第71話 しろたへの 名を覆ひたる 手をほどく
目を開けた瞬間、志貴は息を呑んだ。
黒の宮の高い天井を、昨夜よりもずっと薄い光が照らしていた。太い梁の影は夜の冷えをまだ抱いたまま幾重にも重なり、寝台を囲む薄布の裾だけが、帳の隙間から差しこむ朝の白にかすかに縁取られている。宗像の座敷とは天井の高さも、壁の色も、空気に漂う匂いも何もかもが違う。けれどその違いを確かめるより先に、志貴の視線はすぐ傍にあるものへ吸い寄せられた。
一心が、手を伸ばせば指の届く距離で眠っていた。
閉じたまぶたにも伏せた睫毛にも、起きているときの硬さがない。呼吸のたびに胸元がゆるやかに上下して、薄布がそのかたちに合わせてわずかに揺れている。昨夜は一心の言葉を追うのに精いっぱいで、自分がどこでどう眠ったのかさえ曖昧だった。それが朝の光のなかで見ると、二人のあいだの近さだけが妙にはっきりしていた。
志貴は反射的に身を起こし、その勢いのまま寝台の端を踏み外した。裾が足首に絡みつき、肘と肩を冷たい石の床へ打ちつける。小さく息が漏れた。
痛みよりも先に、寝台の上へ目をやった。起こしてしまったかと思ったのだ。だが一心はまだ眠っているように見えた。胸のあたりの起伏は変わらず穏やかで、瞼も閉じたままだった。
触れて確かめたかった。呼吸の深さでも、体温でも、何でもよかった。昨夜の言葉が途切れずに今朝へつながっているのか、そういう確かめ方をしたかったのかもしれない。指先が持ち上がりかけて、そこで止まった。素手では触れてはいけないという感覚が、動きより先に立っていた。触れたものの内側を、自分の意志とは関わりなく覗きこんでしまう力がある。それが発動する嫌悪と怖さが、指の一本一本にまとわりついていた。
志貴は寝台の脇へ膝をつき、昨夜外した仮の手袋を探した。黒に近い濃紺の布がどこにも見当たらず、指先だけが床の縁を落ち着きなくさまよう。
「何、探してるんや」
低い声が降ってきて、志貴は肩を揺らした。
見上げると、一心はすでに身を起こしていた。寝起きのせいで声はわずかにかすれていたが、目はもう眠っていない。志貴の手元から顔へ視線を上げ、そのまま動かずにこちらを見ている。
「ごめん、起こすつもりなかったんやで……」
「あんな音したら、誰でも起きるやろ」
それだけ言って、一心は寝台の端へ足を下ろした。こちらへ手を伸ばしかけ、志貴がわずかに身を引いたのを見てその手を止める。
「で、何してはんの」
「……手袋、しらん?」
「今、いるんか」
「いる、やろ……」
志貴は言葉に詰まりながら、ようやく寝台の影へ落ちていた片方を見つけた。拾い上げようと手を伸ばしたところで、一心が口を開いた。
「俺に触るんなら要らんで」
志貴は思わず手を止めた。
「触りたかったら、そのまま触ればいいやろ」
こういうことを一心は静かに言い切ってくる。気遣っていないわけではない。けれど遠慮もしない。そのまっすぐさが、かえって困った。
拒まれたなら引けた。怒られたなら腹も立った。だがそんなふうにまるごと許されてしまうと、どこへ顔を向けていいのか分からなくなる。
「いきなり言われても、困る」
「何やそれ」
「とにかく、困るんや!」
志貴は仮の手袋をはめながら言い返した。薄い布一枚を指と掌のあいだに隔てただけで、ようやく呼吸が整う。そうしてから立ち上がり、乱れた衣の裾を両手で直した。
一心はしばらく黙っていたが、やがて少しだけ視線を落として言った。
「手袋の仕立て、もう上がってるらしいで」
志貴は顔を上げた。
「……もう、取りに行けるん」
「あれのする仕事は早い。機嫌は悪いやろうけどな」
気難しそうなあの老職人は一晩越しだと言っていた。だから朝には出来ていてもおかしくはない。
志貴は仮の手袋の縁を親指でなぞり、それから昨夜の続きを自分から手繰り寄せるように、ひとつ息を吸った。
「あのさ、一心。……ちゃんと話す、言うてくれたやろ」
一心の目が、静かにこちらへ向いた。逃げないと決めたときの顔だった。
「冬馬のこと、聞きたいねん」
一心はすぐには答えなかった。外衣を肩へ掛け、紐を結びながら、わずかに間を置いている。その手つきを見ていると、答えを探しているのではなく、どこから話すかを決めているようだった。
「冬馬は、自分で夏の位を取りに行った」
「取りに行った、って」
「四天王に手を伸ばして、席を奪った。無理に与えられたんやない」
短い言い方だったが、それだけで十分すぎるほど伝わった。幼いころから知っている冬馬の顔と、黒の宮で再会したときの冬馬の顔のあいだに、何もなかったはずがない。志貴の知らないところで、引き返せない線を冬馬は自分の足で越えたのだ。
「止めんかったん」
「止めて止まる冬馬やないやろ」
志貴は視線を落とした。答えはどこかで想像できていたのに、いざ口に出して聞いてしまうと、喉の奥が詰まった。止められなかった一心を責める気にはなれなかった。止めて止まるような冬馬ではないと、志貴にも分かっている。分かっているからこそ、あの明るい笑い方をしていた冬馬が誰にも引き留められないまま夏の位を奪い取りに行った光景を思い描くだけで、胸の底に鉛を落とされたように重かった。
一心の紐を結ぶ手が止まった。
「冬馬だけやない」
声が低くなった。
「壮馬も、もう壮馬一人の輪郭だけで立ってるわけやない。名も、記録も、理も、何枚も重なって……厄介なもんになってる」
何枚も重なる、という言い方が妙に生々しかった。人の名は一つであってほしい。そう思っていた。そこへ別のものが重なり、覆いかぶさり、もとの輪郭が見えなくなる。そんなことが本当に起きているのだと聞かされて、志貴は指先を握りしめた。
そのとき、腹の底がきゅうと鳴った。
志貴は自分で驚いて、思わず口をつぐんだ。緊張も怒りも抱えていても、身体は正直だ。昨日からろくに食べていない。
一心が笑いをこらえるように背を向けた。
「何か先に腹に入れた方がええんと違うか」
言い返しかけて、志貴はやめた。一心が意図して話を切るつもりなら、昨夜のようにもっとはっきり伏せるはずだ。そうではなく一度止めると決めただけなのだと分かるからこそ、それ以上言う必要はなかった。
***
朝の黒の宮は、冷えた石の匂いがした。
廊を渡る風は冷たく、磨かれた石の床にはまだ人の行き来が少ない。深い色の柱のあいだを進むあいだ、誰も志貴を止めなかった。通ってよいとも言われない。ただ一心が前を歩き、志貴がその少し後ろをついていく。それだけのことが、昨夜までとは違っていた。
膳所は奥まった一室にあった。低い天井に太い梁が渡され、壁は黒い漆喰で塗りこめられている。窓は高い位置に二つだけ切られていて、差しこむ光は卓の上を細く横切るだけだった。湯気の立つ粥、塩気のきいた肉、薬味を落とした汁。ひどく簡素な膳だが、どの椀にも熱だけはきちんと通っていた。
一心は向かいへ座り、自分の膳にも手をつけた。宗像でも一緒に食べたことがないわけではない。けれどこうして時間を合わせること自体が、この黒の宮には似合わない気がした。
志貴は匙を動かしながら、向かいの一心をそっと見ていた。
熱いものに眉がわずかに寄る。肉の硬さが残れば噛む回数が増える。喉へ落とすときには水を取る。けれど味についてだけ、表情が動かない。粥の湯気が鼻先を掠めても、塩がしっかりきいた肉を噛んでいても、旨いとも不味いとも顔に出ない。温度と硬さだけを確かめているような食べ方だった。
「……おいしくないん」
気づけば口にしていた。
一心が不思議そうに首を傾げて、匙を止めた。
「食えるけど」
「そういうんやなくて……」
言葉にしかけて、志貴はやめた。何を言おうとしたのか、自分でもうまくまとまらない。味の話をしたかったのに、返ってきたのは食べられるかどうかだった。そのずれだけが、妙に胸に引っかかった。
一心はそれ以上何も言わず、また粥を口へ運んだ。
深追いしてはいけないのかもしれないと、志貴は問いを飲みこんだ。一心との食事が苦痛であるはずもなく、むしろ嬉しい。だがどこか喉の奥に小骨が刺さったような胸騒ぎが残った。
***
食後の支度は早かった。
玄綾に連れて行かれた衣装部屋は、廊の突き当たりにある細長い部屋だった。左右の壁に沿って背の高い棚が並び、畳まれた布や巻かれた帯がぎっしりと詰まっている。染料と糊の混じった匂いがかすかに漂い、窓のない部屋を灯す行灯の光が、棚に並ぶ衣の色をどれも少しだけ深く見せていた。
志貴は目の前に並ぶ仕立ての良さに立ちすくんだ。一度も袖を通していないものばかりだと玄綾が指さした。好きなものがあるかと問われたが、正解が分からない。
悩んでいると一心が姿を見せ、迷う素振りもなく二つ三つ指をさした。
玄綾はそれを手に取り、一心へ向けて機嫌の悪そうな顔をした。
「白の階の手前までだろうね」
「それ以上は出さん」
「今のところは出さない、の間違いじゃないのかい」
一心は答えない。
玄綾は鼻を鳴らし、志貴へだけ少し目を和らげた。
「手袋を受け取ったら、すぐに戻るんだ。坊ちゃんが無茶を始めたら、引いてくるんだよ」
「何もせんと言うてるやろ」
「坊ちゃんがそう言う時は、だいたい反故になるだろ」
一心が玄綾を睨みつけて舌打ちをした。玄綾もほぼ同時に舌打ちをしており、志貴は思わず一緒だと口からこぼしそうになった。慌てて咳払いをしてから必死に口をつぐみ、仮の手袋の端をそっと整える。
身につけ方さえわからない衣装と睨めっこしていた志貴に、玄綾がため息を漏らした。志貴は申し訳ない気持ちのまま、着せ替え人形のようにじっとしているしかなかった。
「馬子にも衣装だね」
玄綾のつぶやきに、志貴はぴくりと頬をひきつらせる。
身につけた衣は、黒に見えるが光の加減で深い紺色だと分かる生地で、胸元と腰紐には小さな紫の石が散りばめられていた。
「不釣り合いで、悪かったね」
玄綾が何も言わずに手鏡をさし出した。
志貴は絶句した。咄嗟に鏡を玄綾の手から取り上げてしまっていた。
鏡の中の自分は、知っている自分ではなかった。瞳が紫色に変わっている。左眼はさらに深く、瑠璃色に近い。髪も黒ではなく、どこか銀を混ぜたように薄くなっていた。
「これからは毎日こんなだ」
玄綾の声が耳に届いているのに、志貴は鏡から目を離せなかった。映っている顔の輪郭は自分のものなのに、色だけが別人のように変わっている。その違和感に引きずられるように衣の襟を引くと、首元から鎖骨にかけて黒い痣が浮かんでいた。蔦のようにゆるく這う模様が、行灯の光のなかではっきりと見えている。
鏡を持つ指に力が入った。そのまま袖を抜いて右肩を確かめると、あるはずの宗像の王紋がなかった。
「王紋が……ない」
衣装を片す手を止めた玄綾ではなく、衝立の向こうにいた一心がこちらへ姿を見せ、小さく頷いた。
鏡のなかの紫の瞳が、まっすぐにこちらを見返していた。この色も、消えた王紋も、首元の痣も、全部ひとつの事実として繋がっている。自分は変わったのだ。その実感が、別の問いを引き寄せた。
「咲貴に……あるの?」
一心はわずかに目を伏せたまま、否定しなかった。志貴の手のなかで鏡がわずかに傾いた。
一心が自分の首元を見せた。深い紅の蔦が絡んだような痣がそこにあった。志貴の鎖骨に浮かんだ黒い模様と、同じかたちだった。それから眼帯を外すと、ふだん隠されている右眼が現れた。その色は、志貴の瞳と同じ紫だった。
「千年王の番は互いの色を分け合うんや」
「嫌か?」
志貴は首を横に振った。嫌なわけがない。
ただ、頭の奥が白く灼けたように思考が止まった。
いずれは自分が戻って役割を果たすべきだと思っていた。だが、眠っていた間、全てが変わった。自分では出来なかったことを引き受け、あの場所に立ち続けたのは咲貴であり、宗像を護り抜いたのも咲貴だ。その証を突きつけられたようだと、目を伏せた。
宗像が遠く感じて、志貴は目を覆うようにして前髪を鷲掴みした。
「お前は紅の千年王やから、宗像の王より優先されるもんがある」
「一心、わかってる」
ゆっくりと手に入っていた力を緩め、志貴は小さく笑った。
わかりやすいほどに気遣う目をした一心を見て、志貴ははっとした。自分はいま、どんな顔をしているのかわからない。
一心が志貴の肩に手を置いた。少し張り詰めすぎていたと、志貴は息を吐いた。
「出かけよか」
志貴は頷いて、一心のすぐ後ろについて歩きはじめる。
「坊ちゃん、くれぐれも白い方へは行きなさんなよ」
「近いから致し方なしと思え」
一心と玄綾のやりとりからすると、手袋を依頼した店のある一角からは、白の階とやらが近いらしい。志貴は白の階が何であるかまでは分からなかったが、どうやらあの煌承の縄張りのようだと当たりをつけて聞いていた。
***
黒の宮を一歩出ると、空気が変わった。
高台からは冥府の全景が見渡せた。冥府の中央を南北に貫く大通りを挟んで、東西に位置する黒の宮と白の階。地図の上では相当な距離があるはずなのに、眺めていると妙に近く感じる。あちこちに術や結界が噛みあっていて、目に映る距離と実際に歩く距離がまるで一致しないのだとしか思えなかった。
白の階へ続く道は、黒の宮の深い静けさとは異質の、硬い明るさを持っていた。白い石を積んだ回廊があり、規則正しく並ぶ柱があり、行き交う官吏たちの白衣がある。人の気配は確かにあるのに、言葉も足音も必要以上には響かなかった。
長い外套のフードを深くかぶった一心の横顔は、道中ずっと厳しいまま崩れない。出かける前に気を抜くなと釘を刺されたが、道の先に新しいものが見えるたびに足がそちらへ向きそうになる。
歩幅が違いすぎて置いていかれそうになるたびに、襟の後ろをつかまれ、まるで借りてきた猫のように引き戻された。不本意だと訴えるが、一心は鼻で笑うだけで流す。
宗像にいた頃は、一心と一緒にこんな風にでかけたことはなかった。考えてみれば、稽古か仕事しか機会がなかったのだ。
露店の軒先に飾られた飴細工に志貴が足を止めかけると、一心が小さなため息をこぼした。
「後で買ってやるから、我慢しい」
「見てただけや。子ども扱いせんとって!」
「めっちゃ欲しそうに見てたくせに」
否定をうまくできずに志貴は口先を尖らせた。
「今日はあのうるさい弟一号と二号は来なかったん」
「二号は別にうるさないやろ」
「確かに、そうかも。……そうや。冬馬、あの弟二号と仲良いん」
「そら、仲良いやろな」
「何でそんな他人事なん」
一心が不意に足を止めて、説明に困ると小さくぼやいた。
「本人達に聞いてもらわな、わからんこともあるやろ」
一心の言葉の歯切れが悪い。志貴は黙ったまま、じっと一心の横顔を見つめた。
「俺にも、あいつらの本当のことは分からん。ただ、言えることがあるんやとしたら、俺とお前に似てるってことくらいや」
余計に分からなかった。けれど、志貴はもう何も言わなかった。
「ほら、行くで」
手を引かれて歩く。自分でそう決めたはずなのに、布越しの手の温もりに、少しだけ寂しくなった。
「お前さ、宗像を心配してるわりに暢気やな」
「だって、ほんまに危なかったら、一心がもっと慌てるはずや。それに、あの宗像なんやから、ただではこけんやろ?」
志貴の言葉に一心が驚いたような顔をして足を止めた。
「何でそんな顔するん」
一心は困ったように眉を寄せてから、小さく笑った。志貴にはその仕草の意味が分からず、首を傾げる。
「ほんまに、志貴やなぁって思っただけや」
馬鹿にしてるのかと志貴が胸の前で腕を組んでみせたが、一心はどこ吹く風でさっさと歩いていった。
職人の店は、ちょうど黒の宮と白の階の中間あたりにあるのだなと、歩きながら志貴は把握した。ふと足元を見ると、石畳の色が変わっていた。黒の宮の領域では暗い灰だったものが、いつの間にか白みがかった石に変わっている。
暖簾をくぐると、乾いた布と革の入り混じった匂いが鼻を打った。奥から出てきた老人は、志貴の顔を見るなり棚から箱を持ってきた。
「徹夜させやがって」
小言を言いながらも、箱を扱う手つきは丁寧だった。蓋を開けると、深い夜の色をした手袋が現れた。昨夜の仮のものより明らかに薄く、縫い目は細かい。指の関節にあたる部分だけがわずかに柔らかく仕立てられており、それだけで一級品だと分かった。
「塞ぎすぎると手が死ぬ。通しすぎると意味がない。そのあいだだ」
志貴は仮の手袋を外し、本仕立ての手袋へ指を通した。薄い革が肌に沿う。ぴたりと馴染むのに、締めつけがない。指を曲げてもどこにも引っかからず、手首の内側だけがわずかに遊びを残している。指先の感覚が鈍らないのに、素肌のときのようにすべてが流れこんでくる気配がない。革一枚を隔てただけで、自分の手が自分だけのものに戻った感覚があった。
「どうだ」
「……息がしやすい」
それがいちばん近い言い方だった。
老人は鼻を鳴らしたが、悪い顔ではなかった。一心はその横で、わずかに肩の力を抜いたように見えた。
「いいか、坊が何を言おうが、あんたの身につける物はうちに依頼してくれねえと困る」
身を乗り出してくる老人の勢いに押されて、志貴はわけも分からぬまま頷いた。
「よしてくれ。高くて、かなわん」
一心が駄目だと手を振ると、老人が片眉を持ち上げて鼻を鳴らした。
「正装、外套、手袋だけでも、いくらしたと思ってんねん」
「髪飾りはまだ作ってねえ」
「要らん」
行くぞ、と一心に襟の後ろをつままれて、志貴は店を出た。
だが一心はすぐには黒の宮へ戻らなかった。
「早速、玄綾のいいつけ破ってるやん」
「言うな。飴、買ってやったやろ。ちょっと付き合え」
志貴は受け取った飴を舐めながら、大人しく後をついて歩いた。
白の階へ近づくにつれ、空気は黒の宮の静けさとはまた別の硬さを帯びていった。官吏たちの行き交う足音は揃いすぎていて、笑い声ひとつ上がらない。
白い石壁は昼前の光を冷たく弾き返し、建物の角や柱の輪郭だけがやけにくっきりと浮かんで見えた。
一心が途中で外套のフードを取った。こぼれ落ちた銀の髪と、右眼を覆う黒の眼帯。それを認めた官吏たちのあいだに、目に見えるざわめきが走った。だが、それはすぐに飲みこまれ、恐怖の色が一斉に広がり、誰もが視線をそらした。
黒の宮の王が白の側の縁まで歩いて来ている。その事実だけで、すれ違う者たちの足並みが乱れた。
「やりすぎやろ」
志貴が小さく言うと、一心は前を向いたまま答えた。
「何もしてへん」
「顔出した時点で、十分してるやん」
「向こうが勝手に騒ぎすぎなんや」
一心は意地悪な笑みを浮かべて志貴を見た。志貴は肩をすくめるしかなかった。
***
一心の気まぐれに半ば呆れているうちに、人の流れの先で妙な停滞が生まれた。
最初は、白衣の官吏が道を譲り損ねただけかと思った。だが、違った。
書板を抱えた若い官吏が、向かい合う相手に何かを言おうとして、口だけが動いている。音が出ていない。やがて絞り出すような声が落ちた。
「お前、そっちの……」
続くはずの名が、そこで消えた。
別の官吏が帳面を覗きこんだ。欄はある。役目も順番も書かれている。けれど一行だけ、名があるはずの場所だけが白く抜けていた。墨が乗らなかったというよりも、最初からそこには何もなかったような空白だった。
「書き直しても、そこだけ落ちるんです」
青ざめた声が震えていた。
「やっぱり来たか」
一心の足が止まった。
同じ瞬間、上階の欄干の影から銀に近い細い糸が薄く伸びた。
志貴は思わず目を上げた。玄綾の糸だった。
二人きりで出てきたはずなのに、いつの間にか回りこんでいたらしい。糸は空間を斜めに横切り、白の階へ続く通路をゆるく包んでいく。
視線を戻すと、明熾までが人波の外側に立っていた。帳面と札、官吏たちの立つ位置を無言で見比べている。
一心は二人の存在に驚いた様子もなく、むしろ当然だという顔をしていた。
玄綾の言いつけを破って白の階の近くまで来ている時点で、この二人がついてこないはずがなかったのだと、志貴は遅れて気づいた。
玄綾が糸の震えを指先で読み取り、低く言った。
「人にかかってるんじゃない。名へ届く筋だけが、途中でずらされてる」
その言葉を聞いた瞬間、志貴の首筋の奥がひくりと震えた。
目の前の官吏の顔も声も見えている。立っている場所も分かる。けれどその人をその人にしているもの、名という根幹だけが、幾重にも薄い膜で覆い隠されているように感じた。目で見たのではなく、皮膚の内側で直に知った感覚だった。
「……ある」
志貴の声に、一心が振り向いた。
「何がや」
「落ちたんやない。そこにまだある。覆われてるだけや」
玄綾の糸が官吏の喉元の前まで寄った。けれど触れた先から滑り、覆いの中心を捉えられない。明熾が札を取り上げ、刃の背で軽く弾いた。澄んだ音だけが返り、何も剥がれなかった。
志貴は一歩前へ出た。新しい手袋のなかで、指先がきつく握られているのに気づいた。
一心の手が志貴の肩へ伸びかけて、ためらうように止まった。
「待て」
「たぶん、届く」
「お前のそれは、未知数すぎる」
声は低かったが、怒ってはいなかった。一心はどうしても志貴を前へ出したくないのだ。けれど、ほかの誰の手も届いていない。それを一心自身がいちばんよく分かっている顔だった。
白の階の空気がじわじわと張りつめていく。名を呼べなくなった官吏たちは不安を隠しきれず、周囲の者も口を開きかけては止めている。声に出した瞬間にその名の一文字だけが崩れ落ちるのを恐れているように見えた。
「守ってくれるやろ」
志貴は前を見たまま言った。
一心は答えなかった。
「私しか届かへんで、一心」
沈黙が落ちた。次の瞬間、一心は短く息を吐いた。
「玄綾、網を一枚内へ。明熾、左右を切れ」
糸の張り方が変わった。玄綾の網が一段内側へ寄り、明熾が官吏たちの余計な出入りを断った。その動きを見て、志貴はようやく理解した。守る算段を敷いたうえで前へ出すと、一心はそう決めてくれたのだ。
右手の手袋を左手でゆっくり引いた。薄い革がするりと外れ、素肌が白い空気に晒された。
間近まで来ると、官吏の喉元の前にある見えない層がいっそう不快だった。紙でも布でもない。人の名のかたちだけをなぞり、その上へ別の薄皮を幾枚も重ねて、もとの輪郭を底に沈めている。
志貴は指を伸ばした。
焼くのでも裂くのでもない。そんなことをすれば中にあるものごと傷んでしまうと、触れる前から身体が知っていた。
いちばん外側の端を探った。爪の先ほどのわずかな引っかかりを見つけ、そこへ指先を当てる。首筋の奥が鋭く跳ねた。それでも手を離さず、細い糸をほどくように、覆いの端だけを少しずつ浮かせていく。
玄綾の糸が甲高く鳴った。どこかで誰かが息を呑んだ。
幾重にも伏せられていた層のうち、一枚がゆるんだ。次の一枚、そのまた下の一枚と、絡み合ったものを力任せに裂くのではなく、重なりの順を見つけて一枚ずつ外していく。
名の輪郭だけを封じていた膜が指の熱にほどけ、白い光のなかでわずかにめくれた。めくれた端から文字のようなものが覗いた瞬間、志貴の首筋に火が走った。
痛いと思う間もなく、指先から別のものが流れこんできた。
他人の感覚だった。喉の奥で言いかけて止まった音、紙の上で筆先が凍りついた瞬間の逡巡、呼ばれるはずだった名の一文字の手前で途切れた息。それらが志貴の腕の内側を冷たく這い上がり、肘から肩へ、肩から首筋へと昇ってくる。
闇雲に覗きたくないと、自分自身が嫌った意味を、その瞬間に思い知らされた。素手で触れれば相手の内側が流れこんでくると分かっていたはずなのに、分かっていたのとはまるで違う。名を覆うものに指をかけた途端、覆われた側の欠落までが自分の皮膚を通って入りこんでくるのだ。
指先がぶれそうになった。けれど、離せば、いまめくれかけた層がまた沈む。それだけは自分が許せなかった。
「志貴」
すぐ後ろで一心の声がした。低く、抑えた声だった。
振り向くより先に、もうひとつの異変が返った。一心が短く息を詰め、右手で眼帯ごと右眼を強く押さえこんでいる。押さえた指の隙間から漏れているのは、ただ痛みをこらえている気配ではなかった。
今朝、鏡の前で見た自分の紫の瞳と、一心の右眼の色が同じだったことが、不意に胸へ戻ってきた。志貴がほどいたものが、番である一心にも返っている。そう思った瞬間、指先の震えがさらに強くなった。
「離すな」
一心の声は短かった。命じているのではなく、堪えろと自分にも言い聞かせている響きだった。
志貴は歯を食いしばり、めくれかけた覆いの端をもう一度たぐった。力を入れるのではなく、絡んだ糸の端を探り当てて重なりの順だけを辿る。外側から一枚、また一枚。名の輪郭を押し沈めていた膜が、指の熱に耐えきれず、白の階の光のなかで薄く剥がれていった。
玄綾の糸が、今度は細く、長く鳴った。覆いの下から、名の輪郭が浮かび上がった。その一画だけで十分だった。覆われていただけで、名は失われてなどいなかったのだと、露わになった線がはっきりと告げていた。
同時に、目の前の官吏の喉がひくりと動いた。口が開き、声にならないはずのところで、かすれた息が漏れた。
「お……」
それだけで、続かない。けれど、完全に塞がれていたはずの場所を、確かに音が通った。
周囲の官吏たちが一斉に顔を上げた。帳面を持つ者の手が止まり、白く抜けていた欄の上を、墨ではない薄い影のような筋が一瞬だけ走って消えた。
玄綾が低く言った。
「戻ったんじゃない。めくれただけだ」
その一言が、志貴の手に残った感触と正確に重なった。名はまだ完全には返っていない。あと何枚の覆いが残っているのかも分からない。ただ、ここから先にまだ層があり、その下に名が確かに沈んでいるという手応えだけが、素肌の指にじかに残っていた。
指先がまだ震えていた。覆いの端をめくった感触が爪の裏にこびりついている。流れこんできた他人の欠落の冷たさと、それでも手を離さなかった自分の手の熱。その二つがまだ腕のなかでせめぎ合って、鎮まる気配がなかった。
志貴はその手を握りしめてから、目の前の官吏へ向き直った。
きっかけは作った。完全に覆われたわけではない。あとは本人が、自分の名へ手を伸ばすしかない。
膝の力がふっと抜けた。指を離した途端、流れこんでいた欠落の感覚が引き、代わりに自分自身の疲労が一気に戻ってきた。立っているのが辛い。それでも振り向いて、一心を見た。
一心は右眼を押さえたまま、左眼だけでこちらを見ていた。その目は痛みを堪えたあとの、少しだけ力の抜けた色をしていた。志貴が何をしたのかを全部受け取った顔だった。
「届いたで」
志貴が言うと、一心はしばらく黙っていた。右眼を押さえていた手をゆっくり下ろし、眼帯の位置を指先で直す。その仕草のあいだに呼吸を整えているのが分かった。
「ああ。届いとる」
返ってきた声は低く、わずかにかすれていた。けれどその短い肯定のなかに、志貴がやったことを否定する響きはどこにもなかった。
右手がまだ少し震えていた。志貴は左手で手袋を拾い上げ、素肌の指をもう一度革のなかへ戻した。薄い革が指を包んだ瞬間、流れこんでくるものが止まり、ようやく自分の手が自分だけのものに戻った。
官吏たちのざわめきが、白い石壁に低く響いていた。帳面の空白を覗きこむ者、隣の顔を確かめるように見る者。名がまだ完全には戻っていないことは誰もが分かっていたが、あの空白の下に確かに何かがあると知ってしまったあとでは、もう先ほどまでと同じ顔ではいられなかった。
志貴は一心の隣へ戻り、半歩だけ後ろに立った。
手袋越しに自分の指を握りしめると、革の内側にまだ覆いの感触がうっすらと残っている。その隣で、一心が眼帯の下をそっと指先で押さえ直す気配がした。
同じものを受け取った手が、すぐ傍にある。それだけのことが、今はひどく確かだった。




