬馬は返事をしなかった。
結界を抜けた直後、掌の奥に残った熱だけが、まだ消えずにいた。




