第72話 さはらぬ手に なほ残るもの 名も知らず
夜明け前の黒の宮は、息づかいまで奥へ吸いこんでしまうように静かだった。
灯はほとんど落ち、格子の向こうから差す薄い光だけが、寝台の縁と床の石の継ぎ目を白くなぞっている。昼のあいだにわずかなぬくみを含んでいた空気はとうに退き、帳の裾をくぐる風には、廊の奥から流れ込む石の冷えが混じっていた。床も壁も夜の深まりに従って冷えを増し、その気配は寝台の脚元にまで忍び、掛布をめくらずとも肌へ触れてくる。
志貴は横になったまま、右手だけを胸の上に乗せていた。手袋の革は昼と同じように指へ沿っているのに、その内側だけが、いつまで経っても自分のものへ戻ってこない。
爪の裏に、ざらつきが残っていた。何かに引っかけたわけでもないのに、硬い端を掻いたあとのような感触が消えない。指をゆるく開いても、それは薄れず、掌の奥へ移るだけだった。
白の階の袂で触れたのは、ほんのわずかな覆いの端だったはずだ。焼いたのでも、引き裂いたのでもない。絡み合った層の順を、指先でたどっただけだ。それでも、あのとき指へ返ってきたものが、まだ腕の内側に残っている。
呼びかけようとして、音になる手前で折れた息があった。紙の上で止まった筆先のためらいがあった。書けるはずの名へ届かず、途中で力を失ったまま消えた声があった。
どれも目に見えたわけではなく、耳で聞いたわけでもない。けれど、名の覆いに触れたあの瞬間、覆いの下から漏れ出していたそれらの残り香を、志貴の指先は確かに拾っていた。いまは自分のものではないその気配が皮膚の裏を這い、肘から肩へ、肩から首筋へとゆっくりのぼってくるのを、止めることができない。
志貴は左手で右の手首を掴んだ。押さえたところで止まりはしない。それでも何もしないよりはましだった。革の下で脈だけが速く、掌に汗が滲んでいるのが分かるのに、ざらつきのほうはいっこうに湿らない。乾いたまま皮膚へ貼りつき、自分の手の感覚だけを遠くへ追いやっている。
うとうとと意識が沈みかけるたび、音にならなかった声の切れ端が寄ってくる。喉の奥で何かが引っかかるような感じがして、志貴は浅い息のまま目を開けた。天井の梁が暗がりの中に黒い線を引いている。あの梁の数を何度数えたか、もう分からない。
首筋の奥も、じくりと疼いた。
昔から、首元に何か触れようものなら不快を覚えた。理由は分からない。ただ今夜のそれは、不快というより、もっと深いところで細い針が刺さったまま、わずかに動くような痛みだった。右手のざらつきと首筋の疼きが、皮膚の下のどこかでひとつにつながっている気がして、志貴は寝台の上で膝を折った。身を起こすと、肩から背中にかけて汗が冷えているのが分かった。思ったより汗をかいていたらしい。
名を返せたわけではない。
あの官吏へ届いたのは、ほんの一画だけだった。覆いの下に沈んでいたものを、少し表へ出したにすぎない。届いたものはまだ向こうにあり、その手ざわりだけがこちらに残っている。
どこまでめくればよかったのか、今でも分からない。あれ以上指を入れれば、覆いの下にある名そのものまで傷めてしまいそうだった。名の層はひどく薄く、覆いと地の境目がどこにあるのか、触れている最中にも判別できなかった。その怖さが、指先に染みついたまま取れない。
帳の外で、衣擦れがした。
すぐ傍ではない。この部屋の前を誰かが通っただけだ。黒の宮は人が少ないぶん、ひとつの物音が壁と石の床に反射して、思いのほか鮮明に響く。志貴は耳を澄ませたが、足音はすでに廊の角を曲がったのか、その後には何も続かなかった。ただ、冷えた静けさだけが部屋の隅々へ戻ってくる。
志貴は起き上がり、格子の傍まで歩いて右手を月明かりの下へかざした。手袋の革は滑らかで、縫い目も乱れていない。表から見るかぎり異変は何もない。だが、革越しに伝わってくる自分の指の感覚だけが、昨日までとは違っていた。
手袋を外そうとして、やめた。
外したところで、ざらつきが消える気がしなかった。むしろ素肌を晒したら最後、あの覆いの下から拾ったものが空気に触れ、いっそうはっきり肌に根を張るような気がした。
ふと、香が流れてきた。黒の宮のどこかで絶えず焚かれている沈香だろう。甘さの底に木の皮を焦がしたような苦みが混じる、重く静かな匂いだった。初めてここへ入った夜にも、一心の匂いに似ていると思った。一心が纏っている衣にも、髪にも、この沈香の名残がいつも薄く載っている。似ているのに、落ち着くより先に胸のどこかが醒めるのは、そこに本人の体温が混じっていないからだと、今夜ははっきり分かった。
今夜、一心は戻ってこなかった。弟たちと何事か話し込んでいると玄綾が言っていたのは、寝る前のことだ。それきり足音もなく、寝室は一心の気配だけが抜けたまま夜を越そうとしている。
漂う香りは同じなのに、そこへ手を伸ばしても何にも触れられない。匂いだけが一心の形をして部屋に残っていることが、かえって不在を際立たせた。そのことが、なおさら夜を長くした。
志貴は寝台へ戻り、柱へ背を預けて右手を左手で包み込んだ。左の掌のぬくもりが革越しに伝わる。指を一本ずつ、左の親指でなぞるように押さえていくと、ざらつきは消えないまでも、自分の体温が少しずつ手袋の内へ移っていくのが分かった。
頼りなくても、それは誰かの欠けたものではなく、いま自分の手の中にある熱だった。確かなものではなくても、それだけは自分のものとして掌に残った。
やがて、外の空気がわずかに変わった。夜のあいだ沈みきっていた宮の空気が、ほんの少し張りつめる。石の冷えが和らいだというより、冷えの質が変わった。夜の底の冷たさから、夜明けを控えた空気の冷たさへ。志貴が顔を上げたとき、廊の向こうで控えめな足音が止まった。
「起きてるかい」
玄綾の声だった。
志貴が返事をすると、帳が少しだけ持ち上がった。幼い姿のままの玄綾は、格子から漏れる薄明かりに照らされた志貴の顔を見るなり、眉を寄せた。
「顔色が悪いね」
「寝れてないだけや」
「そうか」
玄綾はそれ以上追及せず、代わりにほんの少しだけ声を落とした。
「今、白の階の主が来てる」
志貴は右手を握ったまま、顔を上げた。
「……煌承って人?」
「そうだよ。こんな時間に、ずいぶん律儀なことだ」
玄綾は鼻で笑ったが、その眼は笑っていなかった。笑いの形だけを唇に載せて、視線は志貴の右手の上で止まっている。
「坊ちゃんが出る。あんたはこのままだ。いいね」
「私のことで来たんやろ」
「だからだよ」
短く切られて、志貴は言葉を飲みこんだ。右手のざらつきが、また爪の裏で立ち上がる。黒の宮に来た客の用件が自分であるなら、なおさら自分がそこにいるべきだと思うのに、その理屈が玄綾に通じないことも、また分かっていた。
***
志貴は二度ほど食い下がった末、扉をひとつ隔てた脇の間へ押し込まれた。玄綾に背中を押され、明熾に目で止められ、最後は一心の「奥におれ」の一言で観念した。
それでも不服は収まらず、志貴は板戸を睨んだまま動かなかった。声がよく通る位置ではある。だが、それだけで引き下がれるほど素直でもない。
その様子を見て、玄綾が小さく息をついた。指先をひとつ払うと、板戸の木目の上へ応の間の像が淡く浮いた。
志貴は思わず息を止めた。水面を打ったように揺れた像は、ほどなく輪郭を結び、向こうの間をそのまま映し出した。
黒の宮の応の間は、朝夕に関わらず暗い。
高い天井の梁が幾重にも影を落とし、窓から入る光は磨かれた石の床の一部を白く切り取るだけで、部屋の奥までは届かない。壁に沿って据えられた燭台の火も、この広さに対しては心もとなく、明るさよりむしろ暗がりの深さを際立たせていた。普段なら人の出入りの少ないその場所に、白衣の官吏が二人、柱際に控えていた。その立ち姿は息をしているのかさえ疑わしいほど整っていて、白衣の袖ひとつ揺れていない。中央には煌承が立っている。雪のように仕立てられた衣の襟元まで乱れがなく、指先に至るまで、ここが白の階の延長であるかのように静かだった。応の間の暗さの中で、煌承とその従者だけが白く浮いている。
一心はその正面にいた。
黒い衣を隙なく着込み、いつも通り右の眼を覆っている。立ち姿にも声にも揺れはない。だが、一心が立っている側の空気だけが、目に見えないほどわずかに重く沈んでいた。それは威圧というには静かすぎ、敵意というには温度がなさすぎる。ただ、煌承が踏み込めない領域がそこにあるということだけが、二人のあいだの距離に滲んでいた。
「確認に参りました、兄上」
煌承の声が、すべるように板戸を通り抜けてきた。低く、滑らかで、声の粒そのものに乱れがない。
「白の階で起きた件についてです。看過できぬ事態でしたので、ご容赦ください」
「確認だけなら、さっさと済ませて帰れ」
一心の声は低く、素っ気なかった。最初から話を長くする気がない。この場を設けたこと自体が、一心にとっては煌承への譲歩なのだろうということが、その一言の温度で分かった。
「名を覆う層に、あれほど明確に届いた例はありません」
煌承はその素っ気なさを意に介した様子もなく続けた。声の調子も速度も変わらない。一心の態度がどうであれ、同じ内容を同じ精度で話すつもりなのだと、その一定さが示していた。
「白の階の官吏、記録簿、呼称の層、いずれにも反応が出た。記録も取っています」
「だから何や」
「届く手である以上、把握し、管理し、必要な場で使うべきだということです」
志貴は長椅子に背を預けたまま、向こう側へ目を向けた。煌承は、おそらく少しも声を荒げていない。白の階で見たあの端正な横顔のまま、一切の表情を動かさず、罪状を読み上げるようにこちらの異能を語っているのだろう。
「名が欠ける現象は、白の階だけの問題ではありません。下街にも及び、いずれは冥府全域へ広がる。役立つものを役立てずにおいて、何が秩序です」
一心はしばらく黙っていた。その沈黙のあいだに、応の間の空気がもう一段重くなったのが、板戸越しにも伝わった。一心が黙ることと、一心が考えていることは別だ。あの沈黙は間を置いているのではなく、煌承の言葉を量っているのだと、志貴にはもう分かる。
「役立つから使う、で済むもんやない」
「代償がある、と仰るのでしょう」
「あるやろな」
「だからこそ、白の階の管理下へ置くべきだと申し上げています」
煌承の声は少しも変わらなかった。
「検証もせず、再現も取らず、黒の宮の内へ抱え込むのは職分の放棄です。相手が帷を使うなら、こちらも届く手を使わねばならぬ局面があります。綺麗事だけで冥府は回りません」
右手の掌が、また粗い感触を訴えた。志貴は膝の上で右手を握りしめた。革の内側で指が汗ばむ。
綺麗事だけで回らない。その言葉が、いやに真っ直ぐ板戸を通り抜けてきた。間違っていないように聞こえるぶんだけ、胸の底が気持ち悪くなる。正しいことを言われているはずなのに、その正しさの中に自分がひとつも入っていないことが、どうしようもなく嫌だった。
「お前が使いたいんは、届く手やない」
一心が言った。
「従う手や」
そこで初めて、煌承の声にわずかな冷えが混じった。それまでの滑らかさが一瞬だけ途切れ、次の言葉が出るまでに、ほんの少し間が空いた。
「従わせねばならぬものなら、従わせます」
志貴は息を止めた。
脇で玄綾が小さく舌を鳴らした。その音は呆れとも苛立ちともつかず、長く生きた者が何度も同じものを見てきた疲れのようなものを含んでいた。
「兄上は必要なときだけ黒の千年王であれば済む。あなたが長く不在でも、こちらは回してきました。嫌な役も、汚れる役も、すべて白の階が引き受けてきました。そのうえで、誰かが引き受けねばならぬものへも、私が手を掛けてきました」
嫉みだと断じるには、煌承の声は静かすぎた。抑揚のないその言い方の奥に、言葉にしきらない何かが沈んでいるのが分かった。それが何なのかは志貴には分からない。ただ、軽いものではないということだけが、乾いた声の響きから伝わってくる。
「あなたは何もせずとも恐れられ、前では頭を垂れざるを得ない。私は違う。だから使えるものは使う。それだけです」
一心の返事は短かった。
「一緒にすんな」
「一緒です。冥府を保たせるという一点においては」
「大違いや」
一心の声が、ほんの少しだけ深くなった。それは怒りの深さというより、言葉の根がもう一段下の場所から出てきたという変化だった。
「志貴は処置具やない。お前が帳面に載せて、好きな時に引っ張り出せるもんやない」
「処置具ではなく、対処手段です」
「言い換えても同じや」
沈黙が落ちた。応の間の暗がりの中で、燭台の炎だけがかすかに揺れている。その気配が、板戸越しにも聞こえそうなほどの静けさだった。
志貴の首筋がじくりと疼く。右手のざらつきも消えない。耳を塞ぎたいのに、板戸一枚向こうのやり取りから意識が離れない。自分の身体のことを、自分の異能のことを、見知らぬ場所で値札をつけるように語られている。その不快さが、右手の異物感と重なって、胸の奥で鈍く膨らんでいた。
「白の階が預かります」
煌承が言った。沈黙のあとの第一声にしては、あまりにも迷いがなかった。
「異能の再現、記録照合、負荷の検分も含め、すべてこちらで行うべきだ。宗像の娘を最高位の住居へ安易に置いていること自体、すでに秩序に反しています」
「安易に置いた覚えはない」
「ではなお悪い。王の番を最奥へ置き、公にするおつもりですか。逆鱗を懐へ抱いたまま、何を守れると」
その言葉のあと、板戸の向こうで誰もすぐには動かなかった。さっきまで続いていた声が、そこで一度ぴたりと止まった。
番は弱点だ、と玄綾は言った。王の完成を損なうもの、持つべきではないもの。歴代の王は番を持たぬか、持っても秘した。あの夜、玄綾がそう教えてくれたときの淡々とした声を、志貴はまだ覚えている。
煌承はそこを真正面から切りつけていた。
「先の番がどうなったか、忘れたわけではないでしょう」
先の番という言葉が出た瞬間、板戸の向こうの空気が硬くなった。赫夜も明熾も、息を止めたように動かない。その反応だけで、存在自体、ここでは簡単に出していいものではないのだと分かった。
「兄上が何を選び、何を失ったか。結局また同じことを繰り返すのですか。Veilmakerとやり合えるのは黒しかいないというのに」
一心の返事は、すぐには来なかった。
志貴は胸の前で両手を組んだ。手袋の革がきしむ。自分のせいで揉めている。自分がここにいるから、一心と煌承のあいだにこの亀裂が走っている。そこで一瞬だけ思う。自分がここを出れば済むのかもしれない、と。黒の宮から離れれば、一心は煌承と戦わずに済む。番という弱点も消える。そう考えた瞬間、胸の奥が冷たく縮んだ。
だが、その考えは次の一言でひっくり返った。
「通常の王やったら、そうやろな」
一心の声だった。沈黙のあとに出てきた声は、先ほどまでの低さとは違い、ごく静かに凪いでいた。怒りが消えたのではない。怒りよりも深い場所から、もう動かない言葉を取り出してきたような声だった。
「番は弱みや。持つべきやない。お前らの理屈はよう知っとる。だけどな、俺の番は千年王や。どこに弱みがあるんか、言うてみい」
志貴は息を呑んだ。
「契約はもう済んでる。今さら白の階が口を挟む余地はない。昨日の件で分かったんは、あの異能は安易に触らせてええもんやない、いうことだけや。代償が見えん以上、二度と好きに使わせる気はない。黒の宮が不適切や言うなら、閉じてやる」
そこで一心は一度言葉を切った。応の間に残った沈黙の中で、煌承が何か言いかけたように見えたが、一心の次の言葉がそれより早かった。
「志貴を差し出すことは絶対にない」
差し出さない。その言葉自体は嬉しいはずなのに、胸のどこかが引っかかった。差し出されるか、差し出されないか。煌承と一心のあいだで、自分の扱いが議題になっている。一心は守る側の言葉を使い、煌承は管理する側の言葉を使い、どちらの口からも志貴自身の意思は出てこない。その話し方の中で、自分が物として数えられている気がした。
志貴は立ち上がった。
「待ちな」
玄綾が低く言った。
志貴は首を振った。もう無理だった。自分のことを、自分のいないところで、処置だの秩序だの番だのと決められている。そのうえ、一心まで自分を抱え込む側の言葉で切り返している。一心が間違っているとは思わない。煌承に志貴を渡さないという判断は、おそらく正しい。けれど、その正しさの中に自分の声がひとつも入っていないことが、右手のざらつきとは別の種類の気持ち悪さとして喉の奥に溜まっていた。
確かに、自分は黒の千年王の番なのだろう。けれど、それだけではないはずだった。
板戸に浮いていた応の間の像が、志貴の立ち上がる気配に合わせるようにかすかに揺れた。
玄綾が止めるより早く、志貴は板戸を押し開いた。木目に浮いていた像は、その動きに掻き消えるように消えた。
***
応の間の空気が、ぱたりと止まった。
白衣の官吏が息を呑む。赫夜が眉を上げ、明熾が視線だけを寄こす。冬馬は柱際に寄りかかったまま、口の端に小さな笑いを浮かべた。冬馬だけが、志貴が出てくることを最初から分かっていたような顔をしている。
一心の顔だけが変わらない。
「奥におれ。そう、言うたやろ」
「そんなもん、無理に決まってるやろ」
志貴はそのまま前へ出た。右手の気持ち悪さも、首筋の疼きも、まだ残っている。けれど今は、それより先に言葉が出た。板戸の向こうで溜めていたものが、立ち上がった瞬間に喉まで上がってきていた。
「確かに、私は黒の千年王の番や。それは否定せえへん。自分で決めたことやしな」
煌承がじっとこちらを見る。帳面の上の数字を読むような目で、志貴の全体を見渡していた。値踏みされている、と感じた。その視線に怯むより先に、志貴の口が動いた。
「忘れてもらったら困るんやけど、私は紅の千年王や」
自分で口にした瞬間、足元が少しだけ定まった気がした。誰かに教えられた答えではなく、自分の中にあったものを、自分の口で言った感覚だった。
冥府へ来てから、千年王という言葉はいつも外側から貼りつけられるものだった。百日の眠りの末に目覚めたときでさえ、紅の千年王という名は他人の口から出てきた。けれど今、自分で言った。その違いが、声にした瞬間にはっきりと分かった。
「冥府が頭下げて頼む言うなら、まだわかる。でも、なんで私があんたらの言いなりになって、己の異能をおいそれと差し出さなあかんのや」
赫夜がわずかに目を細める。面白がっているのか、呆れているのか、その表情からは読めない。
煌承の顔色は変わらないが、その眼だけが一段冷えた。先ほどまでの観察する目から、警戒する目に変わっていた。
「黒の千年王が長いことおらんでも、冥府は回ってたんやろ」
志貴は一心を見なかった。見れば、たぶん言い切れなくなる。一心の顔にどんな色が浮かんでいるか確かめてしまったら、次の言葉が喉で止まる。
「なら、今さら役割を果たせ言うて、一心を縛る筋も、私を預かる筋もないやろ。それに、あんたに言われて聞くような男やないことくらい、いちばん知ってるはずや」
すぐそばにいた玄綾が笑いを噛み殺している。もう止めに来る気配ではなかった。
「私は、私の判断で、好きな時に、好きな場所へ行く」
そこまで言ったところで、志貴はようやく煌承を真っ直ぐ見た。白い衣に包まれた煌承の姿は、応の間の暗がりの中で、燭台の光を受けてもなお冷たく浮いていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
煌承はしばらく何も言わなかった。言い返す前に、一心の方を一度見た。冷えた顔のままなのに、兄へ向けるその目には、さっきまで志貴へ向けていた値踏みとは別の色が混じって見えた。やがて、煌承はゆっくりと口を開いた。
「希詠とは、あまりに違う」
吐き捨てるでもなく、言い聞かせるでもない、平らな声だった。
「あれであれば、兄上のためなら、どれほど不快でも耐えていたはずだ。これほど前に出ることもなかった」
誰もすぐには動かなかった。燭台の火がひとつ、小さく鳴っただけで、応の間はしんと静まり返っていた。
「……確かに」
低く漏れた声に、志貴は視線を向けた。
明熾が目を伏せ、赫夜がわずかに視線を逸らす。それだけで足りた。胸の奥で、何かがすっと冷えた。
希詠ならこうはしなかった。希詠なら耐えた。希詠なら前に出なかった。
そういうふうに見られていたのだと、今さら分かった。比べられたことより、その像がここではまだ生きていて、自分がその隣へ黙って並べられていたことのほうが痛かった。
喉の奥がひりついた。何か言い返せばよかったのに、うまく息が入らない。さっきまで足元を支えていたはずの言葉が、急に薄くなった気がした。
そのとき、乾いた笑いが場を割った。
「何言うてんねん」
冬馬だった。
柱から身を起こし、肩をすくめて志貴を見る。その動作には力みがなかった。場の空気が凍っていることを分かっていないはずはないのに、分かっていないような顔で笑っている。
「これが通常運転の志貴やろ」
志貴は思わずそちらを見た。
冬馬は笑っている。からかうでもなく、慰めるでもなく、ただ当たり前のことを言うみたいに。希詠の名前が出て場が凍ったあとに、冬馬だけが知るかというように笑っている。
「いまさら何と比べてんの」
その一言で、息の詰まっていた胸が少しだけ動いた。比べるな、とは言っていない。比べること自体が今さらだと言っている。その一言の中に、冬馬が志貴を最初からそのまま見ていたという事実だけが入っていた。
赫夜が小さく舌打ちした。苛立ちなのか、冬馬の物怖じのなさへの呆れなのか、あるいはその両方か。
明熾は目を伏せたままだったが、口元に力が入っている。
玄綾はとうとう肩を震わせた。声は出さなかったが、その震え方は笑っている者のそれだった。
志貴が横目に見たとき、一心の口元にも、ごく浅いものが差していた。怒りでも皮肉でもない。笑いを堪えたときにしか出ない、あのわずかな崩れだった。
煌承が場の空気が動いたことに気づいていないようには見えなかった。それでも煌承の表情は動かない。加わらないのか、加われないのか、志貴にはどちらとも読めなかった。
「軽口は慎むべきですよ」
その声は、かすかに硬かった。
「冥府は子どもの遊び場ではありません」
「誰も遊んでへんやろ」
冬馬が言い返すより早く、一心が一歩前へ出た。
「もう終いや、煌承」
静かな声だった。けれど、その一言のあと、もう誰も煌承へ言葉を継ごうとしなかった。場を閉じる権利が一心の側にあることだけが、はっきりした。
「用が済んだなら帰れ」
煌承はしばらく立ったままだった。白衣の官吏たちも動けない。主が動かなければ従者は動けず、煌承はまだこの場に言い残すことがある顔をしている。やがて、煌承は一度だけ志貴を見た。その視線は、最初にこちらを値踏みしたときより冷たく、しかも少しだけ深かった。
「兄上がそうして庇うたび、冥府の皺寄せは別のところへ落ちる」
一心は答えない。
煌承は返答を待たずに踵を返した。白衣が翻り、官吏たちがそれに従う。整った足音が三人分、黒の宮の暗い廊を白く横切って遠ざかっていった。その足音が完全に消えるまで、応の間の誰も口を開かなかった。
***
部屋へ戻った途端、志貴は力が抜けた。
勢いだけで飛び出したせいか、扉を閉めたあと急に右手のざらつきが強くなる。首筋の奥もじくじくと痛む。さっきまで平気だった足元まで頼りなくなって、志貴は寝台の縁へ腰を落とした。膝の上に置いた両手が、わずかに震えていた。怒りの震えなのか、緊張が解けたあとの震えなのか、自分でも分からない。
言いたいことは言ったはずだった。
間違っていないとも思う。冥府に頭を下げて、処置具みたいに差し出される筋合いはない。番であることは、従属することではない。自分の口で言えたことは、確かに志貴の中に残っている。
それでも、煌承の最後の言葉だけが喉に貼りついて取れなかった。
『希詠とは、あまりに違う』
あたりまえだ、と胸のどこかで思う。そう返せばよかったはずなのに、いざ口にしようとすると、あの平らな声が先に耳の奥へ戻ってきた。
吐き捨てたのでも、貶めたのでもなく、見たままを言っただけみたいな声だった。そのうえで、明熾は目を伏せ、赫夜は視線を逸らした。たったそれだけのことが、あとから遅れて効いてくる。
応の間では言い返せたことも、部屋へ戻ってしまうと遅かった。希詠なら、と並べられた言葉が、今になって静かに刺し込まれてくる。比べられたことより、その名がまだあの場の中で息をしていて、自分はその隣へ立たされる側なのだと知ってしまったことのほうが堪えた。
右手を握る。革の内側で、まだ指がざらつく。名の覆いの残響と、希詠の名の残響が、同じ手の中で重なっている。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「入るで」
返事を待たずに、冬馬が顔を出した。扉の隙間から廊の冷えた空気が一筋入り、部屋の中の沈香の匂いをかすかに揺らした。
志貴が顔を上げると、冬馬はいつもの調子で笑う。さっきの応の間のことなど何でもなかったかのように軽いのに、目だけはあの場を見届けてきたままの色をしていた。
「よう言うた」
志貴は思わず、変な顔のまま笑ってしまった。泣きそうなのか笑っているのか、自分でも判別のつかない顔だったと思う。
「馬鹿にしてんのか」
「半分はな。おもろいもん見た後やし」
「おもろいて何やの」
「いつもの志貴が戻ってきたなあ思て」
冬馬はそう言って部屋に入り、扉を後ろ手で閉めた。冗談みたいな調子なのに、その眼だけはさっきの場をちゃんと見てきた眼だった。
志貴は寝台の縁に座ったまま、手袋をはめた右手を見下ろす。
気味の悪さは消えない。疲れも消えない。それでも、さっきまで喉につかえていた息が、少しだけ通るようになった。胸の奥に引っかかっていたものが、冬馬の一言でほんの少し位置を変えた。
「……いつもの志貴って、何やねんな」
冬馬は肩をすくめた。
「そのままの意味や。希詠とか何とか知らんけど、俺が知ってる志貴は、お前やし」
志貴は何も言えなかった。言えないまま、少しだけ苦笑いした。
冬馬の言葉は慰めではなかった。比較の土俵そのものを蹴り飛ばすような言い方だった。希詠がどうだったかは知らない、自分が知っている志貴はこれだ、と。それだけを言って、それ以上を足さない。その素っ気なさが、今の志貴にはどんな優しい言葉よりも呼吸しやすかった。
冬馬がその顔を見て、壁に寄りかかった。腕を組み、片足を壁につけた姿勢のまま、声の調子がさっきより少しだけ落ちた。笑いを残したままなのに、次の言葉はもう茶化すためのものではないと分かった。
「お前、俺の話、聞きたいらしいやん」
志貴は顔を上げた。
遠くで人の気配がし、どこかの廊で扉が開く音がした。黒の宮が朝へ向かって動き始めている。それでもこの部屋の中だけは、まだ夜明け前の時間に取り残されているようだった。窓の外は相変わらず暗く、格子の隙間から差し込む光も、まだ月のものか朝のものか判別がつかない。
志貴は右手を膝の上へ置いた。ざらつきは消えていないが、冬馬が目の前にいるだけで、そこにばかり向いていた意識が少しだけ逸れた。
「何があったんか、話して」
冬馬は小さく頷いた。




