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第68話 いはぬゆゑ 胸に満ちたる きみが声


橋の手前で、一心は志貴を抱き上げた。


不意のことではなかった。渡る前からそうするつもりでいたのだと分かる腕の入り方だった。背と膝裏を掬い上げる手つきに迷いがない。声をかける暇もなく視界が持ち上がり、黒く細い橋の欄干が、いつもより少し低い位置へ沈んだ。


そのとき初めて、自分の衣に触れた一心の袖の感触に意識が向いた。


黒だった。


ただの黒ではない。光を吸って沈むような深い色で、襟と袂の内にだけ、ごく薄く紫が差している。一心の衣と同じ織り、同じ配色だった。宗像で見慣れた装いとも、隠れ宮で着せられていたものとも違う。抱き上げられたまま視線を落とせば、自分の裾もまた一心の衣と揃いに見えた。


それが何を意味するのか、志貴にはまだ分からない。ただ、こんなふうに並べられること自体がひどく落ち着かなかった。


橋の先へ足を踏み入れた瞬間、空気が違うと知れた。


ただ冷たいのではない。そこまで背に受けていた冥府のざわめきが、橋の半ばで不意に遠のいた。官吏たちの行き交う気配も、下街の灯の連なりも、渡るにつれて後ろへ沈んでいく。中央から離れているはずなのに、追いやられた端ではなかった。こちらへ入った途端、向こうが外になる。


欄干は高くも華やかでもないのに、うかつに身を乗り出す気を失わせた。板は磨き抜かれているのに、人が踏みしめてきた道の艶ではない。


長く使われてきた橋ではなく、必要な時にだけ起こされるものの硬さがあった。


志貴は無意識に一心の袖を掴み直していた。


隠れ宮にも宗像にもあった、人が長く暮らした場所のやわらかな湿りがない。磨かれた床も、黒く高い柱も、渡りの奥へ幾重にも続く廊も、誰かが丁寧に整えているのは分かるのに、そこへ身を預けて眠った者の気配が薄かった。灯も香も絶えてはいない。ただ、それが暖めるためではなく、冷えを見張るために保たれているように見えた。


首筋の奥がじわりと疼いた。橋の途中から続いている息苦しさは、渡りきっても抜けなかった。胸のどこかに薄い刃が差したまま、深く息を吸うたびそこに触れる。それでも、足をついて歩くよりはましだった。いま自分の脚で渡れと言われたら、橋の半ばで膝をついていた。


誰も案内しないまま進んだ先で、一心はようやく足を止めた。


広く取られた一室の前だった。敷居の内へ一歩入ったところで、抱いていた腕がわずかに沈む。降ろされるのだと気づくより先に、足裏へ床の冷えが返ってきた。立てはしたが、体の芯がまだ遅れていた。離れた腕の熱が、急に惜しくなる。


そのとき、扉が静かに開いた。


出てきたのは、幼い娘にしか見えない姿だった。


黒に近い紫の小袖を肩からゆるく掛け、乱れた髪を片手で押さえながら、眠たげな目を上げる。年端のいかぬ顔に、まるで似合わない古さが宿っていた。娘は一心を見るより早く、志貴の衣と、抱き上げられてきた気配の残る一心の腕とを見た。それから、ようやく一心へ目を向ける。


「へえ」


乾いた声だった。驚いたようでもあり、呆れたようでもあった。


「そこまでして、正面から入れるときたか」


志貴は意味が分からず、娘の顔を見返した。


娘は一歩近づき、断りもなく志貴の額に指先を当てた。ひやりと冷たい。次に首筋の少し下へ手を滑らせ、熱を測るようにしばらく触れ、香を嗅ぐ獣のように鼻先を寄せる。


「熱は高い。息も浅い。香も荒れてる」


そこで一度言葉を切り、娘はようやく一心へ向き直った。


「決めたのかい、坊ちゃん」


坊ちゃん、と呼ばれた一心は、わずかに眉を寄せただけで否定しなかった。


「玄綾、部屋を整えてくれ。しばらくここへ置く」


玄綾と呼ばれた娘は、ふうん、と気のない返事をしたが、その視線はまだ志貴から離れない。面白がっているのではない。もっと厄介なものを見る目だった。


志貴には、その目の行き先が自分の顔でも着物でもなく、この宮へ入ったという事実そのものへ向いている気がした。


「難儀するって分かってて、やるんだね」


「置くと言った」


一心の声は低く、揺れがなかった。


志貴は喉を湿らせようとして、うまく飲み込めなかった。ここにどんな意味があるのか、一心が何を決めたのか、どれも分からない。ただ、自分だけが遅れている感じが強くなる。


そのとき、廊の向こうから乾いた足音が近づいてきた。


「諦めろ、玄綾。兄上に方針変更はない。知ってるだろうが」


入ってきたのは赫夜だった。いつものように口もとには薄い笑みがあるのに、眼だけが笑っていない。志貴をひと目見てから、一心へ視線を向ける。


「それに、もう隠しきれない」


赫夜は玄綾の横を通り過ぎ、室の中央まで来て足を止めた。


「迎えの作法で黒の宮へ入れておいて、まだ何も話していないのか」


一心は答えなかった。


その沈黙に、赫夜は呆れたように息を吐く。


何のことを言われているのか、志貴にはすぐ分からない。ただ、ここへ入ってからずっと、自分だけが何かを外されたまま立っているようで、落ち着かなかった。玄綾の目つきも、一心の置き方も、いまの赫夜の言い方も、みな同じところを見ている気がするのに、自分だけがそこへ届いていない。


「……何を」


ようやくそれだけが口から出た。


赫夜は一瞬だけ一心を見た。止めるなら、いまだったというような視線を向けた赫夜に、一心は何も言わない。


赫夜はまたひとつため息をついてから、志貴へ向き直った。


「おおよそ、百日。おまえが眠ってる間に、宗像はだいぶ削られた」


百日。


志貴はその数字を聞いた瞬間、何も言えなかった。その時間の中に、自分がまったくいなかったという事実だけが、冷たく落ちた。


「道反も、熊野も、無事では済まなかった」


赫夜の声は低かった。淡々としているのに、その言葉の奥に、軽く済まされないものがあると分かる。


道反、という名が先に胸へ刺さった。


「……道反」


声にした途端、あの山の匂いが戻った。湿った土と、古い木の幹と、朝靄の底に溜まる冷えた空気。一心と並んで歩いた道の感触まで、遅れて胸の奥へ返ってくる。


大切な顔がいくつも浮かび、喉が狭くなった。何が起きたのかはまだ分からない。ただ、そこへいなかったという事実だけが、息を吸うたび重くなる。


「入るぞ」


ためらいのない、硬い足取りだった。長身の男が敷居をまたぎ、その後ろで一人分の気配が止まる。志貴はそちらを振り返り、息を呑んだ。


「明熾、そいつを連れて来いと言った覚えはないが」


赫夜が眉を寄せる。


「連れてくるなとも聞いていない。いるべきだと判断した」


明熾と呼ばれた男は、悪びれる様子もなく扉にもたれるように立ち、腕を組んだ。


その後ろにいる顔を見た瞬間、志貴の喉が詰まる。


「冬馬……」


冬馬であることは、一目で分かった。けれど、知っている冬馬がそのまま立っているのではなかった。肩の線が以前より鋭く、纏っている衣の黒は宗像のものとも違う。沈んだ色のなかに、鈍く火を含んだような赤が走っている。黙って立っているだけで、室内の温度がわずかにずれる。その変化が何を意味するのか、説明がなくても志貴には分かった。


志貴の知らないところで、冬馬もまた決定的に変わってしまったのだ。


冬馬は志貴と目が合うなり、わずかに視線を落とした。近づきたいのに、足が出ないように見えた。その横顔を見た明熾が、容赦なく言う。


「何を恥じる必要がある」


低い声が、室内の空気を真っ直ぐ切った。


「おまえが、道反を護った。その結果が今だ。引く理由はない」


冬馬は唇を結んだまま、ようやく一歩だけ前へ出た。明熾はそれを見届けると、わずかに身を引いた。押し出したくせに、踏み込みすぎない。その距離の取り方だけで、この二人のあいだに短くはない時間があると分かった。


志貴はその動きを見ていることしかできなかった。何をどう訊けばいいのかも分からない。目の前に立っているのはたしかに冬馬なのに、その背後に、自分の知らない長い時間が立っているように見えた。


冬馬が口を開く。


「……遅なった」


それだけだった。けれど、その一言の奥に、言いきれないものが詰まっているのが分かった。冬馬の声そのものが、もう前のままではない。


赫夜が志貴の反応を見て、続きを切った。


「道反は荒れた。こいつはそこで宗像を護った」


冬馬が道反を護ってくれた。それだけで十分なはずなのに、視線が無意識に一心へ向く。


赫夜がその行き先を読んだように、言った。


「兄上は動けなかった」


志貴の指先がぴくりと震える。


「おまえが居たからだ」


あの一心が、動けなかったというのか。自分のせいだという言葉が追いつくより先に、息が詰まった。


「なんでや……」


問いになりきらない声が喉に引っかかったまま、自分だけがそこから外されていた事実が遅れて胸を塞いだ。


赫夜の声がさらに低くなる。


「熊野でも火が上がった。決着をつけたのは咲貴だ」


どの言葉にも、その前後にあるはずの時間が、まるごと抜け落ちていた。


「……私、ほんまに何も知らんのやな」


ようやく出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。


首筋が脈打った。痛みというより、そこへ触れてはならないと告げるような、いやな締まりだった。志貴は無意識に喉を押さえ、俯く。


自分の知らないところで、誰かが傷を負い、誰かが血を流し、誰かが決めてしまった。その場にあったはずの匂いも熱も、何ひとつ自分の中に残っていない。


一心が低く名を呼ぶ。


「志貴」


その声に縋りたくなるのに、今はかえって足もとが覚束なくなる。


「なんで……」


声が先に零れた。


志貴は顔を上げた。視線の先にいるのは、いつも最後に手を掴んでくれる一心なのに、いまはその人がひどく遠く見えた。


「なんで、教えてくれへんかったんや」


室内が静まり返った。


「一心から、聞きたかった」


息が乱れ、首の奥がまた焼けるように締まる。それでも止まらない。


「しんどいことでも、こわいことでも、ちゃんと聞くのに」


声の端だけが揺れた。


一心が何か言おうとした気配があった。その前に、志貴の方が耐えられなくなった。


「もういい」


掠れた声でそう言い残し、背を向ける。誰かが名を呼んだ気がしたが、振り返らなかった。案内も待たずに廊へ出る。玄綾がいつのまにか開けていた奥の部屋へ入り、扉を閉めたところで、ようやく膝の力が抜けた。


部屋は整いすぎていた。必要なものだけが置かれ、余分な色も音もない。


窓際へ寄ると、外には黒い屋根が幾重にも連なり、その向こうに冥府の灯が低く滲んで見えた。見知らぬ街だ。遠くで生きている気配はあるのに、自分がそこから切り離されているのがよく分かる。


志貴は窓辺に座り込み、膝を抱えた。


腹は空いているはずだった。けれど、何かを口に入れる気になれない。食べたところで、いま胸につかえているものが降りる気がしなかった。


知らないあいだに、咲貴も、冬馬も、先へ進んでいた。そのあいだに何を失い、何を選び、誰がどんな顔をしていたのか、ひとつも知らない。


しかも、一心は自分を護るためにそこへ駆けつけることができなかった。そのことだけが、胸の底へ重く沈んだ。護られていたのだと分かるのに、それで済ませられない。そこにいなかった自分への怒りまで、同じ場所に残った。


しばらくして、扉の向こうで控えめな音がした。


返事をしなかったが、相手は待たずに入ってきた。


玄綾だった。盆の上に湯気の立つ椀と、小さな皿がいくつか載っている。志貴は顔だけそちらへ向けた。


玄綾は盆を低い卓に置き、無理に勧めるでもなく、少し離れたところへ腰を下ろした。


「食べないだろうと思ったけどね」


志貴は何も答えない。


玄綾は窓の外を一度見てから、ぽつりと話した。


「坊ちゃんは、伏せて守る癖がある」


その言い方には責める色も庇う色も薄かった。ただ、長く見てきた者の断定だけがある。


「自分で抱えりゃ立てると思ってる。実際、だいたいは立ってしまう」


志貴は膝に額を寄せたまま、黙って聞いた。


「だから、伏せた側が何を壊したか、気づけない」


その一言が、先ほど一心にぶつけた言葉の奥へ静かに落ちた。


玄綾はそれ以上、急いで続けない。しばらく間をあけてから、今度は少しだけ声を低くした。


「冥府にも、宗像にも、知らないままでは済まない傷がある。あんたも、いずれそこに触れる」


志貴はゆっくり顔を上げた。


玄綾の眼は、先ほどのような棘だけではなかった。見たくないものを見てきた者の、乾いた古さがあった。


「いまは話さないよ」


玄綾はそう言った。


「いっぺんに落としたら、きっともたない。だけど、何も知らないままにはしない」


卓の上の椀から、まだ湯気が立っていた。志貴はそれを見たまま、手を伸ばせなかった。


「いまは、ひとつだけ。黒の宮に他所の者を入れるなんて、本来は有り得ない。あんたをここへ入れた時点で、坊ちゃんが何をいちばん先に選んだか、それだけは分かるだろう」


「……分からん」


口にすると、また胸の奥が沈んだ。


玄綾は頷きもしないし、慰めもしなかった。ただ静かに言う。


「分からんで済む話でもないだろう」


その短さが、かえって逃げ場をなくした。


窓の外で、どこか遠くの鈴がひとつ鳴った。


澄んだ音だった。けれど、最後まで鳴りきる前に、ふいに途中で痩せた。


志貴は顔を上げた。


鈴の音が止んだのではない。そこにあったはずの続きだけが、音もなく削り取られたようだった。


玄綾も気づいたらしい。窓の外を見て、目を細める。


「下街で、また名が欠けてる。もはや、所構わずだな」


低い声だった。


志貴の胸が詰まる。


「……宗像も?」


玄綾は頷いた。


「ここより、ずっとひどいはずだ」


志貴は首筋に触れかけ、途中で指を止めた。痛みはまだある。胸の重さも消えない。一心に向けた言葉のあとが、自分の内側に熱を残したまま固まっている。


志貴は窓の向こうの灯を見つめた。知らない街の、知らない灯だった。暖かいとは思えない。それでも、消えてはいなかった。

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