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第73話 くれなゐ甘く 君は問ふ わが掌に


「何があったんか、話して」


志貴がそう言うと、冬馬は壁に預けていた背をわずかに起こした。


腕を組み直し、片足を壁から離して床へ下ろす。冥府の黒い衣は冬馬の肩にきちんと収まっているのに、動くたび、布だけがまだ身体のほうへ馴染みきっていないように見えた。宗像で見慣れた姿でも、現世で何度も見た服でもない。黒の宮の奥まった部屋の中で、その色は幼いころから知っている輪郭を、少しだけ遠く見せていた。


それでも、息を吐く癖は変わらなかった。


話しにくいことを話す前、冬馬はいつも一度だけ短く息を吐く。怒っているときも、面倒くさがっているときも、深く考えたくない場所へ足を踏み入れるときも、同じだった。


志貴は寝台の縁に腰を下ろしたまま、その癖を見ていた。


右手は膝の上にある。手袋の革は滑らかで、縫い目にも乱れはない。けれど、その内側にはまだ白の階で拾ったざらつきが残っていた。爪の裏を乾いた端で掻いたような感触が、掌の奥へ入りこみ、皮膚の下で薄く広がっている。握ると自分の指の形は分かるのに、その奥にだけ他人の息のかすれが混じっているようで、志貴は無意識に左手で右手を覆った。


首筋も、まだ細く疼いている。


応の間で言葉を張ったせいか、煌承の声が耳の底に残っていた。


『希詠とは、あまりに違う』


あの声は、侮辱よりも冷たかった。怒りや嫌悪の色があれば、まだ跳ね返しようがあったのかもしれない。けれど煌承は、まるで帳面の違いを読み上げるようにそう言った。その平たさが、かえって喉の奥に貼りついている。


冬馬は、すぐに話を始めなかった。


志貴の顔を見ていた。額から頬、顎の線、首元へと視線が下りる。値踏みではない。けれど、何かを確かめている目だった。


「先に、一個だけ言うとく。希詠のことや」


その名が出た瞬間、手袋の下で指が強張った。


志貴は返事をしなかった。


冬馬は急かさず、天井の梁のあたりへ視線を逃がした。黒の宮の梁は太く、夜明け前の薄い光を受けてもなお、墨を置いたように沈んでいる。


「宗像で見たことがある。お前が、眠ってたときや」


志貴は黙っていた。


宗像の中庭。志貴自身はその場にいながら、ほとんど意識の底に沈んでいた。


冬馬や明熾、赫夜、そして一心。皆、そこにいて、希詠の形を取ったものを見たことは聞いている。けれど、冬馬がその目で何を見たのかまでは、まだ聞いていなかった。


「一瞬、お前かと思った」


冬馬の声は低かった。


「姿形は似てた。間違える奴もおると思う。輪郭も、首の細さも、指の長さも、髪の落ち方も。よう似てた」


冬馬はそこで少し眉を寄せた。


「でも、違う」


志貴は右手を膝の上で握った。革が小さく鳴る。


「お前と姿形は似てるけど、女くさい」


思わず瞬きをした。


「言い方」


「これ以上うまい言い方あるか?」


「あるやろ」


「知らん。俺にはこれが一番近い」


冬馬は、少しだけ口を曲げた。自分の言葉が雑なことくらいは分かっているようだが、それでも別の言葉へ置き換える気はないらしい。


「でもな、あれは、全部が妙に揃ってた。綺麗やのに、生きた匂いがせえへんかった」


冬馬の声が、そこで少しだけ硬くなった。


「それが、お前の寝てる真正面に立っとったんや。整ってるとか似てるとか、そんなん考える前に腹が立った」


志貴は息を止めた。


冬馬の声に混じった硬さがある。見た目の印象を語っていたはずの声が、最後のひと言で色を変えた。


「お前とはなんか違う」


冬馬の視線が戻る。


「さっき応の間で顔見て、余計に思った。形がどんだけ似てても、あれはお前やない。希詠がどういう人やったか、俺は知らん。けど、あの夜に立っとったものと、お前は違う」


慰めとは違った。


冬馬は、似ていないとは言わなかった。似ていると認めたうえで、同じではないと言った。その雑な線引きが、妙に息を通した。


「俺が知ってるんは、お前や」


冬馬は短く言った。


「希詠がどうとか、そこは俺の持ち場やないしな」


志貴は何か返そうとして、すぐには声が出なかった。


「お前が凹む理由なんか、どこにもないんと違うか」


煌承の声も、明熾が一瞬目を伏せたことも、赫夜が視線を逸らしたことも、消えたわけではない。けれど冬馬の言葉は、その痛みを否定せず、少し横へずらした。


志貴は苦笑いした。


「冬馬、ほんま雑やなぁ」


「今さらやろ」


「でも、ちょっと助かった」


冬馬はそれ以上、希詠の話を引きずらなかった。


壁から背を離し、寝台の端にある椅子へ手をかける。腰を下ろす前に、一度だけ廊のほうを見た。誰も近くにいないと確かめるような間があり、それから椅子へ座る。


その動きで、部屋の空気が変わった。


「で、俺がどうしてこうなったんか、聞きたいんやろ」


「うん」


「俺も、後から聞いたことの方が多いくらいや。……あのときは、宗像を守るには夏を叩くしかなかった。それしか、道がなかったんや」


志貴は手に視線を落としたまま、冬馬の声を聞いた。


「春夏秋冬は、お前も知ってるやろうけど、仕掛けてくるなら、放っとける相手やない。……俺らがずっと春夏秋冬やと思ってたんはただの手下で、あのとき、宗像の地盤を食いに来とったんはほんまもんの夏やった。考える余裕なんか、ほんまになかったんや」


冬馬の声は平らだった。悲壮に飾っているわけでも、淡々と切り捨てているわけでもない。自分が見た順に、見たままを話している声だった。


「宗像の連中の顔が浮かんで、選択肢が消えた」


志貴は口を挟まなかった。


冬馬の話を聞いているあいだ、右手のざらつきは少しだけ遠のいていた。消えたのではない。意識の向き先が変わっただけだ。それでも、手袋の内側で膨らんでいた不快さが、さっきより浅く感じられる。


「後のことなんか、ほんまに考えられんかった」


冬馬が膝の上で手を組んだ。


「気づいたんは戦いの途中やった。押し込んで、押し込まれて、その中で分かった。ああ、目の前の奴を叩ききったなら、その空いた席に入るんが俺なんやって」


志貴の左手が、右手の上へ重なった。


「斬りあいを始めた時点では、そこまでは見えてへんかった。ただ、夏を止めなあかんことだけやったからな」


冬馬は一度、目を伏せた。床石に落ちた睫毛の影が、細く揺れる。


「でも、分かったあとも引けんかった」


静かな声だった。


「怖いとか嫌やとか考える前に、足が前に出とった」


「……退いて良かったんや」


志貴の声は小さかった。


冬馬はすぐに答えた。


「お前が俺でも、退かんやろ」


その一言に、飾りはなかった。


「後から考えたらな、道は用意されとったんやと思う。腹立つくらいに、巧妙にな。でも、その道に足を乗せたんは俺や。俺が、自分の足で夏の席に行った」


志貴は長く黙った。


冬馬は、自分で選んだ、と言った。その重さを誰にも渡さない声だった。


志貴は息を吐いた。


「……あんたの話聞いてると、いっつもそうやな。自分で選んだ、って。毎回それで全部引き受けて終わりや」


冬馬は少し笑った。


「お前に言われたないわ」


その返しに、志貴も少しだけ笑った。笑うと首筋が痛んだが、呼吸はさっきより通った。


帳の外で、衣擦れがした。


冬馬が振り返る。志貴も顔を上げた。廊から入ってきた足音はひとつ。石の床を踏む音は軽いのに、どこか沈んでいる。


「少し補足が必要そうだ。不要な誤解は残さない。だから、話しておく」


帳が持ち上がり、明熾が入ってきた。


いつから聞いていたのかは分からない。けれど、入ってきた明熾は言い訳をしなかった。柱際で足を止め、壁にはもたれない。必要な分だけを告げるためにそこへ立ったように、志貴には見えた。


冬馬が眉を上げた。


「聞いとったんか。性格悪いな」


「今知ったのか」


冬馬は舌打ちしたが、本気で怒ってはいなさそうだった。


明熾は志貴のほうを見た。


「冬馬の話は間違いではない。ただ、足りない」


志貴は頷いた。


明熾の声には、赫夜のような皮肉も、煌承のような冷えもない。そのぶん、ひとつひとつの言葉だけがはっきりと立つ。


「四天王は冥府においても厄介者だ。春は盤を読み、流れを変え、こちらが打つ前に手順まで食ってくる。秋、冬もしかり。だが、逃がしても痕跡は残るし、後から追える」


明熾は少しだけ目を細めた。


「夏は駄目だ」


その言葉で、部屋の空気が沈んだ。


「本領を発揮したとき最も手に負えない。春が盤を食うなら、夏は盤ごと壊す。走らせてから止められる相手ではない。他が逃げても立て直しは利く。だが、夏に一度、本気で動かれたら、後手では間に合わない」


冬馬は黙っていた。自分の座っている席の重さを、改めて聞いている顔だった。


「だから、兄上は動いた」


志貴は顔を上げた。


兄上と明熾の口から出ると、一心という名よりも自然に聞こえた。黒の宮の中で、兄弟の間にだけある距離が、その呼び方に含まれている。


「Veilmakerの爪がかかるより先に、最も危険な席を差し替える必要があった」


冬馬が小さく息を吐いた。


「俺、それ聞いてへん」


「聞かせれば、お前は迷った」


「迷わんわ」


明熾は冬馬を見た。


「迷わないなら、なお悪い。知った上で余計な無茶をした」


冬馬は口を開きかけ、結局閉じた。反論しきれなかったらしい。


明熾は言葉を続けた。


「さらに深刻だったのは、壮馬の冬馬への干渉だ」


その名が出た瞬間、志貴の胸が冷えた。


冬馬の顔から、わずかに色が抜ける。


「俺に?」


「そうだ。兄上は、冬馬の肉体に干渉すると見ていた。その危険は、空論ではなかった」


「……俺、ほんまに聞いてへんぞ」


「父親に肉体を狙われているなんて、あの時点のお前に聞かせる必要がなかったのだろう」


明熾の声は冷たくはなかった。だが甘くもない。事実を並べるだけだった。


「宗像側に立たせたままでは危うい。夏の席に入れば、冥府の律が冬馬の身に通る。冥府の律を帯びた身体には、壮馬の干渉は届かない」


志貴の右手が、膝の上で冷えた。


冬馬が夏になること。

宗像を守ること。

壮馬の手から冬馬を遠ざけること。


別々だと思っていたものが、ひとつの線で繋がっていく。志貴には、その線の全体は見えない。けれど、明熾の言葉がひとつずつ落ちるたび、見えていなかった場所に輪郭が浮かんでくる。


明熾は少しだけ間を置いた。


「兄上はそういう打ち方をする」


部屋が静まった。


冬馬はしばらく黙っていた。やがて、軽く天井を仰ぐ。


「……あいつらしいわ。俺が、夏にならんかったらどうするつもりやったんや」


怒りがないわけではなさそうだった。けれど、そこに呆れもあり、納得もあった。志貴には、冬馬がその一言で何を呑み込んだのかまでは分からない。ただ、冬馬の肩から余計な力がひとつ抜けたように見えた。


志貴は苦笑いした。


「一心って、ほんまに……」


言葉が続かなかった。怒るべきなのか、呆れるべきなのか、感謝すべきなのか。どれも違い、どれも少しずつ合っている。


冬馬が横から言った。


「あいつ、性格悪すぎやろ」


「間違いないわ」


冬馬が小さく笑った。明熾は何も言わなかったが、否定もしなかった。


「兄上なりの信頼はあっただろうがな」


明熾はほんの少しだけ笑って、ゆっくりと踵を返した。


「俺は戻る。白の階がこのまま退くとは限らない」


冬馬はすぐには動かなかった。膝の上に置いていた手を一度だけ握り、ほどいてから立ち上がる。


「俺も行くわ。志貴、ちょっと寝た方がええで」


「寝られるなら、とっくに寝てる」


冬馬は扉へ向かいかけ、ふと振り返った。


「志貴、またしんどなったら言え。雑に言うたる」


「雑なん前提なんや」


志貴は少し笑った。


冬馬と明熾が出ていくと、部屋は急に広くなった。廊を遠ざかる足音が石の壁に当たり、しばらく細く響く。それも、やがて消え、黒の宮の静けさが戻ってきた。


志貴は寝台の縁に座ったまま、右手を見下ろした。


ざらつきは残っている。首筋の疼きも消えていない。希詠の名も、煌承の声も、冬馬の選択も、兄上と呼ばれた一心が切っていた盤面も、すべて胸の中にある。


けれど、それらが一斉に志貴を押し潰す感じは、少しだけ薄れていた。


格子の外の光が変わりはじめている。月の白さではない。まだ朝とも呼べない、薄い灰の光だった。黒の宮の石壁はその光をすぐには返さず、ただ冷えを抱えたまま、ゆっくりと輪郭を浮かべていく。


そのとき、部屋の空気がわずかに動いた。


玄綾の護りとは違った。玄綾の気配は宮そのものに染み、壁や床の奥から志貴を包む。今の気配はもっと近い。志貴の傍へ、声もなく寄ってくるものだった。


体温というには冷たく、石の冷えとも違う。獣の毛皮に顔を埋めたときの、乾いた温かさだった。頬でも指先でもなく、腕の内側がそれを知っていた。


寝台の足元の影が濃くなる。


影の中から、小さな狼が現れた。


黒に近い毛並み。尖った耳。ふさりとした尾。両腕で抱えられるほどの小さな姿なのに、瞳の奥には小ささに似合わない古い光がある。夜の水底に沈む灯のような、静かな光だった。


「……一心の」


声がかすかに震えた。


狼は片耳だけを動かした。返事はない。けれど否定もしない。


志貴は理屈より先に手を伸ばしていた。床へ膝を下ろし、そっと抱き上げる。狼は暴れなかった。牙も爪も立てず、志貴の腕の中へ収まる。


毛は変わらず柔らかかった。


眠りの底で、声もなく傍にいたものの温度を、皮膚が覚えていた。


志貴はそのまま胸元へ抱き寄せた。ぎゅっと腕に力を入れる。狼は逃げない。むしろ、顎を志貴の腕へ預けた。


「ぬくいな」


耳がぴくりと動く。


「かわいい」


もう片方の耳も動いた。


志貴は頬を寄せた。柔らかな毛が頬に触れる。右手のざらつきとは違う、今ここにある感触だった。首筋が疼くたび、狼の身体から冷たい水のような気配が薄く染み出し、痛みの縁を静かに撫でていく。




***




扉の外で足音がした。


志貴は顔を上げた。歩く速さ、床石を踏む重さ、衣擦れの間隔。聞き分ける前に分かった。一心だった。


一心が入ってきた。黒い衣を隙なく着込み、右眼を覆ったいつもの姿だった。片手に湯気の立つ碗、もう片方に小さな薬包を持っている。


一心は足を止めた。


寝台の上の志貴と、その腕の中に収まった小さな狼を見る。隻眼がわずかに細くなった。


「お前か。神鬼の矜持は、どこにいった」


低い声だった。


「そんな姿で抱かれて、ずいぶん安いぬいぐるみになったな。志貴にだけ甘すぎるやろ」


狼がゆっくり顔を上げた。


口が動く。声は小さな姿に合わず、低く静かだった。


「あなたもでしょう」


志貴は一心と狼を交互に見た。


一心の口元が止まる。何を指しているのかまでは分からない。ただ、一心が否定しなかったことだけは分かった。


「その姿で言うな。締まらん」


「この姿を好まれたのは志貴様です」


様、と呼ばれたことに一瞬だけ引っかかった。けれど膝の上の小さな姿があまりに澄ましているので、志貴は少し笑ってしまった。応の間から胸に残っていた硬さが、そのやり取りでほんのわずか緩む。狼は志貴の腕の中で尾を一度だけ揺らした。


「この子の名前、ヨルノミコトやったよね?」


志貴が訊くと、一心は碗を卓へ置いた。


「そうや」


志貴は狼を見下ろした。小さな身体に似合わない古さ。牙を隠した静けさ。けれど、志貴の腕の中ではただ柔らかく、温かい。


「かわいいなぁ」


「本人の前で言うな」


「別にいいやんか」


「調子にのるから言うな」


ヨルノミコトは目を細めただけだった。怒ってはいないように見えた。


一心は薬包を開け、碗の横へ添えた。


「飲め。どうせ、寝てへんやろ」


志貴はヨルノミコトを膝に抱いたまま、碗を受け取った。湯には薄く薬草の匂いがする。粉薬を落として溶かすと、苦みに混じってかすかな甘さが立った。


ひと口飲んで、志貴はふと一心を見た。


一心は志貴の向かいに腰を下ろしていた。自分の碗はない。何かを飲む気配もない。そのこと自体は珍しくないはずなのに、今は妙に引っかかった。


食事の場でも同じだった。


一心は食べる。飲み込む。けれど、味へ反応しない。旨いとも不味いとも言わない。温度や硬さは確かめているのに、味わっているように見えない。ずっと気になっていた違和が、今になって形を持った。


「一心……味、分かる?」


一心の手が止まった。


膝の上のヨルノミコトも動かない。琥珀の瞳だけが、一心へ向いた。


一心はごまかさなかった。


「あまり分からん。よう気づいたな」


志貴は碗を持つ手に力を入れた。


「見てりゃ、分かるって。……いつから?」


「覚えてへんくらい前からや。生まれてから、ずっとかもな」


志貴は息を呑んだ。


「食えへんわけやないから、困りはせん」


困らない、と一心は言った。


その言い方が、かえって胸に刺さった。


「この眼のせいやろ。異能はただやない」


声は重くなかった。事実を述べるだけの声だった。


「得れば、失う。どこを削られるかは選べん」


志貴は碗の中を見た。苦みに混じる甘さが、舌の上にまだ残っている。


この碗を作ったとき、一心にはこの甘さが届いていなかったのだと思った。薬草を選び、湯の温度を整え、飲みやすい配合にしている。それなのに、自分の舌では旨いか不味いか分からない。分からないまま、志貴の舌に届くものを作っている。飲み終えたあとになって、そのことの重さが胸の底へゆっくり落ちてきた。


志貴は碗を卓へ戻した。右手の手袋が陶器に触れ、かすかに擦れた音を立てる。一心の視線がそこへ落ちる。


「それ、外せへんのか」


志貴は右手をすっと引いた。


「俺とおる時は要らん」


「それ、何回も言う」


「当たり前や」


一心は志貴の前へ移った。寝台の前に膝をつき、手を差し出す。志貴が逃げる余地を残したまま、待っている。


志貴は右手を見た。


外すのは怖かった。手袋の中に閉じ込めているざらつきが、素肌で空気に触れたら、またはっきり立ち上がる気がした。


けれど、一心の前でだけは、その怖さが少し違う形になる。


ヨルノミコトは止めなかった。志貴の膝の上で小さく丸くなり、一心の手をじっと見ている。


志貴は右手を差し出した。


一心が手首を取る。強くはない。逃げられないように掴むのではなく、震えを受けるような触れ方だった。留め具を外し、革の端を緩める。


そのまま、一心は手袋の指先を口元へ寄せた。


歯が、革を浅く咥えた。


志貴の息が止まる。


一心は目を逸らさず、ゆっくり引いた。革が指から抜けていく。人差し指、中指、薬指。関節を越えるたび、冷えた空気が素肌へ触れる。親指の根元で一度ひっかかったところを、一心は急がず外した。


志貴の右手が露わになった。見た目には何もない。傷も腫れもない。けれど指の内側にはまだ、乾いたざらつきが残っている。


素肌に触れた空気が、そこだけ細く冷えた。


一心はその手を両手で包んだ。


そのまま、志貴の指先を逃がさないように支えたまま、ゆっくりと手を持ち上げる。


志貴は息を止めた。


何をされるのか分かるより先に、一心の唇が掌の中央へ触れた。


熱を奪うような口付けではなかった。ただ、そこにあるものを確かめるような、静かな触れ方だった。


一瞬、右手のざらつきが遠のく。


皮膚の内側にこびりついていた乾いた感触が、水を含んだ墨のように輪郭を失って、じわりとぼやけた。


志貴の肩が小さく揺れる。指がわずかに引きそうになったのを、一心は責めるでもなく、そのまま包んでいた。


「……一心」


声が掠れた。


一心は掌から唇を離しても、手は放さなかった。眼帯の下の気配だけが、ひどく近かった。


「そんな顔すな」


低い声が落ちる。


「怖いもんに触れた手やろ」


志貴は答えられなかった。


一心の親指が、掌の縁を一度だけなぞる。


「よう戻ってきた、いうだけや」


その言い方があまりに静かで、志貴は余計に息が詰まった。


ざらつきは消えていない。けれど今は、その感触ごと一心の手の内に置かれている気がした。


志貴はすぐには声を出せなかった。


掌の中央に残った唇の熱が、指の内側までじわじわと広がっている。白の階から持ち帰ってしまったものがまだそこにあるのに、その上から一心の温度が重なっていた。


その温度が遅れて胸の奥へ届いた途端、息の仕方が少し分からなくなった。


それでも、このまま包まれていれば、白の階から持ち帰ってしまったものまで一心のほうへ流れていくかもしれない。そう感じた瞬間、志貴は指を引きかけた。


一心は握る力を変えなかった。引き寄せもしないが、逃がしもしない。


「逃げんでええ」


志貴は唇を噛んだ。


「いつまた勝手に拾うか、分からんやん」


「拾ったら、半分こっちへ寄こせ」


「そんな簡単に言う」


「簡単やないって分かってるから言うてるんや」


一心の眼帯の下が、わずかに熱を持ったように見えた。


志貴は包まれた右手を見た。ざらつきは消えていない。だが、一心の掌の中では、それが志貴の手を丸ごと奪うほど大きなものではなくなっていた。


一心は片手を離し、衣の内側から小さなものを取り出した。


いつもの紅い飴だった。


薄紙にも包まれていない。深い紅の小さな塊が、一心の指先に乗っている。火皿の光を受けて、表面に淡い艶が浮かんでいた。いびつな丸さで、飴細工のように整ってはいない。それでも、黒の宮の暗い部屋では、その色だけがひどく温かく見えた。


「これなら、食えるやろ」


志貴は飴と一心の顔を見比べた。


「味分からへんくせに」


「俺が食うわけやない」


あまりに平然としていて、志貴は少し笑った。


「甘い、とは聞いたことがある」


「誰に」


「お前に」


一心の目元がかすかに緩んだ。


志貴は素手の右手で、紅い飴を受け取った。指先が一心の指に触れる。乾いていて、温かかった。


飴を口に入れる。


甘さが舌の上でゆっくり広がった。最初は砂糖の素直な甘みで、あとからかすかな酸味が上がる。果実のようでもあり、花のようでもある。強くはないのに、喉へ落ちたあとまで残る甘さだった。


「これを渡す相手は、お前だけや」


志貴は目を伏せた。これは今ここにいる志貴へ向けられたものだと、そう受け取った。


ヨルノミコトが、志貴の膝の上で静かに目を閉じる。


飴が舌の上で小さくなりかけたとき、一心が口を開いた。


「何がしたいか、言うてみろ」


志貴は顔を上げた。


その一言は、応の間で誰も志貴へ向けなかった問いだった。


管理するのか、差し出さないのか。希詠とどれほど違うのか。志貴についての言葉はいくつも出た。それでも、志貴が何を望むのかは、誰の口からも出なかった。


紅い飴が舌の上で小さくなる。


志貴の右手は素手のまま、一心の掌の温度を覚えていた。膝の上には小さな狼がいる。格子の外では、夜明け前の灰色の光が黒の宮の石壁をゆっくりと浮かび上がらせている。


志貴はすぐには答えられなかった。

紅い飴の甘さが舌に残り、掌には一心の熱があった。


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