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第70話 かくり火を 袖に移して 夜橋越ゆ


人が消えた直後だというのに、通りのざわめきは途切れなかった。


悲鳴が上がったわけでもない。名を呼ぶ声が重なったわけでもない。ただ、何かが噛み合わなくなったようなざらつきだけが、下街の灯のあいだに広がっていた。


屋台の火は消えていない。吊るした布も、客を呼ぶ声も、さっきまでと同じはずなのに、誰もが一拍遅れて隣を見る。そこで何を確かめたかったのか自分でも分からなくなったように目を逸らしていく。


志貴はその場から動けなかった。


ついさっきまで、確かにそこにいた。手を伸ばせば届く距離に、灯の下で笑っていた男がいた。顔立ちも、声も、もううまく思い出せない。思い出そうとすると、そこだけ指先の腹で撫で消されたように輪郭が痩せる。けれど、いなくなったという事実だけは、喉の奥に刺のように残っていた。


「志貴」


一心の声が近くで落ちた。低く抑えられているのに、その内側にいつもより固いものが混じっている。肩へ伸びてきた手が、触れる寸前でわずかに逡巡したように見えた。


「退がっとき。動いたら、あかんで……」


何があったのかと見上げるが、一心は前を見たまま動かない。


「何、この人達……」


濁りのない白を、汚れとして受けつけないように仕立てた衣だ。袖も裾も無駄がなく、歩くたびに布の端だけが冷たく光る。


先頭にいた数人が無言のまま位置を開き、残りが手際よく通りの両端へ散った。


屋台の前に立つ者、路地の口を塞ぐ者、地面を覗き込む者、紙片へ何かを書きつける者。


誰一人声を張らないのに、そこから先へ出るなという意思だけが、白い布の線のように通りを断った。


何が起きたかを問うためではなく、起きたものを処理するために来たのだと志貴は思った。


その後ろから、ひとりの男が歩いてきた。


年は一心より幾分上に見えた。濃い色の衣を崩さずに着こなし、白衣の官吏たちよりよほど静かに歩いているのに、通りの温度がその人を中心に少しずつ下がっていく。顔立ちは端正だが、その目には温度がないように思えた。


男は志貴を見てから、ゆっくりと一心を見た。そこに驚きも怒りも乗らない。ただ、現場にあるべきものと、あるべきでないものを確認するような視線だった。


「宗像の王を盗んできたのですか」


丁寧な声だった。穏やかですらあるのに、通りのあちこちに残っていたざわめきが、その一言でひどくみっともないものになった。


「それとも、いくらで譲り受けたのですか」


意味はすぐには分からなかった。


けれど、志貴の背筋は先に強張った。宗像と、自分と、一心の隣にいる今の置かれ方を、まとめて値のつくものとして口にされたことだけは分かった。胸の奥で何かが跳ね上がる。


「何、言うてるん」


声にしたつもりはなかったのに、掠れた声が零れた。


男は視線だけを志貴へ戻した。


「ご存知ないのですか。それは驚きました。ご自身の系譜についてさえ、何も知らされていないとは」


「やめておけ」


一心の声が、さっきよりさらに低くなった。男はそれを受けても、少しも揺れない。


「やめる理由がありません。ただの無知、不勉強では済まないのですよ。下街で名の欠落が起き、その場に宗像の王がいて、あなたが付き添っている。……これが見過ごせるとでも?」


白衣の官吏が、通りの中央に膝をついて何かを拾っていたが、掌の上には何もない。けれどその者は、そこに確かに欠けた痕があると信じているように慎重な手つきで布を畳んだ。


男は視線を動かさないまま言った。


「欠けた名は報せから抜け、記録から抜け、人の口からも抜け落ちる。気づいた時には、消えたことすら綺麗に残らない」


指先をほんの少しだけ動かして、官吏の位置どりを変えた。


「あなたが目を離しているあいだにも、崩れるものは崩れている。それくらいは、ご存知でしょう」


目の前にいる男は、宗像と言及はしなかった。だが、志貴の頭の中で、咲貴の顔が浮いた。公介の低い声が、その次に時生の穏やかな笑いが浮かび、すぐに掠れていく。


宗像の白砂、廊下の木目、庭木の濡れた匂い。そこへ今この下街と同じものが広がっているのだとしたら、と思った瞬間、喉が勝手に開いた。


「宗像へ、帰らなあかん……」


言ってから、自分の声が思ったよりはっきりしていたことに驚いた。


一心はすぐには返さなかった。


その沈黙を、男は逃さない。


「返せないのですか。返さないのですか」


通りの空気が、そこで一段冷えた。


一心の横で、赫夜の目が細くなるのが見えた。さっきから何も言わずにいたのに、その口元だけがはっきりと不機嫌に歪む。


志貴は一心の方を見た。


男は続けた。


「冥府を担うおつもりがないのなら、それはそれで結構です。ですが、興味のないものの権限だけを使う形は困ります。宗像の王を冥府へ連れ込み、異常の渦中へ立たせた。それでなお、公の裁定に触れさせる気もないという。到底、承服できるものではない」


「煌承」


赫夜が呼んだ。抑えているつもりの声だったが、刃の薄いきらめきが隠せていなかった。


煌承と呼ばれた男は、ようやく赫夜を見た。その目は変わらない。相手が誰でも、物の置き方を変えない者の目だった。


「何でしょう」


「言葉を選べ」


「選んでいますよ。十分でしょう」


それから、煌承はほんのわずかに視線をずらし、赫夜と、その後ろに立つ明熾までを含めるように言った。


「母方の血は、やはり隠せないものですね。宗像の気風も、鴈の気風も、こういう場ではよく出るらしい。冥府の理より先に、そちらが立つのであれば、実に分かりやすい」


志貴には、その言葉がどこまで誰を刺したのか咄嗟には分からなかった。ただ、赫夜の空気が変わったことだけは分かった。


次の瞬間、赫夜はもう動いていた。足音がひとつ、石畳へ強く響く。


「いい加減にしろよ」


低い声だった。怒鳴っていないのに、底に溜まっていたものが一気に噴いたのが分かる。


赫夜の肩が前へ出たその瞬間、一心の腕が横から伸びた。無駄のない速さで赫夜の手首を掴み、そのまま半歩だけ自分の後ろへ引く。


強い押さえ方だった。制するというより、行かせないと決めた腕だった。


赫夜が一瞬、本気で振り払おうとしたのが分かった。けれど一心は離さない。前を向いたまま、赫夜だけに聞こえる低さで言った。


「赫夜」


短い、その一言で赫夜の動きが止まった。止められたことそのものより、止めたのが一心だったことに、志貴の方が息を呑んだ。


赫夜は唇を噛み、鋭い目だけを煌承へ向けたまま、それ以上は出なかった。


一心はそこでようやく煌承を見返した。通りの灯が揺れて、彼の頬の陰をわずかに動かした。


「責は引き受ける」


煌承は黙って聞いている。


「だが、お前らに渡す気はない。査問や保護の名目で触らせるつもりもない」


「責は引き受けるが、身柄は渡さないと」


煌承が復唱する。その声音には皮肉の棘がないからこそ、言葉だけがむき出しに残る。


「あなたは結局、冥府の律に従う気はないということですね」


一心は返さなかった。


志貴は胸の奥が冷えるのを感じた。


煌承は白衣の官吏たちへ視線を送った。何も命じていないのに、彼らはその意味を理解したように動きを止める。


「今日はここまでで結構です」


その言い方は、見逃すというより先延ばしだった。


「耀冥、あなたが冥府に関心を持たなくても、冥府はあなたを放置しません」


視線が一度だけ志貴に落ちた。


「それから、宗像志貴。あなたの戻りたいという望みは、軽く扱わない方がいい。誰がその願いに答えられるのか、あなた自身がまだ知らないまま口にしています」


言い終えると、煌承はもう振り返らなかった。


白衣がひとつずつ道を開け、そのまま通りの奥へ溶けていく。官吏の何人かは残り、消えた痕を拾うように地面へ目を落としていた。


下街の灯は消えていない。それなのに、さっきまで見えていたものが二度と同じ形には戻らないような気がした。


赫夜はそこで初めて吐き捨てるように息をつき、一心を見た。


「抑える相手が違うだろう」


「そうでもないやろ」


一心の短く返す声に、揺れはなかった。


赫夜は何か言い返しかけて、飲み込んだ。明熾が遠くで肩の包帯を押さえながら立っているのが見えたが、彼は何も言わない。


志貴は通りの先を見たまま言った。


「……ここに、居たくない」


一心は志貴を見た。その目の奥に疲れにも似たものが一瞬浮かんで、すぐに沈んだ。


「分かった」


それだけ言って、一心は歩き出した。志貴もその後を追った。


黒の宮へ戻る道は、下街よりずっと静かだった。けれど、ついさっき煌承に言われた言葉が、歩くたびに足元から追いかけてくる。


黒の宮へと続く橋を渡る時、志貴は思わず身構えたが、一心は行きとは違い、声もかけずに抱き上げた。そこに、さっきのぎこちなさはなかった。怒っている人間の手つきだった。


言葉もなく、目もあわない。


一心が切れている時のあり方だと思い出して、志貴は唇を引き結んだ。


黒の宮の内へ入って、流れるような動作で降ろされたとき、志貴はようやく肩の力が抜けたのを知った。


一心が迎えに出てきた玄綾に目くばせして、志貴の背をおした。こちらを振り返ることなく、一心は赫夜を伴って奥へと歩いていく。


「ああなっちまったら、しばらく放っておきな」


玄綾が肩をすくめて、口の端だけあげた。


志貴も玄綾の言葉の通りだろうなと、苦い表情になる。


志貴は、与えられた部屋へ戻り、窓辺に座り込み、深い息を吐く。


疲れたのではない。

闇雲に張り詰めていたところへ、場所の匂いが追いついたのだ。


香は深いのに重すぎない。一心の匂いに似ている。けれど今夜は、それで落ち着く前に別のものが胸に広がった。


知らないことが多すぎると思った。

知らないが故に、反論するための言葉が奪われている今がいちばん嫌だった。


数時間経っても、一心は戻らなかった。

扉の外が何やら騒がしかったが、玄綾から出るなと言われ、拒否する理由もみつからず、ただじっとしていた。


聞きたいことは山のようにある。けれど、聞いてしまえば、自分のこれまでがひっくり返ることは確実だった。


「誰に、聞けば良いんや……」


一心はともかく、公介や時生、咲貴は知っているのだろうかと、小さく息を吐く。


「いや、知ってる……やろうな」


確かめたことなどないが、そんな気がした。


「返せないのか、返さないのか……。えらい違いやで、一心」


呟きながら、そっと立ち上がる。これまでも、順風満帆というわけではなかった。悲しいほどに、横風には慣れていた。


「動くとしますか」


深窓の令嬢のような暮らしなどしたことがない。じっとしておくことに、何の意味も見いだせなかった。


続きの間の扉は、ここへ戻ってからずっと開いていた。


扉から覗いてみる。


玄綾がその向こうで酒器を傾けている。幼い姿のくせに、そこでひとりだけ時間の流れ方が違う者のように見えた。志貴が目をやると、玄綾は盃を唇から離し、こちらを見た。


「聞きたいことがありそうだ」


玄綾は目を細めただけで、茶化しはしなかった。


「こっちへおいで」


志貴は玄綾の前に座った。膝の上へ置いた手にまだ少し力が入っているが、自分では抜き方がわからない。


「あのさ……」


言葉が続かない。玄綾は急かさない。


「一心、教えてくれると思う?」


玄綾は盃を置いた。小さな音が板の間に響く。


「聞いてみたら、わかることだろう。あたしに確認して、何て言わせたいんだい」


志貴は顔を上げた。


「そう、やんな……」


図星を突かれたと、志貴は目を伏せた。

わかっていて聞いた自分が悪い。


「気になってること、聞いていい?」


志貴の声に玄綾が盃を卓の上にゆっくりと置いた。


「あなたからは冥府の匂いがしない。……むしろ、宗像の匂いがするんはなんで?」


玄綾は驚いたように息を呑み、少しだけ笑った。


「こりゃ驚いた。……まぁ、いいか。坊ちゃんも今さら怒るまい。あたしは、坊ちゃん達の母親に仕えていた神鬼だからさ」


今度は志貴が息を呑む番だった。


「あなた、神鬼なの」


志貴の声が裏返った。神鬼に関する知識はあるが、目の前にいる玄綾とはあまりに掛け離れている。


「何をそんなに驚くことがある。まあ、坊ちゃん達の母親のように、魔獣を神鬼にできる才を持つ者は極めて稀だ。今の宗像には、ひとりもいないだろう。それじゃ、仕方ないか」


「聞いたこと、ない。……でも、私以外なら知ってるんかも」


自嘲するように口元が歪んだ。意図して知らされていないことだらけなのはもうわかりすぎていた。


「まぁ、色々ある。坊ちゃん達の母親が、宗像から来たから、今、こうしてここに居るだけさ。これでわかっただろ。あんた等と坊ちゃん達は系譜が似てるってことさ」


玄綾が盃のふちを指でなぞる。


志貴は得心できたようでいて、自分でも表現できない違和感を覚えた。


「あんたがどうして何も知らされなかったかは、直接聞きな。坊ちゃんにしかわからんことだ」


「そうするよ。……あのさ、煌承という人が言ってたんやけど、宗像をいくらで譲り受けたって、どういう意味?」


玄綾は苦い表情を浮かべ、ため息をついた。


「坊ちゃんにそんなこと、言ったのか……あの第二皇子。なるほど、切れた理由はそれか」


頭が痛いというように唸ってから、ゆっくりと志貴を見た。


「宗像にはね、血の濃い者を薬みたいに扱った時代がある。食わせたわけじゃない。傷んだ理を繕うために使っていたんだ」


意味がすぐには入ってこなかった。


けれど、言われたものが汚いのだということだけは分かった。


志貴は無意識に自分の指先を握り込んだ。爪が掌へ食いこむ。自分の家に、そんな時代があったというだけで身体が強張る。


「何や、それ」


ようやく出た声は低かった。怒りより先に、足元が抜けるような寒さがあった。


玄綾は肩を竦める。


「家ってのは、綺麗ごとだけじゃ保たない時がある。まして神代坐の血だ。欲しがる奴はいくらでもいる」


志貴は息を吸ったが、胸の途中で止まった。


頭の中で、宗像の廊下が一度傾く。公介がいつも歩いていた木の床、咲貴の足音、朝の匂い。そこへ、今聞いたものを重ねたくなかった。


「それだけやないんやろな……」


玄綾は志貴をまっすぐに見た。誤魔化せないと判断したらしい。


「冥府やほかの血族と均衡をとるために、誰をどこへ出し、誰と繋ぐか。宗像にとっては切り札になり、不可侵の盾にもなる」


そこでようやく、下街で投げられた言葉が違う重みで戻ってきた。


『いくらで譲ってもらった』


あの時は何もしらなかったが、侮辱だと思った。実際、侮辱だった。けれど、それがただの言いがかりではなく、昔どこかで本当にそういう値のつき方をしていたことがあるのだと知った瞬間、胸の奥へ鈍いものが沈んだ。


志貴は黙ったまま、自分の膝を見た。血の気のひいた白い指先が少し震えている。


宗像は自分の場所だ。そう思ってきた。その場所が、知らないところでそんな汚れを抱えていた。


「……それでも」


口に出した途端、声が掠れた。うまく繋がらない。けれど止めたくなかった。


「そんなんでも、宗像は……私のとこや」


玄綾は盃を持ち上げかけて、やめた。


「綺麗じゃなくても、かい」


志貴は玄綾を見た。


「宗像は長く続いてる家や。簡単に続いてきたわけがないし、何かあるのはわかってたこと」


喉が熱くなった。けれど泣きたくはなかった。


「でも、今、踏まれていい理由にはならん」


細く息を吐く音がした。

玄綾はしばらく黙っていた。試すように見ていた目つきが、そこでわずかに変わった。


「……見くびっていたかもしれないね」


玄綾が少しだけ笑った。


「なら、もう少しだけ、話を聞くかい」


志貴は頷いた。


「耀冥坊ちゃんには、希詠って名前の番がいた」


その言葉は、妙に静かに耳へ入った。


「番は一人だけだ。王のそばに立てるものは、結局一つしかない。けどね」


玄綾はそこで志貴の方をちらりと見た。


「その希詠は、黒の宮に入ったことがない」


志貴は瞬いた。


「……じゃ、何で私はいるん」


問いがほとんどそのまま飛び出した。自分でも、そんなことを聞くつもりだったのか分からない。ただ、いま聞かなければ二度と聞けなくなる気がした。


玄綾はすぐには答えなかった。盃の中で酒を傾け、灯を細く揺らしてから、志貴を見た。


「先の番でも入れなかった場所に、あんたはいるんだ」


志貴は息を呑んだ。うまく飲み込めないままでも、その重さだけは伝わってくる。


「意味、わからんやん」


ようやく出た声は掠れていた。


「黒の宮は王の心臓部。嫁や子ども、番でも滅多な事じゃ入れない。……わからないなら、考えてみたらいい。あんたが、坊ちゃんならどうしたと思う?」


「宗像に同じような場所があったら、一心をそこに入れる、とは……思う」


玄綾の目が、ほんのわずかに細くなる。


「ほら、わかってるじゃないか」


志貴は唇を噛むしかできない。


「坊ちゃんもきっと同じなんだよ。希詠には出来なかったことが、あんたには出来てしまう。ただそれだけのこと」


それだけのことと言われても、志貴の頭の中はぐちゃぐちゃだ。


「希詠って人のこと、知りたい。でも、知ってどうするんやとも思う。だって私は耀冥を知らん。一心しか知らんのに、名前だけ先に突きつけられても、どうしたらええか分からへん」


「賢いねえ」


「賢うない」


志貴はすぐに返した。


「賢かったら、もっとうまいことできたはずや。……それに、希詠って人のこと、ほんまは怖いんや」


胸の中で、いくつもの感情が絡まったままほどけない。けれど、その塊の中で、ひとつだけ言葉になるものがあった。


「一心を誰かと分け合うなんて、できへん」


口に出した瞬間、部屋の空気がわずかに止まった。


志貴は顔を伏せた。喉の奥まで熱を持って、今さら引っ込めようがない。


玄綾はそれを笑わなかった。盃を持ち上げ、少しだけ口をつけてから、卓の上へ戻す。


「そんなあんただから、ここにいるんだろうさ」


玄綾はそこで盃を脇へよけ、代わりに小さな白磁の碗を志貴の前へ置いた。


「そっちやないん」


「酒なんぞ飲ませてどうする。あんたにはこっちだ」


碗からは、湯気が細く立っていた。澄んだ色をしているのに、鼻先へ寄せた途端、草の青さとも土の湿りともつかない匂いが立つ。苦そうだと思った。


「何なん、これ」


「鎮めの薬だよ。眠りへ落とすほど強くはない。張りつめたものを少し緩めるだけだ。今のあんたには、そのくらいでいい」


志貴は碗を見下ろしたまま、すぐには手を伸ばさなかった。


「……効くん」


「効かなきゃ困る」


玄綾はそれだけ言って、自分は盃を傾けた。志貴はその横顔を見てから、ようやく碗へ手を伸ばす。


指先に伝わる熱は思ったよりやわらかかった。逃げるように一息で飲むものでもない気がして、まずはほんの少しだけ唇をつける。


苦かった。


舌に触れた瞬間は淡いのに、すぐあとからえぐみが広がり、喉を通るころには熱が筋になって胸へ落ちていく。思わず眉を寄せる。


「まずい……」


玄綾が肩を揺らした。


「薬にうまさを求めるんじゃないよ」


言い返す気にもなれず、志貴は碗を膝の上に置いた。湯気がまだ指先へ当たっている。


「全部、飲まなあかんの」


「半分も入れば十分だろうさ。あとは好きにしな」


そう言われると、かえって残しておくのが落ち着かなかった。志貴は小さく息を吐き、もう一度碗を持ち上げる。今度はさっきより深く喉へ流し込んだ。


苦みの奥に、遅れて熱が広がる。胸の内側に張っていたものへ、じわじわと温い手が触れてくるような感覚だった。痛みが消えるわけではない。けれど、固く噛みしめていたものだけが少しずつ解けていく。


「顔色、やっと人に戻ってきたね」


そんなことを言われても、腹を立てる気力が湧かなかった。


碗を卓へ戻そうとして、指先が少し滑った。縁へ当たって、かすかな音が鳴る。その音が妙に遠く聞こえる。


視界の端で灯が滲んだ。


「何で……」


自分でも、何に向かって言ったのかわからない。


「何で、私だけ知らんのやろ」


玄綾の顔が少し近づいた。ぼやけかけた灯の中で、その目だけが静かだった。


「知らんままの方が、あんたにはましだと皆が思ってた。それだけのことさ」


その一言が、思ったより深く刺さった。志貴は唇を噛んだが、こぼれるものは止まらない。


「そんなの、ありえんやろ……」


宗像の暗部も、希詠の名も、煌承の言葉も嫌だった。けれどいちばん嫌なのは、そのどれにもちゃんと返せないまま、一心の隣にだけ立っている今の自分だった。


「志貴」


低い声がして、玄綾の向こうに別の影が差した。


立ちあがろうとしたが、その前に身体が傾いだ。支えが外れたように後ろへ倒れかけたところを、横から強く抱き止められる。


「何、してんのや」


その声で、ようやく誰なのか分かった。


一心だった。


怒っている。声の底に、下街から持ち帰ったままの固さがまだ残っている。けれど抱き上げる腕はぶれない。


「……一心」


志貴はその胸へ縋るように手を伸ばした。目の前にある匂いが、一気に近くなる。


「玄綾、何飲ませたんや」


「坊ちゃんの薬だよ」


玄綾が悪びれもせずに言う。


「志貴にはきついやろ……」


大丈夫かと、頬に当たる一心の指の冷たさが心地よい。志貴は一心の衣へ額を押しつけたまま、小さく首を振った。


「何か、違う」


「何がや」


「知らんことで、負けたくない」


そこまで言って、喉が詰まった。

いま言わなければ、また置いていかれる。そんな気だけが、ほどけかけた頭の奥で妙にはっきりしていた。


志貴は一心の胸元の衣を掴んだ。


「もう、知らんままにせんといて」


一心が押し黙った。玄綾も何も言わない。


「ちゃんと話して。……置いていかれるん、嫌や」


言い切った途端、張りつめていたものが一気にほどけた。志貴はそのまま一心の首筋へ頬を押しつける。


一心の腕が、ほんのわずかに強くなった。


志貴は半ば閉じかけた目のまま、玄綾の方を見ようとした。灯がにじみ、輪郭が揺れている。


その向こうで、玄綾が碗を取り上げながら笑った。


「奥へ押し込めて済む相手じゃない」


その言葉に、一心はしばらく返さなかった。


代わりに、志貴を抱いたまま低く言った。


「……お前の知りたいことは、ちゃんと話す」


声は静かだった。けれど、下街で煌承に向けたものとは違う固さがあった。


「お前を、隠しておくつもりもない」


一心は志貴を抱き直した。意識の薄れかけた頭でも、その腕の位置が決まったのが分かった。


「誰にも渡さへん」


その一言だけは、ぼんやりとした志貴の耳にもはっきり届いた。


志貴はそこでようやく力を抜いた。もう自分の足で立てる気がしない。一心の匂いに包まれたまま、瞼が落ちていく。


最後に聞こえたのは、玄綾の呆れたような、それでいてどこか柔らかい声だった。


「……ようやく、そこまで言う気になったかい」

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