第74話 血に問へば 妹が火ぞ鳴る 暁の宮
一心の問いに答えられないまま、志貴は右の掌を見ていた。
手袋を外された肌に火皿の灯が届いて、指のあいだの皺や爪の際の薄い影まではっきり見える。掌の中央には一心の唇が触れた場所がまだほんのり熱を持っていて、その周囲だけが火皿の橙とは違うぬるい色をしているように思えた。
ざらつきは奥へ退いている。白の階から持ち帰った異物感は、一心の熱に押されて皮膚の下の深い場所に潜っていた。
膝の上でヨルノミコトが耳を動かした。丸まった身体の毛並みが志貴の太腿のあたりをほのかに温めている。黒い尾が袖口に重なり、その先端だけが呼吸のたびにわずかに揺れていた。
格子の向こうの闇が灰色に薄まりはじめている。
黒の宮の朝は水の音から来る。壁の奥を流れる水脈の響きが夜より半音高くなり、石の廊下にまばらな足音が落ちはじめると、それが朝の合図だった。鳥も風もない代わりに、水と石と、古い木の脂のにおいが冷たい空気の底に沈んでいる。
卓の上には一心が持ってきた薬湯の碗が残っていて、底にこびりついた黒い膜から苦みと青さの入り混じった香りが細く立っていた。火皿の灯が揺れるたび、碗の縁がちらちらと光る。石壁はその光をほとんど吸い込んで、返さない。
ヨルノミコトの耳がぴくりと傾いた直後、掌に残っていたざらつきが消えた。
沈んでいたものがさらに奥へ退いたのではなく、何かに引き剥がされるように、ふっとなくなった。
志貴は指を握り込んだ。爪が掌の肉に食い込む感触がするだけで、ざらつきはない。かわりに、肋骨の内側を焼けた金属の棒でなぞられるような熱がくる。
志貴は息を止めた。
腹の皮膚が内側から押されるように張り、へその左下あたりに青黒い筋がひとつ浮いた。皮膚の下を何かが通った痕のように、細い筋が肋骨の下から腰骨のほうへ向かってゆっくり伸びていく。
ヨルノミコトの耳が伏せられた。丸まっていた四肢が布の上に立ち、喉の奥からかすかな唸りが漏れる。琥珀色の目は志貴の顔ではなく、腹に浮いた青黒い筋を見据えていた。
喉の奥に鉄の味がせり上がってきた。
咳が出た。肺の底から絞り上げられるような咳で、身体が前に折れた瞬間に口から赤いものが飛んだ。掌に落ちた血は黒みがかった赤で、紅い飴の色よりずっと暗い。指の間から布団の上に零れ、白い布の目に沿って染みが広がっていく。
一心の腕が背中に回った。壁際にいたはずなのに、いつ動いたのか、志貴には見えなかった。
腰に当てられた大きな掌が、志貴の傾いた身体をまっすぐに支えた。もう片方の手が首筋に触れる。番の痣の上を指がなぞり、そのまま胸元へ下り、肋骨の下から脇腹へ素早く辿った。
「俺との結び目には触れてへん」
低い声が頭の上から落ちた。
「……おかしい」
一心の指が腹に浮いた青黒い筋の上で止まった。布越しに触れただけで、志貴は腹の奥がびくりと収縮するのを感じた。
「何や、これは」
一心の声に、初めて硬い問いの色が混じった。
志貴には答えられなかった。二度目の咳が来て、口を覆った掌にまた血が落ちる。
一心の手が青黒い筋を追うように布の上から指を滑らせた。その動きから、筋は肋骨の下から腰骨を越え、さらに深いところへ伸びているのがわかった。
一心と番として繋いだ道とは明らかに違っていた。もっと古い。志貴自身が忘れていた道だった。
宗像の土のにおいが鼻の奥をよぎった。八雷を咲貴に貸したときの火の筋。戦のさなかに紅の力を渡した名残。宗像を離れても切れなかった、咲貴との間に残った一本の経路だった。
腹の筋に沿って、冷たいものが動いた。
志貴は自分の腹を見下ろした。青黒い筋の上を、何かがゆっくり辿っている。筋に沿った冷たさが、へそのあたりから肋骨のほうへ少しずつ移動していた。指で撫でるように。経路の形を確かめるように。
荒らすのでも壊すのでもなく、残っているものの端を摘み、どこまで辿れるかを測っている。初めからこの経路が埋まっている場所を知っていた者の、迷いのない手つきだった。
志貴の背筋を冷たいものが走った。
耳の奥で、声がした。
『まだ残していたのですね』
男の声だった。怒りも焦りもない。帳面に記録を書きつけるときのような、静かな声だった。
腹の上の冷たい動きが速くなった。筋に沿って下へ、腰骨を越え、志貴の身体の奥へ潜っていく。その先に咲貴がいた。理屈ではなく、経路が繋がっているからこそ伝わる気配として、咲貴の火が感じられた。怒った火だった。押さえ込まれ、外から何かに塞がれた者の火だった。その火のまわりを、湿った灰のような重い気配が覆っている。
男の指が、さらに深く潜った。
志貴の腹の奥を、内側からこじ開けるような圧が広がった。腹の筋が枝分かれした。へその左下から腰骨へ向かっていた一本の筋から、冷たさが二手に分かれた。腹の奥がさらに広げられ、息を吸う隙間がなくなっていく。
志貴の喉から、声にならない息が押し出された。腹の奥で経路を辿られる感覚は、身体の内側にあるはずのない場所へ指を差し込まれているようだった。吐き気がこみ上げた。血ではなく、胃の中身そのものが喉のほうへ押し上がってくる。
志貴は身体を折り、一心の腕から逃れるようにして寝台の縁に手をついた。この冷たさが、一心にまで届くかもしれない。
「離れてっ」
腹の皮膚に浮いた青黒い筋は、もう数えられないほど枝分かれしていた。その一本一本を男の指が同時に撫でている。指の数では足りないほどの接触が、腹の内側のあちこちで同時に起きていた。
布団を掴んだ。指先が布を引き裂くほどの力で握り込み、そうしなければ身体がばらばらになるような気がした。口の中は鉄の味で満ちていて、歯の隙間から赤い唾液が零れた。
『よい経路です。根が深い』
男の声が腹の奥から聞こえた。さっきは耳の奥だった。もう経路の中に入り込んでいる。
「やめ……」
声が出なかった。舌が動かない。喉が張りつき、息を吸うことすらできない。
腹の皮膚に浮いた筋が一斉に脈打ち、その振動が背骨を通って頭蓋の内側まで響いた。視界が白くなり、赤くなり、また白くなった。
一心が志貴の身体を引き戻した。寝台の縁から引き離し、自分の胸に背中を預けさせる。志貴の後頭部が一心の鎖骨のあたりに当たった。一心の衣は乾いていて、薬草のにおいがかすかにした。
「離すわけないやろ」
志貴の喉を通って口から溢れた黒赤い液体が顎を伝い、一心の袖口を汚した。
その瞬間、ヨルノミコトが動いた。
膝の上の小さな身体が志貴の腹に向かって跳んだ。黒い毛並みが火皿の灯を弾き、志貴の腹のあたりで輪郭が白く光った。ヨルノミコトの身体が腹の表面に触れ、皮膚の青黒い筋の上で輝いたかと思うと、そのまま内側へ吸い込まれていった。水に落ちた石が沈むように、狼の輪郭が肌に溶け、光が消えたあとには青黒い筋だけが残った。
一心の手が止まった。志貴の身体を支えている指先が一瞬だけ強張り、息を呑む気配がした。
志貴の腹の奥で、ヨルノミコトの気配が経路へ沈んでいった。肉を裂いたのではない。咲貴と繋がったままの細い道の中へ、夜の水が流れ込むように入り込んだのだ。その気配が青黒い筋を辿るたびに、腹の奥を冷たい爪で引っ掻かれるような感覚が走った。筋に沿った皮膚の表面が、ヨルノミコトの通った順に薄く光っては消えていく。
枝分かれした筋のあちこちに同時に触れていた不快な指が、一箇所に引き寄せられた。
ヨルノミコトがそれを逃さなかった。
腹の奥、経路の中で、狼の牙が異物を捉えた感触が腹の芯を貫いた。牙が食い込んだ瞬間に衝撃が走り、志貴の歯がかちりと鳴った。
ヨルノミコトは経路の中で首を振った。獲物を離すまいとする短く鋭い振りで、経路そのものが震えた。腹の表面の青黒い筋が激しく明滅する。
一心は驚きを飲み込んだように何も言わず、志貴の腹の上に右の掌を押し当てた。同時に左手が寝台の横の石壁に叩きつけられた。乾いた音が部屋に弾けた。
壁の奥で水が鳴った。
一心の左手が触れた壁の表面に、石の色よりも暗い染みが広がった。染みは水だった。壁の奥の水脈が一心の手を起点にして石の目に沿って滲み出し、掌のまわりに黒い水の輪を作っていく。
壁を伝って床に落ちた雫を志貴の足が踏み、氷を踏んだような感覚が足裏から走った。
火皿の灯がちぢんだ。橙色の輪が畳の上で小さくなり、部屋の隅が暗く沈む。代わりに、壁に滲んだ水脈の筋が青白く光りはじめた。石の隙間を這うように枝分かれした光が壁を走り、天井の梁の際まで届いている。黒の宮の水脈そのものが部屋の中に浮き上がったような光景だった。
重く暗い力が一心の右手から志貴の腹に入り、経路の中のヨルノミコトのもとへまっすぐ伸びていく。
ヨルノミコトの牙が噛みついて止めている異物の上から、一心の力が叩きつけられた。腹の奥で一心の水脈と男の指がぶつかる衝撃が弾けた。背骨を伝って後頭部まで走り、志貴の視界が白く散った。口から血が飛び、転がり落ちそうになる。すんでのところで、一心の腕が身体を抱き止めていた。
壁の水脈が太くなった。石の隙間から水が噴き、部屋の奥の壁に指の幅ほどの亀裂が走った。青白い水が噴き出し、石の面を光りながら伝い落ちる。水が床を打つ音が硬く高く響いた。
一心が短く息を吐いた。呼気に合わせるように、経路の中の力がもう一段深く異物を叩いた。
だが、男の指は抜けなかった。
ヨルノミコトが噛み、一心が打ち、それでもまだ、経路の中に指が残っていた。枝分かれした筋の一本から主幹へ戻り、そこにしがみついている。噛まれた指が経路の壁を掴み、爪を立てて耐えていた。志貴は腹の奥でその爪が食い込む感触を受け取り、喉から血混じりの息を漏らした。
『まだです。もう少しだけ』
男の声に、初めてかすかな力みが混じっていた。余裕が消えたのではない。目的をあと一歩で達するときの、静かな集中だった。
咲貴のほうへ引っ張られている。男が経路の奥を手繰り、咲貴との接点を直接掴もうとしている。
志貴は、自分の手を腹に当てた。
考えてやったことではなかった。一心の袖を掴んでいた右手が離れ、血に濡れた掌が自分の腹の、窪んだ場所に押し当てられた。
「くそったれ……」
掌が筋に触れた瞬間、指先に熱が走った。
一心の水脈の冷たさとも、男の指の冷たさとも違う。志貴自身の奥にある、紅の千年王の熱だった。
八雷を貸したのは志貴だった。咲貴への経路を作ったのも志貴だった。この道は志貴の紅で編まれている。ならば、この道を通れるのは男だけではない。
「ただでは、済まさん」
掌から腹の奥へ、熱が流れ込んだ。紅い熱が経路の内壁に触れ、壁面が赤く光った。腹の表面の青黒い筋が色を変えた。青黒から、暗い紅へ。志貴の紅が経路を満たしていく。
男の指に、その熱がぶつかった。経路の中で、男の指が痙攣した。それまでの丁寧さが嘘のように、指が引きつり、経路の壁から一瞬だけ離れた。志貴の紅に触れた瞬間、あの静かな声が途切れた。ここまで一度も乱れなかった男の気配が、初めて歪んだ。
志貴の腹の奥で痙攣した指は、初めて触れたものに驚いたのではなく、二度と触れたくなかったものに触れてしまった者の震え方だった。
志貴は経路の中で、自分の紅で男の指を焼いていた。経路そのものが志貴の紅に反応し、壁面から熱を放った。
志貴の腹から血が滲んだ。腹の皮膚に浮いていた筋のひとつが裂け、細い線状に血が滲み出て布を濡らした。痛みが腹の表面を走った。けれど志貴は手を離さなかった。掌に力を込め、紅をさらに送り込んだ。志貴の腹の中で衝撃が弾けた。
男の指が、抜けた。
抜ける瞬間に、経路の壁をひとつ爪で引っ掻いた。小さな傷だった。けれど志貴の腹に痛みが走り、身体が一心の腕の中で跳ねた。口から血が飛び、一心の黒い衣の胸元に赤い点が散った。
『よく似ている』
男の声が聞こえた。調子は戻っていたが、さきほど声が途切れた瞬間を、志貴の身体は覚えていた。紅に触れた瞬間、あの男は確かに怯んだ。
『けれど、まだ届かない』
声が、わずかに途切れた。
『次は、必ず捕まえます』
声が遠ざかり、消えた。
冷たい気配が引いた。腹の上の筋がゆっくりと色を失い、枝分かれした青黒い線が一本ずつ消えていく。皮膚の色が戻っていく。
経路を辿り戻る気配がして、へそのあたりの皮膚がもう一度白く光った。黒い小さな身体がぬるりと滑り出し、志貴の身体の横で四肢を踏んばり、低く身構えた。
狼の口元に透明に近い、冷たい光を帯びた細い糸のようなものが垂れている。ヨルノミコトはそれを一心に見せるように、布団の上に吐き出した。糸は布に触れた瞬間に白い煙を上げて消えた。
「門番か?」
「間違いありません。……目覚めたようです」
ヨルノミコトを見た一心の呼吸がひとつ深くなった。
「用があるんは、私やろ……」
志貴の口から声が出た。血に濡れて掠れていたが、言葉の芯は折れていなかった。
「咲貴は、関係ない……」
抑えようのない震えが指先から肩まで走り、志貴は一心の袖を血のついた手で掴んだ。
一心の手が志貴の肩を押し、背中を布団に戻した。乱暴ではないが丁寧でもない。倒れろ、という手だった。背中が布団に触れた瞬間、全身の力が抜けた。
壁にあった水脈の青白い光は消え、部屋は夜明け前の灰色と火皿の橙だけに戻っていた。石の床を伝う水の音だけが、さっきまでの激しさの名残として残っている。割れた壁の亀裂は指の幅のまま残り、そこから水が細く糸を引いていた。
一心の衣の胸元と腕に志貴の血が点々と散り、志貴自身の衣は胸元から腹にかけて黒赤く染まっていた。
一心が志貴の唇についた血を親指で拭った。
「阿呆。自分の身体を道にして何がしたかったんや」
「咲貴が押さえ込まれてるのが、分かったんや。動かん理由がない」
一心はしばらく黙っていた。志貴の横にいるヨルノミコトへ、それから志貴の腹の皮膚に薄く残った赤い痕へ、それから志貴の顔へ、視線を戻した。
「紅を強引に通したな」
志貴はわずかに頷いた。右手は一心の袖をかろうじて掴んではいるが、指先に力が入らない。けれど掌にはさっき経路に流し込んだ紅の熱の名残がまだ残っていて、それが一心の袖の布越しに滲んでいるような気がした。
「私の身体や……私の紅が通らんわけがない」
一心が、かすかに左目を細めた。眼帯の奥の右目は見えない。怒りか、落胆か、それとも別の何かか、志貴には読めなかった。
「あの声、次は捕まえるって言うてた」
志貴は仰向けのまま天井を見ていた。梁の木目が火皿の灯に照らされて細い影を落としている。
「させるか」
一心の返事は遅かった。
「同じ轍は踏まん」
怒鳴りもせず、熱もない。その静けさのほうが、志貴には恐ろしかった。
志貴の血に濡れた右手は、まだ一心の袖を掴んでいた。力はほとんど入っていない。けれど布を離すことができなかった。一心が志貴の手の上から手を重ねた。袖を掴んだ指を剥がすのではなく、上から包むようにして。
ヨルノミコトが志貴の脇腹に身体を寄せた。毛並みは温かい。さきほど経路の中を駆けていたとは思えないほど穏やかな温度で、鼻先が志貴の肋骨の下に押しあてられ、小さな息が布越しに肌を温めている。
格子の外の灰色がゆっくりと白みを帯びていく。壁の亀裂から滲んだ水は薄い膜になって石の面に残り、朝の光を受けてかすかに光っていた。
志貴は口の中の鉄の味を飲み込んだ。舌の上にあるのは血の苦さだけで、紅い飴の甘さは、どこにもなかった。
黒の宮に、朝の気配が満ちていた。
布団に戻された背中が汗で冷えていくのを感じながら、志貴は一心の袖を離さなかった。腹の奥に残る鈍い熱が背中まで響いたが、それ以上に、経路の底でまだ咲貴の火が押さえ込まれている感触のほうが強かった。
「宗像に、行かな」
声が割れていた。喉にまだ血の味が残っていて、言葉のかたちが整わない。それでも志貴は起き上がり、床に足を着けようとした。
一心の手が、志貴の肩を押し戻した。乱暴ではなかったが、力の入り方に迷いがなかった。
「今のお前が行ったところで、捕縛されるだけや」
「咲貴が……まだ押さえ込まれてる……」
志貴は一心の手の下で肩を震わせながら、なお起き上がろうとした。襟元に新しい赤が滲んだ。唇からこぼれ落ちた鉄の匂いが朝の冷たい空気に混じる。
一心は志貴の顔を見下ろしていた。左目だけが、志貴の目をまっすぐに捉えている。その沈黙は短かったが、志貴には長く感じられた。
「明熾と冬馬を出す」
命令の声だった。志貴に向けた言葉ではなく、黒の宮の主が決定を下す声だった。石壁の奥の水脈がわずかに鳴り、その音が一心の言葉を宮の深部へ運んでいくようだった。
「お前が行くのはそのあとや」
志貴は唇をきつく噛んだ。納得したのではなかった。身体はもう動かなかった。掴んだ一心の袖を引くことしかできない。
「宗像に、行かな……」
同じ言葉を繰り返す志貴の額に、一心の右手が触れた。掌ではなく、指先だった。前髪を押し上げるようにして額へ触れ、それから首筋へ移った指が、番の痣のある場所で止まった。
志貴は、経路の奥がゆるやかに温まるのを感じた。一心の指先から注がれる熱ではない。番の結び目そのものが、志貴の意識の輪郭をゆっくりとほどいていく感触だった。視界の端から色が薄れ、格子の灰色が白に溶けていく。
「嫌や、一心」
眠らせないでと、言ったはずだった。けれど声が唇の外まで届いたかどうかは分からなかった。掴んでいた袖の感触が指先から遠のき、最後に残ったのは、一心の指先が首筋に触れている温度だけだった。
意識が沈む直前、経路の奥で咲貴の火がまだ揺れているのを感じた。小さく、けれど消えてはいなかった。
志貴の手が、一心の袖から滑り落ちた。




