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第69話 たが名ぞと 問へばうつろふ 夜の灯


どれだけそうしていたのか分からない。気づけば、窓の外の灯はさっきより低くなっていた。


扉が開いた気配があった。振り返らなかったが、追い出しもしなかった。足音の間隔で、一心だと分かった。


志貴は、膝を抱えるでもなく、背を丸めるでもなく、ただ敷かれた褥の端へ寄って座っていた。


黒の宮の内室は、宗像の座敷よりずっと広いのに、目に入るものは少なかった。深い色の柱、燭台の鈍い火、香炉の薄い煙。磨かれた床にも、垂れた布にも、余分な飾りがない。その静けさが、さっき自分が口にした言葉を、そのまま部屋の中に残していた。


一心は、少し離れたところで壁にもたれたまま、何度か口を開きかけては閉じていた。いつものように先に手を出して抱き寄せることも、何かうまい言葉で宥めることもせず、ただこちらの顔色を見ている。そうしている一心を見るだけで、かえって胸のあたりが重たくなった。


志貴は視線を落としたまま、しばらく黙っていた。腹の底が、きゅうと縮むみたいに鳴る。空腹なのだと、そのときになって気づいた。朝から何も口にしていない。宗像で倒れて、目が覚めて、黒の宮へ移されて、それからずっと、何かを食べたいと思う暇もなかった。


「……お腹、すいた。前に食べた、露店のんがいい」


言った途端、部屋の空気がわずかに止まった。食べたいのは本当だった。けれど、それだけで外へ出たいわけではないことも、自分では分かっていた。


一心が顔を上げた。何か言いかけた、その時だった。


衝立の向こうから、玄綾の声が飛んだ。


「聞こえてるよ。冷や飯を断って、露店とはいい度胸だ」


一心は何も言わないまま、ひとつ息をついた。断れば食べない。その程度のことは、志貴の言い方でわかったらしい。


玄綾がわざとらしく肩をすくめながら姿をみせた。


「坊ちゃん、詰んだな」


一心は一瞬だけ苦い顔をしたが、否定せずにこちらへ歩いてきた。


「……わかった。行こう」


「今から?」


玄綾が眉を上げる。


「おいおい、完全防御のために連れてきたんだろ」


赫夜がわざとらしく扉を叩いて、呆れたようにこちらを見ていた。


さっきからいたのに気づかなかったのは、声を挟まなかったせいか、部屋の影に溶けていたせいか。唇の端だけが笑っているのに、目はちっとも笑っていない。


「危ないのはわかってる」


「わかってて出すのは、正気の沙汰じゃない」


「梃子でも食べんくなる」


「そう育てたのは兄上だろ」


赫夜の声は軽いのに、中身はひどく容赦がなかった。


「危ないから駄目、で引く子ではないだろ。見たいものがあったら、自分で見に行く。そうしたのは兄上だ」


一心の眉がわずかに動く。否定しない。それが返事だった。


玄綾は盆を持ったまま、今度は志貴を見た。


「あんた、露店だけが目当てってわけじゃないね」


その問いかけに、志貴は少し黙った。隠すつもりはなかった。ただ、何から言うかを選んでいただけだった。


「……ほしいもんがある」


玄綾が首を傾げた。赫夜の視線が細くなる。一心だけが、何も言わずにこちらを見た。


「それと、名が消えてるん、どないなってるんか……自分の目で見たい」


部屋の中に、沈んだ火の音だけが小さく鳴った。


「何も見んまま、何も知らんまま、ここでじっとしてるんはいやや」


自分で言いながら、胸の奥に引っかかっていたものの形が、少しだけ見える気がした。守られているのに息苦しいのは、外が怖いからではない。何を伏せられているのかもわからんまま、与えられるものだけ受け取る位置に戻るのが、もう耐えられない。


「止めても、どうにかして飛び出す。……目の届く範囲で出す方がマシや」


一心がそう言ったとき、玄綾が小さく鼻で笑う。


赫夜はもたれていた柱から肩を離し、面倒そうに天井を仰いだ。


「なら俺も出る。兄上だけに任せる気はない。外に出した時に何がどう動くか、見とく。明熾、お前も来い」


赫夜の視線が廊下に流れた。明熾がいつの間にか戸口に立っていた。黒衣のまま、一言も挟まず、ただ一心の判断を待っている。


一心は短く頷いた。


「明熾も来い。冬馬も連れていく」


明熾は静かに頷き、背後にいた冬馬を前に出す。


玄綾が盆を持ったまま戸口へ退き、通り道をあける。


「坊ちゃん、甘いな」


「黙れ」


志貴が立ち上がると、一心がすぐそばへ来た。その手が差し出される。普段なら何も考えずに取ったはずの手を、志貴は一瞬見たまま止まった。さっきのことが、まだ胸に刺さったままだった。


一心も、そのためらいに気づいたらしい。手を引っ込めはしなかったが、無理に握らせようとはしなかった。


「歩ける」


そう言って先に廊下へ出る。黒の宮の中は静かだった。足音だけが細く続く。角を折れた先で、志貴はふいに足を止めた。


廊下の先が、そこで途切れていた。


途切れているように見えたのは、黒い橋があまりに細く長く、暗がりの中へ伸びていたせいだった。欄干は低く、下には底の見えない闇が沈んでいる。風だけがそこを抜け、橋の下から冷たく吹き上がってくる。


志貴は橋へ足を出しかけて、一心に手首を取られた。


「そこは歩けへん」


低い声が、すぐそばで落ちる。


「黒の血がないと、すり抜ける」


志貴は思わず橋の下を見た。見たといっても、何も見えない。ただ、のぞき込んだ先に地面の気配がない。その事実だけで、背筋が寒くなる。


「……先に言うて」


「今、言うた」


一心の言い方は静かだったが、冗談ではないことがわかった。

明熾も、赫夜も、何も口を挟まない。黒の宮にとっては当たり前のことらしい。


志貴は橋と一心を見比べた。今さら引き返すつもりはない。けれど、この橋を渡るには一心に抱き上げられるしかない。それがわかった途端、さっきまでとは別の気まずさが胸に満ちた。


一心がわずかに声を落とす。


「……こうするしかない」


頷くのも腹立たしかったので、志貴は黙ったまま視線を外した。


一心の腕が、背と膝裏へ回る。持ち上げられる感覚に、身体が一瞬だけこわばる。


自分で触れたくないと思ったわけではない。けれど、近すぎる。息の距離が、宗像にいた時と同じようでいて、今はまるで同じではなかった。


一心も、いつもみたいには抱かなかった。落とさぬようしっかり支えているのに、どこかぎこちない。触れ方ひとつにまで、互いのためらいが出てしまっている。


橋へ一歩踏み出したところで、下から吹く風が強くなった。


志貴は反射的に一心の襟を掴む。掴んでから、しまったと思う。手を離すにも遅い。掌に伝わる布の感触と、その下の熱が、妙に生々しかった。


一心は何も言わなかった。ただ、腕の力がほんの少しだけ強くなる。


橋は短いはずなのに、渡り切るまでが長く感じられた。抱かれたまま、志貴はできるだけ一心の顔を見ないようにしていた。見たら何か言ってしまいそうで、それが嫌だった。


ようやく橋を渡り終え、地に足のつく場所へ降ろされると、志貴は小さく息をついた。


「冬馬」


一心に呼ばれた冬馬がすぐ前まで駆け寄ってくる。


「志貴、大丈夫か」


「うん。思てたより、あかん橋やったわ」


「そらそうやろ。あそこ、俺でも気ぃ抜いたら嫌やもん」


冬馬が笑う。明るい声に、少しだけ肩の力が抜けた。一心も明熾も見ているが、何も言わない。赫夜はすでにひとつ上の梁へ移っていて、視界の端に黒い影だけが見えた。


下街へ降りる道は、宮の中よりもずっと生きた匂いがした。

炙った肉、煮た豆、焼けた粉もの、甘い蜜、湿った石、擦れ違う衣の匂い。灯は低く連なり、人の声は絶えず流れている。


冥府の都なのに、そこにいる者たちはみな当たり前の顔で品物を選び、誰かを待っていた。


「何、探したいん」


「肉の串」


「串て、こっちだけでも何十本あるで」


「見たらわかると思うんやけどな。一心が買ってくれた奴」


志貴がそう言うと、冬馬はくるりと背後を振り返る。

一心が、ため息混じりに指で右方向を指す。


「あっちらしいで」


二人で先を歩くと、自然に後ろと間があいた。志貴が足を止めれば、冬馬も一緒に立ち止まる。


屋台の灯に照らされた皿をのぞき込み、こっちは違う、こっちは匂いが似てる、と小さく言い合う。その後ろを、一心と明熾が渋い顔でついてくるのが、振り向かなくてもわかった。


志貴は、屋台を見て回るうちに少しだけ息がしやすくなった。


目の前のものを選ぶという、それだけのことが、今はありがたかった。何を食べるかも、どの匂いに足を止めるかも、自分で決められる。


やがて、炭の匂いに混じって、前に覚えた香ばしさが鼻を打った。小さな鉄板の上で丸く焼かれているものがある。串に刺さったそれは、表面がつやつやと光り、端が少し焦げている。


「これや」


志貴が指すと、冬馬が屋台の親父へ身を乗り出した。


「親父、二本……いや、四本」


「そんな食べるん」


「志貴、絶対もう一本ほしいって言うで。俺のはやらんぞ」


言いながら、冬馬はにこにこしている。志貴も、少しだけ笑った。


焼きたてを受け取ると、熱が指先へじんと伝わる。

ふうふう冷まして一口かじると、前に食べたのと同じ味がした。皮の香ばしさの下から、塩気の効いた汁がじわりと広がる。


「……うん、これが食べたかった奴や」


「俺もこれ好き。明熾、食うやろ」


冬馬が明熾に一本渡しながら、満面の笑みで言う。その向こうで、一心がこちらを見ていた。一心と視線が合う前に逸らす。今はまだ、まともに見られなかった。


二本目の串を受け取ろうとして、志貴はふと手を止めた。


屋台の端に積まれた木の札へ、指が伸びかける。触れる直前で、胸の奥に嫌なざわつきが走った。前にもあった感覚だ。触れた瞬間、そこに残ったものが流れ込んでくるかもしれないという、根拠のない予感。志貴はそっと手を引っ込めた。


「どうした」


すぐそばで、一心の声がした。いつの間にか近づいていたらしい。冬馬は屋台の向こうへ顔を向け、別の串を見ている。明熾は冬馬の背後で人波を見ていた。


志貴は一心の方を見ずに言った。


「手袋、ほしいんや」


一心が黙る。ほんの短い間なのに、その沈黙の形で、何を思ったかがわかった。


志貴ははじかれるように顔を上げた。


「そういう意味やないよ」


一心の表情が、わずかに硬くなる。やっぱり、触れたくないと言われたと思ったのか、と志貴は思った。そうやって言われもしないことを先に受け取って、自分で傷つくのは、一心らしいといえば一心らしい。


「……なら、どういう意味や」


その声は低かった。志貴は串を持ったまま、少しだけ息を整える。


「何を言わへんか決めて、本当を隠して……隠された方がどうなるか、わかったやろ」


一心は小さく息を呑んで動かない。


「私は、一心に隠すことはしない」


喉の奥が少し熱くなった。それでも目を逸らさずに続ける。


「ちょっと前から、触れたもんの中にある何かが、流れ込んでくる気ぃするんや。まだようわからへん。ほんまにそうなんかも、どこまで見えるんかも、何を持ってかれるんかも。それに、勝手に見たくないし、暴きたくもない。……だから、手袋がほしい」


一心はすぐには返事をしなかった。


屋台の火がはぜる音と、人のざわめきだけが二人のあいだを流れる。しばらくしてから、一心がようやく口を開く。


「わかった。……少し歩く。ついておいで」


それだけ言って、先に歩き出す。志貴は冬馬を見る。冬馬は明熾と並び立ったまま、肩をすくめた。


連れて行かれたのは、大通りから一本入った、古びた店ばかり並ぶ一角だった。派手な看板も灯もなく、暖簾だけが低く垂れている。通りの喧騒はまだ近いのに、このあたりだけ時間の流れが違うみたいだった。


一心が何の迷いもなく暖簾をくぐる。中は狭かった。棚に糸巻きと布が積まれ、奥には低い作業台がある。針を持った老人が、顔も上げずに手を動かしていた。


「今日は閉め……」


言いかけて、老人の手が止まる。ゆっくりと顔を上げ、まず一心を見、それから志貴へ視線を移した。


「珍しいのを連れてきやがったな」


「仕立ててもらいたい」


「お前さんのというわけではなさそうだな」


一心は一度も視線を逸らさなかった。


「この子のもんや」


老人の眉が上がる。

店の中に、糸の匂いと、古い布の乾いた香りが満ちていて、一心の声が静かに吸われていく気がした。


「うちは黒のものしか扱わねえ。それを承知で言ってやがるのか」


老人はしばらく黙り、やがて鼻を鳴らした。


「頼む」


その一言が、いつもより少し低く聞こえた。志貴は思わず一心を見た。頼む、と言うのを、こんなふうに聞くことはあまりない。


「呼びつけりゃ済むものを、わざわざ正面から連れてきやがって。面倒ごとの顔をしてやがる」


老人はようやく椅子から立ち上がり、志貴の前まで来た。


「で、何を作らせてえんだ」


「手袋が、欲しい」


「手を出してみな。作るかどうかは、それを見てから決める」


志貴が差し出した手を、老人はしわの多い指でじっと見た。老人の指が触れる前に、一心が短く言う。


「肌に直には触れんように」


「注文の多いこった」


老人は文句を言いながらも、薄い布を取り出して志貴の手へかけ、その上から大きさを測り始めた。指の長さ、甲の幅、手首の細さ。測られているあいだ、志貴は妙に落ち着かなかった。手袋ひとつに、ここまできちんと向き合われると思っていなかった。


「何のための手袋か、言ってみな」


老人が測りながら問う。


志貴は少し迷い、それでも答える。


「触れたもんを、勝手に見たくないから……欲しい」


老人の手が一瞬止まり、それからまた動く。


「なるほどね。勝手に開かねえためのもんか」


「……はい」


「なら、安物じゃ足りねえな。坊、大枚はたいてもらうぜ」


老人は布を払って顔を上げた。


「出来上がるまでの仮を出してやる。本仕立ては一晩越しだ」


「構わん」


一心が即座に答える。


老人は奥へ引っ込み、やがて黒に近い濃紺の手袋を持って戻ってきた。軽く、薄いのに、裏はなめらかで指先まできちんと縫われている。


「はめてみな」


志貴はそっと手を入れた。布が指に沿う。ぴたりとしすぎず、けれど余りもない。何かに触れたとしても、これなら一枚、隔ててくれる気がした。


胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ静まる。


「……うん、良い感じや」


思わず漏れた声に、老人は鼻で笑った。


「これで満足されちゃ困るね。……お前さん、宗像か」


「それが何か」


「いや、色を決めるためよ。黒に沈む手じゃねえ。深い色にする。芯の立つ色が似合う」


志貴は反射的に頷いていた。


少し離れたところにいた一心がようやく息をついたのが見えた。渋い顔のままなのに、さっきまで肩に入っていた力が、ほんのわずか抜けている。


志貴は手袋を見下ろし、指を一度だけ曲げた。


隠さないと言った。見たいとも言った。知りたいとも言った。その全部を抱えたまま、それでも自分で境界を作るのは、たぶんこういうことなのだと思った。


店の外では、まだ下街の灯が揺れている。帰る前に、もう一度だけその明るさを見たくなって、志貴は顔を上げた。


店の外へ出ると、さっきまでより灯の色が濃く見えた。


通りの向こうにもこちらにも、人の流れはまだ絶えていない。


手袋をはめたまま、志貴は一度だけ指を開いて閉じた。布一枚の薄さなのに、むき出しのままよりずっと息がしやすい。


「帰るか」


一心の声に、志貴は頷きかけた。


その時だった。


少し先の屋台筋で、低いざわめきが立った。最初は、客同士が肩でもぶつけたのかと思うほどの小ささだった。誰かが苛立った声を上げ、別の誰かがなだめるように笑う。よくある夜の音のひとつに聞こえたのに、次の瞬間、その笑いが不自然に途切れた。


「いや、毎日来てるだろうが。なんで、急にそんな」


若い男の声だった。少し離れているのに、妙にはっきり耳に入る。


「お前……誰だ」


屋台の主らしい男が、低く言う。


志貴は足を止めた。


その声には怒りより先に、戸惑いが混じっていた。喧嘩の入口の声ではない。相手を見ているのに、見えていないみたいな声だった。


「誰だって、俺だ。昨日も、一昨日も来ただろ」


「顔はわかるのに……」


そこで言葉が詰まる。


通りの空気が、その一点だけゆるく歪んだように感じた。人が二、三人と足を止める。近くの客が困ったように二人のあいだへ口を挟みかけ、すぐに眉を寄せた。


「何してるんですか。ほら、いつも来る……」


その客もまた、続けるはずの名を落とした。


志貴の喉の奥が、ひやりとした。


見えている。顔も、声も、立っている場所も、関係も消えてはいない。だが、その人を指すはずの音だけが、そこから抜けている。言おうとした瞬間に、口の中からこぼれ落ちるみたいに消えていく。


「志貴」


一心の手が、肩に触れる寸前で止まった。さっきと違って、今度は触れないまま声だけが落ちる。


「下がっとき」


冬馬が先に一歩出る。明熾はいつの間にか人波の外側へずれていて、視線だけが周囲を切っていた。赫夜の姿は見えなかったが、梁の影のどこかで、こちらと同じものを見ている気配がした。


志貴は言われた通りに下がろうとして、足を止めた。混乱の中心にいる若い男が、屋台へ半身を乗り出していた。怒っているというより、必死だった。


「親父、冗談やめてくれや。名前、呼んでみて」


「呼べるなら呼んでる」


「ほら、いつも一緒におるあいつは」


「……あいつ?」


屋台の主の顔から、血の気が引いていく。目の前の若い男の後ろには、連れらしい背の高い影が立っていた。こちらを見ている。こちらを見ているのに、屋台の主はその影にも、同じ目を向けていた。


「お前ら、何なんだ」


その言葉に、周りで見ていた者たちの顔つきも変わる。


「いや、待て、さっきまで話してただろ」


「誰と」


「誰と、って……」


今度は止めに入っていた客の声が揺れる。言葉は出るのに、肝心の一つだけが抜けたまま、空回りしていた。通りのざわめきが、そこからじわじわ広がる。誰かが帳面を取り出し、何かを確かめようとする。別の誰かが札を見比べる。けれど混乱は収まらない。


志貴は無意識に、手袋をはめた手を握った。


あれが、話に聞いていた『名が欠ける』ということなのだと、頭ではもうわかっていた。それでも、こうして目の前で起こると、寒気の質が違う。ただ忘れたのでも、勘違いしたのでもない。もっと悪い。そこにあるはずのものだけを、何者かが指でつまんで引き抜いたみたいな空白だった。


若い男が、振り返る。その横顔に、志貴は思わず足を踏み出しかけた。


触れたら、何かわかるかもしれない。


けれど次の瞬間、手袋の感触が止めた。布の向こうにある自分の手を、志貴はきつく握り込む。勝手にひらきたくない。そう言ったばかりだった。その迷いを見透かしたように、一心が低く言う。


「触れんでええ」


志貴は唇を噛んだ。


『触れなくていい』ではなく、触れてはならないに近い響きだった。止める声なのに、今度はさっきほど腹が立たなかった。


屋台の主が、とうとう若い男の胸ぐらを掴みかける。


「ふざけるな。顔も声もわかるのに、なんで名だけ抜ける」


「こっちが聞きたいわ」


若い男の連れが割って入った。そこで初めて、その連れの顔を見た人々が、同時に言葉を失う。


ひとつではなかった。


ひとりの名が抜けただけではなく、その人に連なる名まで、ところどころほころび始めている。志貴にはそう見えた。


何かがおかしいと思った時にはもう、追いつかないところまで進んでいる気配があった。


通りの灯が揺れるたび、そこに立っている人の輪郭は変わらないのに、その人をその人にしていた何かだけが、保てなくなっていく気がした。


若い男が、まだ何か言おうとしていた。口は動いている。声も出ている。けれど、その輪郭が急速に薄くなった。灯に照らされているはずなのに、光の届かない場所へ一歩ずつ下がっていくように見えた。


志貴は息を呑んだ。


薄くなっているのではない。消えている。立っていた場所から、足元から、まるで最初からそこにいなかったかのように。


隣にいた連れが振り返った。けれど、その目はもう、さっきまで隣にいた誰かを探してはいなかった。探すべき相手がいたことごと、抜け落ちている。


通りの流れは、戻り始めていたのではなかった。


戻ってしまっていた。


ついさっきまで、そこに誰かがいたはずの空きだけが、うまく思い出せない形で埋まり、人の目も声も、その欠けた分を最初から持っていなかったみたいに滑っていく。立ち止まっていた者たちでさえ、何に足を止めたのかを取り落とした顔で、また屋台の灯へ向き直っていた。


冬馬は志貴の前に半歩出たまま、屋台筋と周囲の路地を見比べていた。明熾の手は、腰の位置から一度も離れない。


異様な静けさが、ざわめきの中に混じり始めた。


赫夜が、いつの間にか人波の端へ降りていた。目だけで通りの奥を追って、一心に何かを伝えようと口を開いた、その時だった。


「兄上」


ひどくよく通る声が、人波の向こうから落ちた。それだけで、通りの空気が変わる。


騒ぎの中心にいた者たちが、誰からともなく左右へ退いた。押しのけられたというより、その声の主へ道をあけたように見えた。


低く連なる灯の奥から、数人の影がこちらへ歩いてくる。先頭の男は、夜の色に紛れぬまま、まっすぐ一心だけを見ていた。


整いすぎて冷たい顔だった。目元にも口元にも、慌てた色がない。通りの混乱も、止まった人々の息も、自分へ向く視線も、最初から織り込み済みのものを見る顔だった。


志貴はその男を知らない。知らないのに、知らなくてはいけない相手が来たのだと、身体が先に察した。


一心の肩先が、わずかに硬くなる。


男の視線がそこで初めて志貴へ移り、次に冬馬、赫夜、明熾へと流れ、最後に混乱の中心を一瞥した。


「黒の宮へ入れただけでは足りず、下街まで連れ出されたのですか」


声音は静かだった。けれど、その一言で、さっきまで通りを満たしていた喧噪が、別のものへ塗り替わる。


「その結果が、これだ」


男はそこで止まり、灯の下から一心を見上げた。


「兄上。ずいぶんと目立つことをなさる」


「煌承……」


一心が渋い顔をして、志貴を背にかばった。


気づけば、あたりは白衣の官吏にぐるりと囲まれていた。

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