第67話 くろがねの 雲居を渡り 名を問えば
目を覚ました瞬間、志貴は息を止めた。
天井が違う。宗像の座敷よりずっと高く、梁の組み方も、垂れた薄絹の色も見覚えがない。寝台の感触も妙だった。柔らかいのに落ち着かない。背を預けても、ここにいる自分だけが不自然に浮いた。
隣から言い争う声がした。
低い声が二つ、扉ひとつ隔てた向こうで短く言葉を交わしている。押し殺しているのに、抑えきれない硬さだけが伝わってきた。片方が低く押し返し、もう片方がそれを切るように畳む。すぐ止むかと思ったのに、止まない。
志貴はしばらく、その声を聞いていた。
何を話しているのかまでは拾えない。けれど、ただの相談ではないことだけは分かる。責めているわけでも、命じているだけでもない。どちらも譲っていない。
近くに誰かいるのなら、宗像ならもう誰かが戸の外へ立っていてもおかしくなかった。そういう家だった。なのに、誰も来ない。声だけが扉の向こうで続いている。志貴は息をのみ、ほとんど縋るように記憶をたぐろうとした。
壮馬に裏切られたところまでは鮮明に覚えている。そこから先がない。あるのは、現実感の薄い夢の感触だけだった。
水の底でもがくように、何度も誰かへ手を伸ばしていた気がする。
皆を助けなければと、そればかり思っていたのに、誰を、どこから助けようとしていたのか、その肝心なところだけが抜け落ちていた。
身を起こした途端、袖が手に絡んだ。
そこで初めて、自分の着ているものに気づく。
幾重にも布を重ねた衣は、肌ざわりこそ良いが、宗像で着る寝間着とも常の衣ともまるで違っていた。袖は深く、裾は長い。胸元の打ち合わせも、腰で重ねた帯の締め方も見慣れない。上等なものだとは分かる。刺繍も縫いも細かい。だが、良いかどうかより先に、こんなものでは走れないと身体が知った。咄嗟に身をひねれず、逃げるにも向かない。
思わず袖口を摘まむと、知らない布の匂いの下から、一心の香りが立った。
志貴は指を止めた。
どうしてこんな見知らぬ衣に一心の香りが残っているのか分からなくなって、余計に落ち着かなくなった。
部屋の中を見回す。手入れは行き届いているのに、人の気配が薄い。壁際に置かれた香炉も、几帳も、卓の上の水差しも、誰かが使っているというより、誰かが使っていたものを丁寧に残しているように見えた。
開いているのは、正面の窓だけだった。薄い帳が風に揺れ、外の白い明るさを細く通している。
志貴は寝台を降りた。床へ足を下ろした瞬間、膝が頼りなく揺れる。寝起きの重さではなかった。足の裏が確かに石床を踏んでいるのに、自分の身体の重みだけがわずかに遅れて落ちてくるような鈍さがあった。
志貴は窓のほうへ向かった。窓を抜けてテラスへ出た瞬間、やはり宗像ではないと確信した。
風の匂いが違う。湿りを含んでいるのに、生きた土や木の匂いがない。石床はよく磨かれていたが、長く人の往来を遠ざけた静けさが残っている。細長く張り出したテラスの先には、雲しかなかった。
断崖の下を、白い雲海が埋めている。空とも海ともつかない白だけが、果てもなく揺れていた。
理屈より先に、ここが冥府のどこかなのだと身体が受け取った。
喉が急に乾いた。
「なんで……こんなとこにおるん」
記憶の端を掴もうとしても、指先からこぼれるばかりだった。
問いばかりが頭の中で膨らんでいた矢先、首筋の奥がひどくきつく締まった。見えないものに喉を掴まれたような苦しさだった。息が浅くなる。胸の内側へ、冷たい水が流れ込むような感覚が走る。
足を踏み出しかけて、裾を踏んだ。
立て直そうとしても脚がついてこない。欄干へ手を伸ばす。その指先さえ、自分のものではないみたいに鈍かった。
意図せず、膝が折れる。
「志貴」
声と同時に、身体が横から強く支えられた。
同じテラス続きの隣から、一心が駆け込んできていた。ほとんど飛びつくような勢いだった。抱き留められた瞬間、さっきまで隣で途切れず続いていた声の張りが、そのまま腕の強さになって伝わってくる。抱き留められた勢いで頬が胸元へぶつかり、移り香がいっそう濃くなる。知らない場所なのに、その匂いだけで身体の強ばりが一瞬ほどけた。
「大丈夫か」
低い声がすぐ上から落ちる。いつもの一心の声だった。そのはずなのに、どこか違う。宗像で聞くときより、音の芯が深い。しかも今は、静かに抑えているぶんだけ、底に残った熱が分かった。ついさっきまで、隣で言い争っていた声の余熱が消えきっていない。
志貴はその違和感ごと、一心の衣を掴んだ。
「……一心」
「どないした」
返ってきた言葉は短く、迷いがなかった。
それだけで泣きそうになるくらい安心したのに、次の瞬間には別の怖さが押し寄せた。
「ここ、どこや」
問うたくせに、分かっていた。宗像ではない。冥府の気だった。
「夢、見てたんや」
息がうまく続かない。志貴は一心の袖を握ったまま顔を上げた。
「みんな、助けなあかんて、ずっと思うてた。それやのに、壮馬さんに殺されかかったとこまでしか、分からへん。一心、私、何かしたんか」
一心の目がわずかに沈む。その変化だけで、志貴の思考は最悪の方向へ転がった。
「宗像、おられへんの……私のせいなん。私、なんか、ようないことしてしもたんやろか。……一心まで巻き込んだんやったら、ごめん」
「それだけは、絶対違う」
返事は鋭かった。
短く切られて、志貴は口を閉じる。責められたわけではないのに、その強さだけで、これ以上同じことを言ってはいけないのだと分かった。
そのとき、扉が開いた。
足音が近づき、黒衣の男がテラスへ姿を見せる。知らない顔だった。年は一心とそう離れていないように見えるのに、纏う空気はもっと冷たい。笑っているような口元なのに、目だけが少しも笑っていない。
志貴は一心の腕の中にいたまま、その男を見て、率直に口にした。
「……誰や、あんた」
男が一瞬だけ黙った。
次いで、呆れたように息をついた。だが、その声にもさっき扉の向こうで張っていた硬さがまだ残っていた。
「きれいに抜けたわけか。気苦労が絶えんな、兄上」
その呼び方で、志貴の頭がまた止まる。
「赫夜」
一心が短く言う。
どこかで聞いた覚えがある気もしたが、思い出せない。
赫夜は、志貴が自分を知らないこと自体には興味がなさそうだった。視線はむしろ、志貴の首元、震える指先、踏み乱した裾へ向けられている。値踏みではない。今どこまで保っているかを見ている目だった。
「目が覚めたなら、あちらにも気づかれたかもしれない」
赫夜は雲海の向こうへ目をやったまま、声を低くした。
「血眼になって探してるはずだ」
志貴を抱える一心の指が、衣越しにわずかに食い込んだ。
「まだ早い」
低く落ちた声は、赫夜へ向けたものだった。
「早い遅いの話じゃない」
赫夜は即座に返した。
「状況は待ってくれん」
一心は答えなかった。抱く腕の位置だけをわずかに直した。その沈黙が、志貴にはかえって痛かった。何の話かは掴めないのに、自分を挟んで、もう何かが決まりかけていることだけは伝わった。
「黙れ、赫夜。俺は……」
その言葉が終わるより先に、風の底が腐った。
腐った水と、長く閉じた血の匂いだった。雲の縁から、人の形を取り損ねた黒いものが這い上がってくる。輪郭がぐずぐずに崩れ、悪鬼と呼ぶにも出来損ないの影だったが、生きたものではない気配だけは濃かった。
一心の腕が志貴を庇うように前へ出る。
けれど志貴は、そこで胸の奥を鉤で引かれるような感覚を覚えた。あれを入れたらいけない。理由は分からないのに、そのことだけがはっきりしている。
影が欄干を越えた瞬間、志貴は一心の腕をすり抜けるように前へ出た。
「志貴」
呼び止める声は聞こえた。だが足は止まらない。影の額にも見える場所へ指先を向ける。火を出そうとしたつもりはなかった。
触れるより先に、影が揺れた。
黒い塊の表面が静かにほどけていく。悪鬼として貼りついていた形が剥がれ、ひと息のあいだだけ、その奥に埋もれていた顔らしいものが浮いた。驚いたように目を見開いた、名を失う前の誰かの輪郭だった。
次の瞬間、その姿は保てなくなって崩れた。
塵になるか、還るか、その境目だけを残して、白い息のように散っていく。
志貴は息を呑んだ。
「今のは、なんや……」
声が、自分のものとも思えぬほど遠かった。
焼いたのではない。裂いたのでもない。触れるより先に、あの影のほうが保てなくなった。
悪鬼を滅したときの手応えとは、まるで違う。指先に残っているのは、何かが静かにほどけていった気配だけだった。
志貴は息を詰めた。自分の術が、変わっている。そう思った途端、遅れて寒気が全身へ広がった。どう違うのかも、どこから変わったのかも分からない。ただ、もう前と同じではないことだけが、指先の感触ではっきりしていた。
残りの影たちが、そこで一瞬ためらう。近づくより先に、こちらを測るように退きかけた。その隙へ赫夜の術が走った。黒とも白ともつかぬ印が欄干の向こうへ広がり、雲際にまとわりついていた影を押し返す。
だが完全に切れたわけではないと、志貴にも分かった。ここへ引かれてくるものが、まだ下にいる。
その実感と同時に、首筋の奥がまた焼けた。立っているだけで息が乱れる。湿った暗がりに息を潜めるような感覚だけが、記憶にならないまま身体へ残った。
一心の腕が志貴の肩へ戻る。さっきより深く押し当てられていて、志貴の呼吸の乱れを背中から測っているようだった。
「志貴」
低い呼びかけに、志貴はようやく自分が震えていると知る。そして、唇の端から赤い雫がこぼれ落ちた。
赫夜が舌打ちまじりに息を吐いた。
「だから言っただろう。隠れ宮で抱え込める段は、もう過ぎた」
赫夜の声は冷えているのに、急かし方だけが妙に生々しかった。
「次、間に合わんかったら、今度は誰が悔やむ」
一心の視線が、赫夜へ向く。
その一瞬だけ、場の空気がひりついた。
「口を慎め」
赫夜は引かなかった。
「慎んだうえで、決めきれんだけだろうと言ってる」
志貴はそこで、さっき隣室から聞こえていた言い争いが、まだ終わっていなかったのだと知る。
一心はすぐに答えなかった。雲海の向こうを見たまま、志貴の肩へ置いた手にわずかに力を込める。踏み切りたくないものを前にした沈黙だった。
赫夜がその沈黙を切る。
「兄上、ここは駄目だ」
それは進言というより、ほとんど最後通告に近かった。
一心はすぐに頷かなかった。志貴を抱く腕のまま、雲海の下を見ている。その横顔に、ためらいがはっきり浮いたのを、志貴は初めて見た。
赫夜が続ける。
「黒の宮へ移せと言ってるんだ。本宮まで開けろとは言わん」
その言葉で、志貴ははっきり固まった。
黒の宮は、冥府の王の領するところだ。その名だけは志貴も知っている。
「なんで、あの四天王のおる場所に……」
乾いた声が、自分のものとは思えないほど薄く出た。
「一心が、行くみたいに話してるんや」
赫夜が黙った。一心もすぐには答えなかった。
志貴は一心を見上げた。香りも、声も、抱く腕の強さも、一心そのものだ。なのに周囲の空気だけが、その人を別の名で呼ぼうとしている。
一心は、ようやく口を開いた。
「俺は宗像一心や」
まず、そう言った。
「宗像では、ずっとそうやった」
志貴の喉が小さく鳴る。
「……冥府では、耀冥と呼ばれとる」
志貴は瞬いた。
冥府の王の名として知っているからこそ、目の前の人とすぐには結びつかない。頭では分かるはずなのに、感覚のほうがついてこない。
「耀冥……」
口に出してみても遠かった。
志貴はしばらく何も言えず、それから掠れた息をついた。
「……でも、一心やろ」
理屈では追いつかない。けれど、そこだけは譲れなかった。
一心の目がわずかに見開かれる。赫夜はそこで初めて、ほんの少しだけ口の端を緩めた。
志貴は耀冥という名がどれほど重いかも、黒の宮へ行くことが何を意味するかも、今の自分の身体に何が残っているのかも、ろくに分からない。それでも、目の前のこの人が一心であることだけは、手の熱で分かった。
志貴は、雲海の向こうを見ずに、一心だけを見た。
雲の下で、さっき退いた影の気配がまだ薄くうごめいている。
赫夜が欄干の向こうを見たまま言った。
「兄上、こいつなら大丈夫だ」
その声音は冷静なままだった。だが一心の沈黙だけが深かった。首筋の奥では、まだ知らない熱がひりついていた。
一心の腕が、今度はためらわず志貴を抱き上げた。長い裾が持ち上がり、移り香が濃くなる。志貴は反射でその衣を掴んだ。
一心がいるなら、まだどうにでもできる気がした。
一心に抱き上げられたまま部屋へ戻ると、外の冷えが切れた途端、志貴は自分がひどく震えていることに気づいた。
寒さではない。身体の奥が落ち着かない。首筋の内側へ薄い熱が残り、息を深く吸おうとするたび、喉の奥へ見えない棘が引っかかる。
赫夜はもう先に室内へ入っていた。開け放たれていた扉の向こう、隣室の卓にはまだ話し合いの痕跡が残っている。地図とも書付ともつかぬ紙が数枚、香炉のそばへ寄せられ、飲みかけの茶は冷えきっていた。
「表の階は捨てる。下へ回ったものもいるだろうから」
赫夜の声は早い。焦っているのとは少し違う。決めたことを決めた順に片づけていく人の声だった。
「堅牢さなんぞ、微塵も無いことはよくわかってるはずだ」
一心は答えず、寝台の脇に置かれていた黒い外衣を片手で取り上げた。裾の長いそれを、志貴の衣の上から包むように掛ける。重みが増したのに、不思議とさっきよりましだった。抱き上げられたままその襟に頬が触れ、志貴はようやく自分が半ば無意識に息を詰めていたのだと知った。
「歩きたいか」
問われて、志貴は反射で頷きかけた。けれど脚へ力を入れようとした瞬間、さっきテラスで味わった鈍さが思い出される。ここで意地を張っても、また足を取られるだけだと分かった。
「……うん、言いたいけど、たぶん無理」
小さく答えると、一心は「だろうな」とだけ言った。その声音に責める色はなかった。志貴は少しだけ肩の力を抜く。
そのとき、抱き上げられた拍子に、指先が一心の眼帯の端へかすった。
触れた瞬間、視界が裏返った。
黒い布の感触が消える。代わりに、ひどく冷えた息づかいと、張りつめた沈黙が一気に流れ込んできた。
幼い顔が、目の前にあった。
伏せられた睫毛の上を、女の細い指が迷いなく走る。右目へ黒い布が巻かれる。きつく、二重に、ほどけぬように。静かな手つきだったのに、その速さだけが異様だった。
『母は大丈夫。父のところへ行きなさい』
低い声が落ちる。
その直後、袖がひるがえった。
庇うように前へ出る背。押しやられる小さな肩。振り返らせまいとする腕の強さ。そこで不意に景が断ち切れた。
志貴は短く息を呑み、眼帯から指を離した。胸の奥がひどくざわつく。
見えたのではない。
触れた先から、そのまま流れ込んできた。
悪鬼がほどけたのとは、違う。あれはまだ、触れた先で何かが起きた、とだけ思えた。けれど今のは、相手が悪鬼ですらない。ただの布だ。そこへ残っていたものが、指先から勝手にひらいて、自分の内側へ雪崩れ込んできた。読もうとしたわけではない。触れただけでこうなる。それでも、あの女の声と、布の下の冷えだけは、指先にまだ残っていた。
思わず、一心の右目を覆う黒を見た。
見た途端、喉の奥がきつく縮む。もう一度触れれば、また何か流れ込んでくるのではないかという怖さと、それでも確かめたい気持ちが、指先の内側でぶつかり合った。
「どうした」
一心の声が近く落ちる。
「……今」
喉が引きつり、その先が出なかった。
問いたかった。
あれは誰だったのか。どうしてその目を覆わなければならなかったのか。けれど、ここで口にした瞬間、自分が勝手に触れて、勝手に覗いたものを、この人の前へ差し出してしまう気がした。
それは、してはいけないことのように思えた。
「志貴」
一心の眉がわずかに寄る。
志貴は首を振った。言えないのではなかった。言葉にしてしまうのが、怖かった。
先を歩いていた赫夜が、振り返りもせず足を止めた気配がした。
「……急ごう」
赫夜のその声に、一心は何も返さなかった。
ただ、志貴を抱く腕の位置だけが、さっきよりわずかに深くなった。
渡り廊は静かだった。一心の足音と、その半歩先を行く赫夜の気配だけが、石の壁に薄く反響する。
志貴は一心の胸元に額を預けたまま、さっき指先に触れたものを考えていた。
あれは本当に、見た通りの記憶なのだろうか。
布に残っていた欠片を、自分の頭が勝手にそれらしく繋いだだけではないのか。どこまで触れたら、何が流れ込んでくるのか。
一心の衣にも、この廊下の壁にも、何かが残っていたら、触れるたびに、こうなるのか。
細い渡り廊を抜け、螺旋に下る階へ差しかかったときだった。
胸の奥へ、さっきとは違う冷たさが触った。
外から来る穢れとは違った。もっと薄いのに、もっと近い。もうどこか内側へ入り込んでいて、記憶の切れ目を爪先でこじ開けられるような感覚だった。ぞわりとしたものが首筋の奥を這い、胸の底へ冷たく沈む。
志貴は一心の衣をぎゅっと掴み、思わず目を閉じた。
「どうした」
「……嫌や」
答えた声が、自分でも分かるほど掠れた。
首筋へ手が伸びかける。
そこを掻き破れば、何かが剥がれ落ちる気がした。皮膚の下へ入り込んだ知らないものを、自分の爪で掻き出さなければならないような焦りが、喉元までせり上がる。
志貴ははっとして、自分の手首を押さえた。
何をしようとしたのか、分からない。
分からないのに、今の衝動だけは明らかに自分のものではなかった。そう思った瞬間、背筋が粟立つ。
「志貴」
低い声が、今度はさっきより近く落ちた。
次の瞬間、一心の指先が首筋の後ろへ差し入れられる。自分では見えないのに、そこだけははっきり分かった。さっきから何かが食い込むように疼いていた場所だった。迷いのない手つきで触れられた途端、そこだけが焼けるように熱を持つ。
押さえ込まれたわけではない。
けれど、首筋の奥へ入り込んでいた冷たいものが、そこから逆に引き剥がされるような感覚が走った。
息が詰まる。
喉の奥へこびりついていたざらつきが、ひとつ遅れてほどけていく。胸の底で息を潜めていた何かが、熱に炙られて退いていくのが分かった。
「その手ぇ、下ろせ」
言われるまで、自分の指先がまだ首のあたりで強張っていたことに気づかなかった。志貴は慌てて手を離す。
一心の掌は、なお首筋の後ろにあった。確かめるように、そこへ静かに触れたまま離れない。
さっきまでの気持ち悪さは、完全には消えていなかった。
けれど、いま自分の内側へ入り込んでいたものが、少なくとも一度押し返されたことだけは分かった。
先頭を歩いていた赫夜が、階の途中で立ち止まったまま振り返らずに言った。
「だから言っただろう」
一心は答えなかった。ただ赫夜の声を断ち切るように、志貴の背へ掌を当てた。何も言わないまま、さっきの衝動がまだ残っていないかを確かめるように、一度だけゆっくりと撫で下ろす。
志貴は唇を噛む。自分がただ弱っているだけではないことくらい、もう分かっていた。けれど、自分の身体の中で何が起きているのかはまるで掴めない。
一心は階を下りながら、しばらく何も言わなかった。やがて足を止め、志貴を抱いたまま欄の外を見た。階下には薄い霧のような闇が沈んでいる。どこまでも落ちていきそうな深さだった。
階を下りきった先で、宮の裏手へ出る。風の通る石廊の向こうに、黒い橋が見えた。橋の先は濃い霧に呑まれていて、どこへ続いているのか見えない。
赫夜が橋の手前で立ち止まり、周囲へ短く印を切った。霧の縁がわずかに揺れ、道だけが細く浮き上がる。
一心の気配が、そこでごくわずかに沈む。
「折れたわけやない」
一心の低い声だった。
短い言葉に、赫夜は何も言わなかった。
志貴は橋を見つめた。冥府の風が白い霧をなでて流れていく。ここを渡れば、もう少し深いところへ行くのだろう。自分が本来いるはずのない場所へ、さらに。
一心の右目を覆う黒が、視界の端をかすめた。さっき流れ込んできた景が、また喉元までせり上がる。幼い顔、黒い布、女の手。息が浅くなり、志貴は無意識に一心の衣を握り直した。
まだ訊けない。いまここで声にするのが怖かった。
「部外者入れたら、あかんのと違う」
思わずそう漏らすと、赫夜が鼻先で笑った。
「今更、部外者になるつもりか」
志貴は赫夜を見て、まだ少しだけ緊張する。誰か分からないところから始まった相手だから、簡単に慣れはしない。けれど、その人の言葉が刺すためだけのものではないと、なんとなく分かりはじめていた。
だから、志貴は一心の衣を握ったまま、いちばん単純なことだけを確かめた。
「一心も、一緒におるんよね」
一心はすぐには答えなかった。
抱く腕の力は変えないまま、志貴の首筋へ触れそうだった視線だけを、ゆっくりと落とす。ひどく静かな間だった。赫夜の急かす声も、橋の下でうごめく気配も、その一息のあいだだけ遠のく。
それから一心は、わざと何でもないことのように言った。
「当たり前やろ」
低く返ってきた声は、静かなのに逃がさない。
「……あないに俺を捕まえといて、忘れたとは言わせへん」
その一言で、喉元まで迫っていた景が、別の熱に押しのけられた。
「……え」
喉の奥へ、別の熱が掠めた。縋るように伸ばした腕の先で衣を掴み、逃げ場のないほど近く落ちた息に息を奪われ、そのまま触れた唇のやわらかな熱だけが、他の何より生々しく蘇った。
志貴は息を呑み、一心の胸元から顔を上げられなくなった。夢の続きではない。自分のほうから縋りついた、その断片だけが妙にはっきり戻ってくる。
「……うそやろ」
声は、ほとんど音にならなかった。
「今さら、なかったことにはできひんやろ」
今度の声は、少し近すぎた。
わざとだ、と分かった。
さっきまで首筋の奥へ食い込んでいた冷たいものを、別のもので押し流すためだ。志貴にいったん考えさせないための、いつものやり方だ。
分かってしまっても、志貴は何も言えなかった。ただ、その衣を握る指に、いっそう力がこもる。
一心の声は低いままだった。張りつめたところを外して、逃げ場だけは残さない。
赫夜が鼻先で息をついた。
「さすがに煩わしいな」
橋へ足をかける前に、下からまた穢らわしい気配が這い上がってくるのを、一心と赫夜が同時に振り向いて捉えた。
「まだ来るか」
赫夜が舌を鳴らした。志貴もつられて視線を落とした。
霧の中で、さっきよりはっきりした輪郭がこちらを見上げていた。悪鬼だった。けれどテラスで見たものとは違う。輪郭の崩れ方が別だった。こちらは一度固まったものが内側から腐りながら、それでもなお形に縋りついている。顔の線が妙に生々しく、誰かに似せかけようとしてやめたような歪みがある。
胸の奥が反応した。あれを悪鬼のままにしてはいけない。そう身体が告げている。
その瞬間、眼帯に触れたときのことが蘇った。ただの布だった。それだけで、あれだけのものが流れ込んできた。あの悪鬼は布ではない。あれだけの穢れを抱えたものに触れたら、何か来る。
一心がその震えにすぐ気づいた。
「お前には、どう見えてるんや」
志貴は答えようとした。あの中に誰かがいる、と。けれど言葉にするより先に、また胸の奥が引かれた。息が詰まり、声が出ない。一心はそれだけで判断を変えた。
「もう見るな」
言うと同時に、一心は志貴の顔を自分の胸へ引き寄せる。黒い外衣が視界を遮り、悪鬼の輪郭が消えた。そのわずかな暗さの中で、志貴は自分の呼吸が荒くなっているのを聞く。
「大丈夫や」
一心の声がすぐ耳元へ落ちる。それでも、指は動けなかった。伸ばしたかったのに、さっき布に触れただけで流れ込んできたものが、まだ手の内側に残っていた。
この一瞬で、一心が動いていた。
「汝ら、鎮の憶那となれ」
低く、深く、宗像で聞くどの声とも違う。古い音が橋の下へ落ち、霧ごと穢れを打った。意味は取れない。ただ「鎮」の一音だけが、耳の奥にやけにはっきり残った。
穢れが、ひと息に引いた。あれだけ形に縋りついていたものが、声ひとつで自ら崩れていく。
テラスで赫夜が印を切って押し返したときとは違った。追い払ったのではなかった。あの声に、従ったのだ。
志貴は息を呑んだ。同じ胸に抱かれているのに、今の声の出どころだけがひどく遠かった。
背に回された手のひらが少しだけ強くなり、そのまま橋へ踏み出したのがわかった。
橋の上で、志貴は一心の襟を掴み直した。しがみついていた手を一度離し、もう一度、自分から掴んだ。ほとんど無意識だったが、指に込めた力だけは、さっきまでとは違うと自分で分かった。
一心が一瞬だけ足を止めた。何も言わなかった。ただ、背に回された手が応えるようにわずかに動いただけだった。
霧の上を渡る風は冷たかった。下から這い上がる穢れの気配は次々と湧いてくる。それでも、一心の胸元へ額を押しつけていると、ばらばらになりかけたものが辛うじてひとつに留まる気がした。
「もう、顔あげてみ」
橋の向こうで、霧の切れ目の先に黒い宮の輪郭がゆっくり浮かび上がった。
志貴は息を呑んだ。目に入っただけで、首筋の奥がひときわ鋭く疼く。知らないはずの場所なのに、身体のどこか深いところだけが先に震えた。
逃げたいとは思わなかった。
ただ、ここへ入れば、もう何ひとつ知らないままではいられないと分かった。




